(前項より続き)
昭和36年に国民健康保険が誕生するまでは、一部のお金持ち以外(特に
高齢者は)、大病しても自宅で開業医の往診を受けるのがせいぜいでした。
しかし国民皆保険制度のおかげ(?)で「お年寄りが自宅で家族に見守ら
れながら亡くなる在宅死は消滅の一途」をたどりました。こうしてお年寄りが
死にそうになると、病院へ送られ、医師と看護士が終末期の面倒を
みて、最期を看取るという形が人々の常識となった。」(49頁)
その結果、病院での死亡が増え、<身近で自然な死>に立ち会う機会が
激減しました。・・・・・・特養や老健施設スタッフでさえ、「見取りとは、病院で
いろいろな管に繋がれて亡くなっていくことだ」と考える人が増え、
「看取りはしない」と決めている施設も多いようです。著者の夫君はそう
いった施設の長に再就職して、「施設での看取り宣言」をするのですが、
病院や老人福祉に携わる医療関係者に広がっている<高齢者の自然死への
無理解>の壁にぶち当たります。
さらに問題を深刻化させているのが<胃瘻(いろう)>技術の進歩です。
簡単な局所麻酔・内視鏡だけで行える手術のおかげで、「人は食べられなく
なったら、枯れ木のように痩せていって、息絶える」という常識が覆り
ました。食べられなくてもチューブで鼻や胃から栄養を送り込めるのです。
ヨーロッパでは<老衰で食べられなくなった人にこのような処置をする
ことはない>そうですが・・・。
ところが日本の医療制度は「患者への治療」主体で、医療報酬が処置に
対する点数制度であるため(?)、病院経営が大変な時代ゆえ、大掛かりな
延命措置患者を入院させ続けることは、大きな収入の確保に繋がっている
ようです。
このように人々の意識や制度の問題が複雑に絡み合っているので、
親どころか自分自身の理想の終末さえ、ままならない時代のようです。
私たちは「そんなこととは知らなかった!」「悔しい!」と言わないで
すむように、良い情報や書籍に接して、医療制度を良い方向に推し進めて
いく裾野になりたいと思います。
昭和36年に国民健康保険が誕生するまでは、一部のお金持ち以外(特に
高齢者は)、大病しても自宅で開業医の往診を受けるのがせいぜいでした。
しかし国民皆保険制度のおかげ(?)で「お年寄りが自宅で家族に見守ら
れながら亡くなる在宅死は消滅の一途」をたどりました。こうしてお年寄りが
死にそうになると、病院へ送られ、医師と看護士が終末期の面倒を
みて、最期を看取るという形が人々の常識となった。」(49頁)
その結果、病院での死亡が増え、<身近で自然な死>に立ち会う機会が
激減しました。・・・・・・特養や老健施設スタッフでさえ、「見取りとは、病院で
いろいろな管に繋がれて亡くなっていくことだ」と考える人が増え、
「看取りはしない」と決めている施設も多いようです。著者の夫君はそう
いった施設の長に再就職して、「施設での看取り宣言」をするのですが、
病院や老人福祉に携わる医療関係者に広がっている<高齢者の自然死への
無理解>の壁にぶち当たります。
さらに問題を深刻化させているのが<胃瘻(いろう)>技術の進歩です。
簡単な局所麻酔・内視鏡だけで行える手術のおかげで、「人は食べられなく
なったら、枯れ木のように痩せていって、息絶える」という常識が覆り
ました。食べられなくてもチューブで鼻や胃から栄養を送り込めるのです。
ヨーロッパでは<老衰で食べられなくなった人にこのような処置をする
ことはない>そうですが・・・。
ところが日本の医療制度は「患者への治療」主体で、医療報酬が処置に
対する点数制度であるため(?)、病院経営が大変な時代ゆえ、大掛かりな
延命措置患者を入院させ続けることは、大きな収入の確保に繋がっている
ようです。
このように人々の意識や制度の問題が複雑に絡み合っているので、
親どころか自分自身の理想の終末さえ、ままならない時代のようです。
私たちは「そんなこととは知らなかった!」「悔しい!」と言わないで
すむように、良い情報や書籍に接して、医療制度を良い方向に推し進めて
いく裾野になりたいと思います。
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