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いま、清水港(しみずみなと)が騒がしい ②
一体何が起こっているのか?
「清水女次郎長の想い」を読みに行こう!
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問題の根は深い。
いつの頃からか、日本のカトリック教会では、キリスト教の日本への土着化を模索する「インカルチュレーション」という一種のイデオロギーが、一部の高位聖職者やインテリの神父たちの間でひそかに蔓延し始めていました。固有の伝統文化(カルチャー)の中に “IN”(入れる、根付かせる)ことを意図する理論です。
ビジネスマンから司祭に転向して以来の時間の半分以上をローマに過ごしたものの目から見ると、このイデオロギーはバチカンの、つまり教皇を頂点とする正当な伝統教会の教えに照らして、きわめて疑わしい、危険な要素を孕んだものと言わざるをえません。
そのことは、わたしのブログの<カテゴリー>「インカルチュレーション」の中の、「聖書から見たサイレンス」シリーズに詳しく書きました。
要は、このイデオロギーの立場に立てば、西洋のキリスト教をそのまま日本に持ち込んでも、決して根付かない。無理に植えても日本の土壌では根腐れを起こして死んでしまう(鎖国、キリシタン禁制、迫害、殉教、など)。その最終的な結末が衰退と消滅の危機に瀕している今の日本のカトリック教会の姿だという考えかたです。
明治以来の、そして戦後の外国人宣教師たちの宣教を総括すると、彼らの宣教理念と努力は誤っていたために失敗に終わった。だから、全ては最初からやり直さなければならない。その一環として、彼らが残した教会建築も「負の遺産」として取り壊され、消し去られなければならない。つまりは、清水教会の存続は許されたはならない、という確信です。
そこには、西欧から渡来したキリスト教は、それを換骨脱胎して、日本の伝統文化とその宗教心をキリスト教の中に調和的に取り入れ、日本の伝統仏教や神道や新宗教の底辺に共通して流れる「魂」を受容した新しい宗教に生まれ変わらせなければならない、という考えが根底に潜んでいるのです。
それが大きく飛躍して、拝金主義と世俗主義のグローバリズムの大津波に呑み込まれ、そのなかで自分自身の信仰を見失い、教会を守り切れなかった日本の教会の指導者の一部が、自らの敗北の責任を転嫁するためにこのイデオロギーにしがみついたようにも見受けられます。
外国人宣教師が遺した清水教会を取り壊し、その痕跡を消し去らないでは安らかに眠れない人たちの心の中に、その想念が深く巣食っています。
詳しくは、私のブログのカテゴリー「インカルチュレーション」を読んでいただけば明らかです。そして、その上で、あらためて「清水の女次郎長の想い」をじっくり味わってみてください。
私のブログの「インカルチュレーション」については:
https://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/50fe4eb9d8b32f76d3c9990274c9725c
【要注意】自分で自分のブログを読みに行って気がついた。上のURLでは「インカルチュレーション」シリーズの「最終回」しか読めない。①-⑥は左のカテゴリー欄から「インカルチュレーション」を選んで見るか、日付で探してください。あるいは:
https://blog.goo.ne.jp/john-1939/c/ecb9af36ac04ea87bfa0e90586596b3c
をコピーして検索バーに貼りつけて下へスクロールしていくと、カテゴリー「インカルチュレーション」①-⑦を「聖書から見たサイレンス」を含めて全て一度に見られます。
「清水の女次郎長」さんのブログの「清水教会」は:
https://blog.goo.ne.jp/yuki9693
上のコメントに書かせていただいたことは,次の大斎(おおものいみ)につながっているように感じますので,引用をすることをお許しください.
「カリストス・ウェア主教 論集1 私たちはどのように救われるのか 他2編 日本ハリストス正教会 西日本主教教区 (2003)」所収の「『大斎の意味』 翻訳 司祭 ダヴィッド 水口優明 The Meaning of the Great Fast by Bishop Kallistos Ware」に,
「・・・.ここで内面と外面の正しいバランスを保つために最大の注意が必要とされる.外面的には,斎は食べ物や飲み物の肉体的な禁欲を意味する.そのような十分な外面的禁欲なしでは真の斎は保たれない.しかし禁欲的斎は常に内面的な見えざる目的を持っているので,飲食のルールは決してそれ自体が目的として扱われてはならない.人は体と霊が一体のものであり,『三歌斎経』の言葉によれば『見ゆると見えざるの性より』の『生ける者』である*3.・・・」cf. p. 58.
