曜光山 見明星悟道院 月山寺(ようこうざん けんみょうじょうごどういん がっさんじ)。
場所:茨城県桜川市西小塙1677。国道50号線と茨城県道257号線(西小塙真岡線)の「羽黒」交差点から県道を北へ約650mで右折(北東へ)、約80m進むと正面が「月山寺」山門で、駐車場は右手(南東)にある。
寺伝によれば、延暦15年(796年)、法相宗の僧・徳一が中郡庄橋本(現・桜川市上城)に「月山寺」を創立し、その後、第13世まで法相宗寺院として存続した。その間、大治2年(1127年)に、橋本城主・豊前守谷中孫八郎将国が菩提寺とした。第13世・光栄が、天台宗「新御堂山 宗光寺」(長沼談議所)(現・栃木県真岡市)で修行後、応永28年(1421年)頃に現・桜川市磯部に移り、談議所(仏教の学問所、僧の養成所)を開設した。これは「月山寺談議所」あるいは「磯部神宮寺談議所」と呼ばれ、実質的に「磯部磯村明神」(「磯部稲村神社」(2019年12月14日記事))の神宮寺であったらしい。一方、「月山寺」の古跡・橋本村には「龍替山 番蔵院 今光寺」という大寺があり、中郡の地頭で吉所城主の庇護を受けていたが、永享2年(1430年)に取潰しとなったため、光栄が天台宗に改宗して「曜光寺」、後に「曜光山 見明星悟道院」と改称した。「曜光寺」は9代続くが、慶長7年(1602年)、中興とされる恵賢が徳川家康から磯部に朱印地10石を拝領して、翌年、磯部に移った。元和元年(1615年)、恵賢は50石を加増されて、西小塙に移るが、このとき「月山寺談議所」と「曜光寺」を合寺して「曜光山 見明星悟道院 月山寺」と改め、関東檀林寺となった(檀林は談議所と同義だが、江戸時代には「檀林寺院」として幕府から指定された。)。なお、関東の天台宗の檀林は江戸中期頃までに整備され、有力寺院として関東八ヶ檀林の1つとされた(現・茨城県内では、江戸崎「不動尊院」(2022年6月18日記事)、小野「逢善寺」(2022年5月28日記事)、水戸「薬王院」(2019年12月21日記事)がある。)。なお、恵賢は慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」に祈祷僧として天海(慈眼大師)と共に出陣し、慶長19年(1614年)の「大阪冬の陣」には天海と共に和睦の使者に立ったとされ、当寺院の隆盛は、天海と恵賢の関係によるところが大きかったと考えられる。寛永3年(1626年)に焼失したが、笠間藩主・浅野氏の寄進により再建された(因みに、笠間藩8万石に対し、当寺院の格式は10万石とされて、笠間藩より上だったという。)。江戸時代末には、末寺4ヵ寺・門徒29ヵ寺を有する大寺であった。明治時代に入ると、徳川幕府と関係が深かった関東の天台宗の大寺院ほど、朱印地没収や各種の特権剥奪などにより大きな影響を受けたが、当寺院は檀林寺院でありながら檀家が約500軒あったことも幸いし、寺院の近代化を進めて再興できたという。現在は天台宗の寺院で、本尊は薬師瑠璃光如来(鎌倉時代の作で、茨城県指定文化財)。「東国花の寺百ヶ寺」の第55番。境内に「月山寺美術館」があり、国指定文化財の網代笈(室町時代)、茨城県指定文化財の木造五大力菩薩像(平安時代の作で、平将門調伏のために製作されたとの伝承がある。末寺「吉祥院」蔵の寄託)など、多数の美術品・工芸品等を展示している。
蛇足1:伝説(民話)では、次のような話がある。文明17年(1485年)、天台宗に改宗後の第3世・光順のとき、1人の修行僧が来て、夜遅くまで対談していたが寝入ってしまい、光順が錫杖で起こしたところ、「自分はタヌキだが、変身の術を体得した。住職の法話を聴いて得るところがあったのに、寝入ってしまったのは不覚だった。今後、寺を守護するが、錫杖は嫌いなので禁止してほしい。」と言って、消えた。その後、境内で錫杖を振る者があると、火事や盗難などが起こるので、「禁於境内錫杖振事」という制札を立てたという。
蛇足2:院号の「見明星悟道」であるが、これは、臘月(旧暦12月)月8日、釈迦(ゴータマ・シッダルタ)が、東天に輝く暁の明星を一見した瞬間に悟りを開いたという故事に因むもので、この日を釈尊成道の日として、特に禅宗寺院で「成道会(じょうどうえ)」という法要が行われる。
天台宗 月山寺のHP
写真1:「月山寺」寺号標。左側に「天台宗 月山寺」。
写真2:同上、右側に「曜光山 見明星悟道院」。こちらは隣家の壁が迫っていて、見えにくい。
写真3:山門
写真4:山門を入って、左側に庭園がある。
写真5:本堂
写真6:同上
写真7:客殿
写真8:月山寺美術館
写真9:日枝山王社
写真10:布袋堂
写真11:同上、布袋像
写真12:鐘楼。梵鐘は徳川家康から拝領。
写真13:千手堂
