あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

池辺三山述滝田樗陰編「明治維新三大政治家」を読んで

2015-03-16 09:49:34 | Weblog


照る日曇る日第766回


 夏目漱石を東京の朝日新聞に招聘した編集主幹の池辺三山が49歳で死ぬ間際に中央公論の名編集者滝田樗陰に語り下ろした幕末維新の立役者論です。

 先輩である同時代人の大隈、山県、井上、ちょっと下がって原敬、犬養毅、後藤新平、尾崎行雄などに対する辛口の短い批評も面白いが、もっと読み応えがあるのは、やはり巻頭の大久保利通、岩倉具視、伊藤博文の3名に対する談義でしょう。

 いちおうこれらは樗陰によって「論」というタイトルがつけられていますが、けっしてああ堂々の歴史評論とか堅苦しい人物論というようなフォーマルなものではなく、樗陰の巧みな誘導に乗ってざっくばらんに語りはじめ、あちこち寄り道しながらも一気に興に乗り、あっという間に語り去られたかなり即興的な月旦評なので、そのつもりで取り扱う必要がありますが圧倒的に面白い。

 その後大流行した右翼や左翼史観を含めて、いっさいの社会的意識形態と謬着した歴史観にてんでとらわれていないから面白いのです。

 その面白さについて、三山と肝胆相照らした漱石は、本書に寄せた序文の中で「過去が逆さに流れて現在に彷徨して来る。長州。薩州、勤王、佐幕、あらゆる複雑な光景が記憶の舞台を賑やかにする代わりに、美事なパノラマとなって、現に眼の前に活きたまま展開する」と評していますが、そのとおりの内容だと思います。

 では「三大政治家」の中に伊藤博文があって、なぜ「南州西郷隆盛編」がないのか?

 三山は、大西郷を慕って西南の役に従軍し破れて刑死した父、池辺吉太郎の息子であるだけに大いに期待されたのですが、彼が満を持して取りかかろうとした矢先に惜しいことに急死してしまいました。

 けれども三山のこのような高等講談的カタリ、物事の本質にやわらかに参入してゆく歴史談義、慇懃無礼で単刀直入な人物批評の作法は、たとえば小林秀雄の講演形式や司馬遼太郎の小説やエッセイのアプローチの中に十分に生かされていて、現在もなお独特の存在理由と輝きを失っていないと、私は考えています。


 なにゆえに「維新3大政治家」に西郷どんが抜け落ちている池辺三山が急死したから 蝶人
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すべての言葉は通り過ぎてゆく 第20回

2015-03-15 09:53:47 | Weblog


西暦2015年如月蝶人狂言畸語輯&バガテル-そんな私のここだけの話op.193




国際政治の過酷な打算の犠牲となってまたしても散った若い命。無辜の民を無慈悲に殺戮するイスラム国の相次ぐ蛮行に抗議する。2/1

邦人が誘拐されていること、その解放交渉が秘密裏に行われていることを知った上でイスラエルで「イスラム国」への「宣戦布告」を告げるような愚かな指導者がいなければ、2人の若者は斬首されていなかっただろう。2/2

2人が人質に取られていることを知りながらわざわざ中東まで出向いて、イスラエルの首相と並んでテロとの戦いに取り組むと宣言し、「偽イスラム国」と戦う国々に2億ドル供与して支援すると宣言すれば、それまでは何もする気がなかった彼らが牙を剥くのはむしろ当然だろう。

「偽イスラム国」のテロに反対することと、「偽イスラム国」のテロと戦うこととは全然違う。我々の基本的な立場は前者であるにもかかわらず、安倍は我々を有志連合の戦列に巻き込んで、全国民を彼らとの全面戦争の最前線に引っ張りだしたのだ。

いったいどこのどいつが「偽イスラム国」をして「今日から日本人との戦いが始まった」などと言わしめるような莫迦げた振る舞いをしたのだ。2人の邦人虐殺の責任はその厚顔無恥な男にある。2/2

金子兜太翁は毎週金曜日に築地の朝日新聞本社にやってきて、6000句の中から10句を選ぶそうだ。宝くじほどではないにしても、1/600の確率はかなり狭き門とはいえよう。2/4

