この人に聞きたい 作家・落合恵子さん 第5回 7年にわたり母を介護 支えるはずが支えられ
〈母親をみおくって13年になります。晩年は認知症となり、84歳で亡くなった母ですが、およそ7年にわたる介護を通して、この社会で老いを生きることの困難さを痛感させられました。母より先に自分が死ぬことを最も恐れながらの日々でした〉
母は、机の上での学問を積んだわけではないのですが、人の痛みに対する想像力は豊かでした。苦労もしたけれど、その苦労で大事なものがすり減らなかった。自らが痛みを強く味わってきたからこそ他者への想像力と共感力を育んだのでしょう。そのことを、敬意をもって思い出します。
母を介護していたころ(本人提供)
祖母も差別され
〈戦争中に未婚で出産を決意した母。出産の際「わたしのところに来てくれて、ほんとにありがとう」と、心から祝福したことを、落合さんが15歳のころに話しました。落合さんは物心ついて以来、働きづめで苦労続きの母親を心配してきました〉
苦労した母に、そんなに気を遣うことはないんだよ、お母さんはもっと自由に幸せになる権利がある、とずっと思ってきました。そうしてくれないと、私が自由になれないからと。
後になって、早くに夫を亡くした祖母も「男手のない家=兵隊を出せない家」という世間の偏見の被害者だと分かるようになりました。それまでは、母に対する祖母の厳しさに怒っていたんですけれど。ひとつの差別は連鎖し、再生産されてたくさんの被害を生む。これは、コロナ禍のいまもまた改めて考えなければならないことだと思います。
社会を見る“窓”
〈喪失体験を小説『泣きかたをわすれていた』にまとめ、いろいろな反響がありました。エッセー『決定版 母に歌う子守唄』ではこう記しました。「介護に、ここまですれば充分、というゴールはない」「介護しているつもりの母に、その存在にわたしが支られていたという紛れもない事実が、見送った日からずっと、わたしの中には在る」〉
いまは母が亡くなったことを優しく悲しめる時間の中に、私はいます。ようやくたどりつけたのです。でも、亡くなった直後は違いました。もっと心が乱れました。介護保険が始まったばかりで、どなたに聞いても明確な答えが返ってこないことに焦り、読み解く余裕も、当事者である私にはなかった。いまはようやく、悲しみという優しい気持ちになれています。それでも、着地したつもりの悲しみが、小さな新聞記事で火がついたりすることがあります。
いまは、老後の資金への不安やコロナ禍で医療がひっ迫しているなど、「安らかな最期」が想像しにくくなってしまいました。高齢者と子どもがどう生きているか。これは社会の状態が見える“窓”です。長寿や誕生が素直に祝福できないような日本。なんと貧しい社会になったんでしょう。そうさせてしまった政治の責任は重いです。
やはり私たちは、あきらめずに異議申し立てをし続けなければ。ひどい現実に対し「ひどい」と叫び続けないとダメです。それでどうなるかはわかりませんが、あきらめたら終わり、ということだけは確かです。明確な答えが出なくても、声をあげる権利は私たちにはある。だから声をあげ続けよう。
敗戦の年に生まれたひとりの子どもとして、私は民主主義の本当のかたちと表情を求め続けながら最期を迎えたい。ひとりの人間が、自分のためにそれほどたいしたことはできません。他の誰かのためにも。でも、誰かの一瞬の喜びのために動くことは可能です。
母の存命中、母が一瞬でもほほえんでくれたらと、音楽に合わせて踊ってみたり、歌ってみたり。母の一瞬の笑顔のために、自分は何ができるか夢中で考えました。それと同じです。誰かの一瞬の喜びのために何かしたいと願っている人は、世界中にいっぱいいると思います。そのネットワークが何らかのかたちになれば、それが今現在の私の、『明るい覚悟』です。(おわり)
「しんぶん赤旗」日曜版 2020年12月20日付掲載
高齢者と子どもがどう生きているか。これは社会の状態が見える“窓”です。長寿や誕生が素直に祝福できないような日本。なんと貧しい社会になったんでしょう。そうさせてしまった政治の責任は重い。
そのためにも、ひどい現実に対し「ひどい」と叫び続けないとダメ。
〈母親をみおくって13年になります。晩年は認知症となり、84歳で亡くなった母ですが、およそ7年にわたる介護を通して、この社会で老いを生きることの困難さを痛感させられました。母より先に自分が死ぬことを最も恐れながらの日々でした〉
