★ 「アーミッシュ」 対 「新求道共同体」-3
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「世界」の中に在るが、世界には属していない
アーミッシュ は、象徴的にも社会的にも一般の世界から分離された状態を保ち続けている。
彼らの言語(英語社会のアメリカの中にあったドイツ語の訛りであるペンシルヴェニアダッチを話す)、ユニークな衣類、馬とバギーによる交通、そして生活の灯りとしてのランタンの使用は、我々から彼らを分離している。彼らは最新の技術による産物を取り入れることを躊躇するため、二つの世界のギャップは広くなる。また、本当の社会的境界も存在する。かれらは、職業団体、地域の役員、政党といった公職や公の団体には参加しない。若者が公立学校へ通うことはほとんどない。アーミッシュ固有の学校で8年間の教育を受けると、その後一般の高校や大学に進むことは禁止されている。地方選挙では、政治に関した事務所を開くことはけっしてない。電気の禁止は、テレビや他の電気メディアといった現世の価値から、彼らを守っている。学校、工場、店舗など、アーミッシュ・コミュニティの色々な社会施設は、外部の影響を遮蔽する。仕事、礼拝、学校、工場、遊びといった彼らの生活のほとんどは、家族と教会を軸にして展開されるのである。銀行、近代医学なども、他の専門的サービスと同様に利用するが、政府の補助金は辞退する。
外部からの脅威を受けたどの集団もそうであるように、アーミッシュは、自分たちを防衛するための戦略を発達させてきた。ユニークな衣服、なまりのある言語、交通手段、農業のやり方など、独特のものであり、異文化集団である彼らを囲む柵を象徴しているし、近代社会を寄せ付けない。外部の世界と文化的に関わりを持たなかったため、コミュニティを近代化の罠から守ったのである。
アーミッシュはよい隣人である。しかし、非アーミッシュの人たちとの関係が親密になることは極めて稀だ。外の世界の人々との結婚は禁じられている。
新求道共同体 はどうだろうか。
彼らも「世界」の中に在るが、世界には属していない。しかし、それは、およそ正当なキリスト教は元来全てそうあるべきである、と言う意味においてである。グローバル化した現代社会。世界はすっかり世俗化した。回心して洗礼を受け、福音を信じるキリスト者は、本来この「世俗」を捨てて神の国の市民になったはずだった。いわゆる出家と在家を使い分け、世俗的精神ににどっぷり浸かって世俗的生活をするキリスト者と、世俗を捨てたシスターや修道司祭という方便の使い分けは、福音書に書いてあるキリストの教えにはなじまない。新求道共同体の理想は、この世の中に生きながら、この世の精神で生きることをやめて、福音の理想を生きようとする集団のはずである。
ナザレのイエスが、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのち、直ちに砂漠に退いて、「世界」の王、「この世俗社会の覇者」である悪魔(サタン)の誘惑を受けたときのやり取りを見れば、その原点がはっきりする。
イエスは悪魔から誘惑を受けるために、「霊」に導かれて荒れ野に行かれた。悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世の全ての国々とその繁栄ぶりを見せて、
「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう」
と言った。すると、イエスは言われた。
「退けサタン。『貴方の神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(マタイ4:8-11)
「世があなた方を憎むなら、あなた方を憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなた方は世に属していない。わたしがあなた方を世から選び出した。だから世はあなた方を憎むのである。」(ヨハネ15:18-19a)
これらの聖書の言葉には、ナザレのイエスが「この世」(世俗社会)をどのように見、弟子たちにどのように教えたかが現れている。実は、これは本来全てのキリスト者が基本姿勢として身につけていなければならないものである。しかし、残念なことに、4世紀半ばにキリスト教徒に対する迫害が終焉し、キリスト教がローマ帝国の国教的存在に取り立てられた時点以降は、キリスト教の主流派によって忘れ去られた、単なる理想となってしまった。
それに対して、あくまでこの精神に忠実であろうとする点においては、アーミッシュも新求道共同体も全く同じである。しかし、新求道共同体はアーミッシュのように世界と自分たちの共同体との間に、300年前のライフスタイルに固執して柵を設け、異文化の別の世界を構成するようなことは、将来も決してないだろう。
