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友への手紙
インドの旅から
第4信 エレガンス・ヴィエトナミエンヌ
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今回のサイゴンからの報告を読んでいただく前に、第二次世界大戦後のベトナム情勢をいささかおさらいしておく必要がある。
1953年ホー・チ・ミン主席に指導されたベトミン(ベトナム独立運動組織)がディエンビエンフーの戦いでフランスの植民地支配者を打ち破った後、1954年のジュネーブ会議でベトナムは南北に分断された。北は共産主義者のホー・チ・ミンが指導し、南はCIAによって擁立されたカトリック信者のゴ・ディン・ジェムが大統領に就任した。それに伴い、100万人のカトリック信者が難民として南に逃れてきた。
ジュネーブ協定は南北統一総選挙を定めたが、ホー・チ・ミンには勝てないと踏んだ南のジェム大統領が総選挙を拒否し、それに反発して南ベトナムに民族解放戦線が結成され、こうして、南ベトナムは内戦状態になった。
ジェム政権の反政府勢力に対する弾圧は残虐を極め、裁判もなく投獄されたものの数は80万人に及び、1960年までの10年間だけでも9万人が処刑され、19万人が拷問により身体障碍者になった。(私は同志を集めてベトナムの政治囚釈放運動を日本で展開したが、それは機会があったら別途取り扱いたいと思っている。)
わたしがサイゴンを訪れた1964年(東京オリンピックの年)前後のベトナム情勢は混沌としていた。当時のアメリカ大統領はケネディーだったが、アメリカの思い通りにならないジェム政権に対して不満を募らせていた。他方、カトリック以外の宗教に抑圧的なジェム政権に対して、人口の多数派を占める仏教徒が抗議行動を活発化した。そんな時、アメリカ大使館前で仏僧が予告焼身自殺を遂げるまでに事態はエスカレートしていった。
車の下の線と炎の交わるところに僧侶の頭が写っている
横顔、黄色い(衣の)肩と右腕が
そして、ついにアメリカの軍事顧問団と一体となった南ベトナムの反乱軍がクーデターを起こし、ジェム大統領は殺害され、軍事政権が成立した。それ以来、南ベトナム政府内では13回ものクーデターが発生する。そんな混乱の中、我がラオス号はサイゴン港に停泊した。
第4信 エレガンス・ヴィエトナミエンヌ
S君、お元気ですか?
サイゴン川をくねくね遡行して3時間、ぼくは東洋のパリに着いた。
広いブールバール、したたるような並木の緑、シャレた店先に日本の商品が並ぶ。カフェー、花、芝生、公園。建物はデコラティフで彩も美しい。
しかし、この美しい街は同時に血塗られた町だった。
緑の芝生は、市街戦のために幾重にもジグザグに掘り返され、至る所に鉄条網が螺旋状に敷かれ、レンガ色も淡い古く大きなカテドラルには、片方の塔の十字架が無い。
まだゼロメートルのデルタ地帯の低いジャングルの間をのろのろと遡行していた頃から、小さな双眼鏡で捕えて、不審に思っていたので訊ねてみたら、3週間前の市街戦の時、砲弾が撃ち落としたとのことだった。
片方の塔の先端を失ったサイゴンのカテドラル (旅のスケッチから)
その日、運よく儒教のお祭りと聞き知って、タクシーを飛ばして見に行っての帰り、回教のモスクに挨拶し、その足で仏教のお寺へと向かった。
私はそこで、ミス・ヴァンと言う一人の安南美人にめぐり会った。透き通るような長いワンピースのスカートがウエストから前後に切れて、その下に光るような絹のズボンがのぞいている。
一体に、ベトナムの女性は骨格からしてきゃしゃに出来ているのか、この服がとてもよく似合う。彩も美しいその着物のすそが、歩むにつれてそよろと動くのである。
