尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

最高傑作『浮雲』、映画も原作も凄い-林芙美子を読む③

2024年02月13日 22時30分17秒 | 本 (日本文学)
 林芙美子を読むシリーズ3回目。いよいよ最高傑作の呼び声高い『浮雲』(うきぐも)を読みたい。成瀬巳喜男監督による映画『浮雲』が好きすぎて、今まで原作を読まずに来てしまった。読んでみたら原作も大傑作で、間違いなく林芙美子の代表作である。雑誌『風雪』『文學界』に1949年から1951年まで連載され、1951年4月に出版された。林芙美子は1951年6月28日に47歳で急逝するから、ギリギリで完成したのである。梅崎春生幻花』や色川武大狂人日記』などと同じ。よくぞ間に合ってくれた。

 『浮雲』は現在も新潮文庫に大活字本で生き残っている。その気になればすぐ読めるわけだが、注がないから困る人がいるかも。この小説をあえて簡単に書くと、「仏印」で出会って「屋久島」で死ぬ女、幸田ゆき子の「不倫」の生涯をたどる物語である。ところで当時は誰もが知っていた「仏印」が今では判らず、今では誰もが知る「世界遺産の島屋久島」が作中ではそんな島があるのと言われている。原作当時は奄美諸島が米軍に占領されていて(1953年に返還)、映画は屋久島を「国境の島」と呼んでいる。
(映画『浮雲』)
 映画『浮雲』(1955)は成瀬巳喜男監督の最高傑作というだけでなく、日本映画史上ベストワン級の映画である。少なくとも僕は、小津安二郎東京物語』や黒澤明生きる』よりも、この『浮雲』の方がずっと好きだ。『東京物語』や『生きる』に出て来る登場人物はどこにでもいそうな庶民ばかりだが、それでも人間はかくも気高いのかと思わせる瞬間がある。一方この『浮雲』は「どうしようもない人物」「どうしようもない人生」の物語なのだが、そこにこそ惹かれてしまうのは何故だろう。幸田ゆき子が出会った農林省技官富岡謙吾は、幸田ゆき子に輪を掛けたどうしようもない人物で、ほとんど「悪人」と言ってもよい。それでもこの富岡を「悪人」として排斥してしまえば、『浮雲』という小説・映画、そして世界そのものも理解出来なくなる。
(二人は再会するが)
 富岡とゆき子は1943年に「仏印」(ふついん=フランス領インドシナ、現在のベトナム、カンボジア、ラオス)で出会った。具体的には南ベトナム中部の高原リゾート都市ダラットである。農林省でタイピストをしていたゆき子は、妻子ある「義弟」伊庭(いば、姉の夫の弟)に陵辱され処女を失った。日本を逃れたくて徴用に応じて仏印に来たのである。そこにある研究所に派遣されていたのが富岡で、彼には日本に妻があったがゆき子と結ばれてしまう。富岡は現地女性ニウとも情を交わし妊娠させていた。研究所にはゆき子に惹かれていた独身の若い加野がいたにもかかわらず、ゆき子は富岡に惹かれていくのである。
(ダラット)(地図)
 そんなバカなと言ってしまえる人はこの物語が理解出来ない。原作も映画もその道行は十分理解可能である。よく知られているように、映画ではゆき子を高峰秀子、富岡を森雅之が演じたが、二人とも生涯のベストだろう。特に有島武郎の子である新劇俳優森雅之は日本映画史上最高の「色悪」を演じている。これが成瀬監督もよく使った二枚目の上原謙(加山雄三の父)だったら、戦争で崩れ去ったインテリの虚無が出なかっただろう。映画を見ている人は、読んでいて映画の主役二人の顔がチラつくのを避けられない。でも、それでも大丈夫。映画は当時としては大作の124分だが、水木洋子の脚本が素晴らしい。基本的に原作通りなのだが、実に本質をとらえた脚本になっている。映画を見ていても原作鑑賞に何の支障もない。