「 この斎の衰退の一つの理由が,人間性に対する異教的考え,すなわち肉体を拒否または無視し,人間をその理性的な頭脳という側面でしか見ない間違った≪精神主義≫にあるのは確かである.その結果,現代の多くのクリスチャンは,見えるものと見えないものが一体となった全体としての真の人間観を失っている.彼等は聖パウェルの『自分のからだは,聖神(聖霊)の宮であって,・・・自分のからだをもって,神の栄光をあらわしなさい』(コリンフ前書 6:19-20)という言明を忘れれ,精神生活において肉体が果たす肯定的な役割を無視している.・・・」cf. p. 59.
日本正教会の訳(1901 年) 聖使徒パワェルガコリンフ人ニ達スル前書 第六章
「一九 豈(アニ)知ラズヤ,爾等ノ身(ミ)ハ爾等ノ衷(ウチ)ニ居(イ)ル聖神゜(セイシン),爾等ガ神ヨリ受ケシ者ノ殿(デン)ニシテ,爾等己(オノレ)ニ属スルニ非(アラザ)ルヲ.
二〇 蓋(ケダシ)爾等ハ價(アタヒ)ヲ以テ買(カ)ハレタリ,故ニ均(ヒト)シク神ニ属スル爾等ノ身(ミ)ヲ以テ,爾等ノ靈(タマシヒ)ヲ以テ,光榮(クワウエイ)ヲ神ニ歸(キ)セヨ.」
上のカリストス・ウェア主教のことばにあるように,20 節のこの訳から身(ミ)と靈(タマシヒ)が一体であることが伝わってきます.手持ちの聖書の訳では(その,自分の)体と訳されています.Nova Vulgata は "in corpore vestro". 三歌斎経には「兄弟よ,肉体にて斎し,霊(たましい)にても斎せん」と
あります.cf. p. 65. Nova Vulgata と Vulgate の vv. 19-20 はかなり異なっています.
上のコメントで「時課の典礼」の読書課の聖アンブロシウスの著作の表題 "Corporis tui gratiam splendore mentis illuminas" を
日本語におきかえました.このことばは本文からのもので,冒頭の ", quae" を除いた聖アンブロシウス自身のことばです.次があることを知りました.
Benedict XVI
General Audience Saint Peter's Square Wednesday, 24 October 2007
"Saint Ambrose of Milan
... Holy Bishop Ambrose - about whom I shall speak to you today - died in Milan in the night between 3 and 4 April 397. It was dawn on Holy Saturday. The day before, at about five o'clock in the afternoon, he had settled down to pray, lying on his bed with his arms wide open in the form of a cross. Thus, he took part in the solemn Easter Triduum, in the death and Resurrection of the Lord."
"On that Holy Friday 397, the wide open arms of the dying Ambrose expressed his mystical participation in the death and Resurrection of the Lord. This was his last catechesis: in the silence of the words, he continued to speak with the witness of his life."
ここに無声の祈りと体での表現があり驚きました.また,三位一体の聖エリザベトのことを書きましたが,「三位一体の聖エリザベット いのちの泉のほとりにて 伊従信子 ドン・ボスコ社(2017)」の,第一部 三位一体の聖エリザベット 三 キリストの人性の延長となるまでに,の,光へ,愛へ,いのちへ~病室に入ってから帰天まで~,に,決定的瞬間が来たと思われたときに,最後の言葉を求められ,
「 すべては過ぎ去ります.生涯の終わりに残るのは愛だけです.すべてを愛によって行い,絶えず自分を忘れなければなりません.自分を忘れるものを神は深く愛されます.ああ,もしも私がいつもそのようにしていたのだったら・・・.」を残されたそうです.cf. pp. 152-153. 聞き取れた最後の言葉は,
「私は光へ,愛へ,いのちへ行きます・・・」 cf. p. 155. アジソン病からくる苦しみは壮絶だったようです.
Die 13 decembris S. Luciae Virginis et Martyris Memoria (記念日,記憶の日)Commune unitus martyris(殉教者への共通の祈祷文)の Ad II Vesperas の Ad Magnificat, ant.
