急ピッチでまた更新しました。
なぜこの巡礼を始めることになったか?その不思議な由来は、
「ポ-ランド巡礼ー1」 に書いてあります。(ぜひ 1~13 を通して読んでください)
それを読まれると、なるほど!と納得されるでしょう。
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ポーランド巡礼 (その-10)
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第二幕 聖マクシミリアノ・コルベ神父とヨハネ・パウロ2世
第一場 コルベ神父
第三景 「コルベ神父の殉教」
もったいぶって話を引き延ばすのはもうやめにしよう。前置きはもう十分だし、先を急がねばならないし。
今回の巡礼の最も重要な目的地はこの写真の場所、アウシュビッツ強制収容所第11号棟「死の家」の地下にある第18号監房をおいて他にはあり得ない。
写真撮影は禁じられていたが、建前はあくまで建前。どうかお赦しあれ!
(隠し撮りだから無論フラッシュは使っていない。
よ~く見ると、太い鉄格子の外に赤いカップローソクが置かれている正面の小窓は、中の薄暗さとのコントラストで白飛びしているが、それ自体、地面より低いところにあるコンクリートの穴だったことは後で明らかになる。
室内のローソクの影は、手前上部やや右に寄って明りが2灯あることを示している。
高いほうの蝋燭が、そう、1.5メートル前後だったろうか。
と言うことは、この部屋は4畳半よりはちょっと広いとしても、6畳まではないということか。
この狭い空間に裸にされた10人の囚人が餓死するまで2週間放置された。無論トイレなどない。
実際は大小垂れ流しの汚物と悪臭に満ち満ちていたにちがいないのだ。人間の尊厳などあったものではない。)
三本のローソクの前のプレート文字、この写真から判読すると:
CELL IN WHICH IN 1941 DIED PRISONERS SENTENCED
TO DEATH BY STARVATION AS A RESULT OF COLLECTIVE
RESPONSIBILITY FOR EXCAPES. ONE OF THEM WAS
FATHER MAXIMILIAN KOLBE, THE POLISH PRIEST WHO
SACRIFICED HIS LIFE TO SAVE ANOTHER PRISONER.
すなわち、
1941年、脱走した囚人たちに対する集団的責任を問われて、
餓死の刑を言い渡された囚人たちが死んだ監房。
その一人が他の囚人の身代りに自分の命を犠牲にした
ポーランド人司祭 マクシミリアノ・コルベ神父だった。
とあった。
現在、ユダヤ人が管理すると聞いたこの収容所跡でも、この事実だけは書き表さないわけにはいかないのだ。
写真が売りの私の巡礼記。なるべく長い記事は避けたい。
そこで、彼の生涯をWikipediaから取って、それを最大限要約すると、およそ次のような短い文章になった。
しかし、このままでは余りにも無味乾燥。
まるで古い固いパンのようだから、少しは美味しく食べられるよう、ちょっとだけ赤字のジャムをつけることにしよう:
マキシミリアノ・マリア・コルベ神父は1894年にポーランドで生まれた。
コンヴェンツアール修道会に入り、神学生としてローマに留学していたとき、仲間とともに「聖母の騎士信心会」を設立した。
司祭に叙階された後、1927年にはワルシャワの近くの町に「ニエポカラノフ修道院(無原罪の聖母の騎士修道院)」を創立し、
「聖母の騎士」という小冊子を発行してメディアによる宣教に力を入れた。
ニポカラノフには我々も後で訪れることになるだろう。
1930年、ゼノ修道士らと来日すると長崎でも日本語版の「聖母の騎士」誌の出版を開始した。
1936年に故国ポーランドへ戻り、以後出版やラジオなどを通じての活発な布教活動を行っていたが、
1941年5月にナチスに捕らえられた。
雑誌や日刊紙がナチに対して批判的なものであったからとも伝えられている。
その後、アウシュビッツの強制収容所に送られた。
彼の貧しい生家は今は資料館。そこを訪れた時、当時の彼の雑誌に出会うことができたのだった。
1941年7月末、脱走者が出たことで、無作為に選ばれる10人が餓死刑に処せられることになった。
名指しを受けた囚人の一人、フランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が「私には妻子がいる。死にたくない!」と叫びだした。
この声を聞いたとき、コルベは「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た。
責任者であったルドルフ・フェルディナント・ヘスはこの申し出を許可し、コルベと9人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められた。
予想外の申し出でにヘスはどんなに驚き、たじろぎ、ためらったことか。
宣告を受けた囚人の身代りになって餓死室に行った者がいるという信じがたい噂は、あっという間にアウシュビッツの全囚人に知れ渡った。
そしてその日、収容所全体に不思議な静寂と感動と希望がみなぎったと言う。
通常、餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通であったが、コルベと9人は互いに励ましあいながら死んでいったといわれている。
2週間後、コルベを含む4人はまだ息があったため、フェノールを注射して殺害された。
1982年10月10日に同国出身の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された。
式典にはコルベに命を助けられたガイオニチェクの姿もあった。彼は戦後世界各地で講演を続け、死ぬまでそれを行っている。
1998年にはロンドンのウエストミンスター寺院(聖公会)の扉に「20世紀の殉教者」の一人としてコルベの像が飾られた。
左端が聖コルベ像
この後は、美味しいジャムの大盛りをおまけに添えたいと思う。
平山司教様は、86歳の高齢で、この半年余りパソコンに挑戦されている。
私もいささかお手伝いしているが、その上達ぶりには目を見張るものがある。
