:〔続〕ウサギの日記

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★ 聖書から見た「サイレンス」-その(2)

2017-04-11 00:37:16 | ★ インカルチュレーション

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聖書から見た「サイレンス」-その(2)

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フェレイラ

 

前回私は、若い神父ロドリゴに対して、足元の踏み絵の銅板のキリスト像が沈黙を破って「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。」と語りかけた、と書いた。もちろんこれは、小説家遠藤周作が思いついたアイディアであって、聖書の言葉ではない。

しかし、遠藤が描いたこの場面に平行し、対比できる箇所が聖書にはある。それは、キリストの十字架刑の場面の次のやり取りだ。

ルカの福音書は言う。処刑場の丘の上でイエスを真ん中に、2人の犯罪人もその両脇に十字架に架けられていた。犯罪人の一人がイエスに向かって「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園に居る」と言われた。(ルカ23章32-43節参照)

これを「サイレンス」の場面に当てはめると、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」という犯罪人は、フェレイラに対応する。フェレイラにしてみれば、転ばない限りでのロドリゴの姿は、転んだ彼の良心を無言のうちに責め立てる。もちろん「我々」の中にはフェレイラの他に、穴刷りの拷問の中で緩慢な死に向かっている「すでに転んだ信者たち」も含まれる。この点、遠藤の描く井上筑後守は大嘘つきだ。転んだらすぐに穴吊りの刑から解いてやると約束しておきながら、ロドリゴを転ばせる手段として利用するときには、いとも簡単にこの約束を反古にした。フェレイラはロドリゴに言う。「私は転んで穴吊りの信者を救ってやった。お前も転んでこの者たちを救ってやれ(私も救ってくれ)」と。

それに対して、「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分やったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」というもう一人の犯罪人の言葉は、穴吊りの刑にもだえ苦しんでいる「転びキリシタン」からフェレイラの向けられた言葉だ。彼らは不覚にも転んでしまって罪を犯したのだから、穴吊りの苦しみの中で死ぬのは自業自得と思ったかもしれない。しかし転んでいないロドリゴは違う。

そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」という言葉は、穴吊りの苦しみの中からすがる思いでロドリゴに向けられた言葉なのだ。その裏には、「後生だから、あなただけは私たちのように転ばないで、イエスのように立派に殉教を遂げて下さい。そして、そのことを通して、私たちを、そしてあの哀れなフェレイラ神父をも、救ってください」と。ここまでは、遠藤の小説は聖書の筋書きを忠実に受け継ぐことになり得たと言えるだろう。

では、その次はどうか。イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園に居る」と言われた。そして、3時ごろイエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。これは神の「沈黙」に対するイエスの絶望の叫びに他ならない。そして「イエスは再び大声で叫び」(マタイ27章50節)「父よ、私の霊を御手にゆだねます」(ルカ23章46節)次いで「成し遂げられた」(ヨハネ19章30節)と言って息を引き取られた。イエスが神のみ旨を成し遂げたとき、この絶望の彼方のどんでん返しとして、復活の命「ハライソ」が輝き出たのだった。

これを遠藤の場面に当てはめるとこうなる。イエスは、つまりロドリゴは、穴吊りの哀れな信者たちに、「私は転ばない。もうすぐあなた達の後を追って穴吊りの刑で殉教を遂げる。私は転ばずに殉教して天国に凱旋する。あなた達は転んでしまったが、赦されてわたしと共に天国に入るだろう」と言って励ますはずだった。その時ロドリゴは穴吊りで死に瀕している信者たちの中に、十字架の上で死にゆくイエスを見て礼拝することもできたはずだった。

しかし、遠藤はそうは書かなかった。ロドリゴはフェレイラ(聖書では悪い犯罪人)の言葉に耳を貸し、穴吊りも待たずに、早々と踏み絵を踏んで転んでしまった。そして、現世に自分の命を長らえるとともに、殉教の栄光を目前にしていたキリシタンたちをこの世の惨めな命に生還させてしまった。こうして、ロドリゴも、フェレイラと、井上筑後守と同じ陣営に合流することになる。ここに及んで、聖書が「神の沈黙」「キリストの復活」「神の国」(ハライソ)の永遠の命の栄光に入る「解放の道筋」を描いているのに対して、遠藤の「沈黙」の世界は、偽りの「神の声」のささやきに耳を貸して、現世の日々の苦しみと、老いと死と絶望への逆戻り、救いの希望の無いこの世の閉塞地獄への転落に終わっている。 