"In caelestibus regnis sanctorum habitatio est, et in aeternum requies eorum. "
古語風のおきかえ.す(住)まひは聖なる天の王国にありて彼らのやす(休)らひはとこ(常)しへに. 「教会の祈り」では,この記念日は待降節金曜日の晩の祈りの中に埋もれています.Lectio Brevis I Pet 4, 13-14 は,教会の祈りでは II Pet 3, 8b-9 ですが,Ad Officium lectionis Lectio Altera(第二番目の読書)E Libro sancti Ambrosii episcopi De Virginiate Corporis tui gratiam splendore mentis illuminas
口語へのおきかえ.心の輝きのためにあなたの体への恩寵を輝かせる,「教会の祈り」の訳 「心の輝きで体の美しさを照らす方」,にある言と福音の歌 (Magnificat) の交唱や II Pet 3, 8b-9 はずれてしまっているように感じます.ラテン語規範版を見るまでは,「教会の祈り」の聖人の記念日は大変軽く感じていました.聖アンブロジオ司教のことばの中に "spiritalis domus " (I Pet 2:5 "domus spriritalis") があります.今の日本のカトリック教会で聞く三位一体の聖霊とこの頃の教父のことばにある聖霊は随分と異なるようにど素人として感じます.
最近は「霊的な家」はあまり聞かないような気がしますが,三位一体のエリザベトの霊性からは近いものを感じます(わたしの主観).三位一体のエリザベトのことばには以前から共鳴します.日本正教会の聖使徒ペトルノ前公書第二章五節の訳では「属神゜の堂」.Romania ルーマニア観光・商務局,の,一般情報,の,ルーマニアの宗教ー正教,の,第 8 章 正教会早見表,の,正教会用語集に「属神(ぞくしん) ギリシヤ語『プネウマティコス』の訳語で、一 般では『霊的』『霊的な』と訳される。」,とあります.
Liturgia Horarum Die 3 decembris S. Francisci Xavier, Presbyteri(宣教者の)Memoria
(記念日,記憶の日)Ad Officium lectionis の Oratio の
「教会の祈り」の訳は,
「いつくしみ深い父よ,あなたは,聖フランシスコ・ザビエルの宣教を通して,アジアの民を みもとに集めてくださいました.わたしたちも,聖人と同じ熱意に燃えて信仰を伝え,救いの喜びを多くの人と分かち合う
ことができますように.・・・」
ラテン語
" Deus, qui beati Francisci praedicatione multos tibi populos acquisisti, da ut fidelium animi eodem fidei zelo ferveant et uberrima ubique prole Ecclesia sancta laetetur. ... "
古語風におきかてみました.さいは(幸)ひなるフランシスコ(・ザビエル)の宣教から御身の衆(しゅう)をえ(得)た,
ああ神よ,与へ給へ,信者のたましひ(魂)がひとつの信仰からも(燃)えこ(焦)がるることをまた(又)ありとあるところにて尤(もっと)もな(生)るすゑ(末)と聖なる教会でよろこ(喜)びたのし(楽)まるることを.
Nova Vulgata において Mt 5:3-11 は Beati で始まります.日本正教会の「主日聖体礼儀 第 3 アンティフォン」の最後は,「喜び楽しめよ、天には爾等(なんじら)の賞(むくい)多ければなり。」です.原文には大文字の E から始まる "Ecclesia" がはっきりとあることが日本語訳と異なることの一つであるように感じます.また,日本語訳の「救いの喜び」が原文のどこからくるのかよくわかりません.日本のカトリック教会の適応なのでしょうか.ど素人の感想です.
Inculturation に関連することです.以前,ユーカリストについて次の一部を引用いたしました.改めて全文を引用させていただきます.
「ユーカリスト 神の国のサクラメント アレクサンドル・シュメーマン(神父) [著](大阪ハリストス正教会 長司祭)松島雄一 [訳] (2008) (英語版:Sacrament of the Kingdom by Alexander Schmemann (1987))」の第 1 章 集いの機密(サクラメント),の訳注 (4) に,
「ユーカリストは正教会では聖体機密(ないしはその機密が行われる奉神礼としての聖体礼儀),カトリックではミサ(聖体祭儀という訳も見受けられる),聖公会・プロテスタンでは『聖餐式』と訳されるが,いずれの訳を採用しても,ギリシャ語のエウハリスティア(感謝)に由来し,神への感謝の祭儀(礼儀)という意味を担っていることが曖昧になってしまう.そこで,本訳では Eucharist とあれば『ユーカリスト』,正教会で聖体礼儀を表すため Eucharist とともによく用いられる Divine Liturgy とあれば『聖体礼儀』と訳す.たんに liturgy とある場合でも文脈から奉神礼
一般ではなく聖体礼儀を指す場合は聖体礼儀と訳す.」 とあります.cf. pp. 28-29.