「わたしは、インドで開かれるカトリックのコングレスに出る途中だが・・・」と言うと、「私は仏教徒です」と静かに答えた。
ハイスクールの数学と科学の先生だと言う。流れるようなそのフランス語、英語にも独特のメロディーが感じられる。
彼女は、
「この私たちの寺の住職は、昨年、自分の身体に火を放って死にました」と説明してくれた。
お寺とは言っても、コンクリート造りで、あざやかな色彩の広いステンドグラスは、南国の陽ざしを受けてまぶしいくらい明るく、広い庭には四季を通じての花が咲き乱れて、奈良や京都のお寺とはおよそ趣を異にしている。これが生きている仏教と言うものなのだ。だから、またそれだけに、「バーベキューの一つや二つ・・・」とうそぶいたゴ・ジンヌー夫人の言葉が、凄みを帯びてのしかかって来る。
ニクソン大統領と談笑するゴ・ジンヌー夫人
ヴァン嬢の淡々とした言葉の陰に、私たちカトリックに対する憎しみがひとかけらもこもっていないのを感じ取りながら、うら悲しくさえあった。
彼女の案内で市内見物もした。ゴ・ジンヌー夫人の大理石の立像は、耳と鼻が欠けて醜くなっていたし、彼らの宮殿は、革命軍の爆撃で完全に破壊され、戦車に踏みにじられていて、憐れな廃墟と化していた。
しかし、その廃墟には、今また新しい宮殿が建てられつつある。政治的不安定さのために、建築らしい建築はこの宮殿のそれ以外には一つも見受けられない。建築ブームの香港とはいい対象を見せている。
それにしても、この宮殿は一体だれのためか。新しい軍事独裁者は、この宮殿の完成を見ることが出来るのだろうか。
「私たちの本当の悩みは実質上政府と言うものを持っていないということなんです」と彼女は
説明してくれた。そして、この無政府状態は、悪化の一途をたどっているという。
彼女は夕刻までつき合ってくれた。
夜のサイゴンは危ないところだと聞かされていた。バイオネットを付けたマシンガンの兵隊が、至る所に立っている。警官もピストルの代わりにライフルを持っている。しかし、このいかめしい兵隊も、たいていは快く並んで写真に入ってくれるほどの気やすい連中なのだ。
ところが、兵隊と警官は必ずしも仲良しではないらしい。夜は危ないからといって送ってくれた兵隊を、港に入れまいとした警官に彼は銃を向けた。すると、警官はいまいまし気に両手を挙げて道をあけたのだ。ピリピリした空気がはりつめていた。
港の入り口には M.P. のジープが並び、人だかりがしていた。夜、銃声を聞くのも稀ではないというから、きっと何かあったに違いない。女たちが泣いていた。
ついでながら、サイゴンの夜は、夜の女の多いことでも有名だ。東洋のパリと言う名も、町の美しさからだけのものではないと見える。
次の日、サイゴンから北へ70マイルばかり走ってみた。
最初に渡った大きな鉄橋のたもとには小さな砦があって武装兵らがたむろしている。幹線道路なのだ。
荒れ地の中から次々に難民のが現れる。彼らは、北ベトナムから村長に指揮されて、村単位で移ってきたのだそうだ。去年移ってきた村と、10年前に移ってきた村とではずいぶん開きがあるが、彼らはまず各自の家を助け合って建て、次に教会を建て、学校を建てる。教会は、ファサードだけはコンクリート造りで高くしてあるが、後ろは低いトタン屋根の粗末なものだった。
彼らは、まずジャングルの木を切って薪を作り、それをサイゴン市内へ売りに出て、わずかながらも最初の現金を手に入れる。次に炭を焼く。畑、田んぼ、そして少し落ち着くとバナナ、ゴムなどを植える。ゴムは、お金になるまで10年以上もかかると言う。
古い村も、新しい村も、これらの過程を完全な共産態勢でやる。家を建てることから、耕す、植え、出荷し、利益を分けるまで・・・。
