天気予報がなくなった日
太平洋戦争中、天気予報は軍事機密となり、ラジオや新聞から一切消えました。「市民に知らせることが禁じられ心苦しい思いをした」―。こう証言するのは、元気象庁気象研究所室長の増田善信さん(97)。当時、京都府宮津市にあった測候所に勤めていました。
(原千拓)
元気象庁気象研究所室長 増田善信さん(97)
1941年4月、中学校の教師の紹介で、宮津市の測候所に就職しました。測候所の職員は6人。無線機から流れるモールス信号による気象電報を天気図に起こす作業や、午前5時から午後7時まで毎時の気象観測などの仕事に追われる日々でした。
暗号化情報が
その年の12月8日。日本軍がハワイ・真珠湾の米軍に攻撃をしかけ、太平洋戦争が開戦。午後6時すぎ、1人で無線を受ける準備をしていると、これまでとまったく違う気象電報が流れてきました。
「戦争が始まった日だから違ったことが起こったのかもしれない」。急いで所長に報告しました。
所長は驚きもせずに「きたか」。金庫から乱数表を取り出し、増田さんと解読作業にあたりました。
電報は暗号化された気象情報でした。陸海両軍が気象報道管制を施行。空襲などの作戦で重要になる天気予報は軍事機密となったのです。
海が荒れても
それから終戦までの約3年8カ月の間、ラジオや新聞から天気予報が消えました。住民に天気予報を知らせることも禁じられていたといいます。
「日本海側の近畿地方では、冬になると『欺隔天気』といって低気圧が近づくと快晴になることがある。その低気圧が秋田あたりへ移動するとものすごく発達した低気圧に変わり海が荒れる。一番怖い現象だ。その予報を知っていても外海に行く漁師さんに教えられない。大変心苦しい思いをした」
測候所に漁師がきてもはっきりとは言えず「今日はこんなに天気がいいけれど、明日はどうですかね」と答えるくらいでした。増田さんは「天気予報がなくなることは戦争状態と同じ意味。二度とそのような時代をつくってはならない」と強調します。
宮津測候所の仲間たち(右から2人目が増田さん)と、百葉箱の前で(増田さん提供)
国民の力で社会は変わる
元気象庁気象研究所室長の増田普信さんは、1944年に海軍に入隊します。翌年3月に気象観測技術などを養成する海軍気象学校(茨城県)に入学。その後、島根県の大社基地に少尉として配属されました。
被害知らせず
この間、国内では大きな自然災害に相次いで見舞われました。42年8月の周防灘(すおうなだ)台風は、西日本の広域に被害をもたらし死者行方不明者が約1200人にのぼりました。
地震では、鳥取地震(43年9月)、東南海地震(44年12月)、三河地震(45年1月)が発生。いずれも1000人以上の死者を出しました。
当時、気象報道管制が敷かれていたため、周防灘台風は上陸後に暴風警報の発令が1回発表されただけでした。台風の位置や速度、進行方向などの情報は住民には伝えられなかったといいます。
「東南海地震では津波による大変な被害が出た。国は一切知らせなかったし、私も一般の人たちも知らなかった。三河地震では東京から疎開していた子どもたちがたくさん亡くなったが、親にも知らされることはなかった」
戦後、当時の報告書や独自の調査で被害状況を初めて知ったといいます。報告書の表紙には「マル秘」と記載されていました。
「三河地方には、航空機の製造工場がたくさんあった。外国に戦力が落ちたことを隠すためだと考えられるが、子どもの死まで伏せなければいけないなんて…」
「神風」なんか
終戦直前に増田さんは数回にわたり、沖縄方面に飛び立つ特攻隊員たちに、黒板に天気図を貼って航路や那覇上空の天気予報の説明をしました。大社基地から6、7機の編隊を3~4時間かけて組み、夕焼けの中を南西の方向に飛んで行く姿を見送りました。
「日本が勝たないといけないという思いがあると同時に、みすみす死ぬことがわかっているのに果たしてこれでいいのかと考えていた。気象の専門家として『神風』なんか吹きっこないということは十分知っていたが、口に出して言えなかった」
