こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

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よりよく生きるにはどうしたらいい?

自分を看る

2015年03月08日 | 生き方について考える

今日のブログ、自分というのがどういうものなのかを考えてみようと書き出した。

自分と対話するとかいうタイトルを考えていたら、「じゃあ、まず自分をみることから始めてみたら?」と思った。

で、「みる」という言葉を入力したらいくつかの候補がでてきた。

「みる」にはいくつかの意味があるということだ。

それぞれの正しい意味は字引をひいてもらうとして、私なりの解釈を考えてみた。

「見る」と書くのは、最も一般的だろう。目を開けていれば飛び込んでくることそのもの。

目に入るものをどう捉え、どう考えるかはその人次第。

ただ、モノが見えるというこを当たり前とはせず、見えることに感謝している必要がある。

「観る」は、観光の「観」。

物見遊山といえば、それまでだけど素晴らしいものを観て、心を動かされることは大切なこと。

ともに心を動かしてくれる人がいたらもっといい。

「視る」は、どうだろう。

視覚視野とか視聴とか。

それなりに何かを意識して見ることを特に、視るいうのだろう。

注視する、という言い方もある。

「診る」も、考えてみればにたような字だ。

すぐに思いつくのは診察、診療。病理診断も「診る」ことの一つだ。

病んだ生き物を観察してみることが、「診る」だ。

自己分析のために、自分を見直すのも、「自分を診る」に近い行為なのかもしれない。

そして、最後は「看る」。

看護の看だ。

手当てすることを含めた、広い「みる」だ。

他者に対する直接の働きかけが、この「みる」には含まれている。

自分勝手にあちこちを「みている」のではない。

そして、多くの人にとって、一番大切なのはこの、「看る」という言葉だろうと思う。

他者との関係が存在する「みる」という行為は人間として生きていいく上で、もっとも基本的なものだ。

人が死ぬのを見届けることを、看取るという。

 

「看る」という字には、自分だけのことではないという意味が含まれている。

だが、自分自身を手当てできるのは最後は自分しかいない。

自分を見直す時、大事なのは自分を「看る」ことなのだろうと。

変換候補に羅列されている「みる」をみて思った。

 

自分自身を他者として捉え、かといって突き放さず、心をいたわる。

そんなふうに、自分を看てあげてもいいんじゃないのかな。


自分自身をいたわってあげて 
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