花曇り。昨日の暖かさで桜の開花は一気に進んだようで車窓からの花見も楽しい。もっと近づいてみたらいいのかもしれないが、かえって興醒めしてしまうかもしれない。よくみたつもりでわかったつもりになることなど、数えきれずやってきた。
私が直接知り得る世界というのは、私から見える範囲だが、それもせいぜい半径10メートル程度で、それより先になると詳細はほとんどわからない。それに、微視的なことはそもそもまったく見えていないというのは日々の仕事で実感している。要するに人間が知り得る世界なんてのはごくごく限られたもので、それを補完するためにさまざまな情報を手に入れ、解釈する。その情報だって、ソースによってすでに曲解され、脚色されていて、客観的事実など本質的にはあり得ない。狂信者により広められる誤った知識をいくら勉強しても、誤ったことを知るに過ぎない。ただ、それが誤っているかどうかは誰にもわからない(なぜならその狂信者にとっては正しいことだから)。
無知の知
わからないことがわからない。
わかっていないことがわかっていない。
そんなことはいくらでもある。自分が知っているのは、手のひらにシワがあることぐらいで、世の中で起きていることのほとんどは知らないし、知っているようなつもりになっていても本質的なことはなにもわかっていない。
他人に対してだってそれほど興味があるわけでもない。電車で車両を移ったらそこにはまったく別な人々がぎゅうぎゅうづめになっている。逆に自分の世界の遷移なんてそんなものだ。
自分が見えている世界は狭く、視野を広く持つのはとても難しい
せめてこのことだけは自覚していたい。これは謙虚であれとかそんなものではなくて、生きていく上での義務に近いものだと思う。だが、同時にそれは最も簡単なことかもしれない。
勉強ができたらそれでいいというわけではない