季節はすっかり冬へ向かい、何度か話題にした桜の紅葉もわずかに残るだけになりました。その中で唯一秋の雰囲気を残すのは写真の銀杏の木です。私の大学に銀杏の木があって、散る頃には分厚いコートを着て手袋をはめていたことを思い出します。
現在はクラブW杯になって発展的に解消された、旧トヨタカップの思い出です。1981年に欧州CL王者と南米王者が戦うインターコンチネンタルカップを中立地の日本で一発勝負の形にしたのがトヨタカップの始まりです。親善試合で海外クラブを呼んだりはしていた日本ですが、本当のトップレベルの試合を呼びたいと思って、広告代理店が目に付けたのが欧州王者が南米に行くのを嫌がっていたインターコンチネンタルカップでした。
このトヨタカップのチケットは毎年開始すぐに売り切れるプレミアチケットで、自力では一度も取ったことがありません。知人経由で入手したのが1996年、97年、チケットショップで割高なチケットを取ったのが1998年です。クラブW杯になってからチケットの価格が大幅に高くなったので、即日完売はしなくなりましたが、連日電話と格闘したのは苦しい思い出です。
試合の思い出はいろいろあります。1994年あたりから映像で見るようになりました。その1994年はACミラン対ベレスはベレスのパラグアイ代表GKチラベルトが世界的に有名になる最初の試合でした。印象に残っているのはベレスのFWアサドで、マラドーナのように背の低い筋肉質の体型でドリブルの切れは抜群という選手でした。
1996年のユベントス対リバープレートは当時若手だったジダンが来日した試合で、ユベントスが4-3-3のプレッシングサッカーをトップ下しかできないジダンに合わせて変えていたことが驚きでした。1-0でユベントスが勝ったのですが、その1点が右45度のデルピエロゾーンからの得点でした。
1997年のドルトムント対クルゼイロの試合は、クルゼイロが勝つためなら何でもするとブラジル代表FWベベットらを3ヶ月レンタルで借りて問題になった試合です。ただ、彼ら急造戦力はチームに融合しておらず、これ以降その手を使うチームはなくなりました。一番印象に残っているのはドルトムントの3バックで、当時加茂監督が率いていた日本代表の3バックはリベロの位置が深くオフサイドは取りに行かないシステムでした。
当時のドルトムントは、3人のDFはゾーンで守る、後のトルシエジャパンで見られた守り方で、アウトサイドが引いたりリベロが横に回ったりする、DFラインの連係が一番印象的でした。他の試合は、機会があったらまた書きます。
このトヨタカップのチケットは毎年開始すぐに売り切れるプレミアチケットで、自力では一度も取ったことがありません。知人経由で入手したのが1996年、97年、チケットショップで割高なチケットを取ったのが1998年です。クラブW杯になってからチケットの価格が大幅に高くなったので、即日完売はしなくなりましたが、連日電話と格闘したのは苦しい思い出です。
試合の思い出はいろいろあります。1994年あたりから映像で見るようになりました。その1994年はACミラン対ベレスはベレスのパラグアイ代表GKチラベルトが世界的に有名になる最初の試合でした。印象に残っているのはベレスのFWアサドで、マラドーナのように背の低い筋肉質の体型でドリブルの切れは抜群という選手でした。
1996年のユベントス対リバープレートは当時若手だったジダンが来日した試合で、ユベントスが4-3-3のプレッシングサッカーをトップ下しかできないジダンに合わせて変えていたことが驚きでした。1-0でユベントスが勝ったのですが、その1点が右45度のデルピエロゾーンからの得点でした。
1997年のドルトムント対クルゼイロの試合は、クルゼイロが勝つためなら何でもするとブラジル代表FWベベットらを3ヶ月レンタルで借りて問題になった試合です。ただ、彼ら急造戦力はチームに融合しておらず、これ以降その手を使うチームはなくなりました。一番印象に残っているのはドルトムントの3バックで、当時加茂監督が率いていた日本代表の3バックはリベロの位置が深くオフサイドは取りに行かないシステムでした。
当時のドルトムントは、3人のDFはゾーンで守る、後のトルシエジャパンで見られた守り方で、アウトサイドが引いたりリベロが横に回ったりする、DFラインの連係が一番印象的でした。他の試合は、機会があったらまた書きます。