神が宿るところ

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観音寺廃寺跡(秋田県横手市)

2016-02-10 23:53:43 | 史跡・文化財
観音寺廃寺跡(かんのんじはいじあと)。
場所:秋田県横手市大森町上溝字観音寺130ほか。秋田県道29号線(横手大森大内線)「峠町頭」交差点(大森小学校付近)から西へ、約3.2km。「観音寺」という案内板が出ているところを左折(西へ)すぐ。「観音寺児童館」敷地内に説明板がある。駐車場なし。
「観音寺廃寺跡」は、雄物川支流の上溝川の谷底低地で発見された廃寺跡。当地では現在、上溝川左岸(北岸)の微高地に秋田県道29号線が通っており、それに沿って集落が形成され、上溝川は右岸(南岸)端に寄せられているが、かつては蛇行していたらしい。右岸の「古寺山」(標高120m)山中に経塚があって、文化6年(1809年)に、久安5年(1149年)銘の青銅製経筒が掘り出された。江戸時代の紀行家・菅江真澄が文政7年(1824年)に当地を訪れ、その経筒を実見している。そして、「日本三代実録」貞観6年(864年)の記事に見える定額寺「出羽国 観音寺」が当地に建立されていたと考えた(「雪の出羽路」)。こうした背景から、平成11年に圃場整備事業に伴って発掘調査が行われたものである。
発掘調査の結果、大別して2つの遺構群が確認され、1つは平安時代末期~鎌倉時代の掘立柱建物・井戸跡などであり、もう1つは中世後期~近世初頭の掘立柱建物などとされた。後者は、菅江真澄が訪れた際、既に田圃になっていたが、「屋敷田」という地名から定額寺「観音寺」の跡と考えた場所であったという。さて、前者の遺構群であるが、板塀跡1列、掘立柱建物跡17棟、井戸跡32基、土坑27基などであり、掘立柱建物の柱穴から「御佛殿前申」と書かれた木簡が出土した。また、土坑の1つは便所跡であると推定され、土壌サンプルの分析により、使用者は菜食中心の食生活をしていたことが判明した。年代としては、出土した柱材や土器・磁器などから、12~13世紀頃と推定されている。この結果は上記の経筒の久安5年という年号とも適合する。ところが、八戸工業大学高島成侑教授によれば、掘立柱建物の様式が、この時期の「仏堂」とは考えられないとされた。井戸跡の異常な多さも合わせて考えると、仏教的な施設ではあるが、何か水辺の祭祀を行っていたものと推定されるという結論になっており、期待された定額寺「出羽国 観音寺」跡との確証は得られなかった。しかし、地方寺院として破格ともいうべき格式の施設であり、当遺跡の北西約1kmの距離に式内社「保呂羽山波宇志別神社」(2015年5月30日記事及び2015年6月6日記事)の仁王門(神門)があるなど、同神社と何らかの関連があったのではないか、であれば、定額寺に匹敵する「観音寺」という寺院だったのではないか、とされている。


全国遺跡報告総覧のHPから(観音寺廃寺跡)

秋田県遺跡地図情報のHPから(観音寺廃寺跡)


写真1:「観音寺児童館」の敷地内に建てられた「菅江真澄の道」の標柱。「観音寺跡」についての文章が引用されている。


写真2:同、「観音寺廃寺跡」の説明板


写真3:同上、奥に見える山が「古寺山」で、その手前の田圃になっているところが「観音寺廃寺跡」
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