:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 二度あることは三度ある(その-5)

2011-03-01 10:15:09 | ★ 聖書のたとえ話

 

〔終 幕〕または、「従順の勧め」 -第2場-

 

(4) 良心が受け入れを、即ち「従順」を、拒否する「命令」には如何に対処すべきか?

 

 では、良心が或る具体的な状況のもとで、地上で権力を持つ人間の具体的な命令に「従ってはならない」と言うとき、我々はどのように身を処すればいいか。

 

a)          かつて私が住んでいたジャングル、お金の亡者たちが仁義なき戦いを展開している国際金融の世界ではどうだったか。

 私は、ライブドアの堀江氏の後ろに付いて、盛んに彼を煽ったリーマンブラザースという国際投資銀行にかつて身を置いていたことがある。この会社、堀江氏がお縄になった頃には、がっぽりと儲けて、冷酷にも彼を使い捨てたであろう事は、経験上想像に難くない。彼が臭い飯を喰らおうがどうしようが、彼の裁判のことなど、もうどうでもいいのだ。

 リーマンのようなアメリカの投資銀行を例にとれば、上は会長から下は一兵卒に至るまで、きっちりとレポートライン(上司・部下の命令系統)による秩序が維持されていて、ボスへの「従順」は絶対であった。ボスへの不従順、裏切りは文字通り命がけのギャンブルであった。

 ボスの命令に従うか否かの決断は、専ら出世のチャンスや約束された破格のボーナスと、それを凌ぐ自分の野望や自信とを天秤にかけて決めればいいことだ。良心もクソもない。良心などと言う品のいい概念を持ち出す場面では無い。利害と野望が支配原理だ。気に入らない命令に「従順」する必要などさらに無い。

 「こんな奴の命令には従えない、俺のプライドが赦さない!」、と思えば、さっさと辞めてそのボスの下を去り、同じ会社の別のボスに擦り寄るか、いっそのこと、後足で砂をかけるようにしてその会社を辞め、自分のノウハウと顧客リストを手土産に、競合他社に高く身売りをすればいいだけのこと。だから、ウオールストリートには、一見するところ多数の強烈な投資銀行がひしめき合い、しのぎを削っているように見えるが、実はそれら全体で一つの会社だと言ってもいい。ハーバードのビジネススクールを優等で卒業した野心に満ちた狼達は、ウオールストリート・アンド・カンパニー・リミテッドの「人事部」とも言うべきヘッドハンター(人材斡旋会社)を介して、一つの会社から別の会社へ、頻繁に転職を繰り返しながら、成功するものは40代後半には巨万の富をなして引退し、失敗した者は早々に消えていくか、牢屋に入るか、すればよかった。50を過ぎてまだうろうろ現役でいるのは、事務屋かメンテ部門の裏方だけである。

 

b)          裁判官という専門職集団の、閉じられた社会における陰湿な派閥と序列の世界で、悪意の左遷、嫉妬や私怨による不当な人事に対して、良心が「赦せぬ!」と叫ぶなら、辞めて野にくだり、弁護士を開業する手もあるだろう。抗議の自殺をするなどは、あまりにも悲しい選択ではないだろうか。

 

 官庁や軍隊でも、教育の現場でも、病院の医局でも、学者や芸術家の世界でさえも、およそ事情は同じであろう。二流、三流企業の俗物の社長や人事部長の理不尽な独裁を前にしても、平のサラリーマンを取り巻く事情は全く変わらない。脱サラをするもよし、起業するもよし、都会を去って田舎で畑を耕し自給生活に入るも良いではないか。

 金銭的利害や、安定や、世間体を護るために、不正な、悪しき命令に屈服して、「従順」の仮面の下で良心の声を圧殺して地獄を味わうよりも、「良心の自由」を誇り高く維持するほうが、はるかに人間的であり、魂は平安である。神もまたそれを善しとされるであろう。

 

c)           また、世間では、もしも上司の命令が法律面でも不当であると思えば、正式に訴えて戦う道も開かれている。私自身、一度は不当解雇の撤回を求めて裁判を起こして、不利を悟って和解を申し出た会社側を相手に、全面勝利を勝ち取った愉快な経験もある。(そのくだりは私の本「バンカー、そして神父」の「突然の解雇、そして反撃」(P100以下)に詳しく書いた。

 

d)          では、今問題の司祭や修道者、世に「聖職者」として特別視される人間の場合はどうか。本質は上と全く同じはずでありながら、実際はいささか複雑である。

 その複雑さは何処から来るか。それは、カトリック教会の場合、「コンスタンチン体制」に由来する教会の二重構造に起因する。コンスタンチン体制については既に述べた。(ただし、「東京オリンピックの頃にその体制は破綻し、すでに終焉を迎えている」という点についてだけは、まだこれから詳述しなければならないのだが・・・・。)

