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いま、清水港(しみずみなと)が騒がしい ②
一体何が起こっているのか?
「清水女次郎長の想い」を読みに行こう!
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問題の根は深い。
いつの頃からか、日本のカトリック教会では、キリスト教の日本への土着化を模索する「インカルチュレーション」という一種のイデオロギーが、一部の高位聖職者やインテリの神父たちの間でひそかに蔓延し始めていました。固有の伝統文化(カルチャー)の中に “IN”(入れる、根付かせる)ことを意図する理論です。
ビジネスマンから司祭に転向して以来の時間の半分以上をローマに過ごしたものの目から見ると、このイデオロギーはバチカンの、つまり教皇を頂点とする正当な伝統教会の教えに照らして、きわめて疑わしい、危険な要素を孕んだものと言わざるをえません。
そのことは、わたしのブログの<カテゴリー>「インカルチュレーション」の中の、「聖書から見たサイレンス」シリーズに詳しく書きました。
要は、このイデオロギーの立場に立てば、西洋のキリスト教をそのまま日本に持ち込んでも、決して根付かない。無理に植えても日本の土壌では根腐れを起こして死んでしまう(鎖国、キリシタン禁制、迫害、殉教、など)。その最終的な結末が衰退と消滅の危機に瀕している今の日本のカトリック教会の姿だという考えかたです。
明治以来の、そして戦後の外国人宣教師たちの宣教を総括すると、彼らの宣教理念と努力は誤っていたために失敗に終わった。だから、全ては最初からやり直さなければならない。その一環として、彼らが残した教会建築も「負の遺産」として取り壊され、消し去られなければならない。つまりは、清水教会の存続は許されたはならない、という確信です。
そこには、西欧から渡来したキリスト教は、それを換骨脱胎して、日本の伝統文化とその宗教心をキリスト教の中に調和的に取り入れ、日本の伝統仏教や神道や新宗教の底辺に共通して流れる「魂」を受容した新しい宗教に生まれ変わらせなければならない、という考えが根底に潜んでいるのです。
それが大きく飛躍して、拝金主義と世俗主義のグローバリズムの大津波に呑み込まれ、そのなかで自分自身の信仰を見失い、教会を守り切れなかった日本の教会の指導者の一部が、自らの敗北の責任を転嫁するためにこのイデオロギーにしがみついたようにも見受けられます。
外国人宣教師が遺した清水教会を取り壊し、その痕跡を消し去らないでは安らかに眠れない人たちの心の中に、その想念が深く巣食っています。
詳しくは、私のブログのカテゴリー「インカルチュレーション」を読んでいただけば明らかです。そして、その上で、あらためて「清水の女次郎長の想い」をじっくり味わってみてください。
私のブログの「インカルチュレーション」については:
https://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/50fe4eb9d8b32f76d3c9990274c9725c
【要注意】自分で自分のブログを読みに行って気がついた。上のURLでは「インカルチュレーション」シリーズの「最終回」しか読めない。①-⑥は左のカテゴリー欄から「インカルチュレーション」を選んで見るか、日付で探してください。あるいは:
https://blog.goo.ne.jp/john-1939/c/ecb9af36ac04ea87bfa0e90586596b3c
をコピーして検索バーに貼りつけて下へスクロールしていくと、カテゴリー「インカルチュレーション」①-⑦を「聖書から見たサイレンス」を含めて全て一度に見られます。
「清水の女次郎長」さんのブログの「清水教会」は:
何故キリスト教は低迷しているのか?
打開策はあるのか?
痛いところを衝かれましたね!
