今日のブログ、自分というのがどういうものなのかを考えてみようと書き出した。
自分と対話するとかいうタイトルを考えていたら、「じゃあ、まず自分をみることから始めてみたら?」と思った。
で、「みる」という言葉を入力したらいくつかの候補がでてきた。
「みる」にはいくつかの意味があるということだ。
それぞれの正しい意味は字引をひいてもらうとして、私なりの解釈を考えてみた。
「見る」と書くのは、最も一般的だろう。目を開けていれば飛び込んでくることそのもの。
目に入るものをどう捉え、どう考えるかはその人次第。
ただ、モノが見えるというこを当たり前とはせず、見えることに感謝している必要がある。
「観る」は、観光の「観」。
物見遊山といえば、それまでだけど素晴らしいものを観て、心を動かされることは大切なこと。
ともに心を動かしてくれる人がいたらもっといい。
「視る」は、どうだろう。
視覚視野とか視聴とか。
それなりに何かを意識して見ることを特に、視るいうのだろう。
注視する、という言い方もある。
「診る」も、考えてみればにたような字だ。
すぐに思いつくのは診察、診療。病理診断も「診る」ことの一つだ。
病んだ生き物を観察してみることが、「診る」だ。
自己分析のために、自分を見直すのも、「自分を診る」に近い行為なのかもしれない。
そして、最後は「看る」。
看護の看だ。
手当てすることを含めた、広い「みる」だ。
他者に対する直接の働きかけが、この「みる」には含まれている。
自分勝手にあちこちを「みている」のではない。
そして、多くの人にとって、一番大切なのはこの、「看る」という言葉だろうと思う。
他者との関係が存在する「みる」という行為は人間として生きていいく上で、もっとも基本的なものだ。
人が死ぬのを見届けることを、看取るという。
「看る」という字には、自分だけのことではないという意味が含まれている。
だが、自分自身を手当てできるのは最後は自分しかいない。
自分を見直す時、大事なのは自分を「看る」ことなのだろうと。
変換候補に羅列されている「みる」をみて思った。
自分自身を他者として捉え、かといって突き放さず、心をいたわる。
そんなふうに、自分を看てあげてもいいんじゃないのかな。