Kobby loves 埼玉&レッズ

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山梨学院対帝京長岡

2021-01-09 17:18:18 | 高校サッカー
テレビが見られるようになったので、高校サッカー選手権の準決勝、山梨学院対帝京長岡を見ていました。こういう、どういうチームかがわからない試合を見るときは序盤に注目しますが、いきなり山梨学院がミドルシュートのこぼれ球を押し込んで1点を先制する、波乱含みのスタートでした。

山梨学院は、どちらかと言えば堅守速攻タイプですが、攻撃できる状況になったときの集中力が優れています。たとえ、攻撃を完結できなくても前からプレッシャーに行って奪い返して、2次攻撃、3次攻撃をすることができます。そうやって、相手にカウンター攻撃を許さなかったので、準決勝までの4試合を4得点と少ない点を守り切って勝てたのでしょう。

そのまま、山梨学院が攻め続ければ大差になる試合かと思われましたが、次第に帝京長岡の良さも見えてきました。帝京長岡の良さは、グラウンドの幅を最大限に生かしたパスサッカーです。これで帝京長岡の方にボールが回るようになり、山梨学院は自陣に2ラインを引いて我慢する展開になります。

それでも、帝京長岡は最後のシュートをなかなか枠に飛ばすことができず、攻めてはいるもののゴールが遠い内容でした。こうなってくると、山梨学院の持っている粘り強さが効いてきて、ロングスローをDFの3番が頭で合わせるシュートで2-0とします。しかし、これで勝負は着きませんでした。帝京長岡がCBを下げて攻撃的MFを入れるギャンブルを打ったことで流れが出て、ゴール前でフリーになったキャプテンの14番のゴールで1点を返します。

その後の試合は、帝京長岡がパスを回し、山梨学院はロングボールを前線に収めてから反撃の機会をうかがうという展開でした。山梨学院のロングボールは、見た目は美しくないものの勝つためには一つの手段で、かつて高校サッカーを席巻した国見高校を思わせる手堅い策でした。逃げ切りが見えてきそうな終盤、帝京長岡が右サイドからクロスを入れると、山梨学院14番がゴール前でファウルしてPKになります。

このPKは帝京長岡キャプテンが真ん中に蹴る大胆なキックで同点となり、この好勝負は90分で決着が着かずPK戦にもつれ込みます。そのPK戦も波乱含みでした。ゲーム中にPKを決めて精神的に優位かと思われた帝京長岡キャプテンが、一人目で山梨学院GKに止められます。二度は真ん中に蹴っては来ないだろうという読みもあったのでしょう。

帝京長岡は二人目がまさかのキックミスで外し、帝京長岡のGKが1年生という経験の差が出るかと思っていました。しかし、この1年生GKが山梨学院のPKを二度止め、帝京長岡の4人目が成功すれば同点というところまでもつれ込みます。

結果的には、この4人目を山梨学院GKが止めたことでこの勝負は終わりました。しかし、好対照だった両チームのサッカーが、最後までぶつかり合ったこの試合は名勝負でした。山梨学院は決勝に進出します。青森山田は今大会最強チームですが、その粘りがどこまで通用するか楽しみです。
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貴ノ浪の記憶

2021-01-09 10:49:15 | 他スポーツ
困ったときは昔の力士を思い出す、いつもの私のパターンで、元大関貴ノ浪(故人)の記憶です。貴ノ浪は青森県三沢市の出身で、普通の力士には「努力すれば強くなるよ」という藤島親方(元大関貴ノ花)が、思わず「努力すれば」を抜いてしまったというエピソードがあります。

貴ノ浪がいた頃の藤島部屋は、一学年上に元横綱若乃花、一学年下に元横綱貴乃花、兄弟子には安芸乃島や貴闘力がいた、活気のある部屋でした。当時の藤島部屋は「仕切り一回待ったなし」で稽古の番数を増やしており、一日100番などの稽古量もざらでした。当時の藤島親方が「もっと稽古量を抑えろ」と異例の指示を送ったほどです。

貴ノ浪の四股名は、本名の浪岡から取っていますが、この名前になったタイミングに妙がありました。幕下から十両に昇進するときに、成績的に昇進を意識しておらずラッキーな昇進だったので、とりあえず四股名を用意したのが「貴ノ浪」でした。三役に昇進すれば変えるつもりだったかもしれませんが、結果的にこの急造四股名が大関の名前になりました。

相撲ぶりは長い手足を生かして、はりま投げや河津掛けなど大型力士でなければできない勝ち方ができる力士でした。意外にも小兵をさばくのはうまく、当時の小兵舞の海にはほとんど負けていない相性の良さを誇っています。相手に潜られるような不利な体勢からでも、力で少しずつ優位に持ってこられました。

貴ノ浪の記録に、当時の新記録だった武蔵丸との対戦回数の多さがありました。こんな記録が実現したのは、貴ノ浪と武蔵丸がほぼ同じ時期に入幕して、大関昇進も同じ時期で、必然的に何度も対戦したからです。貴ノ浪本人はこの記録のことを「勲章」と呼び、晩年大関を陥落した後も武蔵丸と対戦できる位置を守ろうと努力していました。のちに稀勢の里と琴奨菊が更新しましたが、当時の懐かしい記憶です。

引退後は年寄「音羽山」を襲名して、貴乃花部屋の部屋付き親方をしていました。元幼稚園の先生と結婚したという知らせも聞きました。今後の人生の幸せを願っていましたが、脳梗塞で倒れ、44歳の若さで帰らぬ人となってしまいました。私の青春時代の関取衆が、この世を去るニュースは悲しいですが、また新しい力士が育ってくれることを期待して、これからも大相撲を見ることでしょう。
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