カトリック教会において、アーミッシュに近いものを探すとすれば、それは生涯塀の中に生活するいわゆる隠修士たち、観想生活を営む修道士・修道女たちがそれに当たるのかもしれない。イタリアのカルトゥージオ会やフランスのシャルトルーズなどの古いタイプは日本には上陸していないが、函館のトラピストや、八ヶ岳の麓に新しい修道院を建てたベネディクト会などは知る人ぞ知るである。女子では、トラピスチンやカルメル会やクララ会、ドミニコ会などの観想修道会がそれに相当する。
アーミッシュがプロテスタントで家族持ちなのに対して、カトリックの観想修道者は独身である点は好対照であるが、「世界」または世俗社会との間に柵を設け、数百年前の服装や古い生活習慣を守ることを通して自分たちをそこから隔離する点では、両者の間に共通するものがある。
新求道共同体の場合にもし柵があるとすれば、それは服装や、居住地域や、生活習慣といった目に見える物理的なものではなく、ナザレのイエスが教えた精神を霊的に内面化して、心の中に精神的な柵を築くことによって、世間の中に散在しながら世間を離れた精神的絆で互いに結び合っていると言えるだろう。
アーミッシュが大家族を営む生活人であるように、新求道共同体も子沢山の家庭生活を営み、社会生活の中で職を得て生計を立てる点ではアーミッシュと同じである。
《 つづく 》
この一連の記事を読み直しましたが,以前と少し受け止め方が変わりました.以前,他の記事に引用いたしましたが,「聖書のメッセージ 正教徒のとらえ方 ジョージ・クロンク [著] (日本正教会 司祭)松島雄一 [訳] 西日本主教教区 出版 (2005)」の"イオアンの手紙" についてのことばに,「私たちはハリストスの福音の名によって,『この世の内に』生きるのであり,『この世のもの』として生きるのではありません.」cf. p. 232,とあります.このことばは,この本のカバーの裏にもあります(ハリストスはありません). また,「聖金口イオアンの聖体礼儀」の "第三アンティフォン" はマトフェイニ因ル聖福音の第五章 三から十二(前半)を日本正教会による新約聖書の訳 (1901) にほぼ従ってうたうそうです.冒頭は,「主や、爾の国に来たらん時、我等を憶い給え。」.漢字等の表記の違いを除くと「神゜(シン)」が「心(こころ)」に変わっていることと助詞の「は」がいくつかの箇所で補われていることに気がつきました.正教会の site で視聴しましたが,圧倒されました.このことばを世俗に生きるわたしの視点からみずに,当時の迫害を受けていた人たちをおもって眺めると,素直に受け止めることができるような気がします(恵まれた生活を送る素人の感想).主日に集まって共にこの主のことばをうたうことは大切なことだと思わされました(神父さまの記事を読んでより強く).
上に引用いたしました正教会の"第三アンティフォン"の冒頭
「主や、爾の国に来たらん時、我等を憶い給え。」
から Lc 23:42 を思い出しました.正教会による新約聖書の訳 (1901)
ルカニ因ル聖福音 第ニ十三章 四二
「乃(スナハチ)イイススニ對(ムカ)ヒテ曰(イ)ヘリ,主ヨ,爾ノ國ニ來(キタ)ラン時,我ヲ記念セヨ.」
ラゲ訳 (1910) ルカ聖福音書4 第23章 42
「又イエズスに向ひ、主よ、御國に至り給はん時、我を記憶し給へ、と云ひけれは、」
この訳では「記憶」とありますが,正教会の「永遠の記憶」とつながりがあるのだろうか,と感じました.
Nova Vulgata Lc 23:42
"Et dicebat: 'Iesu, memento mei, cum veneris in regnum tuum'. "
古語風におきかえてみました(ど素人の主観による).
また言ふ:「イエスよ,御身の国にい(入)らむ時,我をうちしのべ(打ち偲べ)よ.」
Heinrich Schütz の "Die Sieben Worte Jesu Christi am Kreuz" の
ことも思い出しました.以前よく聴き,CD を集めていました.理由はわかりませんが,
", heute wirst du mit mir im Paradies sein" の歌は頭に焼き付いています.この曲のことばから強烈な力を感じます.この歌詞は,Die Bible Luthertext (1984) Lukas 23:43b(bold face) と同じです(聖書では : Heute).ドイツで牧師先生から勧められて買った聖書で確認しました.買った時は,このようなことになるとは全くおもってもみませんでした.いつも私的な長文をすみません.
上のコメントにシュッツの「十字架上の七つの言葉 SWV 478」のことを書かせていただきました.手持ちの CD 1964 年にハンブルクで録音され,Jurgen Jurgens が指揮したものの日本盤 (Telefunken 盤)の linernotes(キング盤LPより転載)にある,Die Sieben Worte の "Conclusio:Wer Gottes Marter in Ehren hat (Chor) (日本語訳)「終曲:神の殉教者をうやまい(合唱)」の服部幸三先生による日本語訳を書くことをお許しください.