 戦争に負け、何とか日本に復員したゆき子は富岡に電報で帰国を知らせたが、一向に反応がない。仏印では日本で待っているという話で、二人で暮らせると思って帰ったのである。実家に寄る気もなく、やむなく東京の伊庭の家に行くと伊庭も疎開中。勝手に居付いて富岡の家まで押し掛ける。その後いろいろあるが、単に妻がいるということだけでなく富岡はすっかり変わっていた。ゆき子も米兵と付き合ったり、いろいろあるのだが富岡を忘れられない。誘われて伊香保温泉まで付いていくが、富岡は死ぬつもりだった。しかし、宿泊代にするため時計を売ろうとして、飲み屋で「おせい」(岡田茉莉子)とその夫と知り合う。
(おせい=岡田茉莉子)
 富岡は今度はそのおせいと親しくなってしまうのだから、さすがの早業である。もともと妻の邦子も友人の妻だったのを「略奪結婚」したのである。しかし、敗戦後の富岡はもはや妻には何の魅力も感じない。単に「女にだらしない」というより、信じるものなき「虚無」が現在の境遇を脱出したい女を引きつけてしまうのか。富岡とゆき子が泊まったのは「金太夫」で、伊香保を代表する名旅館の一つだったが今は伊東園グループになってしまったのも時勢というものか。伊香保で富岡とゆき子が入浴するシーンは映画で見た方が昔の温泉ぽくて良い。小説で読んでも名場面である。結局、おせいと会ったこともあり、富岡は死ぬ気を無くしてしまった。年末年始だから誰も客がいないとされるのも敗戦直後らしい。
(映画の伊香保)(現在のホテル金太夫)
 さて、こうやって書いてると終わらないが、東京へ戻ったゆき子には苦難が続く。やむを得ず伊庭を頼ると、今は新興宗教の事務担当ナンバー2として羽振りがよくなっていた。そこでは「ゆき子さま」などと呼ばれて豪華な暮らしが出来たのである。話が後半に入ると、単に「不倫」に止まらず「殺人」や「横領」まで出て来るが、さすがに富岡もこれではいかんと考えて昔の友人に頼んで屋久島の営林所に就職することにする。ゆき子も付いていって、鹿児島で病に伏す。そんなどうしようもない二人の戦後を描くが、要するに二人とも「戦時中の輝き」が失われたのである。戦争中に一番輝いていた結びつきだったのだ。

 フィリピンや南洋諸島、あるいは「満州」などに派遣されていたら、彼らには悲惨な悲劇が待っていた。しかし、「仏印」は米英軍との主戦場にならなかった。空襲は少しあったようだが、本格的な地上戦を経験せずに済んだ。しかも、フランス人が開発したリゾート地に「支配者」として住めたので、ゆき子の生涯で一番楽しかったのである。引き揚げや空襲で大変な苦労をした人が周りに一杯いたから大きな声では言えないけれど、二人にとって戦争中こそ最高に輝いていたのである。戦争の苦労、敗戦の解放を語る言説は一杯あるけれど、庶民のホンネにはそういう思いもあったのだ。

 どうしようもない二人で、読んでいて(映画を見ていて)どうにもやるせないんだけど、僕らはこの二人を見放せない。それは林芙美子の力量だろうが、もっと基本的には「これが日本人」だからだろう。この煮え切らず、くっついたり離れたりを繰り返す男女の姿に自分を見るのである。もっとスパッと割り切って前向きに生きていくべきだと他人なら言えるが、紛れもなくここに「自分」も表現されているからむげに否定出来ないのである。僕はこのグズグズした二人の映画に昔から惹かれていて、4回か5回は見てると思う。今後も見たいと思う。そこに「日本人の真実」があるからだ。原作も素晴らしい出来映えで、最初の方こそ登場人物の視点変換にしっくりこないが、すぐ慣れてしまった。「現代小説」じゃなく「近代小説」だから、それで良いのである。
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伊吹有喜『犬がいた季節』、高校に犬がいた!感動の青春小説

2024年02月02日 22時32分07秒 | 本 (日本文学)
 伊吹有喜(いぶき・ゆき、1969~)『犬がいた季節』(双葉文庫、800円+税)という小説を読んだ。「本屋大賞第3位!」という帯と白い犬と二人の高校生を描くカバー・イラスト(金子恵)を本屋で見たら買わずにいられない。犬が好きな人なら気持ちが判るはず。2020年に出た本で、1月に文庫化されたばかり。ちなみにその年の本屋大賞は町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』、次点は青山美智子『お探し物は図書室まで』だった。著者の名前も覚えてなかったが、映画化された『ミッドナイト・バス』『四十九日のレシピ』の原作者で、『ミッドナイト・バス』『彼方の友へ』『雲を紡ぐ』で3回直木賞にノミネートされている。

