神が宿るところ

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五大力堂(茨城県桜川市)

2024-06-22 23:31:10 | 寺院
五大力堂(ごだいりきどう)。
場所:茨城県桜川市池亀。茨城県道289号線(富谷稲田線)沿い「桜川警察署 小塩駐在所」付近から北東~北へ約850mで突き当り、右折(東へ)して狭い道路に入る。道なりに約300m進んで左折(北へ。「鹿島神社」の手前(西側))、約290mで左折(北西へ)して林道池亀線に入り約550m。駐車場あり。
当寺院(仏堂)の由緒について、現地の説明板には「五大力堂は平安時代、平将門の乱の際、俵藤太藤原秀郷が霊像5体を安置して将門討伐を祈ったが、討伐後は将門の善心を知りその霊を慰めたといわれています...」という簡単な説明しかないが、伝承では凡そ次の通りである。天慶3年(940年)に将門が討たれた後、将門方の武将・藤原玄明ら残党が当地・池亀の「一の谷」に立て籠もった。そこは自然の要塞のようなところで、秀郷も攻めあぐね、天台宗「月山寺」(前項)の末寺「五大力山 弥勒寺」(本尊:地蔵菩薩)の日乗上人に調伏を頼んだ。日乗上人は、山中から檜(ヒノキ)の大木を切り出し、自ら金剛吼菩薩、龍王吼菩薩、無畏十力吼菩薩、雷電吼菩薩、 無量力吼菩薩の五尊像を彫り上げ、三日三晩にわたり五大力修法を行った。すると、2日目から雨が降り出し、満願の夜には大雨が降って、一の谷に水が溢れて山津波が起こり、玄明軍を一気に押し流してしまった。一兵も損なわずに勝利できた秀郷が、改めて堂宇を造営して、名を「吉祥院」としたという。
当寺院の五大力菩薩像は、いずれもヒノキの寄木造りで、像高は中尊座像が135.5cm、4つの立像が154.1cm~167.1cm。 像の特徴から平安時代後期の作と推定されており、4つの立像のうち 右内側の像から治承2年(1178年)と書かれた墨書が見つかっているという。五大力菩薩像は鎮護国家思想と結びつきが深く、また怨敵調伏を願って造像するとされるが、その作例は少なく、特に平安時代の作品で5体揃っているのは、ここが全国で唯一で、茨城県指定文化財となっている。怨敵調伏を願って造られるというところから、将門討伐のためのものという伝承となったものと思われるが、治承2年(1178年)が作像時期なら、将門の乱からはかなり時代が下る。造り直されたものなのか、あるいは別の目的があったのか、謎が残るところである。なお、訪問時、五大力菩薩像は、本寺である「月山寺」の美術館で展示されていて、「五大力堂」は空っぽで残念だった(とはいえ、周りに何もないところで、無防備に文化財を置いておくのも問題あるだろうと思った。)。
蛇足1:藤原玄明という人物は、軍記物語「将門記」以外には史料に登場せず、詳細不明。「将門記」では、「民にとっては害悪」、「盗賊と同じ」などと悪評が連ねられており、常陸国の実質的なトップである常陸介・藤原維幾から逮捕の命令が出ているのに、行方・河内両郡の不動倉を略奪して、平将門の下に逃げた。将門が玄明を庇護したことで、元々は常陸平氏の一族間の争いだったのが、常陸国司との対立となり、国家への反逆(「平将門の乱」)まで至ったということになる。
蛇足2:「将門記」によれば、将門が関東を征圧して新皇を称したということが朝廷に伝えられ、京都の諸山(寺院)では邪悪を滅ぼす修法を行ったとされる。この中に「五大力尊」にも祈祷したことがみえる。ただし、これが五大力菩薩なのか、五大明王(不動明王、大威徳明王、降三世明王、軍荼利明王、金剛夜叉明王)なのかは明確でないという。


桜川市教育委員会のHPから(木造五大力菩薩像)


写真1:「五大力堂」


写真2:同上


写真3:堂に掛けられた絵馬など


写真4:「五大力 開祖壹千年記念碑」


写真5:五輪塔など
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