Benedict XVI の著書「典礼の精神 濱田了(神父さま)訳 (2004)」では,「エウカリスチア」と訳されることが多いようです.第一部 典礼の本質について 第三章 旧約から新約へ ー 聖書的信仰から定められたキリスト教典礼の基本的姿,に,
「エウカリスチアを祝うことはむしろ,天と地が,十字架と復活によって明らかとなった包括的な神への賛美に公然と入っていくことを意味します.キリスト教典礼は,かって一度も,ある特定の集団,ある特定の社会,あるいは,ある特定の地方教会の祝典などではありませんでした.」とあります.cf. pp. 54-55. 祝典の部分の英語訳 (by John Saward) は,"an event organized by a particular group or ..." cf. p. 49.
Institutio generalis de Liturgia Horarum の Caput I の III De Litugia Horarum の 13 の,日本語訳は,「『教会の祈り』におけるキリストの祭司職の実行 13 キリストは感謝の祭儀や秘跡によってばかりでなく他の方法,特に『教会の祈り』により(注 61),聖霊のうちにあって
教会をとおして・・・」とあります.ラテン語は,
"Christi sacerdotalis muneris exercitatio in Liturgia Horarum"
(in Italic letter) 13. "« ... » 61 Christus in Spiritu Sancto per Ecclesiam suam exercet non tantum cum Eucharistia celebratur et sacramenta administrantur, ..."
冒頭の表題を口語におきかてみました.キリストの祭司の職の時課の典礼でのわざ."Eucharistia celebratur et sacramenta administrantur" を
口語におきかえてみました.祝われるエウカリスチアと遂行される秘跡.Benedict XVI の上記の本を読むと,エウカリスチアを単に感謝の祭儀とはできない
ように感じます.辞書によると sacrament(しばしば the Sacrament) には聖体祭儀という意味もあるようです.上のコメント (11/22) に引用いたしました "for the liturgy of Word and sacrament" は,ことばの典礼と聖体祭儀に対して,のように感じます.ど素人の感想です.
Inculturation に関連して,下記のことを書かせていただきます.
Dominica XXXIV per annum
(暦年を通して第 34 番目の主日) Domini Nostri Iesu christi Universorum Regis Sollemnitas(万物の王である我等の主イエスキリストの祭日)
Ad I Vesperas(第一番目の晩祷で;前晩の祈りで)の Lectio Brevis Cf. Eph 1, 20-23 の 20 節の訳に "in caelestibus" とありますが,「教会の祈り」の訳ではこのことばは省略されています.新共同訳聖書 (1987) は,「天において」,フランシスコ会による訳 (2011) は,「天の者たちの間で 」."caelestibus" は複数の奪格の形容詞と思いますので,名詞的に用いられて,フランシスコ会による訳にあるように感じます.
Ad I Verperas, Ad II Vesperas の Oratio は同じですが,"in dilecto Filio tuo, universorum rege, " の
「教会の祈り」の訳は,「天地万物の王であるキリストのうちに」.口語におきかてみました.御身の最愛の御子 (the Son) ,万物の王のうちに."universorum" の訳は記憶している範囲では「万物の」です.天地万物の天地はよくわかりませんが,女流歌人の相模(さがみ)のあめつちの詞(ことば)の春の歌をうたってみて,じーんときました.天地は現象の世界のことを強調するためにあるのだろうか,と感じます.無知な者の感想です.