 この小説は四日市市(三重県)の高校で白い犬(雑種とされる)が飼われて、数多くの高校生とともに生きた話である。というと松本深志高校の実話をもとにした映画『さよなら、クロ』(2003、松岡錠司監督)を思い出す人もいるだろう。調べてみると、その映画は昭和30年代半ばから10年ほどが舞台だった。映画製作時点から大体40年ほど前になる。一方『犬がいた季節』は1988年(昭和63年)の夏休み明け、つまり結果的に「平成初の卒業生」になった生徒たちから始まる。全部で5章あって、最後が2000年3月の卒業生。それに2019年の最終章があるが、ほぼ20世紀最後の10年間を描いている。
(伊吹有喜)
 この時間設定が絶妙なのである。出て来る話題、ヒット曲なんかが多くの人にとって懐かしいだろう。そして何より「あの頃」、つまり進路について迷い人生の岐路にあった自分を思い出して、登場人物たちの決断にドキドキしてしまう。つまり「犬小説」というより「高校生小説」だった。(「犬小説」を読みたい人は、『馳星周感動の犬小説、「ソウルメイト」2部作』を是非。)犬の名は「コーシロー」という。美術部の部室で早瀨光史郞という芸大志望の生徒がいつも座る椅子に座ってた。だから、なんとなく名前が付いてしまった。学校に迷い込んだらしい。(実は違うんだけど、生徒は事情を知らない。)皆で話合い、取りあえず里親募集のポスターを作ろうとなり、美術部前部長の塩見優花が書きかけのポスターを家に持ち帰る。

 塩見優花は湯の山温泉近くのパン工房の長女で、兄は高卒でパン屋で働いている。犬を飼いたいけれど、祖母が食べ物屋で動物はダメと言うに決まっている。進路をめぐっても、受かるかどうかは別にして、本当は東京の大学にもチャレンジしてみたい。それも許されるかどうか。モヤモヤして成績もピリッとしない。美術部も一番緩いと聞いて入っただけで、そこへ行くと同級生の早瀨は本当に絵に打ち込んでいる。早瀨は時々遅くなってパンを買いに来ることがある。ある日聞いたら、絵を描くときに消しゴムみたいに使うんだと言った。この塩見優花は結果的にこの小説のキーパーソンになり、第1章にもずいぶん多くの伏線があるのだが、それはともかく地方に住む女子高生の進路の悩みがリアルに迫ってくる。
(三重県立四日市高校)(校章の八稜)
 塩見らが通う高校は「三重県立八稜高校」とされ、略称「八高」(はちこう)だから犬がいるのに相応しいと言われている。そう思って付けた校名かと思うと、そうじゃない。著者は三重県有数の進学校である四日市高校の卒業生で、その高校の校章は上に示した画像のように「八稜形」をしている。本書公刊後に著者は母校の同窓会で講演していて、母校がモデルだと明かしている。近鉄富田駅近くという設定も同じである。そして解説を読むと、なんと四日市高校にはホントに「幸四郎」という犬がいたんだと出ている。実際は茶色い犬で、1974年から1985年までいたという。著者は69年生まれだから、最晩年の幸四郎を見たはずだ。
 
 なお、四日市高校は2回甲子園に出ていて、1955年夏には初出場で優勝している。卒業生にはイオン創業者の岡田卓也、映画監督の藤田敏八、作家の丹羽文雄田村泰次郎、イラストレーターの大橋歩らの他、数多くの衆参国会議員、四日市市長などがいる。異色な人として、1972年にテルアビブ高校で乱射事件を起こした3人の1人、安田安之がいる。(事件で死亡。)
(四日市ふれあい牧場)
 最初の話で長くなってしまったが、以後鈴鹿サーキットでアイルトン・セナを見た話、阪神淡路大震災で被災した祖母を引き取る話、八高生としては異色な、ロックバンドで活動したり、裏で「援助交際」してる生徒の話なんかが展開される。その間生徒たちは「コーシロー会」を結成して、部活とも生徒会とも違う形で犬の世話を続けてきた。時々コーシローの心の声が出て来るが、春になって桜の匂いがしてくると、世話してくれた人たちはいなくなる。そのことをコーシローは理解していく。彼らは時々戻って来るけど、大体は二度と会えない。ところが塩見優花は5章で再び戻って来る。ちょうど犬の寿命を考えると…という頃である。まあ、僕には予想通りだったから書いてしまうと、東京の大学を出た塩見優花が母校の教師に戻って来るのである。
(四日市の夜景)
 5章は1999年、ノストラダムスの大予言の年、四日市ふるさと牧場がモデルだという牧場主の孫が八高生となっている。祖父は今入院中。そして塩見先生の母親も。バブル崩壊後の10年に何があったのか。四日市の夜景を見ながら、振り返ることになる。人生はままならないんだけど、コーシローは人間を優しく見つめてきた。小説としては都合良く進みすぎる箇所が多く、どうなんだろうなと思う展開が多い。それは母校を舞台にしたためかもしれない。案外、犬小説という感じがしないけど、青春小説のドキドキ感は十分味わえる。自分の飼ってた犬は家族のケンカを一生懸命止めてたから、コーシローみたいに人間の恋心に気付く犬もいるかな。
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時代に先駆けた「女ひとり旅」ー林芙美子を読む②

