:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ ヘンシェルカルテットのコンサート無事終了

2017-12-09 03:36:37 | ★ ヘンシェルカルテット

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ヘンシェルカルテットのコンサート無事終了

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10月23日から私のブログは止まったままだった。私が6週間以上もブログを更新しなかったのは今回が初めてではないだろうか。それほど準備に打ち込んだのだったが、11月14日、トッパンホールでのコンサートは無事終了した。しかし、後始末もそこそこに東京を離れたりで、やっと今その報告を書いている。

本番当日を振り返ると、6時半の開場とともに私はロビーの受付のあたりに待機して、来賓や知人の応対に追われていた。

開演のベルが鳴ってもホールに入りそびれ、一曲目のメンデルスゾーンは聞きそびれてしまった。仕方なく舞台の袖から小窓越しに会場を見ると、まずまずの大入りでホッと胸をなでおろした。

2曲目の後の休憩をはさんで、3曲目の有名なドヴォルザークの弦楽四重奏曲「アメリカ」も、予定外のアンコール「タランテラ」も会場を沸かせた。

トッパンホール本番の演奏風景 

しかし、何と言っても私にとって気になっていたのは、2曲目の「罪の無い人々の苦しみ」だった。 

前日に私は市ヶ谷のセルバンテス(スペイン文化会館)で行われたリハーサルを聴いていたから、その出来栄えに確信を持っていたが、思った通り、本番では聴衆が深い感動に包まれていくのを肌で感じることができた。ヘンシェルカルテットの演奏技術もさることながら、曲の醸し出す霊的な響きというか、作曲者キコの魂の叫びというか、不思議な力が聴衆を魅了したのでなかったろうか。

リハーサル風景。4人それぞれにリラックスした服装で曲の仕上がりを確認していた。

モニカの弟、第1バイオリンのクリスチャンは有名なシュトラデヴァリウスを弾いているが、姉のモニカのヴィオラも名前の付いた超高価な名器だ。リハーサル中に力が入ると時に厳しい表情を見せる彼女だが、楽器を置くとまた普段の優しい表情に戻るのだった。

上野は池之端のお店での打ち上げ リラックスしたモニカと澤学長

ヘンシェルカルテット、澤夫妻、お友達・・・

カルテットのリーダーのモニカとの付き合いも、かれこれ20年近くになるか。当時彼らは4人ともまだ独身だった。高松の神学校の資金集めのために関西と東京でチャリティーコンサートツアーを組んだのも一度ではなかった。直近の9年間、主にローマに住んでいる私は、モニカから招待状が来ると、ドイツの地方都市での演奏会にも出かけたし、ベネディクト16世教皇の霊名の祝い日には、バチカン宮殿での彼らの御前コンサートにも招かれたことはブログにも書いたが、 それは下のリンクを見れば出ている。 

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/e69be491c1e97e6b6b6f2e989e57c243

原曲のシンフォニーは、弦楽器、管楽器、パーカッション、ハープ、それにピアノも加わって90人ほど、十数種類の楽器に80人のコーラスが加わって、ステージいっぱいに、時にはフォルティッシモで展開されるが、それをヘンシェルカルテットはたった3種類の弦楽器、4人で演奏し切る。

その違いを私は、大カンバスに描かれた極彩色の油絵と一枚の小さな墨絵を比べるようなものだと思った。すべての虚飾を削ぎ落して、画想の精髄に直截に迫る高い精神性の描写をそこに感じ取ることが出来ると言ってもいいかもしれない。或いは、なんでも120パーセント表現する歌と踊りで展開するオペラと、極限まで動きを押さえた能の舞台の違いとも言えるだろうか。

ある人は、サントリーホールでのシンフォニーも良かったが、トッパンホールで聴いたカルテットの方がもっと深く心にしみわたるものがあった、と評してくれた。魂に呼びかける霊感のようなものを言うのだろうか。

当初、モニカは私の提案にやや懐疑的だった。世界の演奏家のトップレベルに昇り詰めた彼らが、評価の定着したクラシックの名曲のみに特化した演奏活動の中、東京という大事な舞台で、無名の作曲家のシンフォニーを無名の編曲者が直した曲を、プロの音楽評論家も聴きに来ているなかで初演するというのは、確かに彼らのキャリアーに関わるリスクの高い実験には違いなかった。

しかし、来日1か月前、ようやく仕上がったカルテット版の楽譜を受け取って初めて4人で合わせた後には、彼らの反応は明らかに変化していた。それは、モニカが「東京のトッパンホールでこの曲の世界初演をすることは、自分たちの名誉と喜びだ」というメールを返してきたことからわかった。

また、演奏後ドイツに帰国してからのメールには、「自分たちの演奏活動のキャリアーの中で、今回のトッパンホールでの演奏は、心に残る何か不思議な特別な体験だった」と書かれていた。

キコのシンフォニー「罪の無い人々の苦しみ」にユダヤ人が敏感に反応したことは既にどこかに書いた。前の大戦中に彼らが体験したナチスのホロコーストの苦しみに思いが直結したからだ。6年前の東日本大震災の被災者たちも、何故か思わず感動の涙を流した。音楽を通じて伝わってくるものの中に、首都圏の際限のないエネルギー消費の驕り高ぶりの罪の結果を、なぜ罪の無い福島の人々が被り、償わなければならないのか、という不条理に心を揺さぶられたからかもしれない。

キコの「罪の無い人々の苦しみ」というテーマは、人類の歴史と共に常に存在したこの「なぜ?」という実存的問いに私たちを向き合わせる力を持っている。

この曲のテーマは、全く罪も穢れもない神の子キリストが、天の父なる神のみ旨によって、人類の全ての罪と不法行為を償い、受難と苦しみと死を通して全人類を贖い(あがない)、救い、復活と永遠の命に導くという、救済のドラマを描き出すことだった。

それは、神が人類を「悪を選び罪に落ちる可能性」のもとに創造したことの責任を取り、その落とし前をつけるために、死ぬことの出来ない神が死すべき運命のもとにある人間に身をやつし、死んで自分の命の代償として死を打ち滅ぼして、復活の命を人類に与えるという神の無償の愛のドラマを、この全5楽章に込めたものだった。

受難を前にしてのキリストの懊悩(第1楽章ゲッセマネ)、捕縛、拷問、十字架上の極限の苦しみ(第2楽章嘆き)、イエスの祈り(第3楽章彼らをゆるしたまえ)、その足元に佇み同じ苦しみにの剣に心を刺し貫かれた聖母マリアの悲嘆(第4楽章つるぎ)、そして死の後に続く復活と栄光の喜びの爆発(第5楽章よみがえり)で曲は終わる。

私は預言者ではないが、この曲はモーツァルトの「レクイエム」のように、バッハの「マタイ受難曲」のように、後の時代まで演奏され続けるだろうと確信する。

モニカは、「機会があったらまた一緒にやろうね」と言ったが、あと一週間で78歳になる私に、そんな力がまだ残っているだろうか?とふと思った。 

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