7月15日発行の【落穂拾い】。
題名は、「念仏&仏仏相念」でした。
8月1日(金)~3日(土)から開催した【くりのみ会】伊豆稲取ワークショップで参加の皆さんにお読みいただきました。
カウンセリングの勉強を続けているTさんから“一本”の打ち込みをもらいました。
Tさん 「“念”に関してですが、大事なことが抜けています」
聞 者 「大事なことですか?教えてください!」
Tさん 「ハイ。“念”の一字を二つにしてください」
聞 者 「“今”と“心”になりますね」
Tさん 「そうです。カウンセリングでも、“いまここでの心(気持)”が要ですよね」
聞 者 「“一本とられました”(二人笑)。道元さんには、“而今(にこん)”」の教えがありますね」
Tさんの教えの通りです。
「ただ今念仏をする」「いまこの瞬間に声を出す」「今そのものがお念仏」が大事です。
法然さんの『無量寿経釈』に次の文があります。(大橋俊雄現代語訳)
問い。『無量寿経』には十念と記され、善導の『観念法門』には十声といっているが、念と声との意味しているところは同一であるか、否か。
答え。念と声とは、まったく同一である。どうして知ることができるかといえば、『観無量寿経』の下品下生には「声がとぎれないように十たび念じて南無阿弥陀仏ととなえれば、仏のみ名をとなえた功徳により、ひとつひとつの念の中に八十億劫もの長いあいだ、生まれかわり死にかわりして重ねた罪を取り除くことができる」と説かれているからである。〈以上〉今、この文と第十八念仏往生の願と照らしあわせて考えると、声とは念のことであり、念はそのまま声であるという意味が明かになる。そればかりではない。『大集経』日蔵分には「大きな念によって大きな仏を見、小さな念によって小さな仏を見る」とあるが、懐感はこの文をを解釈して「大きな念とは大きな声で念仏することであり、小さな念とは小さな声で念仏することである」と述べている。この文によれば念と声とはひとつのものであり、念とは唱えると読むべきことを知ってほしい。
念仏とは、ただ今、「南無阿弥陀仏」と発声することです。