内閣の長ともあろう男が、「テロリストに報復を!」と叫んでいる。「気狂いに刃物」とはこのことだ。

テロリストと戦うのが大好きな男が、いよいよ憲法第9条にテロを仕掛けようとしている。「気狂いに刃物」とはこのことだ。2/4

テロルにはテロルという悪の連鎖からは、なにも生まれない。目には目を、歯には歯を、という不毛な対決からは、なにも生まれない。2/4

「NHK短歌」と「俳句」を時々みている。「短歌」は斉藤斎藤、永田和宏、小島ゆかりという魅力的な顔ぶれで毎回楽しめるが、「俳句」の方は、蛸壺の奥底でなにやら古めかしい魑魅魍魎が神経質に蠢いているような感じで、中身も選者もつまらない。

俳句は水たまりと戯れるミズスマシ、短歌は小川をスイスイ泳ぐ魚、詩は大洋に遊ぶクジラのようだ。降る雪や俳句は遠くなりにけり。2/9

「なにかの本で読んだのですが、夏目漱石が死ぬときにも、いま死ぬことはできない、というようことを云ったそうです」山本周五郎「季節のない街」2/11

60年代に「深夜同盟暴力委員会」という魅力的な名前の秘密組織があった。深夜お茶の水の某教会で処女の生血を啜るというのでぜひ参加したいと思ったが、決行寸前に週刊誌にかぎつけられて未遂に終わったそうだ。残念無念。2/11

一度だけ畏友北嶋氏の家を訪れたことがあるが、書斎所狭しと並べられた蔵書、なかんずくカント全集全巻に圧倒された。床が抜けたので三鷹に引越すと言っていたが、きっと今頃はまた抜けているに違いない。

私は氏ほど真面目で誠実な人物をしらないが、その勤厳にして実直な勉強家、少年のような含羞の人は、己の主義主張に命懸けの人でもあって、残虐な鯱が群がるキャンパスの坂を上る時は、腹に肥後守を呑んでいたはずだ。

先月の29日に90歳で亡くなった真鍋理一郎氏にBGMを頼むと、氏は1本のフルートを携えてスタジオに現れ、絶妙な即興演奏でその映像に合わせてくれるのだった。2/13

自称右翼の国家主義者は、目には目を、歯には歯をと絶叫する。よろしい、それなら私は詩には詩を、死には死で応えよう。

きのう朝夷奈峠を散歩したら、アカガエルの卵が2玉産みつけられていた。例年よりだいぶ遅いが無事に誕生したのでホッとする。2/15

プーチンと親ロシア派軍隊が、絶妙なコラボレーションを発揮して隣国の領土を蚕食してゆく姿を見せつけられると、なぜか旧帝国陸軍と偽満洲国創生の一大陰謀を想起せずにはいられない。2/20

野党議員が質問しているときに、宰相ともあろう男が、悪ガキの白痴的野次を飛ばす。おそらく「偽イスラム国」に殺された2人の青年の怨霊に祟られたのだろう。一刻も早く青山脳病院で精密検査をしてもらいなさい。2/21

極言すれば、どんなに有名であっても、ミュージカルの音楽は、クラシックの真似をしているphonyな音楽である。だからというて、その価値が低いと貶められることはないが。

時々カルロス・クライバーがいまでも元気に活躍していたら、他の世界中の指揮者は要らないとさえ思うことがある。

クライバーはスロバキアのソプラノ歌手ルチア・ポップの振る舞いに怒って公演をキャンセルしたことは知っていたが、彼がトランクひとつぶら下げて彼女の家に行こうとした話は初耳であった。カルロスのドキュメンタリー『アイ・アム・ロスト・トゥ・ザ・ワールド』

軍隊の運用は文官が行わねばならない。血の気の多い戦争大好きの軍人の暴走を抑えるためには文官第一主義の運用が必須であるにもかかわらず、アホバカ防衛大臣はその戦争防波堤を取り外そうとしている。2/25

NHKの歴史番組に、歴史などに興味も知識もあるとは思えぬ、脳だか心理だかの研究者が出てきて、一知半解の奇妙奇天烈な発言をしているが、無理矢理ああいう色物を添えるのはいかがなものだろうか。2/25

川崎の中学生殺人事件を、朝から晩まで夢中になって報じるメディア人間ども。ついこないだ偽イスラム国人に虐殺された邦人のことなど、早くも忘却の彼方に置き去りにしたらしい。2/27

小林秀雄のエピゴーネン、吉本隆明のエピゴーネン、ピケティのエピゴーネン。すべてのエピゴーネンは、哀しくも醜い。2/28

LINEの発音は関西では右下がりに、関東では並列の高さで発音している(ようだ)。クラブの発音はその意味の違いに基づいて右下がりと山型発音の2種が全国的に使い分けられている(ようだ)。
2/28