わたしなりに答えはあります。 打開策についても考えがあります。
本気で、まじめに、誠実に自説を展開するには、A4 三枚分ぐらいの文字通のブログ(それ以上長い話は読まれない)10回分も、それ以上もの長い話になりますので、コメント欄では対処しかねますが、敢えて、思いつくまま要点のみ書きます。
キリスト教は神に愛されて創造された人間が、神よりも偉くなろうとして神に背いて、その結果死ぬべき運命を引き寄せてしまった人類を救い、神との正しい関係を取り戻すために、十字架の上で苦しみに満ちた死を通して世を贖ったキリストを神の子と信じる宗教です。
それがキリスト教の本来の教えでした。
ところが、人類を騙し、誘惑して罪を犯させ、死ぬべき運命に突き落とした悪は、人類が神の赦しと憐れみによって、キリストのすくいの業によって死の束縛から解き放たれて復活の命を得ることを妨げるために、人類をキリスト教から離反させようと躍起になっています。
その嘘の父である悪が、キリスト教の中に密かに浸透し、神の愛を疑わせ、人間の幸せは死を意識から追い出し、お金が保証する刹那的快楽と快適さの中に偽りの幸福を探すことにあるとういう偽りの誘惑に人を誘い込むことに成功した結果がキリスト教の低迷の理由です。
具体的には、現代では、拝金主義とその世界的蔓延(グローバル化)を通して、人々をキリスト教から離反させることに成功しつつあります。それがキリスト教の低迷の根源です。
打開策は一つしかありません。それは、この世で一番強力な宗教、すなわちお金、富を神として拝む拝金主義の宗教を捨てて、キリストの教えに回帰する人を増やすことです。
回心して、キリストの説いた福音を信じることです。お金は、富は、人を幸せにしないこと、死の運命を打ち破る力がないことを理解することです。
避妊と堕胎をベースにした、死の文化の嘘を見破り、命を大切にするキリスト教的信仰を実践する回心して福音を信じる本物のキリスト者を増やすことです。
新型コロナウイルスは神様から人類に贈られた警告です。お金では買えない価値の存在に気付き思い出すよう招くメッセージです。
コロナ禍は悪が人類に送ったものではなく、神様が贈られた印、人類を誤りに気付かせるために贈られた印です。
ワクチンが早く見つかって、元の拝金主義に立ち戻って解決する問題ではありません。
私は佐藤まどみ様のコメントのお返事として書かれた、神父様の文章の最後の部分(「新型コロナウイルスは神様から人類に贈られた警告です。」)に、どうしても納得がいきません。
神様は、人類を苦しめるようなことを故意になさるお方ではありません(と、私は信じています)。
世の中には様々な考えや思いをお持ちの人がいるというのは充分承知しておりますが、谷口神父様のお考えは、このコロナ禍で被害や犠牲に遭われた方たちに対して、あまりにも無神経だと思います。
被害や犠牲に遭われた方たちが、この文を読まれたら、どんな気持ちになるでしょうか?
「教会の祈り」の第三火曜日 晩の祈り,の,結びの祈願を唱えましたが,違和感を感じて,ラテン語規範版を読み,Oratio を古語風におきかえてみました.Liturgia Horarum Hebdomada III Feria III, ad Vesperas Oratio
"Ascéndat ad cleméntiam tuam nostra, Dómine, orátio vespertína et descéndat super nos benedíctio tua, ut hic et in ætérnum, te auxiliánte, salvi esse mereámur. Per Dóminum ...
ね(祈)ぎ事 御身のあはれみにあ(擧)げさせ給へ我らを,ああ主よ,ゆふ(夕)のね(祈)ぎ事をまた我らのうへ(上)にくだ(降)らさせ給へ御身の恵みを,今またつね(常)に御身からたす(扶)けられ,また(全)かるさま(様)を得るため.
結びの祈願には省略が多いように感じます.また Oratio と眺め方が異なるように感じます.先日の朝,「心のともしび」をたまたま寝ぼけながら,聞きました.記憶がぼんやりしていますが,ある方の遠藤周作氏の同伴するイエスについての話でした.話の最後に,イエスさまのことについて,かもしれません,を二度ほど言っていました.洗礼を受ける前に,心のともしびの本部から頂いた「カトリック要理の友」にある事から随分隔たりがあるように感じます.また,Gloria の訳の改訂された箇所の一つ(Lc 2:14 に対応する部分)は予定説とつながっているようにとることもできるのではないかと感じます.人の自由意志に関わらず,人を分けてしまっているようにとることもできるように感じます.無知蒙昧な者のおきかえと感想です,お許しください.
教会の建て替えを行なうときには,共同体の分裂が起きないように注意しなければいけないという事を比較的最近知りました(あるプロテスタン教会との関りを通して).カトリック神戸中央教会のときはどうであっただろうか,と思います.以前,神戸の栄光教会の中に入ったときに(たまたま関学の OB 会が開催され,ドアが開いていました),受付の方から,震災後,十年間,外でテントを張って礼拝を守った,と聞きました.
上のコメントに書かせていただいた Oratio における動詞の ascendat, dēscendat, mereāmur はすべて接続法で,ascendat, dēscendat は能動態で, mereāmur は受動態です.動詞のおきかえを改めて次のように直してみました.
