大須賀山塚(おおすがやまつか)。あるいは、伝・馬加康胤の首塚(でん・まくわりやすたねのくびつか)。
場所:千葉県千葉市花見川区幕張町1(堂ノ山)。国道14号線下り車線から「幕張西2丁目緑地」の向かい側付近にある分岐から県道57号線(千葉鎌ヶ谷松戸線)に入って約600m。「大須賀山の自然と文化財」という説明板があるところから徒歩で登る。駐車場なし。
国道14号線は、浜田川の西側辺りで僅かに南にカーヴするが、旧道と思われる直線的な道路が残っている。花見川の右岸(西岸)に小高い場所があり、これが大須賀山または堂ノ山と呼ばれる丘(標高約15m)である。堂ノ山というのは、かつてここに大日堂があったからだが、老朽化のため撤去され、本尊の大日如来座像(鎌倉時代のもの。千葉市文化財)は近くの真言宗豊山派「補陀落山 宝幢寺」に移されている。その大須賀山(堂ノ山)の山頂に室町時代頃とされる方形の塚があって、伝承によれば、室町時代前期の武将・馬加康胤(安永5年(1398年)?~康正2年(1456年))の首塚であるとされる。馬加康胤は、千葉氏宗家に生まれたが、庶子であったために養子に出され、後に千葉に戻って現在の幕張付近に館を構え、地名を取って馬加(まくわり)氏を名乗ったという(「幕張」は「馬加」が変化したもの)。康正2年(1456年)には千葉氏嫡流家を攻め滅ぼしたが、時の将軍・足利義政から康胤追討の御教書が発せられ、上総国八幡(現・千葉県市原市八幡)に追い詰められ、村田川畔で討死した。康胤の首は、村田川の岸辺で獄門に懸けられた後、京都に送られて京都・東寺四塚で晒されたとされるが、伝承では、密かに家臣らにより盗み出され、大須賀山に埋められたということになっている。因みに、「子守神社」(旧称「素加天王社」。住所:千葉市花見川区幕張町2-990)の伝承によれば、寛正4年(1463年)、郷内に火の玉が飛ぶという奇怪な現象が起きたため、念仏堂を建立した。また、応仁2年(1468年)に大須賀山で馬加康胤とその家臣らの霊祭供養を行ったという。
さて、古代東海道との関係で言えば、幕張付近も「浮島」駅の擬定地の1つ。根拠としては、①「馬加」という地名は、駅家で馬の乗り換えをしたことに由来しているのではないか、②東京湾の埋め立て前は、大須賀山は海に面しており(現在もタブノキなどの植生がみられる。)、浮島のように見えたのではないか、③現在の花見川は印旛沼の放水路として整備された人工河川であるが、花見川や浜田川の旧流は印旛沼(当時は「香取海」の一部)と繋がっていて、交通の要衝だったのではないか、などが挙げられている。また、「大須賀山塚」を通り過ぎて先へ進むと、地図上では「道祖神社」とされている小祠(複数)がある。実は祭神等も不明のようだが、「道祖神」を祀っているなら、道路の守護神として建立された可能性もあるとして注目される。
写真1:「大須賀山塚」。高さ3~4m。頂上に石造の大きな五輪塔があるが、これは江戸初期のもので、馬加康胤とは無関係らしい。
写真2:「道祖神社」とされる小祠
写真3:同上
場所:千葉県千葉市花見川区幕張町1(堂ノ山)。国道14号線下り車線から「幕張西2丁目緑地」の向かい側付近にある分岐から県道57号線(千葉鎌ヶ谷松戸線)に入って約600m。「大須賀山の自然と文化財」という説明板があるところから徒歩で登る。駐車場なし。
国道14号線は、浜田川の西側辺りで僅かに南にカーヴするが、旧道と思われる直線的な道路が残っている。花見川の右岸(西岸)に小高い場所があり、これが大須賀山または堂ノ山と呼ばれる丘(標高約15m)である。堂ノ山というのは、かつてここに大日堂があったからだが、老朽化のため撤去され、本尊の大日如来座像(鎌倉時代のもの。千葉市文化財)は近くの真言宗豊山派「補陀落山 宝幢寺」に移されている。その大須賀山(堂ノ山)の山頂に室町時代頃とされる方形の塚があって、伝承によれば、室町時代前期の武将・馬加康胤(安永5年(1398年)?~康正2年(1456年))の首塚であるとされる。馬加康胤は、千葉氏宗家に生まれたが、庶子であったために養子に出され、後に千葉に戻って現在の幕張付近に館を構え、地名を取って馬加(まくわり)氏を名乗ったという(「幕張」は「馬加」が変化したもの)。康正2年(1456年)には千葉氏嫡流家を攻め滅ぼしたが、時の将軍・足利義政から康胤追討の御教書が発せられ、上総国八幡(現・千葉県市原市八幡)に追い詰められ、村田川畔で討死した。康胤の首は、村田川の岸辺で獄門に懸けられた後、京都に送られて京都・東寺四塚で晒されたとされるが、伝承では、密かに家臣らにより盗み出され、大須賀山に埋められたということになっている。因みに、「子守神社」(旧称「素加天王社」。住所:千葉市花見川区幕張町2-990)の伝承によれば、寛正4年(1463年)、郷内に火の玉が飛ぶという奇怪な現象が起きたため、念仏堂を建立した。また、応仁2年(1468年)に大須賀山で馬加康胤とその家臣らの霊祭供養を行ったという。
さて、古代東海道との関係で言えば、幕張付近も「浮島」駅の擬定地の1つ。根拠としては、①「馬加」という地名は、駅家で馬の乗り換えをしたことに由来しているのではないか、②東京湾の埋め立て前は、大須賀山は海に面しており(現在もタブノキなどの植生がみられる。)、浮島のように見えたのではないか、③現在の花見川は印旛沼の放水路として整備された人工河川であるが、花見川や浜田川の旧流は印旛沼(当時は「香取海」の一部)と繋がっていて、交通の要衝だったのではないか、などが挙げられている。また、「大須賀山塚」を通り過ぎて先へ進むと、地図上では「道祖神社」とされている小祠(複数)がある。実は祭神等も不明のようだが、「道祖神」を祀っているなら、道路の守護神として建立された可能性もあるとして注目される。
写真1:「大須賀山塚」。高さ3~4m。頂上に石造の大きな五輪塔があるが、これは江戸初期のもので、馬加康胤とは無関係らしい。
写真2:「道祖神社」とされる小祠
写真3:同上
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