敗戦後の45年8月22日、ラジオと新聞に天気予報が復活しました。
「家の明かりが外に漏れないようにする灯火管制がなくなったことと、天気予報が復活したことで多くの国民は戦争が終わったと実感した。天気予報は平和のシンポルだ」と力を込めます。
戦後は気象庁で予報官として勤務。核兵器廃絶の運動に長年関わり「黒い雨」裁判でも被爆者救済のために尽力してきました。
「半生を振り返ると、社会はどんどん変化していく。国民のたたかいによって変えられることを実感している」。増田さんはこう続けます。
「ついに核兵器禁止条約が成立し、核兵器が非合法な兵器になった。日本の原水爆禁止運動から始まり被爆者が世界各地で被ばくの事実を伝え続けてきたことで国際的に支持され実現した。黒い雨裁判も国の上告を止めさせることができた。将来的に希望が持てる社会だ。みんなで取り組めば核兵器廃絶は早く実現するということを多くの人たちに伝えたい」
「しんぶん赤旗」日刊紙 2021年8月15日付掲載
太平洋戦争開戦の1941年12月8日。それから終戦までの約3年8カ月の間、ラジオや新聞から天気予報が消えました。住民に天気予報を知らせることも禁じられていた。
「東南海地震では津波による大変な被害が出た。国は一切知らせなかったし、私も一般の人たちも知らなかった。三河地震では東京から疎開していた子どもたちがたくさん亡くなったが、親にも知らされることはなかった」
「三河地方には、航空機の製造工場がたくさんあった。外国に戦力が落ちたことを隠すためだと考えられるが、子どもの死まで伏せなければいけないなんて…」
「家の明かりが外に漏れないようにする灯火管制がなくなったことと、天気予報が復活したことで多くの国民は戦争が終わったと実感した。天気予報は平和のシンポルだ」と。
「半生を振り返ると、社会はどんどん変化していく。国民のたたかいによって変えられることを実感している」
太平洋戦争中、天気予報は軍事機密となり、ラジオや新聞から一切消えました。「市民に知らせることが禁じられ心苦しい思いをした」―。こう証言するのは、元気象庁気象研究所室長の増田善信さん(97)。当時、京都府宮津市にあった測候所に勤めていました。
(原千拓)
元気象庁気象研究所室長 増田善信さん(97)
1941年4月、中学校の教師の紹介で、宮津市の測候所に就職しました。測候所の職員は6人。無線機から流れるモールス信号による気象電報を天気図に起こす作業や、午前5時から午後7時まで毎時の気象観測などの仕事に追われる日々でした。
暗号化情報が
その年の12月8日。日本軍がハワイ・真珠湾の米軍に攻撃をしかけ、太平洋戦争が開戦。午後6時すぎ、1人で無線を受ける準備をしていると、これまでとまったく違う気象電報が流れてきました。
「戦争が始まった日だから違ったことが起こったのかもしれない」。急いで所長に報告しました。
所長は驚きもせずに「きたか」。金庫から乱数表を取り出し、増田さんと解読作業にあたりました。
電報は暗号化された気象情報でした。陸海両軍が気象報道管制を施行。空襲などの作戦で重要になる天気予報は軍事機密となったのです。
海が荒れても
それから終戦までの約3年8カ月の間、ラジオや新聞から天気予報が消えました。住民に天気予報を知らせることも禁じられていたといいます。
「日本海側の近畿地方では、冬になると『欺隔天気』といって低気圧が近づくと快晴になることがある。その低気圧が秋田あたりへ移動するとものすごく発達した低気圧に変わり海が荒れる。一番怖い現象だ。その予報を知っていても外海に行く漁師さんに教えられない。大変心苦しい思いをした」
測候所に漁師がきてもはっきりとは言えず「今日はこんなに天気がいいけれど、明日はどうですかね」と答えるくらいでした。増田さんは「天気予報がなくなることは戦争状態と同じ意味。二度とそのような時代をつくってはならない」と強調します。
