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独裁と魔女狩り?
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磐梯熱海の温泉宿「永楽館」でキコのシンフォニーの郡山実行委員会の「反省会」兼「ご苦労さん会」があった。明けて宿のテレビをつけたら、どのチャンネルも舛添都知事引きずり下ろしの大合唱でうんざりした。新聞に目を移すと、消費税の延期決定の記事だらけで、もっとうんざりした。
このやり場のない嫌な気分はどこから来る?
新訳聖書 にはこんなエピソードが記されている。
人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネ8章3節以下)
注:モーゼの律法による石殺しの刑とは、死刑の判決を受けた者を群衆が遠巻きに囲み、その者にに向かって皆が力いっぱい大小の石を投げつけ、死ぬまで投げ続けるという残酷な刑のこと。キリスト教の最初の殉教者ステファノはこの方法で殺された。
舛添さんは「姦通の現場で捉えられた女」か ?
毎日、毎日、テレビに出演して舛添おろしを煽るキャスター、街角でインタビューに応えてその火に油を注ぐ「したり顔」の市民たちに対して、イエスの答えは痛烈だ。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、舛添さんに石を投げなさい。」
しかし、聖書のエピソードは良心の欠けらをどこかに置き忘れてきた現代日本人には当てはまらない。そのイエスの声を聞いても、現代のマスコミは、また、それに踊らされて叫ぶ愚かな庶民たちは、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ろう」とする気配は全くないように見受けられる。狂ったように、憑かれたように、非難の石つぶてを投げ続け、ターゲットの政治生命を断つまで、まるで坂道を行くブレーキの壊れた欠陥自動車のように抑制がきかない。
法で裁けるほどの罪のない人を無理やり葬り去るる手段となったマスコミのヒステリー。中世の「魔女狩り」が思い出されて、おぞましさに身の毛がよだつ。道理が引っ込み、集団ヒステリーが勝ちを占める。背後でそれを操っているのは誰か。胸に手を当てて冷静に考えるならば、「あの立場にあっての舛添さんは、私やあなたほどにも悪くはない」、と言って彼を擁護する声は新聞にも、週刊誌にも、テレビにも全く現れないのは何故か。
さんざん国会で審議し、必用性が論証され、決議され、公約もされた「消費税増税」が、自分の延命を図る首相の鶴の一声で無責任にも簡単にひっくり返される。側近もそれを阻止できない。民主主義はどこへ行ってしまったのか。新しい専制独裁者の出現でなくてなんだろう。彼に導かれて平和憲法はやすやすと空洞化され、自衛隊員が海外で民間人を殺戮し、みずからも戦死することに道が開かれたのはつい先日のこではなかったか。