場所:茨城県桜川市西小塙1677。国道50号線と茨城県道257号線(西小塙真岡線)の「羽黒」交差点から県道を北へ約650mで右折(北東へ)、約80m進むと正面が「月山寺」山門で、駐車場は右手(南東)にある。
寺伝によれば、延暦15年(796年)、法相宗の僧・徳一が中郡庄橋本(現・桜川市上城)に「月山寺」を創立し、その後、第13世まで法相宗寺院として存続した。その間、大治2年(1127年)に、橋本城主・豊前守谷中孫八郎将国が菩提寺とした。第13世・光栄が、天台宗「新御堂山 宗光寺」(長沼談議所)(現・栃木県真岡市)で修行後、応永28年(1421年)頃に現・桜川市磯部に移り、談議所(仏教の学問所、僧の養成所)を開設した。これは「月山寺談議所」あるいは「磯部神宮寺談議所」と呼ばれ、実質的に「磯部磯村明神」(「磯部稲村神社」(2019年12月14日記事))の神宮寺であったらしい。一方、「月山寺」の古跡・橋本村には「龍替山 番蔵院 今光寺」という大寺があり、中郡の地頭で吉所城主の庇護を受けていたが、永享2年(1430年)に取潰しとなったため、光栄が天台宗に改宗して「曜光寺」、後に「曜光山 見明星悟道院」と改称した。「曜光寺」は9代続くが、慶長7年(1602年)、中興とされる恵賢が徳川家康から磯部に朱印地10石を拝領して、翌年、磯部に移った。元和元年(1615年)、恵賢は50石を加増されて、西小塙に移るが、このとき「月山寺談議所」と「曜光寺」を合寺して「曜光山 見明星悟道院 月山寺」と改め、関東檀林寺となった(檀林は談議所と同義だが、江戸時代には「檀林寺院」として幕府から指定された。)。なお、関東の天台宗の檀林は江戸中期頃までに整備され、有力寺院として関東八ヶ檀林の1つとされた(現・茨城県内では、江戸崎「不動尊院」(2022年6月18日記事)、小野「逢善寺」(2022年5月28日記事)、水戸「薬王院」(2019年12月21日記事)がある。)。なお、恵賢は慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」に祈祷僧として天海(慈眼大師)と共に出陣し、慶長19年(1614年)の「大阪冬の陣」には天海と共に和睦の使者に立ったとされ、当寺院の隆盛は、天海と恵賢の関係によるところが大きかったと考えられる。寛永3年(1626年)に焼失したが、笠間藩主・浅野氏の寄進により再建された(因みに、笠間藩8万石に対し、当寺院の格式は10万石とされて、笠間藩より上だったという。)。江戸時代末には、末寺4ヵ寺・門徒29ヵ寺を有する大寺であった。明治時代に入ると、徳川幕府と関係が深かった関東の天台宗の大寺院ほど、朱印地没収や各種の特権剥奪などにより大きな影響を受けたが、当寺院は檀林寺院でありながら檀家が約500軒あったことも幸いし、寺院の近代化を進めて再興できたという。現在は天台宗の寺院で、本尊は薬師瑠璃光如来(鎌倉時代の作で、茨城県指定文化財)。「東国花の寺百ヶ寺」の第55番。境内に「月山寺美術館」があり、国指定文化財の網代笈(室町時代)、茨城県指定文化財の木造五大力菩薩像(平安時代の作で、平将門調伏のために製作されたとの伝承がある。末寺「吉祥院」蔵の寄託)など、多数の美術品・工芸品等を展示している。
蛇足1:伝説(民話)では、次のような話がある。文明17年(1485年)、天台宗に改宗後の第3世・光順のとき、1人の修行僧が来て、夜遅くまで対談していたが寝入ってしまい、光順が錫杖で起こしたところ、「自分はタヌキだが、変身の術を体得した。住職の法話を聴いて得るところがあったのに、寝入ってしまったのは不覚だった。今後、寺を守護するが、錫杖は嫌いなので禁止してほしい。」と言って、消えた。その後、境内で錫杖を振る者があると、火事や盗難などが起こるので、「禁於境内錫杖振事」という制札を立てたという。
蛇足2:院号の「見明星悟道」であるが、これは、臘月(旧暦12月)月8日、釈迦(ゴータマ・シッダルタ)が、東天に輝く暁の明星を一見した瞬間に悟りを開いたという故事に因むもので、この日を釈尊成道の日として、特に禅宗寺院で「成道会(じょうどうえ)」という法要が行われる。
天台宗 月山寺のHP
写真1:「月山寺」寺号標。左側に「天台宗 月山寺」。
写真2:同上、右側に「曜光山 見明星悟道院」。こちらは隣家の壁が迫っていて、見えにくい。
写真3:山門
写真4:山門を入って、左側に庭園がある。
写真5:本堂
写真6:同上
写真7:客殿
写真8:月山寺美術館
写真9:日枝山王社
写真10:布袋堂
写真11:同上、布袋像
写真12:鐘楼。梵鐘は徳川家康から拝領。
写真13:千手堂
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます