:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 「日ソ円卓会議」 の 「想い出」 その2

2015-02-01 21:04:53 | ★ 日記 ・ 小話

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「日ソ円卓会議」の「想い出」その2

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偽装恋人たちのモスクワ郊外の「逢い引き」は兵士に阻止されて残念にも未遂に終わった。しかし、官制のお祭りにはオマケの接待旅行がつきものだ。

「円卓会議」の公式行事の後には幾つかオプションツアーがあったが、俗っぽい気晴らしには目もくれず、 M. I. 嬢と私は迷わずザゴルスクへの日帰り遠足に連れ立って参加した。

さて、今回ブログを書くに際して、念のためザゴルスクの場所をグーグルマップで確認しようと思った。だが、くまなく探したのに見つからなかった。なんで?そんな馬鹿な?!?!?狐につままれた思いで、ウイキペディアに飛んだ。そして、なーんだ!そういうこと?!と納得した。

セルギエフ・ポサードは、モスクワの東北70kmの地点に位置し、1340年代に創建された聖セルギイ大修道院の周辺にできた門前町(ポサード)を起源として成長してきた。セルギエフの地名であったが、ソ連時代に宗教的な市名を理由にザゴルスクと改称し、ソ連崩壊後、現名称にもどったのだった。レニングラードが元のサンクト・ペテルブルグに戻ったのと同じだ。

古くからのミニアチュールと木製玩具の製作が盛んで、多くの観光客が訪れる。ロシア正教会の中心地のひとつでモスクワ神学大学が設置されている。なお、ソ連政府はセルギエフ・ポサードの郊外に天然痘を化学兵器化するため、国内で最初に工場を建設した。

 

 

ザゴルスク、名をあらためセルギエフ・ポサードの遠景

 

修道院の案内にはカテリーナとタマラという二人の若い通訳が付いた。カテリーナは目立つほどの美人だった。一方、タマラは、知的な感じがした。

外国人に特有の訛りが全くない流暢で気品のある日本語に驚いて、どこで勉強したのかと訊ねたら、ハバロフスク大学の日本語学科で、日本にはまだ一度も行ったことがないと答えた。タマラはカテリーナのことを、親しみをこめてカーチャと呼んでいた。(この二人のことはまた書こう。)

カーチャの説明では、この大修道院には聖人の修道士の遺体が腐敗しないまま多数保存されているという。彼女はそれを特筆すべきこととして強調した。我々はそれを実際に見ることはなかったが、ロシア正教会の信者たちにとっては大切な信心の対象なのだそうだ。カーチャはその遺体のことをちょっとぎこちなくフキュウタイ」(不朽体)という日本語で呼んだ。日本では聞かない言葉だから、ハバロフスク大学の日本語教授があてた訳語だろう。(日本には仏教の修行僧のミイラはあるが「フキュウタイ」はない。)

「不朽体」ならカトリックにもあるぞ、と対抗意識が湧いてきた。ロシア正教会では圧倒的に男子の修道士かもしれないが、カトリックで私が知るのはほとんどが女性だ。

ローマのトラステベレにサンタ・チェチリア(セシリアともいう)の教会がある。私の大好きな教会の一つだ。

2世紀頃の殉教者、聖セシリアの遺体は、ローマ郊外のサンカリストのカタコンベ(地下墓所)に葬られていたが、紀元821年、彼女の柩は彼女の生家の上に建てられたこの教会に移された。その後すっかり忘れられていたが、1599年の教会の改修工事の際に発見され、棺を開けてみると、驚くべきことに、中の遺体は腐敗も損傷もなく、当時のまま白い衣装に包まれて、1400年以上もの間、眠るように横たわっていたそうだ。

そこで、著名な彫刻家にその姿を忠実に再現させたものが、このサンタ・チェチリアの大理石像というわけだ。

 

 

もっと新しいのもある。1800年代の半ば、南仏、ピレネー山脈の麓の寒村に、貧しく無学で病弱なベルナデッタという少女がいた。その少女に聖母マリアが出現し、私は「無原罪」のまま生まれたものだ、と告げた。聖母に促されて彼女が手で土を掘った川岸からは泉が湧き出し、今も豊かに流れていて、その水で数々の奇跡的治癒があることで有名になった。

カトリック教会の教義、「ドグマ」は5世紀ごろにはほぼ固まっていたが、例外的に、19世紀半ばに教皇ピオ9世が「聖母マリアはアダムとエヴァの犯した《原罪》の穢れから免れてこの世に生まれた」という教義を新たに定めた。

出現した見知らぬご婦人にお名前を聞いたら、「私は無原罪の御宿りだ」と答えられた、という小学校もろくに出ていない田舎娘の報告に、教会は仰天した。少女は婦人のことばをオウム返しに伝えたが、本人はその言葉の意味すら理解していなかった。まして、教会が新たにそのような教義を制定したなど、知る由もなかったのに。無学な少女へのマリア様の出現と、泉の水の治癒の奇跡の数々は、新しい「教義」制定に対する天からの批准だったと理解されている。

そのベルナデッタは、成長して修道院に入り、闘病生活の末1875年4月16日に35歳の若さで息を引き取り、棺は44日後に地下に葬られた。

30年後の1909年に宣誓した医師たちの手で第一回目の遺体鑑定が行われた。棺を開けると如何なる匂いもしなかった。顔は白くつやはなかった。目はくぼみ、鼻は痩せていたが、皮膚も筋肉もしっかりしていた。腹部は落ち込んでいたが皮膚には張りがあり、打診すると厚紙をたたく時のような音がした。遺体は数時間外気にさらされただけで黒っぽく変色したが、亜鉛で内貼りした新しい棺に入れて葬られた。検視の後、それぞれ別室で書かれ署名された医師たちの報告書は、これらの点で完全に一致していた。

10年後、列聖調査のために1919年に再び鑑定が行われた。一回目の時に遺体を洗ったためか、ところどころにカビのコロニーが現れていた。さらに6年後、1925年に3回目の鑑定が行われ、一部切開された。筋肉は良好な状態で弾力性を保ち、一番腐敗しやすい肝臓はやわらかでほとんど普通の状態だった。検視後、全体を包帯で巻き、着衣後も露出する顔と手には薄い蝋で化粧が施され、ガラスの棺に納められ、ヌベールの修道院のチャペルに安置された。私は、何度も訪れてその端正で美しい姿を見ている。

 

 

 

宇宙の秩序の支配者である神様は、もう一方では人間以上に繊細な感情の持ち主で、ご自分が特別に愛し、使命を託した貧しい少女の遺体が、土中で蛆虫に残酷に食い荒らされ、醜く滅んでいくことに耐えられなかったのだろうと私は思う。後世の人間の手で乱暴にいじり回され、切り刻まれたのを引き金に、彼女の遺体も自然の法則に従ってやがては緩やかに劣化して、最後には塵に戻るとしても、私はこれを明らかに神様が介入した一種の奇跡的現象と思って、厳かな気持ちで受け止めている。

アシジにも聖フランシスコの愛した聖女クララの遺体が地下聖堂に同じような状態であるのを今も見ることができるが、他方では、長く所在不明だった聖フランシスコの遺体は、棺が発見されて検証された時には、すでにただの一揃いの骸骨になっていた。そして、二度目に開いたときには、骨は乾燥して粉々になりかけていた。罪深いプレイボーイと清らかな乙女の生き方の差が、死後の肉体の保存状態に反映されたように私は理解して納得している。

「日ソ円卓会議」が思いわぬ「不朽体論」に脱線したが、次はまたもとのレールに戻ろうと思う。

(つづく)

コメント
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