「ヨセフ・ラッツィンガー (Benedict XVI) 濱田 了(神父さま) 訳 典礼の精神 サンパウロ (2004)」の第二部 典礼における時間と空間,の,第三章 典礼における祭壇と祈りの方向性,に,「・・・.しかし,私たちになじみの,みことばの祭儀と感謝の祭儀についての建築上の規範もまた,固定のものではありませんでした.・・・」
cf. p. 82. 英語訳 "Joseph Cardinal Ratzinger The Spirit of the Liturgy Translated by John Saward Ignatius (2000)" を見ると,"... for the liturgy of Word and sacrament ..." とあります.sacrament は秘跡と訳されることがほとんどだと思います.ドイツ語の原著は持っていないので,はっきりしたことはわかりませんが,不可思議な気がします.そこで,以前に何度か引用いたしました正教会のシュメーマン神父の本を見てみました.「世のいのちのために 正教会のサクラメントと信仰 アレクサンドル・シュメーマン(神父)(大阪ハリストス正教会 長司祭 ゲオルギイ)松島雄一 訳 新教出版社 (2003 年; 原著の改訂版 1973 年からの翻訳) 」の第 2 章 聖体礼儀(せいたいれいぎ),の,2 に,「 聖体礼儀は機密(サクラメント)です.しかし,機密も論争を巻き起こ
さずにはすまないようです.『機密,機密と言うが〈言葉(みことば)〉はいったいどこへ行ってしまうのだ」.『キリスト教の霊的な性格を裏切る,
魔術的機密主義の危険はないのか』.・・・」 cf. p. 32. さらに,4 に,「 もう一度ここで,聖体礼儀が『喜びの横溢』として性格づけられることを強調しておかねばなりません.・・・.歌声や祈りの儀式が,交錯する祭服のきらめきが,立ち込める香炉の香りが,すなわち奉神礼の美のすべてがこの待望の喜び,喜びへの待望を表します.しかし,この美は,不必要でむしろ罪深いものとして繰り返し排斥されてきました.
確かに『不必要』でしょう.クリスチャンは『必要性』という範疇で物事をとらえることはないのですから.・・・.しかし,愛する者を待ち受けるなら,人は食卓にきれいなテーブルクロスをかけ,燭台や花で飾りませんか.私たちは必要からでなく愛によってそうするのです.」 cf. pp. 37-38. この後に,「ロマノ・ガルディニ (9) のこの『役に立たない美』についての賢察」が引用されています.訳注 (9) に,「ガルディーニ (Romano Guardini 1885-1968)はイタリアに生まれ,ドイツで活躍したイエズス会の学者・宗教家・思想家」とあります.cf. 61. 上記の Benedict XVI の書のまえがきは,まさに,上のシュメーマン神父が引用された Guardini の書「典礼の精神 (1918)」の引用から始まっています.Benedict XVI は上記の書で東方教会の典礼のことに何度も言及しています.例えば,「第四部 第一章 典礼様式」.
先日,他の教会から来てくださった司祭がミサの後の講話の中で「役に立つ仕事」についての話をされ,奇妙な気持ちで聴いていました.押田成人神父さまは,「見えないものを(NHKで 1982 年に放送)(YouTube にその一部分があります)の中で「世の中で役に立つこと」に
かかわること(教育,観想修道会,神秘伝承,学問 et cetera)について話しておられます.清水教会の聖堂は負の遺産であるというような切り捨てる言葉はよくわかりません.一つのこと(一人の人)だけを見て,他(他の人)とのかかわりを
無視して全体を一つとして見なければ,そのような見方になってしまうのではないでしょうか? とくに押田神父さま,岩下壮一神父さまそして正教会から教えられたことだと(勝手に)思っています.
上のコメントに引用いたしました正教会の訳にある「祭(マツリ)」のことは以前に気がつきました.手持ちのラテン語のミサの式次第の中に,"Liturgia Eucharistica" という表記があり,辞書で調べると,感謝の典礼(礼拝),というように感じました.角川新字源 改訂新版 (2017) によると,典は,「台の上の書冊で,重要な書物の意を表し,ひいて,『のり』,規範の意に用いる。」,禮(礼)は,「旧字は、会意形声。祭器に供え物をして神を祭る意を表す。」,祭は,「肉を手に持って神にささげる,ひいて『まつる』意を表す」,とあります.Ritus Conclusionis の最後は,"Ite missa est. Deo gratias." で,日本語訳は,「感謝の祭儀(またはミサ聖祭)を終わります.行きましょう,主の平和のうちに.・・・」.ラテン語は初めて見ましたが,行きなさい,散会である,というように感じました.Ite は命令法だと思います.missa はその古い意味まで遡らなければいけないようです.Ritus Conclusionis は,辞書で調べると,終わりの儀のように感じます.ど素人で無知な者の感想ですが,日本語訳の中には,ラテン語の原文と相当に隔たりを感じるものがあります.例えば,あるミサの集会祈願の訳とカテキズムの日本語版のその訳では相当に隔たりがあると思います(主の来臨に関わることです).神父さまのこの記事の「清水教会」に関わる「負の遺産」と何か関係しているのだろうか,と感じます.