   物言えば唇寒き頃なれど云うだけのことは春風に云う 蝶人

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鎌倉十二所を歩く その3 鑪ケ谷の巻

2015-03-14 09:44:23 | Weblog


茫洋物見遊山記第170回&鎌倉ちょっと不思議な物語第332回



 鑪ケ谷と書いて「たたらがやつ」と読む。

 たたらとは「たたら製鉄」のことで、我々の祖先は遅くとも縄文時代の末期に、土製の炉に木炭と砂鉄を装入して鉄を作り出す技術を身につけていた。

 本邦で本格的に6世紀から始まったたたら製鉄は、中国山地が有名だが、ここ鎌倉では何というても十二所のその名も鑪ケ谷が有名で、その初見は「新編相模国風土記稿」に十二所内の小名「多々羅ケ谷」とある。

 また「新編鎌倉志」の理智光寺の条には「鑪場西の方にあり、願行、大山不動を鋳たる所也と云ふ。按ずるに、此所桃山大楽寺に近し」と出ている。桃山大楽寺がどこにあったかは不明であるが、石切り場の大木家の傍を流れる太刀洗川に架かる小橋を渡ってどんどん直進したこの谷戸が鑪ケ谷であり、おそらく谷戸の突き当たりの竹藪が茂っている辺りで古代の人々がふいごを吹いていたのであろう。

 材料の木炭はこの近くにふんだんにあり、砂鉄は由比ヶ浜の海岸から滑川を遡った船に積んだ砂から採取されたのだろう。

 自宅から歩いて5分の鑪ケ谷は、小生の大好きな散歩道で、この谷戸の突き当たりを越えて小川に沿ってさらに遡ると古代と変わらぬ原始的な景観が繰り広げられる不思議な場所に出たのだが、いまは倒木や悪路に遮られてなまなまな備えでは前進することができなくなってしまった。

 いずれにせよ、ほとんど誰も足を踏み入れなくなってしまったこの場所が「古鎌倉」「原鎌倉」の秘境のひとつであることは間違いない。


  ぶうぶうとふいごを吹けばめらめらと古鎌倉の鉄燃え上がる 蝶人

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おフランス映画を2本みた

2015-03-13 09:19:13 | Weblog

フランシス・ベベール監督の「ルビーとカンタン」をみて

bowyow cine-archives vol.782&783


ジャン・レノとジェラール・ドパルデュー共演によるフレンチコメディですが、それほど笑えないのは、ドパルデュー演じるアホ莫迦男の実在感があまりないせいかもしれない。

2人とも一生懸命に演じているんだが、もともとジャン・レノはダイコンだし、演出もつまらない。2004年の製作だが、最近の仏蘭西映画も落ち目だなあ。


ジャン=ピエール&リュック・アルデンヌ監督の「ある子供」をみて

 2006年に製作されたフランス・ベルギー合作映画なり。

 妻を愛してもいないのに子供をつくった若いやくざな男が、金に困って妻に内緒で赤ちゃんを売り飛ばすが、いろいろな紆余曲折を経て遅まきながら妻に前非を悔いて、涙ながらに更生を図ろうとするのであるが、こういう見え透いたお涙頂戴の「感動的な」映画が、どうしてカンヌ映画祭のグランプリを獲得するのか理解に苦しむ。

 題名の「ある子供」というのは、彼らの赤ん坊ではなく、子供同然の幼稚で未熟な夫を指すのだろう。


  真夜中に時々自分を暖めているひとりぼっちの我が家の風呂よ 蝶人

   
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鎌倉十二所を歩く その2 十二所神社の巻

2015-03-12 09:38:23 | Weblog


茫洋物見遊山記第169回&鎌倉ちょっと不思議な物語第331回


 祭神は天神七柱、地神五柱の十二柱。境内には山の神、疱瘡神、宇佐八幡、地主神がありここ十二所の鎮守である。

 かつては熊野十二所権現社といわれ、弘安元(1278)年の創建とされる。もとは光触寺境内にあったが、天保9(1838)年に現在地に移され、明治維新によって十二所神社と改称され、明治6(1873)年に十二所の鎮守として「村社」に格上げされた。

 鳥居の脇に重さ112kgの「百貫石」があり、昔の村祭りではこれを持ち上げる豪の者もいたそうだ。

 神社の前の県道の脇には石地蔵が建っている。

 これは江戸末期の頃に、鼠木綿の着物、手甲、脚絆に身を固めて厨子を背負い、鉦を叩いて家ごとに銭をこいながら諸国を遍歴する六部が通りがかりの馬に蹴られて死んだ人の実家が回向のために立てたそうだ。(「誰も知らない鎌倉路」)

