あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

夏目漱石の「吾輩は猫である」を読んで

2017-04-06 17:33:40 | Weblog


照る日曇る日第960回


「日月を切り落とし、天地を粉韲して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を売る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。
ありがたいありがたい。」

ということで朝日新聞連載の「猫」がようやく終わった。

この末尾の文章を朗読すればよく分かるようにまるで講談のように歯切れが良い。講談の合間には熊さん八っつあん、ご隠居が出てくる代わりに主人の苦沙弥や客人の迷亭、寒月、独仙、東風などが続々登場して落語をやる。落語が昂じると時に漫才となり、漫才が煮詰まると突如分かったような分からんような警句や漢語が挿入されて読者をけむに巻く。

要するに書くのが楽しくて面白くて仕方がない漱石の悪戯書きが「猫」であり、それ以上でもなければそれ以下でもない。

上機嫌で「猫」を書きあげた漱石は、主人公の猫を若者に替えて「坊っちゃん」を書き、本格的なプロを目指す。

本格的なプロを目指した漱石は、戯作を取り下げ、深刻深遠なる人世探索の主題や思想を論じようとするのだが、その苦心の作が面白いとは限らないし、小説として上等であるとも限らない。

ともあれ水甕に愛猫を葬ると同時に漱石は、書くこと自体が快楽であるという唯一無二の魔術的時間から見放され、後半生を通じて重き荷を坂上に運び上げるシジフォスの苦しみに苛まれる身となったのである。


  何度見ても嫁を出した父親は哀しい秋刀魚が出てこない小津の遺作 蝶人

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