
茫洋物見遊山記第148回
私は六本木ヒルズという建物が大嫌いで、出来るだけ行かないようにしているのだが、いよいよ「ラファエル前派展」が終わるというので重い腰をどっこいしょと上げ、雨を冒してやはり大嫌いなロッポンギの街へ出かけていきました。
有名なミレイの「オフィーリア」は割合最近どこかの展覧会でゆっくり見物して美女の半開きの唇のあえかさを堪能したので、もしかするとあれを凌ぐ傑作をたんと拝めるかもしれない、とひそかに期待していたのですが、それを描いたミレイも、ハントも生気に乏しく、霊感のひらめきが皆無であり、どの作品も凡庸で、鈍重で、光彩が陸離する日なぞ未来永劫訪れないでせう。
名のみ轟くロッセッティも、よく見ればデッサンは弱いし、構成力もいまいちだし、色彩の取り合わせもいびつで、あえて言わせて頂くならばとてもプロの所産とはいえない代物です。
そもそも英国の音楽と絵画の出来栄えは、大陸のそれより昔からセンスが悪くて鈍くて数等落ちるから大幅に割引するとしても、こんな訳の分からない作品は、ただで上げると言われても私は要らない。
ラファエル前派だか後期だか知らないが、カッコいいのはネーミングだけ。世間ではその素人っぽい曖昧で朦朧としたところが英国風でいいのかもしれませんが。まあ明治時代の英国自然派でいちばん内容がしっかりしていたのはターナーただひとり、というのが私だけの超個人的内緒の秘密のあっこちゃん的感想でした。(4月6日まで開催中)
近来稀なる不出来で不愉快なコレクションに遭遇して腹を立てながらアホ莫迦超高層ビルジングを脱出しようとしたら、同じフロアの別会場でアンディ・ウォーホル展をやっているという。
ウォーホルなら最近横浜でちょっと見たからもういいかと思ったのですが、ラファエル前派を見た人は1000円におまけするというのでちょっくら入ってみたら、これが凄かったのなんの、早くも本年ベストワンと太鼓判を押してもよいほどの充実ぶりで、これを見逃せば一生後悔しただろうと心の底から思ったほどに素晴らしい展覧会でしたあ。
およそ400点というラインナップにも驚かされますが、それよりも芸術の質の高さと鋭い現代性に完膚無きまでに圧倒されてしまいました。前のラファエル前派が過去の遺物の死んだ陳列品とするならば、こちらは切れば血が出るような生命に輝きわたっている生きた展覧会なのです。
まずは1950年代の広告作品ですが、ここにそっと展示してある「赤いハイヒールの脚」という小品こそウォーホルのアルファにしてオメガでもあり、ここにに彼の人間的な本質がすべて込められているような気が致します。
そしてウォーホルが商業デザイナーからアーチストに進み出る転機は、1962年の「潰れたキャンベルスープ缶」、そして1963年の「自殺」、1965年の「病院」をモノした瞬間で、このときに何を対象にどう表現するべきかという彼の作家としての流儀が確立されたと思うのです。
「ジャッキー」「エルヴィス」の異様な暗さと美しさは、「マリリン・モンロー」や「毛沢東」のそれとは姿は似ていても芸術的感銘の深さが違いますが、いずれにしても多色使いのシルクスクリーンによる大量生産技法の原点がすでに50年代に築かれていたことは、この大回顧展ならこその発見であり収穫でした。
会場には彼の製作現場であるNY東47丁目231番地の「シルバー・ファクトリー」が再現されており、ベルベットアンダーグラウンド&ニコのライヴ映像が流れ、「銀色の雲」が空を舞い、彼の大量の私物が惜しみなく大公開されるというこの上ないサービス振りですが、
私に随喜の涙を流さしめたのは、かのエンパイアステートビルの夕暮から真夜中までを同一視点で延々と捉えた幻の映像作品「エンパイア」でありました。
ウォーホルは「エンパイアステートビルはスタアである」と申しておるようですが、荒れた粒子で再現されたランドマークが、まるで生き物のように灰白色に点滅する超現実的な映像を眺めながら、私は芭蕉の「海くれて鴨の声ほのかに白し」を思い出し、この世もわれらも非在的存在であり、夢のまた夢ではないかというお馴染みの感慨が、またぞろ湧きあがってくるのでしたあ。(5月6日まで開催中)
ウォホールとは俺のことかとウォーホル言い 蝶人
ウォーホル描きし<サンフランシスコ・シルバースポット>なる絶滅危惧蝶美し サンフランシスコのいずこに舞うらむか 蝶人