神が宿るところ

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権現塚古墳(茨城県神栖市)

2022-08-20 23:34:38 | 古墳
権現塚古墳(ごんげんづかこふん)。
場所:茨城県神栖市日川4241-1。茨城県道260号線(谷原息栖東庄線)「日川一番」交差点から北西へ約300m。駐車場なし。
「権現塚古墳」は、全長約20m、標高約5.6mの前方後円墳(現地説明板による。)で、前方部は西向き。前方部より後円部が高いことから、古墳時代前期に築造されたものと考えられている。神栖市では殆どの古墳が湮滅してしまい、市内唯一の前方後円墳であるという。発掘調査等も行われていないようで、これ以上のことはわからない(茨城県内だけでも、もっと大きいとか、古いとかの古墳は幾らでもあるから、やむを得ないだろう。)。重要なことは、この古墳が自然地形を利用して築造されたものらしいこと、そして、その位置が現・常陸利根川に面していること。つまり、古代の巨大な内海「香取海」と太平洋とが繋がっていた場所だということである。また、この古墳の直ぐ近くに「息栖神社旧地」がある。「息栖神社」(2017年12月2日記事)は、常陸国一宮「鹿島神宮」と下総国一宮「香取神宮」と合わせて「東国三社」と称され、「日本三代実録」仁和元年(885年)の記事に見える「於岐都説神」、即ち式外社(国史見在社)とするのが通説。応神天皇の時代に当地(神栖市日川)で創建したが、大同2年(807年)に現在地(神栖市息栖)に遷座したとされる。遷座の理由だが、大津波の被害に遭ったから、という伝承がある。大同2年という年号は、古社寺の創建年代等としてよく出てくるものなので、どの程度信じてよいか分からないが、これを信じるとすれば、「日本後紀」延暦18年(799年)条に「鹿島・那珂・久慈・多珂の4郡に、これまで見たこともないような津波が押し寄せた」(現代語訳)という記事があり、このときの津波によるものかもしれない。いずれにせよ、当地周辺の集落に住む人々がこの古墳を造り、「息栖神社」や「鹿島神宮」の神を奉じたということなのだろうと思われる。


写真1:「権現塚古墳」。東側から見る。後円部の正面と思われる。


写真2:同上、北側から見る。後円部。


写真3:同上、北西側から見る。左手の赤い自動車が突っ込んでいるところが括れ部分、右手が前方部。


写真4:同上、南東部から見る。前方部の端だが、かなり低くなっている。


写真5:同上、前方部(西向き)。


写真6:同上、後円部を見る。後円部墳頂に祠がある。


写真7:同上、祠に上る石段(後円部の南側)。


写真8:墳頂の祠(南向き)。「権現様」と呼ばれているようだが、正式名称・祭神不明。


写真9:同上、南側に鳥居がある。古墳の南側は田圃になっていて、参道は畦道。鳥居の先、約200mに常陸利根川が流れている。神社が南向きというのは極めて一般的だが、この場合は、川(かつては海?)側に向けて水上交通の守り神としたという感じがある。なお、鳥居に扁額があるが、神社名はない。


写真10:「息栖神社跡地」(場所:茨城県神栖市日川4232−1。「権現塚古墳」から北西に約60m進んで右折(北東へ)、約130m進ん右折(南東へ)、直ぐ。「石塚運動公園」の西の角。駐車場なし。)。説明板があるだけ。隣接して立派な石碑があるが、これは「石塚開発の碑」で、「息栖神社」とは無関係。

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