神奈川県相模原市の障害者施設で、多くの入所者が殺されるという痛ましい事件が起きてから、今日で1年。被害にあった方々のご冥福、健康の回復をお祈りする。
私には”いわゆる”障害を持った家族がいる。今は、両親とともに暮らしているが、以前は施設に入っていたので、まだ学生だった頃には送迎をしたり、施設の行事に参加したりしていた。障害者といっても、そこには色々な障害を持った人が暮らしていた。障害の種類によるもかもしれないけど、そこにいた人たちみんなとは顔見知りになり、言葉を交わすことができるくらいにはなった。
今、あの頃のことを思い出すと、現代社会における”障害者”と勝手に片付けている人たちとは一体なんなのかという疑問が生じる。単に、現代的な社会生活が困難だから、障害者という括りを作って区別しているだけのように思える。
読み書きができ、掛け算99が言えて、日本の首都を知っていて、朝顔を咲かせることができる。そういうことが、上手にできないからといって、区別して除外しているということが、障害者という言い方につながっている。そうやって区別された人の中には感性の豊かな人はたくさんいるし、優しい心を持った人も少なくない。会話しているうちに、自分のあり方とか、命について深く考えるようになることも多い。
それぞれが独立した存在だから、社会的弱者を比較することはできない。でも、弱いから社会のお荷物だなんだということはない。私自身、身体が不自由になったり、認知症になったということで世の中のお荷物扱いをされたくはない。だから健康な今、税金が社会的弱者といわれる人に使われることが間違いと思わないし、そのために働いているともいえる。
同じ人間、命に軽重をつけるということをしてはいけない。理由はいくらでもあるが、まずは、自分が弱者になるかもしれないということから考え始めてはどうだろう。
しなくてはいけないこととは何か
そう自分が考えるところからやっていくしかないですね。
自由で個性的でやさしく、それぞれ拘りが強いので頑固、皆さん実に人間的でした。
自活ができない人達に自活出来る人々が手を差し伸べるのは当然のことです。
彼らに自然に手を差し伸べる人間でありたいですね。