 コンスタンチン体制を一言で要約すれば、ローマ帝国の強烈な「世俗的支配体制」と、それに伴う「偶像崇拝の構造」の中に、キリスト教が強引に取り込まれ、それらと密接不可分に合体させられた状態を指す。そこでは、同じ「教会」の概念のもとに、キリストの目に見えない神秘体としての「霊的側面」と、世界の宗教業界ナンバーワンの暖簾と規模を誇る「世俗的側面」が渾然一体となっている。

 紀元4世紀の初頭から今日に至るまで続いてきたコンスタンチン体制下では、教会の教皇、司教、高位聖職者、修道会の長上たちが、聖職者でありながら、世俗の支配構造の権力を掌握した人間たちでもある事実から目を背けてはいけない。歴史上、聖なる教皇、聖なる高位聖職者たちが常に、しかし極めて稀に、いなかったわけではない。だが、そのような例外を別にすれば、彼らの多くが、聖書のマタイ 5 7 章の福音的理想を個人の生活と信仰で体現した「回心して福音を信じている」聖人の群れであることを、聖霊は保証してくれてはいない。

 

 第二次世界大戦後のカトリック教会の新時代を開いた、ヨハネス23世、パウロ6世、ヨハネ・パウロ1世、ヨハネ・パウロ2世の、この4代の教皇様たちが皆聖人、つまり極めて稀な例外的なケース、であったことを私は疑わない。(その前のピオ12世は疑わしい。また、現教皇ベネディクト16世の評価はまだ定まっていない。)

 そのこと、つまり4人も立て続けに聖なる教皇が現れたと言う教会史上極めて例外的な状況は、彼らによって成し遂げられた第2バチカン公会議と言う、コンスタンチン体制を清算する教会の大改革が、いかに重大な歴史的出来事であったかを如実に示している。

 コンスタンチン体制下の教会において、俗物の高位聖職者が、神のみ旨とはおよそ関係のない世俗的意図を押し通すために、神の名において、「従順」の誓いを楯に、配下の聖職者に不当な命令を押し付けてくるとき、そこから生まれる害悪は大きかった。そして、それは今もまだ終わってはいない。

 もちろん、「従順」の建前のもとでも、実際には、この世の組織や秩序を維持する上での人間の知恵や経験から生まれたまずまず妥当な原則や規則が広く支配していることも確かである。しかし、その場合でも、ヒューマンな、人間味のある、しなやかな運用が求められる場面が多々あったにちがいない。そんなとき、ともすれば、四角四面に原則をごり押しして、人間性を押し潰してしまう事だって大いにありうるのである。どれほど多くの下位聖職者、平の修道者、修道女たちが、聖なる「従順」の誓いの蔭で、人権を踏みにじられ、虫のように魂を圧殺されてきたことだろうか。先の修道会内部の殺人事件などは、問題が表面化した氷山の一角に過ぎないと私は思う。

 私が見聞きした実例でも、犠牲者は常に「従順」を強要される劣位に立つ無名の下級聖職者たちだった。人伝の知識だから、詳細と正確さには期しがたいところもあるが、例えば:

           私と同期でイエズス会を志願したU神父の場合などがいい例だ。彼は評判のいい優秀なイエズス会士になったと聞いている。高齢になり介護を必要とするようになった父親を看る肉親が彼をおいていなくなったとき、彼はその許可を求めたが、許しは与えられなかった。「従順」によれば、彼は父親を見捨てねばならなかった。彼は、潔く会を出て、多分司祭も辞めて、父親を取ったと思われる。彼の「良心」がその選択を決意させたものだろう。この「不従順」は神の前に正しかったと私は思いたい。

           同じイエズス会の神父(アメリカ人)の場合。私が上智に在学中、彼は学生のアイドル的存在だった。格好のいい芸術家肌で、ニューヨークで版画の個展を開くほどの才能の閃きを見せていた。特に女子学生のファンが多かったように思う。その彼が、まだ若いのに、全身の筋肉が衰えていく難病にかかった。特別な、きめ細やかな介護が望まれる状況がそこにあった。彼を取り巻く一群の婦人たちが、集団で彼の必要とするきめの細かい介護を申し出たが、彼の長上はそれを受けることを許さなかった。彼は、会を出て、恐らく司祭も辞めて、自らの身をその人々の手に委ねたものと思われる。私は、正しい「不従順」を選んだと言いたい。

           これも、うろ覚えの記憶だが、ある男子修道会で新聞沙汰になる大事件が起きた。一修道者(司祭ではなかった?)が、理不尽な人事に反発して上司(管区長?)を殺害した事件であったと記憶する。背景には長い確執の歴史が臭ってくる。もし彼が、私のこのブログを読み、私と同じようなクールな目で「従順」と言う「宗教業界特有」のゆがんだ現象を冷静に理解していたら、あのような不幸な事件は避けられたのではなかったろうか、と惜しまれる。