2024年01月28日 22時30分19秒 | 本 (日本文学)
 林芙美子の旅行記が文庫に2冊入っている。一つは岩波文庫の『下駄で歩いた巴里』で、2003年に出て今も入手出来る。その本のことは知っていたが、中公文庫でも2022年に『愉快なる地図 台湾・樺太・パリへ』という本が出ていることに気付いた。この両書にはけっこう同じ文章が入っていて、最初は損したかなと思ったけど、日本各地の紀行は前者、台湾紀行は後者にしかないので、やはり両方読む意味はある。同じ文章なのに、後者では「下駄で歩いたパリー」とカタカナになっているのが不思議。
(中公文庫)
 作家が旅行記を書くことは多い。ここでもブルース・チャトウィンパタゴニア』とかポール・セローユーラシア大陸鉄道大紀行(『鉄道大バザール』『ゴースト・トレインは東の星へ』)などを紹介した。他にもスタインベックが愛犬とともにアメリカを旅した『チャーリーとの旅』も良い。日本でも『土佐日記』の昔から様々な紀行があり、西行、芭蕉など旅に死す放浪詩人が文人の理想だった。現代でも梨木香歩エストニア紀行』、村上春樹遠い太鼓』『辺境・近境』などいっぱい思いつく。一生懸命探せばもっといろいろ見つかるだろう。
(岩波文庫)
 林芙美子の紀行は素晴らしく面白いんだけど、まとまったものではない。お金もないのに外国へ飛び出し、雑誌や新聞に書き送ったような印象記が多い。だけど、文章が生き生きとしているし、何よりも旅することが好き。天性の旅行者だったのである。それは幼い頃から行商の両親に連れられて各地を転々とした生育歴から来るものだろう。だから林芙美子は「旅のことを考えると、お金も家も名誉も何もいりません。恋だって私はすててしまいます。」(林芙美子選集第7巻あとがき)と言い切る。
(パリの林芙美子)
 実際に林芙美子は結婚して夫がいても、常にひとり旅を好んだ。パリロンドンまで、シベリア鉄道でひとり旅。「満州」や北京へもひとり旅。樺太北海道もひとり旅なのである。言葉も判らず、一人でシベリア鉄道に乗って「社会主義社会」の中を行く。ソ連幻想に全く冒されていない林芙美子は冷静にソ連社会の貧しさを見つめている。と同時にロシア人の温かさも印象的に書き残す。パリでも一人で宿を借り、半年も滞在する。カフェへ行ってクロワッサンを食べ、バゲットをかじりながら街を行く。

 とても100年近く昔の女性とは思えない。「女ひとり旅」はずっと難しかった。旅館がなかなか泊めてくれないのである。何か事情があり自殺しに旅に出たのかと思われた。70年代に「アンアン」「ノンノ」などを持った女性の旅ブームが起きたが、友人同士で旅するものだった。『男はつらいよ 柴又慕情』では事情を抱えた吉永小百合が友人2人と3人で旅に出て寅さんと知り合う。女が一人で旅しているのは、ドサ回りの三流歌手リリー(浅丘ルリ子)ぐらいのものである。70年代でもそんな感じだったのに、1930年代に林芙美子は一人で植民地を旅して、一人で飲み屋に入る。その自由なエネルギーが素晴らしい。

