kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

自分の中で

2018-10-13 | 陸上競技
思うことを。

今の自分の中で消化できない感情がかなりたくさんある。それを言葉で表現しようと思ってもそれもできない。葛藤というか。品行方正で生きていければいいと思うがそれは難しい。大なり小なり他者を傷つけながら不快な思いをさせながら生きている。blogを書くという中で自分の感情をどのように表記するか。それも非常に難しいなと思う。

競技指導をする。それにより自分自身は何か得るものがあるのか。見返りを求めるものでもない。そうであればそこに関しては「自由意思」であってもいいのではないか。指導をするのも指導をしないのも自分自身の意思でいいのではないか。すべての人に満足してもらえる活動はできない。どうするべきか。常に消化不良を起こす。

競技の指導に関して。どれだけの人が必要としているのか。どのような形で指導するのがベストなのか。その部分も含めて考えていきたいなと思う。自分のところの選手をどうするかを最優先に考えている。そこは昔も今も変わらない。「ハードルについて」問われることがある。その時にはある程度のことを返すようにしている。しかし、それが本当に必要なことなのかどうか。

スプリントに関してもハードルに関してもそれぞれの指導者の特徴がある。それに対して私はどうするべきか。何を伝えるべきか。ここは難しい。選手に対してどのようなアプローチをするか。いや、もともとその部分が必要なのか。立場と責任。それを考えさせられる。今回国体でハードルに関わらせてもらった。前から書いているが別に私が関わったから成績が良かったということはない。多少なりと貢献したのかもしれないが。

実際、スプリント系ではインターハイと国体に何度か出場させてもらっている。女子の100mではインターハイは述べ4回、200mで3回、400mで1回。リレーで2回。国体は述べ7人。それはどうなのか。110mHではインターハイ国体それぞれ1回ずつ。特別な結果ではない。自分の中では以前は「それなり」だと思っていた。しかし、現実問題を考えると大きな結果だと胸を張るレベルには達していないとは思う。そんな人間がこうやって偉そうにblogを書いているということの意味は?本当にあるのか。自分自身でもわからない。それが消化不良の原因となるのかもしれない。

このblogの存在する意味は?書き続ける必要があるのか?大きな疑問ではある。これは完全に「自己満足」の域を超えない。それでも書くのか?何かを生み出す可能性があるのか?以前から「日記」として書くのであれば自分で手帳に書けばいいのでは?という意見もある。確かに。大したことのない人間が書き続けることで何があるのか。ここ不明。自分でもわからない。

まとまりはない。この記事自体に意味があるのかもわからない。それでも感情を外に出したいと思って書いた。ため込むといいことはない。分かってはいるが器用なほうではないので結構ため込む。他にも色々なことがあって感情のコントロールが難しい。

記しておく。
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やること

2018-10-13 | 陸上競技
若干?blogを更新する気になっていません。ここ最近はずっとこんな感じです。頭の中に何かモヤがかかっている感じですっきりしません。この微妙な感覚。上手く表現できませんが・・・。どうなんでしょうか。

国体の時の話。あるコーチが選手に質問。中学時代に大活躍して県外の高校に進学した選手に「どのような練習をしていたのか」を聞いていました。本人は県のテントの前であれこれ説明してくれました。好きなんだと思います。その時の内容、「特別な練習はしていない」とのこと。「本当はやっているのではないか?」と聞かれていましたが終始徹底して「やっていない」との返答。雑誌などに書いてあることを以上のことはないと。

しかし、その内容というか取り組みの部分です。練習をするときに「どこを鍛えているのかを明確にして取り組むとのこと。「同じようなこと」をやっていたとしても「意図する部分が違う」のであれば効果はありません。至極当たり前の話です。高校生がそれを意識して練習をするということがどれだけできるのか。関西に練習に行ったときにはその部分を強く感じます。正確な動きを徹底して繰り返す。その積み重ねだと思います。

言っていることは本当に「基本的なこと」でした。特別な練習内容ではないですし、意識する部分に関しても同様。それを毎回高校生が自分たちで意識して取り組む。「狙い」とする筋肉に正確な負荷がかかっているかどうか。大きな筋肉でごまかすのではなく「使いたい筋肉」をしっかりと刺激することが重要だと。T字バランスにしても同様。同じような「形」であっても本当に狙っている部分に負荷がかからないようであればそこに意味がなくなる。

毎回毎回100%の練習をする。ここに強くなる要素があると思います。これを我々がどれだけしつこく言っても結局は選手自身がきちんとやることを理解して正確な動きしなければ意味がないのです。様々な練習をする。「自然に動きが身につくようにする」という狙いもありますが本当の意味での動きを理解しないかぎりはやはり効果はないのかなと思います。

選手の「強くなりたい」という想いをどれだけ本物にできるか。もちろん、それなりの意識で強豪校に入学してくる選手もたくさんいると思います。スタートラインから違う。強い選手がやるべきことを理解して狙いを明確にして取り組んだ場合は追いつくことはできないと思います。指導者が動きに対する理解をしていてそこの部分をポイントポイントで抑えてく。それによりより力が上がる。

これまでの「もやもや」の答えはここにあるのかなという気はしています。本人たちが「何が何でも強くなりたい」「競技に対して理解したい」と思っている状況でない中で何を提供してもそれは結果にはつながらない。むしろ「悪」ではないか。「身体を動かしたい」「それなりにやりたい」という選手に対して「きちんと意識した動きができていない」と言っても「そんな必要があるのか?」という感覚でしかない。その状態で何を与えるのか。

何とかしたいというのは実は「自己満足」でしかない。本人たちが欲していないものに対して何かを提供したところで実は「余計なお世話」でしかないのではないか。そういう部分は頭に入れておきたいと思っています。技術的なことを教わることがなくても強くなる選手はいる。その理由は何か。本人が「強くなりたい」と思って自ら考え行動するから強くなる。そのことをしっかりと肝に銘じておかなければいけないと思っています。

やることは何か。そこが明確になれば選手も行動が変わる。やらされている練習ではなくなるから。その部分に関してはやはり一方通行にならないようにしていきたい。環境もあると思います。そうであれば尚更です。

自分の中での感覚。しっかりと明確にしていきたいなと感じました。自分自身の感覚。自分の中で「受け入れがたいもの」がある。それに対してひたすらこだわる。それが自分にとってマイナスになることも多々ある。その部分は忘れてはいけない。そう思います。

まとまりません。とりあえず記録しておきます。
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