 以上、郷土史研究家岡田厚氏作成の資料によって記述しました。


   録画せしテレビの教養番組を三倍速早送りで見る私の晩年 蝶人
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ブライアン・デ・パルマ監督の「ファム・ファタール」をみて

2015-03-11 09:22:02 | Weblog


bowyow cine-archives vol.781


ヴィクトリアズ・シークレットのモデルをしていた主役のレベッカ・ローミンはエロッぽくていいが、全然ファム・ファタールというタイプではないね。

どういうわけか坂本龍一が劇伴を担当。ラヴェルの「ボレロ」を変奏したり苦労してアルバイトしているのが面白かった。

監督は懐かしやブライアン・デ・パルマであるが、さすがに女のエロさを撮るのだけはうまい。




「あれから4年」と言われなければ何ひとつ思い出さない豚児なわたし 蝶人
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ドロンの映画を2本みて

2015-03-10 12:05:30 | Weblog


bowyow cine-archives vol.779&780


ドゥッチョ・テッサリ監督の「ビッグ・ガン」をみて

アラン・ドロン扮する殺し屋が、足を洗おうとしたが許されず、妻子を殺されてしまったので欧州闇社会の親分たちを屠ってゆくが、ビビった幹部の和解に乗ったのが仇となって味方のはずの男にあっけなく殺されてしまうという哀れなお話。

車の爆破、むごたらしいリンチ、女性への暴行等々、全体を覆う殺伐とした無常感を評価する人もいるのだろうが、どうにもこうにも陰々滅滅な気分に陥るやな映画です。


ジャック・ドレー監督の「友よ静かに死ね」をみて

 原題は「ギャング」なのでそうすればいいのに、わけのわからぬ邦題がつけられている。

 ドロンはギャング映画が多いが、ここではいつものクールガイではなく、パーマをかけ、陽気で怒りっぽい頭領を楽しげに演じている。まるで愉快犯のように仲間と銀行強盗をやらかすのだが、戦後の対独協力者(コラボ)の取り締まりを終えた警察が包囲網を狭めているにも関わらず大胆不敵な逆襲に出る。

 このようにジコチュウで冷静に敵の情勢、空気を読めない男はいつの世にも大勢いるものだが、われらがドロン選手もよせばいいのに銀行強盗を成功させたその足で、愛妻への宝石を求めに行ったりするものだから、どつぼに嵌るのである。

 こんな漫才のような死に方ではとうてい「静かに」なんか死ねなかっただろう。


 アラ、ドロンかいな昔むかしヴィスコンティなんかに使ってもらっていた頃が一番輝いてたなあとは朧 蝶人
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カエルの歌が聞こえてくるか

2015-03-09 10:00:51 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第330回 &バガテル-そんな私のここだけの話op.192


 毎年太刀洗の朝夷奈峠の三郎の滝を登った原っぱにあるお玉が池を整備してカエルの産卵の環境を整えているのだが、今年は第一現場で2月14日にそれを見つけた。(写真は第2現場の小さな泉)

 通例だと第1現場、第2現場、第3現場の3か所でまずアカガエル、次いでヒキガエルの産卵が行われるのだが、今年は(も)異常気候の所為か例年よりだいぶ遅れているようだ。

 2月末に第3現場でもアカガエルの卵を見かけたが、去年の台風でグチャグチャになってしまった第2現場はあまり期待できないだろう。

 20年前、この第2現場では数多くの雌雄のヒキガエルが奇声を発しながら激しく交尾していたが、あれらの巨大なカエルたちはその後何処へ消え去ってしまったんだろう。

 息子は自然の力は偉大だから、放置しておいても産卵は行われるというのだが、やはり年老いた私が1月の末か遅くとも如月のはじめにスコップで泥や落葉をすくい上げ、きれいな水がある分量で溜るようにしておかないとすこやかな産卵はもたらされないと信じているのである。



    お玉が滅ぶか私が滅ぶかどちらが先に駈けつくか 蝶人

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ウディ・アレン監督の「人生万歳!」をみて

2015-03-08 10:42:13 | Weblog


bowyow cine-archives vol.778

 2009年に久しぶりにアメリカで製作されたニューヨークを舞台にした人世物語です。

 主役の初老の元物理学者役のラリー・デヴィッドが冒頭から物凄く長い台詞をらくらくと喋るので、もしかするとこいつはだいぶ肥ったがウディ・アレン本人ではなかろうかと思ったのだが、それはもはや耄碌しかかった当方の勘違いで、才気煥発の喜劇役者のラリー・デヴィッドなのでした。