共産圏から逃れてきた彼らが、村を単位の原始共産社会を営んでいる。これはどうしたことだろう。
彼らは自衛もやる。南ベトナム軍は(徴兵がベースだと思ったが)兵隊を集めるのにポスターを貼り、ヘリコプターを飛ばしてビラをまく騒ぎだ。しかし、そうして集まった兵士は、ご飯や服が目当てだから、べトコンと衝突して、仲間の一人が血しぶき上げて斃れでもしようものなら、銃も服もかなぐり捨てて逃げ出してしまう。しかし、同じ彼らが、ひとたび自分の村のためとなると、死ぬまで戦うと言うから大したものだ。
ついでに言うと、政府軍は砦を作り、鉄条網を張り巡らすが、べトコンはタコツボを掘ってもぐり込むだけだから、中で死んでいても長いあいだ気付かれぬままいることがあると言う。
立派なハイウエイを後から追い抜いて言った小さなバスがある。屋根には何やら荷物をどっさり積んでいる。僕の車のドライバーが、「あのバスは無事に北に入れる」と言ったので、どうしてそんなことがあり得るのかと訊ねたら、あの会社はべトコンに金を握らせているからだ、と教えてくれた。
難民の家の中も見せてもらい、バザーも見たが、およそ食えるものなら何でも売っていた。深入りし過ぎないうちにサイゴンへ引き返した。帰り道、通りがかった兵隊の溜まりでは、砦の壁に白ペンキでドクロの落書きがしてあったが、何とも陰惨な印象を受けた。
夕方、昨日のヴァン嬢をお別れに船に招待した。彼女は別の色の安南服に着替えて時間通りにやってきた。
同じ船でフランスに行く日本人の女子学生に和服を着てもらって、ティーセレモニーで接待した。
別れ際に彼女は、オー・ルヴォアールと言って手をさしのべた。服装も、ものごしも、とても優美だった。私は手を差し伸べながら、エレガンス・ヴィエトナミエンヌとはまさにこのことだな、と思った。
ぼくの見たベトナムは、ざっとこんなものでした。
どうぞ、みんなによろしく。
世界最強、最新鋭の装備の陸海空軍を投入しても勝てなかった戦い。
写真は北爆に踏み切ったB-52空の要塞 今でもグアム島では現役
わかりますか?
左端の兵士の伸ばした手の下に胴から切り離された二つのべトコンの首が
ベトナムの汚い戦争はアメリカの敗北に終わった。1973年1月にパリ和平協定が調印され、アメリカ軍の全面撤退が始まった。1975年には北ベトナム軍は全面攻撃を始め、南ベトナム軍は一斉に敗走を始める。4月にはサイゴンが陥落する。大混乱の中、アメリカ人と多数のベトナム人の金持ちはヘリコプターでサイゴンを脱出し沖合の空母に逃れた。しかし在留日本人は拒否されて混乱を極めたサイゴン市内に取り残された。
南ベトナムは北に吸収される形で統一された。アメリカの軍事介入から15年間続いた戦争によって、南北ベトナムは500万人の死者とほぼ同数の負傷者を出し、国土は荒廃した。アメリカも延べ250万人の兵士を投入し、30万人を超える人的損失を出した。
それなのに、1995年にはベトナム社会主義共和国とアメリカは和解し、2000年以降は人的交流も盛んになり、2000年代後半には軍事面でも接近し、「昨日の敵が、今日の友」に変わる勢いを見せている。
一体あの戦争は何だったのか。なぜ、戦争をしないまま「友」になれなかったのか。
しかし、ベトナムのことは言ってられない。
1941年に真珠湾にから始まって足かけ5年、広島・長崎の原爆で終わった第二次世界大戦も、日本の側だけで約310万人の死者を出し、戦時中は「鬼畜米英」と呼んで憎み恐れたアメリカを、今は最友好国・同盟国としているではないか。
東南アジアの民間の犠牲者、アメリカ軍将兵の死者を加えれば、ベトナム戦争以上だったにちがいない。
(教会のスケッチの他の写真はすべてウイキペディア「ベトナム戦争」から借用しました)