母は、机の上での学問を積んだわけではないのですが、人の痛みに対する想像力は豊かでした。苦労もしたけれど、その苦労で大事なものがすり減らなかった。自らが痛みを強く味わってきたからこそ他者への想像力と共感力を育んだのでしょう。そのことを、敬意をもって思い出します。
母を介護していたころ(本人提供)
祖母も差別され
〈戦争中に未婚で出産を決意した母。出産の際「わたしのところに来てくれて、ほんとにありがとう」と、心から祝福したことを、落合さんが15歳のころに話しました。落合さんは物心ついて以来、働きづめで苦労続きの母親を心配してきました〉
苦労した母に、そんなに気を遣うことはないんだよ、お母さんはもっと自由に幸せになる権利がある、とずっと思ってきました。そうしてくれないと、私が自由になれないからと。
後になって、早くに夫を亡くした祖母も「男手のない家=兵隊を出せない家」という世間の偏見の被害者だと分かるようになりました。それまでは、母に対する祖母の厳しさに怒っていたんですけれど。ひとつの差別は連鎖し、再生産されてたくさんの被害を生む。これは、コロナ禍のいまもまた改めて考えなければならないことだと思います。
社会を見る“窓”
〈喪失体験を小説『泣きかたをわすれていた』にまとめ、いろいろな反響がありました。エッセー『決定版 母に歌う子守唄』ではこう記しました。「介護に、ここまですれば充分、というゴールはない」「介護しているつもりの母に、その存在にわたしが支られていたという紛れもない事実が、見送った日からずっと、わたしの中には在る」〉
いまは母が亡くなったことを優しく悲しめる時間の中に、私はいます。ようやくたどりつけたのです。でも、亡くなった直後は違いました。もっと心が乱れました。介護保険が始まったばかりで、どなたに聞いても明確な答えが返ってこないことに焦り、読み解く余裕も、当事者である私にはなかった。いまはようやく、悲しみという優しい気持ちになれています。それでも、着地したつもりの悲しみが、小さな新聞記事で火がついたりすることがあります。
いまは、老後の資金への不安やコロナ禍で医療がひっ迫しているなど、「安らかな最期」が想像しにくくなってしまいました。高齢者と子どもがどう生きているか。これは社会の状態が見える“窓”です。長寿や誕生が素直に祝福できないような日本。なんと貧しい社会になったんでしょう。そうさせてしまった政治の責任は重いです。
やはり私たちは、あきらめずに異議申し立てをし続けなければ。ひどい現実に対し「ひどい」と叫び続けないとダメです。それでどうなるかはわかりませんが、あきらめたら終わり、ということだけは確かです。明確な答えが出なくても、声をあげる権利は私たちにはある。だから声をあげ続けよう。
敗戦の年に生まれたひとりの子どもとして、私は民主主義の本当のかたちと表情を求め続けながら最期を迎えたい。ひとりの人間が、自分のためにそれほどたいしたことはできません。他の誰かのためにも。でも、誰かの一瞬の喜びのために動くことは可能です。
母の存命中、母が一瞬でもほほえんでくれたらと、音楽に合わせて踊ってみたり、歌ってみたり。母の一瞬の笑顔のために、自分は何ができるか夢中で考えました。それと同じです。誰かの一瞬の喜びのために何かしたいと願っている人は、世界中にいっぱいいると思います。そのネットワークが何らかのかたちになれば、それが今現在の私の、『明るい覚悟』です。(おわり)
「しんぶん赤旗」日曜版 2020年12月20日付掲載
高齢者と子どもがどう生きているか。これは社会の状態が見える“窓”です。長寿や誕生が素直に祝福できないような日本。なんと貧しい社会になったんでしょう。そうさせてしまった政治の責任は重い。
そのためにも、ひどい現実に対し「ひどい」と叫び続けないとダメ。
もうお済みになられましたか?
お亡くなりになった年に、六道珍皇寺でお参りなさいませんでしたか?多分、私の横に座ってくださった方が落合落合恵子さんだったと思います。あの時は私も息子をなくし気が動転して、悲しみに暮れてましたので、お顔をよく見ませんでした。でもそうなんじゃないかなぁと思ってます背中を優しく優しくさすってくれましたね。思い出すと涙が出てきます。早いものでもう13回忌、その節はありがとうございました。いちどお会いしたいものです。私は1946年の生まれです。あの頃の母子家庭は今では想像できない位大変でした。お母様はよく頑張ってこられたと思います。