『毎田周一全集 第四巻』から
浄土論に曰く、
世尊、我れ一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつりて、
安楽国に生ぜんと願ず。
彼の世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。
究竟じて虚空の如し。
広大にして辺際無し、とのたまへり。已上
天親は、私は真理の前に、真実の前へ跪くといはれる。
そしてその真理・真実は、天親によって、
尽十方無碍光如来として把握されてゐる。
無碍光とは何処までも及んでゆく動的な光である。
碍りがないとは碍りを乗りこえてゆくといふことである。
この無碍に動性がある。
そして一方をこの無碍という言葉は碍りあることを前提し想定してゐる。
無碍とは碍りがあって碍りがないといふことである。
碍りがあってもそれが一向碍りとならぬをいふことである。
ところで碍りとは何であるか。
人間の煩悩である。
人間に煩悩があっても、それが一向邪魔とはならないといふ、
その脱落が無碍である。
むしろその煩悩が、動的な光の必須欠くべからざる要素なのである。
煩悩あることをそのまゝが光なのである。
むしろ煩悩あらしめる光である。
こゝに於いて光とは生命である。
無碍光は生命そのものである。
光は実は命の象徴なのである。
だから動的な光、光の動性といつたのである。
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