ロシアによるウクライナ侵略で犠牲者が2000人とも3000人とも言われている。尋常ならざるその数とともに残骸となった建物の映像を見ると、戦争というものがいかに無益な破壊行為であるかがまざまざとわかる。一刻も早くやめてほしいが、ここでやめたらなんのために始めたかわからなくなってしまうので、その野望が達成されない限りロシアにその気はない。2年でも3年でもウクライナ全土を焦土とするまで終わらないかもしれない。ロシアの人皆がそんなことを考えているわけではなく、罪悪感のかけらもないのはプーチンと武器を振りかざして殺戮を続ける軍人達だ。この人たちを見ていると、人間はどの様にして他の人間を傷つけ、命を奪うことを自分の中で正当化することができるのかと疑問に思う。
物心つく頃、我欲を通そうとするところから他者への攻撃が始まる。それでもほとんどの人は、互いが尊重し合うことで、大人からの愛情、限られた遊具などが均等に与えられるということを学んでいく。それができなかったり、その必要がなかったりすることで、個人差が生まれていく。やがて知恵がつき、実体化できない欲求は、スポーツやゲーム、学問といった他人との競い合いに転化されるものの、それだけでは鬱屈する若さゆえの未熟なエネルギーのガス抜きには足らず、余力がいじめに向かう人もいる。
いじめを受け、深く傷つき自殺してしまう人、転校や引きこもりになってしまう人がいる一方で、いじめる側は何が悪いのかよくわかっていない。そもそもいじめと思っていないので、どんどんエスカレートする。指摘されてはじめて自分の罪に気がつく人もいるが、そうでない人も少なくない。さらには、自分で手を下すことなく傍観者としていじめを楽しんでいる人もいる。10〜15歳ぐらいでこういう性向は固定化され、矯正できないまま大人になっていく。今回のロシアの侵略行為は、私の目にはそんないじめにも映る。
戦争を悪と考えない人は当然いるし、そもそも戦争の捉え方も違う。非戦闘員だからといって野放しにしたらやがては戦闘員になるわけで、第2次世界大戦で日本が行なった兵隊の召集を思い出せばそれは自明だ。だから、民間人の殺戮は当然のこととされ、民間施設は後方支援施設となりうるので破壊するのも同様だ。世界中から残虐行為だと言われても、どうとでも正当化などできる。なぜ、人間はこう”都合よく”考えることができるのだろうか。
普遍的な価値観などというものは存在しないが、なんらかの善的な価値観を希求することは人間として存在することの義務であると思う。それは、身一つで生きる動物と違い、人間という存在が個人で存在することができないからだ。平和とは、人間社会の出した答えの一つであり、それすら必ずしも正解とは限らない。ただ、いじめ、戦争という、”やってはならないこと”というのは必ずあって、それらが犯されてはならない。
桃の節句