           フランシスコ会のH元管区長と、その後任のF管区長との「従順」戦争は、当時教会を離れていた私の耳にも聞こえてきた。風の便りゆえ、実際はもっと複雑な話だったのかも知れないが、私の理解し得た範囲で敢えて触れておこう。H神父は、私をフランシスコ会の志願者として受け入れてくれた人である。そのあたりの消息は、私の本の181ページ以下に詳しく書いたから繰り返さない。★まだ読んでおられない方はここをクリック。カートに入れれは簡単に手に入ります★

 H神父は、上智では私より二年か三年後輩の真面目な大人しい感じの神学生だった。その後、彼は管区長に選ばれると、会の清貧改革に着手した。私はそれに痛く共鳴した。緩んだ規律と贅沢な生活に慣れきった古参の修道者達は、師父聖フランシスコの「清貧」を旗印にしたF管区長の出現を前に結束し、彼の再選を阻んだ(私が会を去らなければならなかって事情と関係があることは、本の中で書いた)。新しく選ばれたF管区長は、前任者の改革を元に戻す期待を一身に背負っていた。早速、F管区長は自分の前任者のH神父に、お金持ちの信者の多い都内でも有名なブルジョワ教会(田園調布教会だったかな?)の主任司祭に任命した。フランシスコ会は歴史と伝統に輝く大修道会である。会員司祭達はみな「清貧」、「従順」、「貞潔」の修道三誓願を立てている。だから、管区長への「従順」は絶対視されている。話を簡単に図式化すれば、F管区長はH元管区長の「清貧」路線を、「従順の誓願」を楯にねじ伏せようとしたのであろう。動機は明らかに不純である。H元管区長は、「良心の声」を楯に、それを拒否して、大阪の釜が崎の愛燐地区に立て籠もった。激しい戦いの末、F師はH師を釜が崎から燻し出し、「従順」の名の下に任命を受諾させることに成功しなかった。「良心の声」の勝利であったのだと思う。

 H神父の岩波から出た真面目な本と、亜紀書房から出た私のやや跳ね上がった本とが、しばらくの間新宿の紀伊国屋書店で仲良く並んで平積みされていたのを懐かしく思い出すが、私の恩人H師は、今でも釜が崎で日雇い労働者たちと福音を生活で実践しておられるはずである。頭が下がる思いである。

●  もう一つだけ事例を付け加えようか。私が18歳のとき、上智の学生寮  で最初に同室になったM神学生は、私に多くの影響を残した畏兄であるが、イエズス会からカルメル会へ、カルメル会から東京大司教区の補佐司教へと、宗教業界では稀な右肩上がりの転職を成し遂げた、成功(?)例である。

 

e)         教会の中の「従順」の固有の難しさと複雑さは何処から来るか。その一つは、命令する長上も、命令を受ける配下も、その身分が終生性を帯びている点である。言葉を替えて言えば、良心が許さないからといって、普通は転職、転進の選択肢が無いと言うこと。つまり、聖職者を辞めれば、失敗者、還俗した脱落者、として切り捨てられ、闇に葬られ、宗教業界人としては一巻の終わりとなるからである。 

 コルコタの聖女マザーテレサはアルバニア人であるが、上流家庭の子女教育をする伝統的な修道会に飽き足らず、そこを出て、最も貧しい人のための会を新たに創立した。彼女なども神への真の「従順」の稀有な例外である。しかし、誰もがそれほどのカリスマに恵まれるわけではない。

 もう一つの難しさは、その命令が「神の名において」、「従順の誓い」を担保に行われる点である。さらに言えば、人格未成熟、社会経験の乏しい若いうちに神学生になり、或いは、修道会の志願者になったものが、この世の人間組織の目上の命令に対する「服従」と、神のみ旨に対する高貴な信仰の行為としての「従順」とを混同して刷り込まれた教育(洗脳)の問題も見過ごすことは出来ない。

 そして、一番厄介なのは、俗物の上長が、実は世俗の次元で物を考え処理していながら、それを霊的な信仰の次元で、神の権威をもって行動していると錯覚したとき、つまり、世俗の秩序の次元で人間の思いと意思とを貫きながら、自分をあたかも神であるかのごとくに思い上がり、神のみ旨に対してのみ向けられるべき「従順」を、自分の人間的思いに屈服させる大義として持ち出して、それが神を冒涜する行為であるとは、夢にも思っていないときである。人が神になったと錯覚したときほど恐ろしいことは無い。それは、命令する者が神に対して自分を上位におき、自分自身が「原罪」の罠、つまり「不従順」の傲慢の中に落ちていることに気付かない状態を意味する。

 

 色んなケースの実例は、もうこれくらいで十分だろう。いよいよ、「良心が受け入れを、即ち『従順』を、拒否する『命令』には如何に対処すべきか」と言う問いに対して答えを出さなければならない。私は、それに対してはっきりした答えを持っている。しかし、「第二場」も既に長くなりすぎた。だから、それは次回に持ち越すことにしよう。(つづく) 

 

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