学校の先生が、新学期に際して「クラス替えが望んだ通りにならなくて、残念だったけど、人生思うようにはならないものだから、頑張ろう」と、ツイートしたところ、問題となり、その先生は担任を外された、というようなことをラジオで聞いた。DJ氏は「人生思うようにはならないものだから、頑張ろう」とでも言っておけば問題にならなかっただろうに、とコメントしていた。確かにそう、私もそう思う。学校のクラスの構成なんて、確かに極めてセンシティブな事項で下手をすると傷つく学生も出てくるだろう。
だけど、それでは一体何のためにつぶやきを発信したのだろう。
ネット空間という、無数の人が住んでいるところへ、多くの場合は共感を求めて、自分の思いを吐き出す。それがつぶやきだとかブログさらには半実名で行動するフェイスブックなどでのコメントになる。自分の書いたこととは真逆のことを考えて、それをコメントにしてぶつけてくる人もたまにいる。このブログでも、たまにそういうことがありうろたえることもある。反対する意見が多い場合は、炎上してしまうこともある。
芸能人のように、社会的に名前を売る必要のある人のブログは、半ば公的な存在として認識されてネット空間内では厳しい評価を受けることとなる。だが、そういった人の多くは芸能人としての存在と、個人すなわち本名で生活している存在とは区別されている。テレビで楽屋落ちのような話が連日行われているけれど、それは仕事の範囲内。プライベートなことはほとんど何も語っていない。
そういった人たちと、そうでない人たちとの区別はどこでなされるべきなのだろう。共感を求めるために、少しだけ状況を加えただけで、”こいつは誰だ!”と探し出され、ついには左遷される。よこしまなことを考えるまでは止められないが、それを公にしてはいけないといったことだ。
そんなこと言ったら何も言えない、と思うことがあるかもしれないが、そこには常に最も弱い人への配慮が存在しているという点では、ネットの社会は優しい世界とも言えるだろう。
こうして考えていると、ネット社会の広がりとか、問題がどんどん大きくなってしまい、収拾がつかなくなる。つくづく難しい世界だと思う。
脱出は不可能か