このブログを書いていて、不肖コロ健、自らの不甲斐なさを、しばしばといっていいほど嘆いている。だが、いつも最後の最後、どこかで自分を肯定していることに気がつく。
その最後の最後の肯定が”希望”というものに相当するものであるかはわからないが、結局のところ、絶望というところに到達することは容易ではないと思う。

何かに負けたり、失敗したりしても、人はそこにいつまでもとどまっていることはできない。
どんなに打ちひしがれていても、しばらくしたらお腹は空くし、眠くなる。
そんな自分というものをまったく否定することは無理なことであり、結局どこかで自分を肯定する。
どんなになっても、食事をとるし、眠ってしまう。
パンドラの箱の話とはこのことだったのかと、気付く。
箱から出て行った多くの災厄とは、実は自分の心の嘆きだった。

絶望というものはとても過酷であり、すべてを否定しても最後に”希望”という肯定が残る。
一文字の違いが、人としてのあり方を大きく変えてしまう。
希望さえあれば、人の未来は永遠にあり、そこに向けて生きていくことができる。
希望を持って生きていくのが人生であるのならば、そのすべてを受け入れ、肯定していくことこそがあるべき姿なのではないか。
その最後の最後の肯定が”希望”というものに相当するものであるかはわからないが、結局のところ、絶望というところに到達することは容易ではないと思う。

何かに負けたり、失敗したりしても、人はそこにいつまでもとどまっていることはできない。
どんなに打ちひしがれていても、しばらくしたらお腹は空くし、眠くなる。
そんな自分というものをまったく否定することは無理なことであり、結局どこかで自分を肯定する。
どんなになっても、食事をとるし、眠ってしまう。
パンドラの箱の話とはこのことだったのかと、気付く。
箱から出て行った多くの災厄とは、実は自分の心の嘆きだった。

絶望というものはとても過酷であり、すべてを否定しても最後に”希望”という肯定が残る。
一文字の違いが、人としてのあり方を大きく変えてしまう。
希望さえあれば、人の未来は永遠にあり、そこに向けて生きていくことができる。
希望を持って生きていくのが人生であるのならば、そのすべてを受け入れ、肯定していくことこそがあるべき姿なのではないか。