宮津測候所の仲間たち(右から2人目が増田さん)と、百葉箱の前で(増田さん提供)
国民の力で社会は変わる
元気象庁気象研究所室長の増田普信さんは、1944年に海軍に入隊します。翌年3月に気象観測技術などを養成する海軍気象学校(茨城県)に入学。その後、島根県の大社基地に少尉として配属されました。
被害知らせず
この間、国内では大きな自然災害に相次いで見舞われました。42年8月の周防灘(すおうなだ)台風は、西日本の広域に被害をもたらし死者行方不明者が約1200人にのぼりました。
地震では、鳥取地震(43年9月)、東南海地震(44年12月)、三河地震(45年1月)が発生。いずれも1000人以上の死者を出しました。
当時、気象報道管制が敷かれていたため、周防灘台風は上陸後に暴風警報の発令が1回発表されただけでした。台風の位置や速度、進行方向などの情報は住民には伝えられなかったといいます。
「東南海地震では津波による大変な被害が出た。国は一切知らせなかったし、私も一般の人たちも知らなかった。三河地震では東京から疎開していた子どもたちがたくさん亡くなったが、親にも知らされることはなかった」
戦後、当時の報告書や独自の調査で被害状況を初めて知ったといいます。報告書の表紙には「マル秘」と記載されていました。
「三河地方には、航空機の製造工場がたくさんあった。外国に戦力が落ちたことを隠すためだと考えられるが、子どもの死まで伏せなければいけないなんて…」
「神風」なんか
終戦直前に増田さんは数回にわたり、沖縄方面に飛び立つ特攻隊員たちに、黒板に天気図を貼って航路や那覇上空の天気予報の説明をしました。大社基地から6、7機の編隊を3~4時間かけて組み、夕焼けの中を南西の方向に飛んで行く姿を見送りました。
「日本が勝たないといけないという思いがあると同時に、みすみす死ぬことがわかっているのに果たしてこれでいいのかと考えていた。気象の専門家として『神風』なんか吹きっこないということは十分知っていたが、口に出して言えなかった」
敗戦後の45年8月22日、ラジオと新聞に天気予報が復活しました。
「家の明かりが外に漏れないようにする灯火管制がなくなったことと、天気予報が復活したことで多くの国民は戦争が終わったと実感した。天気予報は平和のシンポルだ」と力を込めます。
戦後は気象庁で予報官として勤務。核兵器廃絶の運動に長年関わり「黒い雨」裁判でも被爆者救済のために尽力してきました。
「半生を振り返ると、社会はどんどん変化していく。国民のたたかいによって変えられることを実感している」。増田さんはこう続けます。
「ついに核兵器禁止条約が成立し、核兵器が非合法な兵器になった。日本の原水爆禁止運動から始まり被爆者が世界各地で被ばくの事実を伝え続けてきたことで国際的に支持され実現した。黒い雨裁判も国の上告を止めさせることができた。将来的に希望が持てる社会だ。みんなで取り組めば核兵器廃絶は早く実現するということを多くの人たちに伝えたい」
「しんぶん赤旗」日刊紙 2021年8月15日付掲載
太平洋戦争開戦の1941年12月8日。それから終戦までの約3年8カ月の間、ラジオや新聞から天気予報が消えました。住民に天気予報を知らせることも禁じられていた。
「東南海地震では津波による大変な被害が出た。国は一切知らせなかったし、私も一般の人たちも知らなかった。三河地震では東京から疎開していた子どもたちがたくさん亡くなったが、親にも知らされることはなかった」
「三河地方には、航空機の製造工場がたくさんあった。外国に戦力が落ちたことを隠すためだと考えられるが、子どもの死まで伏せなければいけないなんて…」
「家の明かりが外に漏れないようにする灯火管制がなくなったことと、天気予報が復活したことで多くの国民は戦争が終わったと実感した。天気予報は平和のシンポルだ」と。
「半生を振り返ると、社会はどんどん変化していく。国民のたたかいによって変えられることを実感している」