旧ソ連の選手のドーピング問題で騒がれている北京オリンピック。昨晩、その渦中の女子選手の”絶望的に素晴らしい”フィギュアスケートを見てすごいと思うと同時に、他の促成栽培されたかのような旧ソ連出身の選手たちが上位に入る演技を見ていて、世界中学生選手権というか世界インターハイの決勝であるかのような光景を見て違和感を覚えた。そしてその違和感はこのオリンピックのみならず、最近のスポーツに感じるつまらなさに通じるものだと気がついた。
若者がその身体的能力を極限まで鍛え上げて競い合うことはいいことだ。だが、それが金儲けのために利用される様になって久しい。スポーツは身一つ、もしくは最小限の道具だけを使う者同士の戦いであるからこそ、観るものに感動を与えてくれる。だが、現実は背後に巨大なスポーツ産業があって、高性能の器具、最先端の体調管理、戦略があり、それに携わることで多くの人が生計を立てている。かつては、その様な影が見えることは少なかったが、ネットを介しての情報普及が格段に進歩して、あの選手はスポンサー契約で年数億の収益を上げている、とか、インスタのフォロワーは何万人で、とか、本大会を契機に芸能界に本格デビューとか、スポーツを利用した”美味しいこと”が可視化されてきている。
そういった背景を抜きにしても、人間が能力の限りを尽くして戦う姿は美しく、崇高ではある。だが、薬物汚染、一部の種目の低年齢化は商業化による選手一人一人の人権侵害につながっていて、それらを観戦者、視聴者は看過していてはいけない。アマチュアリズムとプロの境界が消滅したのは何もスポーツの世界に限った話ではない。情報発信方法だって、プロもアマも同じネット上で競い合っている時代で、そんなことに拘泥しているほうが時代に取り残されてしまう。
だからこそ、良心をしっかりと持ち、相互に自主規制してルールを守っていく生き方というのが求められるのに、今回のオリンピックではその様なことは反故にされ、さらには政治利用もされている。新型コロナウイルス感染対策で観客席は静かになり、そのおかげで、会場の熱狂は消されて、様々な問題が露呈された様に見えるようになったということはなんとも皮肉なことだ。だからといって、オリンピックさらにはスポーツ産業を批判するばかりでは何も進歩はない。それらはもはやこの社会から取り除くことのできない歯車の一つとなっている。だからこそ、観客である私たちにできることは何があるかを、誰もが参加できるネットの場で考えていくことが大切なのではないか。
北京にも雪が降った