当時の貴重な証言をありがとうございます.ラテン語は辞書を引き,悩みながら意味を推察
しています.森 名誉司教様はローマの神学院を卒業後,ミラノに向かう列車の窓から仲間と一緒にラテン語の教科書等を投げ捨てた,と著書「心の闇を乗り越えて」に書いておられます.
Liturgia Horarum の 11/9 の Commune dedicationis ecclesiae の Ad Officium lectionis の Lectio Prior で,De Epistola prima beati Petri apostoli 2, 1-17 を朗読しますが,神父さまがよく知っておられる共同体のことが思い起こされます.この 5 節は,
Nova Vulgata
"5 et ipsi tamquam lapides vivi aedificamini domus spiritalis in sacerdotium sanctum offerre spiritales hostias acceptabiles Deo per Iesum Christum. "
ラゲ訳 (1910) ペトロ前書 第2章
「 5 己(おのれ)も亦(また)活ける石の如く、其上(そのうえへ)に立てられて靈的家屋(かをく)と成り、聖なる司祭衆(しゅう)と成り、イエズス、キリストを以て神の御意(みこころ)に適(かな)へる靈的犧牲(ぎせい)を獻(ささ)ぐる者と成れ。」
日本正教会の訳 (1901) 聖使徒ペトル ノ前公書 第二章
「五 自(ミズカラ)モ亦(マタ)活ケル石ノ如ク,己(オノレ)ヲ以(モッ)テ属神゜(ゾクシン)ノ堂(ダウ),聖ナル司祭班(ハン)ヲ建テヨ,イイススハリストス ニ由リテ,神ノ悦ビ納(イ)ルル所ノ属神゜ノ祭(マツリ)ヲ獻(サヽ)ゲン爲ナリ.」イイススハリストスに傍線があります.
ミサの冒頭の,"ad sacra mysteria celebranda." を口語におきかえてみました.誉め称えられる聖なる神秘のために.
日本語のミサでは,「神聖な祭りを祝う前に」.Rosarium では,mysteria は玄義,神秘と訳されているはずです.11/9 の Ad Officium lectionis の Lectio Altera Ex Sermonibus sancti Caesarii Arelatensis episcopi に,
"; sed templum Dei verum et vivum nos esse debemus. " 「毎日の読書」の訳「けれども,神の生きているまことの神殿とならなければならないのは,わたしたち自身なのです.」,とあります.このラテン語文を口語におきかえてみました.;けれどもわれらは神のまことの生きている神殿であらねばなりません.後で,1 Cor 3:17 が引用されます.1 Cor 3:16 からキコ氏の証言(キコ氏の著書 ケリグマ: 福音の告知 所収)のことが思い起こされます.今気がつきましたが,この本の監修は平山高明 名誉司教さまとあります.訳者と監修者が日本語版の最後のページにひっそりとあります.
上に書かせていただいたコメント (12/11/2024) のたふと(貴)びらるは,たふと(貴)びらるる,の書き間違いです.訂正いたします.すみませんでした.
第2バチカン公会議のさ中で、教会がラテン語を教会の公用語から外すことがうわさされている時でした。反動というか、最後のわるあがきというべきか、当時のラ哲のクラスでは、ラテン語こそ大事とばかりに特別熱と力を入れてラテン語教育が強調されていた時でもありました。修士課程の哲学の試験では、ラテン語の口頭試験が行われていました。日本人が18歳からラテン語を始めても、5年や6年で自由に話せるようになるわけがないのに、ずいぶん背伸びしたものだと思いました。案の定、私の2-3年後のクラスから、ラテン語の授業時間数は激減しました。
新米信徒さまのようにラテン語を自由にされる方に接すると畏敬の念とともに化石人間に出会ったような懐かしさを覚えます。
私が学生の頃のイエズス会の神父たちは、Liturgia Orarum をラテン語で唱えていましたが、今は日本語の「教会の祈り」に変わり、朝の祈りだけ唱えるのが精いっぱいで、それ以外の時課の祈りはほとんど飛ばしている体たらくでお恥ずかしいい次第です。でも、今は司祭や修道女だけでなく、一般信徒の中にも少数ながら時課の祈りを唱える者が現れたのは慰めです。
Liturgia Horarum の Die 9 novembris In Dedicatione Basilicae Lateranensis の朝課では Commnune dedicationis ecclesiae Ad Laudes matutinas を唱えますが,例えば,Canticum Dan 3, 57-88., 56 には "Ant. Benedictus es, Domine, in templo sancto tuo. " と "Ant. 3 Laudate Dominium in ecclesia sanctorum. " があります.
