Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

ユキヤナギ

2020-03-29 21:05:49 | 埼玉
近所で見かける、ユキヤナギの小さな花が見頃を迎えました。どうしても枝が動く、風のある日は写真に撮りにくい花ですが、カメラの性能が上がったことでそれなりの一枚になりました。
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長谷部誠の記憶

2020-03-29 19:38:50 | 浦和レッズ
今日は雪の影響で自宅缶詰だったので、撮り貯めていたビデオから、ブンデスリーガのレバークーゼン対フランクフルトを見ていました。長谷部は4-1-4-1のアンカーで出場していましたが、相手に運動量で上回られ、アンカーの横を狙われ続けたことでフランクフルトは0-4という惨敗に終わりました。そのため、試合の記事よりは長谷部の記憶を書こうと切り替えました。

長谷部は2002年、前年にオランダに移籍した小野伸二の移籍金4億円を使って、次世代のヒーローを発掘しようとしていた浦和に高卒で入団します。本人にとっては「(無名の自分のところに)なぜスカウトが来る?」と意外なオファーでした。入団初年度の2002年は、サテライトリーグが定位置で、観客もまばらな川越陸上競技場でのプレーを見たことがあります。

当時の長谷部は、背番号も32と大きく、トップ下でセットプレーなどは任されていましたが、すぐにトップに上げて大丈夫な様子には見えませんでした。しかし、翌年は背番号も17と期待されるようになり、トップ下に予定していた元ブラジル代表のエジムンドの突然の退団で空いたトップ下に抜擢されて、開幕戦の鹿島とのアウェイ戦で先発出場しました。

このときの長谷部のプレーは落ち着いており、2トップの永井とエメルソンに正確にボールを供給できていました。今振り返ると、長谷部という選手は驚くようなスルーパスを狙うMFではなく、空いているスペースを見分けて確実にパスを出すMFだったと思います。このプレーで信頼を得た長谷部は、オフト監督にトップ下とボランチ両方で起用されて多くの試合に出場しました。

翌年、ギドが監督に就任した2004年は、ボランチに名古屋から酒井友之を補強され、長谷部としては厳しいシーズンになる恐れもありました。しかし、長谷部は酒井の挑戦を跳ね返し、鈴木啓太と長谷部のダブルボランチが、欧州に移籍するまでの4年間で定番のコンビになりました。当時のことを長谷部は「後ろは啓太君が何とかしてくれるから思い切って上がっていい」とギドに言われていたと明かしています。

埼スタの磐田戦で50m独走ゴールを決めるなど、浦和に十分貢献してくれた長谷部は、ドイツのボルフスブルクに2008年シーズンから移籍して浦和を去ります。それから12年、未だにドイツでプレーし、奥寺康彦氏が持っていた日本人ブンデスリーガ最多出場記録を塗り替えるほどの選手になりました。川越のサテライト時代を覚えているオールドファンの私としては、長谷部はずいぶん遠いところに行ってしまったのが正直な印象です。
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