 この映画の原題は「Whatever Works」なのだが、これを「なんでも良くなる法華の太鼓」あるいは「犬は吠えても地球は回る」と訳しても構わないでしょう。

 じじつこの映画では、棺桶に片足を突っ込んだ淋しい年寄りが、若く綺麗な姉ちゃんに惚れられたり、頑迷保守派のオッサン、オバハンが突如異性愛や芸術に開眼したり致しますが、

 酸いも甘いも噛み分けた不良哲学老人、ウディ・アレン翁は、世紀末の暗黒時代に生きる老若男女が、かというて徒に絶望や自棄自暴に陥ることなく、あくまでも明るく楽しく滅びてゆく秘訣を、この映画で伝授してくれているようです。


  ナイターの東京ドームを埋める人みんな一人で死んで行くのだ 蝶人


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岩田宏著「岩田宏詩集成」を読んで~「これでも詩かよ」第128番

2015-03-07 08:41:59 | Weblog

照る日曇る日第765回


最新版かぞえ唄

一つとせ
人は一人で生まれ来て
一人静かに死んでゆく

二つとせ
二人で一人の仲良しも
死ぬときゃ別々に死ぬんです

三つとせ
みんないくさに行くときも
断固拒否する人もいた

四つとせ
よしなよしなと言われても
ついついその気になるのが若さ

五つとせ
いつまでたっても人間は
てめえだけは死なないと思ってる

六つとせ
ムクはわが家の愛犬だった
もいちど吼えろWANG WANG WANG!

七つとせ
七度生きては国のため
尽くすほどの国かしら

八つとせ
やっと出会えた君だから
どこどこまでもついてゆく

九つとせ
国の宝は憲法九条
日本を非武装永世中立国とせよ

一〇とせ
とうとう来ました大往生
これがおいらの辞世だぜ


  この道はいつか来た道どですかでんあんたの祖父が逃げ帰った道 蝶人
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アンドリュー・V・マクラグレン監督の「ワイルド・ギーズ」をみて

2015-03-06 17:53:43 | Weblog


bowyow cine-archives vol.777


78年製作のイギリス映画で、リチャード・バートン、ロジャー・ムーアなどの元海軍OBが止せばいいのに一旗挙げようとアフリカくんだりまで行って、人質にされていた某国の大統領をいったん救出するのだが、結局大統領も大勢の仲間も失って自滅するという哀しい傭兵物語なり。

  食べられる霞があれば送るべし売れぬ絵を描く私の息子に 蝶人
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T・E・ロレンス著「完全版知恵の七柱第2巻」を読んで

2015-03-05 10:42:50 | Weblog


照る日曇る日第764回

 ご存知「アラビアのロレンス」の熱砂の実録大冒険の第2弾なりい。本巻では有名なデビッド・リーンの映画のクライマックス、アカバへの奇跡の大進撃のくだりが叙述されているが、実際はあんなかっこいいものではなかったようだ。

 対トルコ戦争のまっただなかに飛んで火にいる夏の虫のごとく舞い込んだ我らが主人公は、蠍に刺されて体調不良に陥ったり、テントに忍び込む毒蛇を1晩に20匹も殺したり、敵対するアラブの指導者たちの肩を揉んだり、トルコ軍の鉄道を自分で地雷に信管を取つけて爆破したり、砂漠に迷ったのろまな従者を命懸けで救助したり、朋輩を殺した従者を泣く泣く拳銃で射殺したり、飢えや乾きに苦しみながら、それこそ獅子奮迅の大活躍を続ける。

 そんな言語に絶する地を這うような労苦を舐めながらも、どことなく楽しそうな様子が筆致に漂うのは、彼がほんとうにアラブの人々が大好きであり、そのことが彼らに本能的に伝わって愛されたからだろう。

 蠍と蛇と異教徒たちに囲まれ、彼我の戦闘状況を子細に分析するロレンス。砂嵐吹きすさぶテントの中で、古代から近現代の戦争史家の哲学を研究しながらアカバ攻略の戦略を練るロレンスは、生きる喜びに酔いしれていたに違いない。


 
アカバへ!アカバへ!半月刀振りかざし熱砂を駈けしアラビアのロレンス 蝶人
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井上ひさし著「井上ひさし短編中編小説集成第4巻」を読んで