古語風に順におきかえてみると,ああ主よ,な(汝)がい(斎)だう(堂)にて御身は誉めらる.たふと(貴)びらるもの(者)のまとゐ(円居)にて,主をたた(称)へよ.
Ps 149 v. 1 の Nova Vulgata 訳には "in ecclesia sanctorum" とありますが,舊新約聖書 文語訳 日本聖書協会 (1887, 1982 年版)「聖徒のつどひにて・・・」,J・アブリ(神父様) 聖書の讃美歌 2 エンデルレ書店 (1967) 「敬虔なる者のつどいにて,」,新改訳聖書(第 2 版 1978 年)「聖徒の集まりで・・・」,バルバロ神父さまによる訳(1980)「信心ある者の集いで・・・」,新共同訳聖書(1987)「主の慈しみに生きる人の集いで・・・」,フランシスコ会による訳 (2011)「忠実な者らの集いで,」と訳されています.新共同訳聖書の訳から,改訂された Gloria の訳が思い起こされます."sanctorum" は難解でど素人には危険であることを感じましたが,新共同訳聖書の訳が辞書から受けた印象に近いように感じました.神様からの恩寵とも深く関わっているように思います.ミサにおける Sanctus についてのある論文を少し眺めましたが, Sanctus がカトリック教会,正教会,プロテスタント教会を結びつけることの展望についても言及されています.プロテスタント教会の礼拝に与っていたときに讃詠で唱っていた讃美歌 546 番 (Zum Sanctus, F. Schubert) は覚えています.Schubert による作曲であることを今知りました.無知な者のコメントです.
上のコメントに書かせていただいた Oratio における動詞の ascendat, dēscendat, mereāmur はすべて接続法で,ascendat, dēscendat は能動態で, mereāmur は受動態です.動詞のおきかえを改めて次のように直してみました.
御身のあはれみにあ(擧)げ給へ我らを,ああ主よ,ゆふ(夕)のね(祈)ぎ事をまた我らのうへ(上)にくだ(降)し給へ御身の恵みを,今またつね(常)に御身からたす(扶)けられ,また(全)かるさま(様)をえ(得)られむがため.
正教会の聖体礼儀で,「主憐れめよ」,「神や,爾の恩寵を以て我を佑け,救い憐れみ,護れよ」,という祈りがあります.
"ἐλέησον" (憐れめよ.憐れみ給え)を辞書で調べると,命令法とあります.日本人のわたしからすると,この命令法には違和感を感じますが,英語の "Lord have mercy" もあるので,外国語の命令法は深いのだろうと感じます.カトリック教会の改訂された訳「主よ,いつくしみを.」では動詞が省略されていますが,説明によると,口語の動詞の冗長さのためだそうです.しかしながら命令法の動詞の省略は本質的な違いを生むようにど素人は感じます.
正教会の聖体礼儀では
「司 蓋し,我が神や,爾は聖なり.我等光栄を爾父と子と聖神に献ず,今も何時も
輔 主や,敬虔なる者を救い,及び我等に聞き入れ給え」,という祈りもあります.
「教会の祈り」の第三火曜日 晩の祈り,の,結びの祈願を唱えましたが,違和感を感じて,ラテン語規範版を読み,Oratio を古語風におきかえてみました.Liturgia Horarum Hebdomada III Feria III, ad Vesperas Oratio
"Ascéndat ad cleméntiam tuam nostra, Dómine, orátio vespertína et descéndat super nos benedíctio tua, ut hic et in ætérnum, te auxiliánte, salvi esse mereámur. Per Dóminum ...
ね(祈)ぎ事 御身のあはれみにあ(擧)げさせ給へ我らを,ああ主よ,ゆふ(夕)のね(祈)ぎ事をまた我らのうへ(上)にくだ(降)らさせ給へ御身の恵みを,今またつね(常)に御身からたす(扶)けられ,また(全)かるさま(様)を得るため.