「神の殉教者をうやまい
七つのみ言葉を思う者を
主はみそなわしたもう,
地上にあっては,豊かな恵み
かしこにては,永遠の生命もて.」
この終曲の歌詞は,プロテスタントの信仰からくるかどうかよくわかりませんが,シュッツは救霊に逃げるようなことはせず,八十代になっても作曲を続けられたそうです.上の七つの言葉は,シュッツが 60 歳頃の作品で三十年戦争が激しい時の作品だそうです.洗礼を受けた後暫くして,病気になって,この CD を小さい音でよく聴いていました.他の記事のコメントに以前救霊に逃げたと書きましたが,誤解を与えかねないので,言葉を補わせていただきます.また病気になった時に「カトリック 要理の友」を読み直し,第二十課の「後の世」を読んで,かしこのことばかりおもいがちになりました.そのようなときに,あるシスターの(Mt 22:37-40 から),自分を大切にできない者は隣人も大切にできない,という意味のことばに出会いました.そのとおりだと思いました.今のわたしのことばでは,自分が今あることが大切であるとおもえない者は,となります.大阪ハリストス正教会の長司祭 ゲオルギイ 松島 雄一 は,ぎりぎりでこの地にふみとどまるという意味のことを仰いました.愛の戒めに生きることは信仰の中心であり,また大変しんどいことですが,「カトリック 要理の友」からは汲み取れませんでした.Benedict XVI が死の淵にあるときに,教皇さまは何度も会いにいかれたことが思い起こされます.今は教皇さまのことをおもって世界の多くの人が祈っておられることと思います.大変私的な長文をすみません.
上のコメント (04/03/2025) に,
ジョージ・クロンク [著] (日本正教会 司祭)松島雄一 [訳] 西日本主教教区 出版 (2005)」の"イオアンの手紙" についてのことばを引用いたしました.ほぼ同じことばが「正教会の暦で読む 毎日の福音 府主教イラリオン・アルフェエフ [著] 修道司祭ニコライ小野成信 [訳] 教友社 (2021) 」にもありました(以前にも他の記事のコメントに引用させていただきました)."地の塩(五旬祭火曜日,マトフェイ4章25節ー5章13節)"に,イイススの時代の塩についての説明の後に,
「地の塩に関するイイススの言葉の最初の意味は何だったのでしょうか.このたとえには,多段階的な意味があります.最も広い意味では,ハリストス教は人の生命を意義深い,退屈でないものとし,それに味を与えるといえるでしょう.イイススによって人々へと伝えられた天国が,もし人間の生命を測る何か特別な基準であるとすれば,これと塩との比較は,その特徴やその価値をよりわかるようにしてくれるでしょう.イイススの教えに拠れば,ハリストス教徒たちは『世』で生きています(ヨハ16・33)が,『世に属していない』(ヨハ15・19)のです.この世と混交してしまわず,ハリストス教徒たちは,この世の生活を意義深いものとし,彼らのこの世での存在は,人間の善き在り方の重要なファクターとなるのです.
神の国についての福音書の絶対的啓示は,常に相対的で時間的なものであるところの,いかなる社会的・歴史的形態にも収まりきらないものです.・・・」cf. 213,
とあります.神父さまが何度も「地の塩」について言及されてきたこと,この記事にある「アーミッシュ」のことや神父さまの良く知っておられる共同体のことに深く関わっているように感じます.去年の秋ごろに,夜遅く夕食を食べようと店を探していました.店がなかなか見つからず,ようやく食事ができる立ち飲みの居酒屋が見つかりました.わたしはお酒が飲めないので,食事だけ注文し,食事が来たので,十字を切り(自分自身に十字のしるしをつけ)ながら "In Nomine Patris, et Filii, et Spritus Sancti" と唱えて,食前の祈りをしました.向かいにいる人たちから危ない人じゃないかというような声が聞こえてきました(冗談だったかもしれません).このことから反省させられ,先日の職場での会議の前の会食のときも同じようにしました.これまでは職場の会議の前の会食の時は遠慮をして,しないことが多かったです.一般の人の中でも,十字を切り(自分自身に十字のしるしをつけ)お祈りをすることも信仰の宣言だと思います.一年間程ヒジャブを被った若い方と関り,イスラム教に対する見方が変わりました.今の多くの日本人にはない礼儀正しを感じました.また,距離も感じさせられました.
返信をありがとうございます.
やはりそうでしたか.義務とは考えずに,これからもできるだけ心をいれて続けてみます.周りの反応も参考になるように思います.これまで,職場のある人から,わたしがカトリック教会の信徒とわかり,異端審問のことを随分言われたことがあります.それについては一切反論せず,イエス様の教えと信者の行いは異なることがある,と言うにとどめました.ようやく去年ぐらいから,聖書におけるイエス様のこと(言・事)には旧約聖書にある神の言に反しない
と感じるようになりました.聖書にある通り,相手はさぞ腹が立ったことと思います.