そろそろ、記憶ネタでどこまで持たせられるか気になってきましたが、写真がある限り思い出はあるということで、現在ドイツ2部ハノーファーに所属する原口元気選手の記憶です。原口は少年時代から「江南南サッカー少年団に上手い選手がいる」と熊谷周辺では噂に上るほどの選手でした。浦和レッズにはジュニアユースから在籍します。
もっとも、当時の原口は上手いものの、チームのために犠牲になるという精神に欠けるところがあったと、ジュニアユース時代に指導した池田伸康コーチ(現ユース監督)の証言です。そんな原口にチームプレーを教えたことで、ユース時代は高円宮杯優勝を果たした黄金世代の一人になるまで成長します。トップ昇格は17歳(高校3年生)のときで、浦和史上でも高校卒業以前のプロは彼一人です。
当時のトップチームは若手を多く抜擢したフィンケ監督が率いており、原口は開幕戦の鹿島戦でいきなりスタメンで出番を得ることになります。左MFでスタメン出場した原口は、「ロビー(ポンテ)には怒られてばかりだった」と当時を振り返っていましたが、ポンテのサッカーセンスについていけるだけのサッカー頭脳を持っていました。
原口といえばドリブルです。2010年のC大阪戦で決めた、自陣からの長い距離をドリブルで独走したゴールは今でも思い出せます。当時、C大阪のボランチが、このくらいなら止められるだろうという間合いの寄せを逆に取った独走は、低迷期の浦和にとって希望でした。その後、浦和に移籍金が入るようにと、あえて3年契約を結んだ誠意も、浦和サポにとっては感動的でした。
原口は2013年、契約を半年残した時点でドイツのヘルタ・ベルリンに完全移籍します。このときの移籍金は8000万円で、その一部を使ってレッズランドに「原口コート」というフットサルコートを作りました。その後の原口は、日本代表のハリルホジッチ監督に認められ、最終予選4試合連続ゴールを決めて代表選手へと上り詰めていきます。
もっとも、ドイツでの彼のプレーを見ていると、攻撃よりは守備で持ち味の運動量を使わされている印象は受けます。攻められる選手ですが、日本人特有のチームのために犠牲になれる精神で評価されるのはちょっと複雑です。この辺りで日本に戻って、ドリブルで展開を打開できる能力を見せて欲しいかなと時々思います。
もっとも、当時の原口は上手いものの、チームのために犠牲になるという精神に欠けるところがあったと、ジュニアユース時代に指導した池田伸康コーチ(現ユース監督)の証言です。そんな原口にチームプレーを教えたことで、ユース時代は高円宮杯優勝を果たした黄金世代の一人になるまで成長します。トップ昇格は17歳(高校3年生)のときで、浦和史上でも高校卒業以前のプロは彼一人です。
当時のトップチームは若手を多く抜擢したフィンケ監督が率いており、原口は開幕戦の鹿島戦でいきなりスタメンで出番を得ることになります。左MFでスタメン出場した原口は、「ロビー(ポンテ)には怒られてばかりだった」と当時を振り返っていましたが、ポンテのサッカーセンスについていけるだけのサッカー頭脳を持っていました。
原口といえばドリブルです。2010年のC大阪戦で決めた、自陣からの長い距離をドリブルで独走したゴールは今でも思い出せます。当時、C大阪のボランチが、このくらいなら止められるだろうという間合いの寄せを逆に取った独走は、低迷期の浦和にとって希望でした。その後、浦和に移籍金が入るようにと、あえて3年契約を結んだ誠意も、浦和サポにとっては感動的でした。
原口は2013年、契約を半年残した時点でドイツのヘルタ・ベルリンに完全移籍します。このときの移籍金は8000万円で、その一部を使ってレッズランドに「原口コート」というフットサルコートを作りました。その後の原口は、日本代表のハリルホジッチ監督に認められ、最終予選4試合連続ゴールを決めて代表選手へと上り詰めていきます。
もっとも、ドイツでの彼のプレーを見ていると、攻撃よりは守備で持ち味の運動量を使わされている印象は受けます。攻められる選手ですが、日本人特有のチームのために犠牲になれる精神で評価されるのはちょっと複雑です。この辺りで日本に戻って、ドリブルで展開を打開できる能力を見せて欲しいかなと時々思います。