結びの祈願には省略が多いように感じます.また Oratio と眺め方が異なるように感じます.先日の朝,「心のともしび」をたまたま寝ぼけながら,聞きました.記憶がぼんやりしていますが,ある方の遠藤周作氏の同伴するイエスについての話でした.話の最後に,イエスさまのことについて,かもしれません,を二度ほど言っていました.洗礼を受ける前に,心のともしびの本部から頂いた「カトリック要理の友」にある事から随分隔たりがあるように感じます.また,Gloria の訳の改訂された箇所の一つ(Lc 2:14 に対応する部分)は予定説とつながっているようにとることもできるのではないかと感じます.人の自由意志に関わらず,人を分けてしまっているようにとることもできるように感じます.無知蒙昧な者のおきかえと感想です,お許しください.
教会の建て替えを行なうときには,共同体の分裂が起きないように注意しなければいけないという事を比較的最近知りました(あるプロテスタン教会との関りを通して).カトリック神戸中央教会のときはどうであっただろうか,と思います.以前,神戸の栄光教会の中に入ったときに(たまたま関学の OB 会が開催され,ドアが開いていました),受付の方から,震災後,十年間,外でテントを張って礼拝を守った,と聞きました.
私は佐藤まどみ様のコメントのお返事として書かれた、神父様の文章の最後の部分(「新型コロナウイルスは神様から人類に贈られた警告です。」)に、どうしても納得がいきません。
神様は、人類を苦しめるようなことを故意になさるお方ではありません(と、私は信じています)。
世の中には様々な考えや思いをお持ちの人がいるというのは充分承知しておりますが、谷口神父様のお考えは、このコロナ禍で被害や犠牲に遭われた方たちに対して、あまりにも無神経だと思います。
被害や犠牲に遭われた方たちが、この文を読まれたら、どんな気持ちになるでしょうか?
何故キリスト教は低迷しているのか?
打開策はあるのか?
痛いところを衝かれましたね!
わたしなりに答えはあります。 打開策についても考えがあります。
本気で、まじめに、誠実に自説を展開するには、A4 三枚分ぐらいの文字通のブログ(それ以上長い話は読まれない)10回分も、それ以上もの長い話になりますので、コメント欄では対処しかねますが、敢えて、思いつくまま要点のみ書きます。
キリスト教は神に愛されて創造された人間が、神よりも偉くなろうとして神に背いて、その結果死ぬべき運命を引き寄せてしまった人類を救い、神との正しい関係を取り戻すために、十字架の上で苦しみに満ちた死を通して世を贖ったキリストを神の子と信じる宗教です。
それがキリスト教の本来の教えでした。
ところが、人類を騙し、誘惑して罪を犯させ、死ぬべき運命に突き落とした悪は、人類が神の赦しと憐れみによって、キリストのすくいの業によって死の束縛から解き放たれて復活の命を得ることを妨げるために、人類をキリスト教から離反させようと躍起になっています。
その嘘の父である悪が、キリスト教の中に密かに浸透し、神の愛を疑わせ、人間の幸せは死を意識から追い出し、お金が保証する刹那的快楽と快適さの中に偽りの幸福を探すことにあるとういう偽りの誘惑に人を誘い込むことに成功した結果がキリスト教の低迷の理由です。
具体的には、現代では、拝金主義とその世界的蔓延(グローバル化)を通して、人々をキリスト教から離反させることに成功しつつあります。それがキリスト教の低迷の根源です。
打開策は一つしかありません。それは、この世で一番強力な宗教、すなわちお金、富を神として拝む拝金主義の宗教を捨てて、キリストの教えに回帰する人を増やすことです。
回心して、キリストの説いた福音を信じることです。お金は、富は、人を幸せにしないこと、死の運命を打ち破る力がないことを理解することです。
避妊と堕胎をベースにした、死の文化の嘘を見破り、命を大切にするキリスト教的信仰を実践する回心して福音を信じる本物のキリスト者を増やすことです。
新型コロナウイルスは神様から人類に贈られた警告です。お金では買えない価値の存在に気付き思い出すよう招くメッセージです。
コロナ禍は悪が人類に送ったものではなく、神様が贈られた印、人類を誤りに気付かせるために贈られた印です。
ワクチンが早く見つかって、元の拝金主義に立ち戻って解決する問題ではありません。