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思い出の中継ぎ投手(鹿取義隆)

2009-09-12 13:02:26 | 他スポーツ
今日は珍しく野球ネタで、巨人で中継ぎ、西武で抑えを務めた鹿取義隆元投手の思い出です。巨人時代の鹿取は、当時の野球漫画で王監督が「ピッチャー鹿取」と毎回コールするのがネタになるほど、毎日のように投げていました。それは余裕がなく毎日緊急ミーティングを開いていた王監督への皮肉でもありました。

そんな鹿取を支えていたのは、明大時代は陸上部にいるのではと思うほど走らされたという、当時の島岡御大のハードなトレーニングと、ブルペンに入って15球投げれば肩はできるという仕上がりの早さでした。これは中継ぎ投手には重要なファクターで、いつ先発投手が崩れるかわからないという状態でベンチに入っている鹿取には、いつでも便利に使ってもらえるという証明でもありました。

ただ、そんな鹿取は1990年に巨人から西武へのトレードを経験します。西武では、それまで経験したことのなかった抑えというポジションにつきます。今と違って、抑え投手は9回1イニングしか投げないという文化はなかった頃でしたが、当時の西武には潮崎という、これも中継ぎ向きの投手が加入しており、終盤のイニングを潮崎、鹿取で分担できるのは本人にとって楽でした。

鹿取は西武で最優秀救援投手(セーブ王)という、初めてのタイトルを取ると、それからのパリーグ4連覇に大いに貢献します。一番印象に残っているのは、完投でも完封でもないけれど、それ以上に価値があると言われた、パーフェクトリリーフの記憶です。当時、1回の表に2点入れた西武でしたが、その裏に先発投手が崩れて、3失点します。

その先発投手には見切りをつけた森監督でしたが、こんな状態で救援に出せるのは、ブルペンに入れば15球で肩ができる鹿取しかいませんでした。そのピンチをしのいだ鹿取は、しり上がりに調子を上げ、何と最後まで投げきって勝ち投手になってしまいます。8回2/3を投げた会心のリリーフは、今でも私の記憶に鮮明に残っています。

鹿取は40歳を迎えた1996年シーズン限りで引退し、その後は巨人の投手コーチになったり、立ち上げ時の「欽ちゃん球団」の事実上の監督になったりしています。今どうしているかはわかりませんが、野球にかかわっていられればいいなと思っています。
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