御身のあはれみにあ(擧)げ給へ我らを,ああ主よ,ゆふ(夕)のね(祈)ぎ事をまた我らのうへ(上)にくだ(降)し給へ御身の恵みを,今またつね(常)に御身からたす(扶)けられ,また(全)かるさま(様)をえ(得)られむがため.
正教会の聖体礼儀で,「主憐れめよ」,「神や,爾の恩寵を以て我を佑け,救い憐れみ,護れよ」,という祈りがあります.
"ἐλέησον" (憐れめよ.憐れみ給え)を辞書で調べると,命令法とあります.日本人のわたしからすると,この命令法には違和感を感じますが,英語の "Lord have mercy" もあるので,外国語の命令法は深いのだろうと感じます.カトリック教会の改訂された訳「主よ,いつくしみを.」では動詞が省略されていますが,説明によると,口語の動詞の冗長さのためだそうです.しかしながら命令法の動詞の省略は本質的な違いを生むようにど素人は感じます.
正教会の聖体礼儀では
「司 蓋し,我が神や,爾は聖なり.我等光栄を爾父と子と聖神に献ず,今も何時も
輔 主や,敬虔なる者を救い,及び我等に聞き入れ給え」,という祈りもあります.
Liturgia Horarum の Die 9 novembris In Dedicatione Basilicae Lateranensis の朝課では Commnune dedicationis ecclesiae Ad Laudes matutinas を唱えますが,例えば,Canticum Dan 3, 57-88., 56 には "Ant. Benedictus es, Domine, in templo sancto tuo. " と "Ant. 3 Laudate Dominium in ecclesia sanctorum. " があります.
古語風に順におきかえてみると,ああ主よ,な(汝)がい(斎)だう(堂)にて御身は誉めらる.たふと(貴)びらるもの(者)のまとゐ(円居)にて,主をたた(称)へよ.
Ps 149 v. 1 の Nova Vulgata 訳には "in ecclesia sanctorum" とありますが,舊新約聖書 文語訳 日本聖書協会 (1887, 1982 年版)「聖徒のつどひにて・・・」,J・アブリ(神父様) 聖書の讃美歌 2 エンデルレ書店 (1967) 「敬虔なる者のつどいにて,」,新改訳聖書(第 2 版 1978 年)「聖徒の集まりで・・・」,バルバロ神父さまによる訳(1980)「信心ある者の集いで・・・」,新共同訳聖書(1987)「主の慈しみに生きる人の集いで・・・」,フランシスコ会による訳 (2011)「忠実な者らの集いで,」と訳されています.新共同訳聖書の訳から,改訂された Gloria の訳が思い起こされます."sanctorum" は難解でど素人には危険であることを感じましたが,新共同訳聖書の訳が辞書から受けた印象に近いように感じました.神様からの恩寵とも深く関わっているように思います.ミサにおける Sanctus についてのある論文を少し眺めましたが, Sanctus がカトリック教会,正教会,プロテスタント教会を結びつけることの展望についても言及されています.プロテスタント教会の礼拝に与っていたときに讃詠で唱っていた讃美歌 546 番 (Zum Sanctus, F. Schubert) は覚えています.Schubert による作曲であることを今知りました.無知な者のコメントです.
第2バチカン公会議のさ中で、教会がラテン語を教会の公用語から外すことがうわさされている時でした。反動というか、最後のわるあがきというべきか、当時のラ哲のクラスでは、ラテン語こそ大事とばかりに特別熱と力を入れてラテン語教育が強調されていた時でもありました。修士課程の哲学の試験では、ラテン語の口頭試験が行われていました。日本人が18歳からラテン語を始めても、5年や6年で自由に話せるようになるわけがないのに、ずいぶん背伸びしたものだと思いました。案の定、私の2-3年後のクラスから、ラテン語の授業時間数は激減しました。
新米信徒さまのようにラテン語を自由にされる方に接すると畏敬の念とともに化石人間に出会ったような懐かしさを覚えます。
私が学生の頃のイエズス会の神父たちは、Liturgia Orarum をラテン語で唱えていましたが、今は日本語の「教会の祈り」に変わり、朝の祈りだけ唱えるのが精いっぱいで、それ以外の時課の祈りはほとんど飛ばしている体たらくでお恥ずかしいい次第です。でも、今は司祭や修道女だけでなく、一般信徒の中にも少数ながら時課の祈りを唱える者が現れたのは慰めです。