変貌する経済 自動車⑥ 日産“ゴーンプラン”15年
西武新宿駅から急行で約40分、東京都の北西の外れに東京ドーム23個分の広大な空間が広がっています。
かつて3000人以上が働き、日産自動車(本社・横浜市)の主力商品、マーチやスカイラインを生産していた村山工場跡地です。
通りかかった男性は正門があった場所を指し、「工場で30年以上働いていたが、当時の面影はどこにもない」とつぶやきました。
取り壊される直前の日産村山工場(2002年撮影)
現在の村山工場跡地=東京都武蔵村山市
凍り付いた空気
15年前の1999年10月18日、村山工場は生産ラインを止め、すべての労働者たちは、仏ルノーから最高執行責任者として乗り込んできたカルロス・ゴーン氏の「日産リバイバルプラン」発表の社内放送をテレビ画面で見ていました。
「村山工場での車両生産を2001年3月で中止する」
こう発表された瞬間、労働者たちは息をのみ呼吸さえも停止し、空気は凍りついた。放映終了と同時に、若い労働者が「畜生」と叫んだ。その声だけが響き、労働者は下を向き、職場は重苦しい空気に包まれた。
当時、全日本金属情報機器労働組合(JMIU)日産自動車支部委員長だった坂ノ下征稔(さかのした・まさとし)さんが雑誌に発表した手記は、緊迫した現場の姿を克明に刻んでいます(『労働運動』2000年1月号)。
バブル期の過剰投資などによって2兆5000億円の有利子負債を抱え、自力再建の道が閉ざされるなか、日産が選んだのは多国籍企業ルノーとの資本提携でした。
「経営者は事業失敗の責任を明らかにしないまま、労働者や下請けを切り捨てた。プラン発表前から工場閉鎖の動きがあることは分かっていたが、主力工場の村山を閉鎖するとは思っていなかった」
坂ノ下さんは当時を振り返り、そう語ります。
プランは、3万5000人の人員削減、村山工場はじめ国内5工場閉鎖、関連・下請け企業を半分以下にし、さらにコスト20%削減という、前例のないリストラ計画でした。
村山工場跡地は、大半が宗教法人に売却され、いまも手つかずのままです。労働者の大部分は追浜(おっぱま)工場(神奈川県)や栃木工場などに転勤しました。
日産では、多くの労働者が会社のすすめた持ち家政策によって、村山工場周辺に家を買っていました。
坂ノ下さんは、「転勤することができず退職した人や、長期の単身赴任に疲れて辞めた人もいる。いまも単身赴任を続けている人もいる」と語ります。
首切り繰り返す
労働者の生活と地域経済を破壊したリバイバルプラン発表から10年後の2009年2月9日。日産の技術開発の心臓部、日産テクニカルセンター(神奈川県厚木市)で技術派遣として働いていた阿部恭(やすし)さん(51)は、社内テレビでゴーン最高経営責任者の発表を見ていました。
トヨタのデザイナーの経歴を持ち、正社員に技術指導する立場にあった阿部さん。「すべての派遣契約を解除する」というゴーン氏の言葉にも、技術派遣は別だと考えていました。
「自分たちを切れば開発が止まる。切られるのは別の部署だと思っていた人もいたし、仮に切られてもまた戻ってくると思っていた人もいた」
阿部さんが派遣元から契約解除を告げられたのは、その1週間後でした。技術派遣3000人を含む2万人の大リストラの幕開けでした。(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2014年8月1日付掲載
労働者の暮らしを無視した、容赦のない工場閉鎖やリストラ・転勤。
いくら企業の経営改善と言っても、やっていいことと、ダメなことがあると思います。
西武新宿駅から急行で約40分、東京都の北西の外れに東京ドーム23個分の広大な空間が広がっています。
かつて3000人以上が働き、日産自動車(本社・横浜市)の主力商品、マーチやスカイラインを生産していた村山工場跡地です。
通りかかった男性は正門があった場所を指し、「工場で30年以上働いていたが、当時の面影はどこにもない」とつぶやきました。
取り壊される直前の日産村山工場(2002年撮影)
現在の村山工場跡地=東京都武蔵村山市
凍り付いた空気
15年前の1999年10月18日、村山工場は生産ラインを止め、すべての労働者たちは、仏ルノーから最高執行責任者として乗り込んできたカルロス・ゴーン氏の「日産リバイバルプラン」発表の社内放送をテレビ画面で見ていました。
「村山工場での車両生産を2001年3月で中止する」
こう発表された瞬間、労働者たちは息をのみ呼吸さえも停止し、空気は凍りついた。放映終了と同時に、若い労働者が「畜生」と叫んだ。その声だけが響き、労働者は下を向き、職場は重苦しい空気に包まれた。
当時、全日本金属情報機器労働組合(JMIU)日産自動車支部委員長だった坂ノ下征稔(さかのした・まさとし)さんが雑誌に発表した手記は、緊迫した現場の姿を克明に刻んでいます(『労働運動』2000年1月号)。
バブル期の過剰投資などによって2兆5000億円の有利子負債を抱え、自力再建の道が閉ざされるなか、日産が選んだのは多国籍企業ルノーとの資本提携でした。
「経営者は事業失敗の責任を明らかにしないまま、労働者や下請けを切り捨てた。プラン発表前から工場閉鎖の動きがあることは分かっていたが、主力工場の村山を閉鎖するとは思っていなかった」
坂ノ下さんは当時を振り返り、そう語ります。
プランは、3万5000人の人員削減、村山工場はじめ国内5工場閉鎖、関連・下請け企業を半分以下にし、さらにコスト20%削減という、前例のないリストラ計画でした。
村山工場跡地は、大半が宗教法人に売却され、いまも手つかずのままです。労働者の大部分は追浜(おっぱま)工場(神奈川県)や栃木工場などに転勤しました。
日産では、多くの労働者が会社のすすめた持ち家政策によって、村山工場周辺に家を買っていました。
坂ノ下さんは、「転勤することができず退職した人や、長期の単身赴任に疲れて辞めた人もいる。いまも単身赴任を続けている人もいる」と語ります。
首切り繰り返す
労働者の生活と地域経済を破壊したリバイバルプラン発表から10年後の2009年2月9日。日産の技術開発の心臓部、日産テクニカルセンター(神奈川県厚木市)で技術派遣として働いていた阿部恭(やすし)さん(51)は、社内テレビでゴーン最高経営責任者の発表を見ていました。
トヨタのデザイナーの経歴を持ち、正社員に技術指導する立場にあった阿部さん。「すべての派遣契約を解除する」というゴーン氏の言葉にも、技術派遣は別だと考えていました。
「自分たちを切れば開発が止まる。切られるのは別の部署だと思っていた人もいたし、仮に切られてもまた戻ってくると思っていた人もいた」
阿部さんが派遣元から契約解除を告げられたのは、その1週間後でした。技術派遣3000人を含む2万人の大リストラの幕開けでした。(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2014年8月1日付掲載
労働者の暮らしを無視した、容赦のない工場閉鎖やリストラ・転勤。
いくら企業の経営改善と言っても、やっていいことと、ダメなことがあると思います。