続き。まー自己満足のblogなので面白くない話を書き続けます。
短距離だけに話を。マズローの欲求段階の話。保健体育で習っているはずだと思い投げかけましたがなかなか。この話はどこでもするのでもう何度か話をしている可能性があるのですが。
人間の欲求というのは発達に応じていくつかの段階に分かれていく。最初は「生理的欲求」と言われるもの。赤ちゃんと一緒です。寝たい、食べたいという人間誰もが持っている基本的な欲求。「安全欲求」に関しては割愛。今、部活をやっているというのは「所属欲求」の辺りから始まっていると思います。一人で何かをやるのではなくあるいっていの「集団」の中にいる事で安心感を得る。競技云々ではなくみんなと一緒に何かをやるという事に満足する。
で、「承認欲求」です。この辺りから難しくなる。以前もありましたが「女子にしか指導しない」と声を上げていた選手もいます。本当にそうでしょうか?毎日全員と一言だけでも話をするようにしています。競技力が上がって上の大会に繋がる選手が出てくればそこに関わる時間は増えていきます。それを持って「女子にしか指導をしない」と批判するのは如何なものか。この言葉の裏側には「自分を認めて欲しい」というのがあると思います。自分も練習を一生懸命にやっているのだからもっと見てほしい。認めて欲しいという欲求。
ここはどうなのか?私に認められるために競技をやるのか。もちろん、きちんとやっていることに関しては認めますし、褒めます。しかし、それは過剰である必要はない。誰かと比べて声をかけられる回数が少なかったからといってそれはどうなのか?私が見ていなかったら「練習やらなくてもいいんじゃない?」というような風潮になるのはやはり違う。
赴任した時は正にこんな感じでした。私が不在の時は部室から出てこない。出てきたと思えば真面目にやっている選手にひたすら話しかけて妨害をする。私がいる時には率先して動く。このギャップ。認められたい。その欲求が大きいのだと思います。誰かと比較して何かをするのか。ここは考えないといけない部分。
最後の段階が「自己実現の欲求」になる。これは自分の中にある可能性がどれだけなのかを確かめたいというもの。誰かに何かを言われたからやるのではなく「自分自身のため」にやる。この段階になれば人は勝手に成長していく。自分の考えだけが絶対に正しくて他者を認めない。こういうスタンスでは自己実現は成し遂げられないと思います。自分がどうするか。ここに尽きる。
これを練習などに置き換える。練習は自分自身のためにやる。何度もその話はしています。怪我をして練習ができない、一番しんどいのは自分自身のはずです。やりたくない言い訳に怪我を使うのであれば意味はない。本当にやりたいと思えば行動自体が変わってきます。治すためにどうするか。受け身にならず自ら動く。
練習内容も同様。与えられた事をやるだけで「強くしてもらう」のではない。自分自身のためにやる。動きの一つ一つの意味を理解して行動する。練習日誌を使って動きを振り返る。理解を深める。そういう部分がどれだけできるのか。やらされるのではなく「自分のためにやる」という感覚を持てるかどうか。やるだけの練習から抜け出せるかどうか。
これまで指導してきて「考えずにやる」選手が強くなったことはほぼありません。例外はありましたが。しかし、それは持っている力を最大限には引き出せなかったと思っています。やはりやるべき事が分かって行動できる選手が強くなる。これは間違いないと思います。全員が全国レベルになれと言っているわけではない。今の自分を越えるために何をするかだと思います。
これもどこまで求めるかだと思います。とりあえず伝えるべきことは伝える。あとは選手がどのように解釈するか。
とりあえず記録しておきます。
短距離だけに話を。マズローの欲求段階の話。保健体育で習っているはずだと思い投げかけましたがなかなか。この話はどこでもするのでもう何度か話をしている可能性があるのですが。
人間の欲求というのは発達に応じていくつかの段階に分かれていく。最初は「生理的欲求」と言われるもの。赤ちゃんと一緒です。寝たい、食べたいという人間誰もが持っている基本的な欲求。「安全欲求」に関しては割愛。今、部活をやっているというのは「所属欲求」の辺りから始まっていると思います。一人で何かをやるのではなくあるいっていの「集団」の中にいる事で安心感を得る。競技云々ではなくみんなと一緒に何かをやるという事に満足する。
で、「承認欲求」です。この辺りから難しくなる。以前もありましたが「女子にしか指導しない」と声を上げていた選手もいます。本当にそうでしょうか?毎日全員と一言だけでも話をするようにしています。競技力が上がって上の大会に繋がる選手が出てくればそこに関わる時間は増えていきます。それを持って「女子にしか指導をしない」と批判するのは如何なものか。この言葉の裏側には「自分を認めて欲しい」というのがあると思います。自分も練習を一生懸命にやっているのだからもっと見てほしい。認めて欲しいという欲求。
ここはどうなのか?私に認められるために競技をやるのか。もちろん、きちんとやっていることに関しては認めますし、褒めます。しかし、それは過剰である必要はない。誰かと比べて声をかけられる回数が少なかったからといってそれはどうなのか?私が見ていなかったら「練習やらなくてもいいんじゃない?」というような風潮になるのはやはり違う。
赴任した時は正にこんな感じでした。私が不在の時は部室から出てこない。出てきたと思えば真面目にやっている選手にひたすら話しかけて妨害をする。私がいる時には率先して動く。このギャップ。認められたい。その欲求が大きいのだと思います。誰かと比較して何かをするのか。ここは考えないといけない部分。
最後の段階が「自己実現の欲求」になる。これは自分の中にある可能性がどれだけなのかを確かめたいというもの。誰かに何かを言われたからやるのではなく「自分自身のため」にやる。この段階になれば人は勝手に成長していく。自分の考えだけが絶対に正しくて他者を認めない。こういうスタンスでは自己実現は成し遂げられないと思います。自分がどうするか。ここに尽きる。
これを練習などに置き換える。練習は自分自身のためにやる。何度もその話はしています。怪我をして練習ができない、一番しんどいのは自分自身のはずです。やりたくない言い訳に怪我を使うのであれば意味はない。本当にやりたいと思えば行動自体が変わってきます。治すためにどうするか。受け身にならず自ら動く。
練習内容も同様。与えられた事をやるだけで「強くしてもらう」のではない。自分自身のためにやる。動きの一つ一つの意味を理解して行動する。練習日誌を使って動きを振り返る。理解を深める。そういう部分がどれだけできるのか。やらされるのではなく「自分のためにやる」という感覚を持てるかどうか。やるだけの練習から抜け出せるかどうか。
これまで指導してきて「考えずにやる」選手が強くなったことはほぼありません。例外はありましたが。しかし、それは持っている力を最大限には引き出せなかったと思っています。やはりやるべき事が分かって行動できる選手が強くなる。これは間違いないと思います。全員が全国レベルになれと言っているわけではない。今の自分を越えるために何をするかだと思います。
これもどこまで求めるかだと思います。とりあえず伝えるべきことは伝える。あとは選手がどのように解釈するか。
とりあえず記録しておきます。