2015-03-04 09:33:19 | Weblog

照る日曇る日第763回


「新釈 遠野物語」と「浅草鳥越あずま床」に加えて単行本未収録の後者の続編のおまけつきであるが、なんといっても「新釈 遠野物語」の変幻自在な空想力と構想力の妙に感嘆讃嘆させられる。

 佐々木鏡石のカタリを柳田國男がまとめたものが、「遠野物語」であるが、井上の「新釈 遠野物語」は、訳あって遠野近辺の療養所で働く若い主人公が、近くの山中に住む不思議な老人、犬伏太吉と知り合いになり、その波乱万丈の身の上話を聞くという設定になっている。

 柳田國男の「遠野物語」を前振りし、その説話を部分的に引用する振りをしながらも、「井上版遠野物語」は、それを換骨奪胎させて独自のカタリ、独創的な小説世界を顕現させてゆくのである。
 全体は「鍋の中」「川上の家」「雉子娘」「冷し馬」「狐つきおよね」「笛吹峠の話売り」「水面の影」「鰻と赤飯」「狐穴」の連作9編から成っているが、たとえ民俗学的価値は皆無であっても、読物としての面白さは抜群で、本邦屈指のストーリーテラーの真価真髄は、この9編にことごとく凝縮されているというて過言ではない。



誰か何か言ってやって「私は何をどう頑張ればいいの」と訴えるパニック障害の人に 蝶人


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中上健次著「中上健次集三」を読んで

2015-03-03 09:04:23 | Weblog


照る日曇る日第762回

 このインスクリプト版第3巻では、河出書房版の「中上健次」にも収録された「鳳仙花」を柱に、単行本「水の女」を併録している。

「水の女」は「赫髪」、「水の女」「かげろう」「鷹を飼う家」「鬼」という表題のついた5つの短編から成っているが、いずれも男と女の原始的な性愛を真正面から描いて読む者を圧倒する。

 その原動力になっているのはもちろん男より女で、著者はまるで本能に突き動かされた獣のように性交に夢中になるその姿を、彼らに寄り添いながら、精巧なキャメラを構えつつ無我夢中で描写するのだが、卑猥で下品で退廃的であるはずのその行為も、その描写も、まったく卑猥で下品で退廃的ではなく、むしろ神聖にして侵すべからざる態のものへと昇華されているのが不思議である。

 私は、中上健次の真骨頂は、牛の小便のように延々と続く長編よりも、構成と叙述がきりりと引き締まった短編にあると思うのだが、この「水の女」は、名作「鳳仙花」を凌ぐ傑作かもしれない。


   果てしなく欲望を求めまた求め莞爾と死にゆく豚児のごとく 蝶人

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日本文学全集「中上健次」を読んで

2015-03-02 08:09:02 | Weblog


照る日曇る日第761回


 本巻の大半は「鳳仙花」で、あとは「千年の愉楽」、「熊野集」からの数編をオマケにつけたものであるが、本命のグリコの「鳳仙花」のセレクトは大正解で、これはもしかすると著者の最高傑作ではないだろうか。

 というのも「岬」「枯木灘」「地の果て 至上の時」の秋幸三部作では、確かに路地に生きる人々の土俗的血脈的なサガとサーガが濃厚に描かれているとはいえ、その本質は新しい現代文学というより、著者が生けるイタコとなって口寄せる古代=現代の熊野の地霊・精霊の“ダダカタリ”の類であると考えられるからである。 

 秋幸三部作は完結したが、彼の一族をめぐる盛衰の物語は、著者の命ある限りは永久に続いただろうし、それらの集積は、もはや文学であって文学ではない何か、個人史を超えた紀州熊野の古代⇔現代人の集合意識、「無名にして共同なるもの」(田村隆一「灰色のノート)のようなものになっただろう。

 実際それらの作品を読んでいると、著者がもはや言葉や文芸の細かな定則などには一切顧慮せず、六波羅蜜寺の空也上人のように、あるいは諸国一見の高野聖のように、ある種の法悦境(ライティングハイ)に浸りながら、有難いお経をひたすら垂れ流している感が強いのである。

 しかし秋幸の母フサの半生を鮮やかに切り取った「鳳仙花」は、そのような呪文ダダモレの非文芸世界と鋭く一線を画した現代純文学の傑作である。


  耳を澄ましてごらん「無名にして共同なるもの」の唄が聞こえるでしょう? 蝶人
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