朝から暑い。これを乗り切ったら残暑も終わり、となってほしいところだがさて、どうなるだろう。
”正義”とは一体なんなのかということを考えさせられることが多い。私なりには、人として正しいこと、すなわち人としてあるべき姿に則った行動もしくは考え方。では、そのあるべき姿とはなんなのだろう。既存の価値観に基づいた人としてのありようなのか、それともそのような枠にとらわれることなく行動することなのか。
”正義”の存在を疑ってしまう出来事は、しばしば組織的な行為に起因することが多い。軍事クーデター、独裁政権、組織暴力、そういったものによって、個人の自由が侵害される。個人対組織もしくは集団、”正義”を必要とするのは個人であり、逆に”正義”を強要するのはいわば徒党だ。だが、その徒党にも”義”はある。その”義”がいかに理不尽なもの、すなわち不義であったとしても、その集団の中で正当化されていたらそれは彼らにとっては”正義”となる。
”正義”とは結局のところ、個人個人で考え希求していかなくてはならないことであり、その集合体だ。その考え方というものが、善的なものか、美的なものか、それともまた別の何かであるかは人それぞれだろうが、人間という存在が共生を前提としているのであれば、他者の存在をないがしろにしたり、馬鹿にしたりするようなことがあってはならない。今この世界に”正義”はあるだろうか。この世界ですべての人が”正義”を求めることが当たり前になったら、今よりは住みやすくなるのではないかと考える。
よりよい共生がSDGsへ
正義・・・広辞苑第6版より
①[荀子(正名)]正しいすじみち。人がふみ行うべき正しい道。「ーを貫く」
②略
③(justice)
ア 社会全体の幸福を保障する秩序を実現し維持すること。プラトンは国家の各成員がそれぞれの責務を果たし、国家全体として調和があることを正義とし、アリストテレスは能力に応じた公平な分配を正義とした。近代では社会の成員の自由と平等が正義の観念の中心となり、自由主義的民主主義社会は各人の法的な平等を実現した。これを単に形式的なものと見るマルクス主義は、真の正義は社会主義によって初めて実現されると主張する。現代ではロールズが社会契約説に基づき、基本的自由と不平等の是正とを軸とした「公正としての正義」を提唱。武者小路実篤、荒野「愛なきーは恐るべし、同情なきーは呪うべき哉」
イ 社会の正義にかなった行為をなしうるような個人の徳性。