ころんで、ひと時の苦しみから逃れても、その後20年、30年とこの世のみじめさの中に生き永らえた挙句の死の先に、何の希望があるというのだろうか?来る年も、来る年も、宗門検めで踏み絵を踏み続け、そのたびに屈折した良心は苛まれ、転びものとして仏教徒からもさげすまれながら、この世で生き恥を晒し、生き地獄をさ迷うために、フェレイラは、ロドリゴは日本にやって来たのだろうか。信者から、ハライソ(天国)の希望を奪い取り、無残にもそれを打ち砕くために・・・?そして、もしこの後、新たに宣教師神父が鎖国中の日本に潜入してきたら、ロドリゴもフェレイラや井上さまと一致協力してその神父を転ばせるために執念を燃やすのだろうか。

聖書はそんなことを教えてはいない。

スコセッシは彼らの末路を、日々、迫害者に飼われた下僕として、オランダ商人の商品の品定めに明け暮れるつまらない毎日として描いている。「毒を喰らわば、皿までも!」、という言葉があるが、一層徹底して、井上筑後守のように、最も恐ろしい冷酷な迫害者として、キリシタン狩りに執念を燃やせばよかったのだろうか?

ところで、聖書によれば、天の父なる神は、キリストの十字架の場面では一貫して沈黙を守った。イエスの、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」は、徹底的な「神の沈黙」に向けられた悲痛な叫びだった。

遠藤の小説の主題はまさにこの聖書の「沈黙」する神ではなかったのか?神が本当に沈黙を貫いたのだとすれば、フェレイラとロドリゴが聞いた「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。」という声は一体誰から来たのか?その効果において、そのもたらした結果において、神からの声ではなかったことは明らかではないか?

ではどこから?・・・それは、堕落した天使から以外には考えられない。この悪しき天使のことを聖書は「嘘の父」と呼ぶ。聖書を読めば、人間よりはるかに賢いこの霊的存在は、最も巧妙な形で、アダムとエヴァの失楽園を演出して以来、人類の歴史において、キリストの生涯において、節目、節目に、何度も人類を、そしてキリストを、嘘の罠に落とそうとした前科がある。作家遠藤は、そして映画監督スコセッシは(おそらく自分でも気が付かないうちに)その領域まで描いてしまっている。多くのナイーブな人たちを無意識のうちに巻き込みながら・・・。

遠藤の小説「沈黙」が一世を風靡した時、日本中が、特にカトリックのインテリと聖職者たちの多くが、見事にそれにはまった。そして今、スコセッシの「サイレンス」のお陰で、ヨーロッパのカトリックのナイーブなインテリたちがその餌食になりつつあるのではないか、と私はクールに観察している。

(つづく)

 

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1 コメント

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Unknown (名無し)
2017-04-11 14:24:13
キリストには刑を止めさせる力は無かった。
しかし、選択できたあの神父は、救ったところまでは、よかったと思います。
その後が、いけないと思います。言い訳がましい。
左翼から右翼にみっともなく転向した人たちと似ている。
思想信条的には合わなくても、頑張った人は立派だと思う。

私は神仏の存在を否定するほどではないけれども、存在を信じているわけでもないので、真剣さが足りないのかも知れないが、
遠藤氏は、なぜ、ああいう設定を選んで小説を書いたのだろうか、とは思う。
よくある、窮地に追い込まれた人をああだこうだと責めたてる、俗っぽい週刊誌の記事でも、斜に構えたようなのと、似たものに思う。
あの小説の読後感は、不快感です。
遠藤氏の小説は、あれだけしか読んでいません。

批判は、きちんとしないといけないと思います。
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