文書作成はもうお手の物。メールの遣り取りはもちろん、私もやらないスカイプにも挑戦しようかという勢いはとどまるところを知らない。
この巡礼についても、独自の記録を書いておられる。その為にわざわざ日本から本まで取り寄せて読破される気合の入れようだ。
私は怠け者だから、後追いでそれらの本を読ませてもらう気力はないが、書かれた原稿の一部はコピーにして頂いた。
本からの抜粋、又はその要約と思われる部分を中心に、それをさらに自由に圧縮したかたちで-もちろんご自身の承諾を得たうえで-以下に引用させていただくのである。
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餓死監房では水一滴も与えられない。
渇きのために悶え苦しみ、獣のように吠え、狂い、絶望的にうめく声が闇の中に聞こえてくるのを
囚人たちはたびたび聞いて知っていた。
「こんなに苦しむ位なら死んだ方がましだ」と何度思ったかしれない囚人たちも、
この餓死の刑と聞いただけで恐怖のあまり身が凍るのでした。
以下は獄吏の証言です。
犠牲者達が11号棟の地下の飢餓室に入った時、隣の牢獄にはすでに20人の囚人が同じ刑によって死を迎えようとしていた。
断末魔のうめき、叫び、泣き声が壁を通して此方まで聞こえてきていました。
今までの例によると、この獄舎に入れられた者は、特に最初の数日間は渇きと絶望に苛まれて、気が狂ったように泣きわめく声と、叫びと、怒号と、うめきに包まれるのが常でした。
ところが、驚いたことに、この度の囚人たちは全く今までと違って、この獄舎からは祈りの声が、讃美歌の声さえ聞こえていたのです。
しかも獄吏達が入って来ても気がつかぬほど一心に祈っていた。こんなことは今まで見たことがない。
また、様子を見に来た看守は、牢獄から聞こえる祈りと歌声によって餓死室がまるで聖堂のように感じられた、と証言しています。
また、信じがたいことですが、この死に向かう囚人たちが賛美歌を歌うと、隣の牢獄からも細い弱々しい声が唱和していたとも証言しています。
一日、二日とたつうちに次第にその声は低くなり一人二人と死んでいったのです。
ポルゴヴィオクという獄吏は毎朝死体を片づけるために部屋にはいりましたが、コルベ神父は跪くか立って祈っていたと証言しています。
コルベ神父の澄んだ目に見つめられると堪らなくなって「俺を見るな、あっちを向け!」と叫んでいたと云います。
日がたち獄舎を沈黙が支配しはじめた8月14日、獄吏達は全部を早く片づけるためにコルベ神父のいる室に入りました。
其の時生き残っていたのは4人でしたがはっきりした意識を持っていたのはコルベ神父唯ひとりでした。
コルベ神父はもう立つことができず壁に寄り掛かって座っていました。
神父の澄んだ眼に見つめられるのに耐えられない獄吏達は「俺を見つめるな」と言いながら腕で顔を隠しながら近づきました。
コルベ神父は獄吏が注射針を持っているのをみて腕を静かに差出しました。
ボルゴヴィオクは耐えられなくて室から逃げるようにして出たと云っています。
8月14日は聖母マリアの被昇天の祭日の前日でした。
「聖母マリアを愛して、聖母にたえず祈り、聖母にすべてをゆだねてきたコルベ神父を、マリア様はその喜びの日に迎えてくださったのでしょう。」
いま迄と違った今度の受刑者に何が起こったのでしょうか?永遠のいのちの希望を彼らは見たのです。主は最後の晩餐の中でご自分の死を前にして仰せになりました。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネの13)と・・・。
コルベ神父はこの言葉をキリストに従って文字通り生きたのです。
彼らはコルベ神父のなかに、たとえ、この世のいのちを奪われても、奪われる事のない尊いもの、永遠のいのちがあることを無言のうちに見てとったのでしょう。
彼らの心には、もう目の前の苦しみを超えていく力、人間の魂を衝き動かす、永遠なる希望が生じたのでしょう。
人間がこの世に生まれてきた目的はこの永遠の命のためだったのではないでしょうか。
アウシュヴィッツは、人間の愚かさ、神を見失ったとき人間がどれほど残酷になるか、惨めな者になるかを思い知らされます。
逆に、この地上の地獄のような収容所でも、人間が神の愛に支えられるとき、どれほど崇高な者となることが出来るかをコルベ神父の死は私達に示してくれた場所でもあります。
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さて、ここからは再び谷口神父です。前回の記事の終りに、私は友人からのメールを引用して、次のように書きました。
谷口神父様
アウシュビッツもそうですが、人間は信じられないほど残虐になれますし、
多分、いまでもどこかで残虐な行為が行われていると思います。
(我々は誰もがそうなりうると自戒していなければなりません。)
ナチの行為(あるいはそれと同じような人が人に対して行う残虐行為)
そのものが許されることでないのは言うまでもありませんが、
それによって引き起こされる被害者側の人間性喪失はもっと悲惨だと思うのです。
ですから、そういう逆境にあって発揮される人間性には多大の感動を覚えざるを得ません。
一瞬にして閃いた。そうだ、この最後の一節を次の記事の「主旋律」として頂こう! と。
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今度の記事は、この一瞬の閃きに導かれて一気に書いたものです。私の写真は敢えて一枚に限定しました。
もう一度その写真を見ながら、しばし余韻を楽しんでください。
真ん中のローソクはカトリックの教会で復活節に用いる「復活のローソク」で、
蘇って今も神の国で生きている主キリストを象徴するものです。
《 つづ く 》
近所(徒歩10分前後)にあるカトリックの教会へ何度か主日礼拝へ参加させていただいておりますが、その教会の(修道)司祭様も「コルベ」だそうです。
司祭様:「日本にも来た事あるよ」
名前は知っていましたが、こういうカタチで帰天なされたのですね。
素敵な記事、ありがとうございます。
コルベ神父様の導きによってマリアさまと深く関わりカトリック信者となりました。コルベ神父様と共に日々 過ごしています。