このブログ、「こんな気持ちでいられたら」、略して「こんきも」、結構、いいタイトルだと思って気に入っている。
だけど、このブログに書き表している私の言葉、気持ち、というのは果たして本当の私のものだろうか。
本当の私、というものを定義するのは難しい。
つい先日、『ブログの中の私』と題した記事を書いて、こんきもと私の位置関係について考えたが、本当の私というのが、どこにいるのかよくわからなくなってしまった。
(ブログの中で語っている)私、すなわちコロ健。
(ブログを実際に書いている)私。
今の私。
だけど、このブログに書き表している私の言葉、気持ち、というのは果たして本当の私のものだろうか。
本当の私、というものを定義するのは難しい。
つい先日、『ブログの中の私』と題した記事を書いて、こんきもと私の位置関係について考えたが、本当の私というのが、どこにいるのかよくわからなくなってしまった。
(ブログの中で語っている)私、すなわちコロ健。
(ブログを実際に書いている)私。
今の私。
このブログが誰かの目に触れている時の私。
いろいろな私がいて、それらは決して重なり合うことはないのではないか。
コロ健という存在が、時空を超えて連続的に同一のものであるのか、それとも一瞬一瞬で切り離されているものなのか、何もわからない。
わからないことがあるからわからないと認めるか、わからないことはない(はずだ)からわかるまで考えるか。
考えてみると、実に興味深い。
コロ健という存在が、時空を超えて連続的に同一のものであるのか、それとも一瞬一瞬で切り離されているものなのか、何もわからない。
わからないことがあるからわからないと認めるか、わからないことはない(はずだ)からわかるまで考えるか。
考えてみると、実に興味深い。
そして、きりがない。
孫悟空は御釈迦様の手と手の間を行ったり来たりしていましたが、それって所詮は自分の頭で考えられる範囲なのかもしれませんよね。
だから、自分以上の自分、といったところで、結局は自分の中の程度であるのだから、いいのかな?とも思いますね。
コメントありがとうございました。なんだか、おかしなことが起きたようですが、どうしてですかね。繰り返すようなら、またお知らせください。gooブログに相談します。
私もですが、ブログの中では、「人さまに見せてもよい」自分を取捨選択して書いています。
先生は「ブログを書かないでいると、良い人間でいようとする努力をしなくなる」と以前書かれていましたが、私はブログではついつい、「自分以上の自分」を見せようとしてしまい、自戒しています。
十一面観音どころか…。
考えれば考えるほど、人って、本当に面白いですよね。
生きるのは、いいことですね。
勿論、私はコロコロ健太先生の一面しか、知らない訳なのですが、それはそれで先生であると思います。逆を言えば、私という人間をコロ健先生は一部分しか知らなくとも、それが私です。
例えるとするならば、十一面観音像みたいな感じですかね?逆に解りずらくなったら、すみませんm(._.)m