 時代はちょうど満州事変から日中戦争へ至る頃である。戦争が近づく足音を聞きながら、満州からシベリアへ入る。満州事変直前にハルピンに行くのも貴重な証言になっている。ヨーロッパでは中国人が開く抗日集会にも出掛けて共感している。世界中どこでも皆愛国者だと感じたのである。まだ『放浪記』がベストセラーになる前、ようやく多少知られてきた時に台湾への講演旅行メンバーに選ばれた。それはひとり旅じゃなく、総督府へのあいさつ回りなどを強いられ迷惑だった。その後一人で旅に出るのは、その影響もあるかもしれない。しかし、どこでも街へ出て一人で飲み食べ、自分で感じている。
 
 樺太(サハリン)への旅も凄い。もちろん当時日本領だった「南樺太」を訪れたのだが、これもスポンサーなしのひとり旅である。今のように飛行機で行ける時代じゃない。鉄道を延々と乗り継ぎ津軽海峡、宗谷海峡を船で越えるのである。そして着いた樺太では枯れ山が目立つことを見落としていない。王子製紙による乱伐の影響である。そして北へ北へと旅をし、現地の子どもたちを教える小学校に出掛ける。見るべきものを見ている旅人だったのである。そして旅行者として凄みを感じたのは、その樺太からの帰途、ふと思い立って滝川で下車して道東に出掛けたことである。
(北海道滝川で泊まった三浦華園)
 滝川はもうすぐ途中まで廃線となる根室本線への分岐で、そこで泊まった上記画像の宿は今も残っているらしい。そして釧路まで行って、摩周湖などを見ている。ひとり旅と言っても、全部自分で手配するのではなく、現地の新聞社などの支援を受けているが、それにしても樺太一人旅の直後にさらに思い立って下車するなんて、どういう人だろう。また伊豆の下田へ行った紀行では、1934年に始まった黒船祭を記録した。もうすぐ戦争となる日米関係だが、その時はグルー大使が駆逐艦に乗って下田まで来て大歓迎を受けた。そんな記述も貴重な証言である。
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林芙美子を読む①戦争を生きた女たち

2024年01月21日 22時28分03秒 | 本 (日本文学)
 林芙美子(1903~1951)の小説を読んでいる。前からちゃんと読んでみたいと思っていた。成瀬巳喜男監督による林芙美子原作の映画は好きだけど、実はほとんど読んでなかったのである。『放浪記』を読んだことはある。最初は面白いんだけど、同じような繰り返しが延々と続いて飽きてしまった。作家の柚木麻子が『放浪記』を「魔改造日記」と呼んでいて、なるほどと納得した。建て増しを重ねた温泉旅館みたいになってしまった作品なのである。そう書いてあるのは、2023年5月に出た『柚木麻子と読む 林芙美子』(中公文庫)で、その本を読んだことをきっかけにこの機会に他も読んでみようと思った。

 林芙美子は昭和前期に活躍した多くの女性作家たちの中では、今も一番知名度があって読まれている人だろう。だけどやっぱり、名前は聞いたことがあるけど、読んだことはない人が多いと思う。文章は非常に読みやすく、今でも全然古びてない。しかし、何となく敬遠している人はいると思う。一つは男女のもつれた関係を主に描いた「風俗作家」という思い込み。もう一つは戦時下に報道班員として中国や東南アジアに赴いた「従軍作家」、もっと言えば「戦犯作家」という評価である。そして、特に戦後は大人気作家として数多くの雑誌、新聞に書き散らして推敲の時間も取れなかった「早書き作家」という決めつけである。

 しかし、読んでみると「早すぎる晩年」にいっぱい書いた多くの短編も完成されている。変にあれこれ推敲するより、勢いに乗って書いてるエネルギーが感じられる。今回読んでみて、代表作とされる『放浪記』『浮雲』から入ると大変なので、「ちくま日本文学」(文庫版の文学全集)の『林芙美子』を最初に読むのが良いんじゃないかと思った。これには中短編しか収録されてないので、簡単に読める。前に読んでいて大好きな初期作品『風琴と魚の町』(1931)が小説の最初に入っている。母と(母より大分年下の)養父とともに行商で訪れた尾道の描写である。今じゃ大林宣彦映画で知られる尾道だが、それ以前は林芙美子で知られていた。
(ちくま日本文学)
 それで判ることは林芙美子が天性の詩人だったことである。尾道に居付いて学校に通えるようになり、女学校に進学する。その頃から地元新聞に詩や短歌を発表していた。(当時は柿沼陽子というペンネームを使っていた。)そこから散文に移行するのは苦労したらしい。初期の『風琴と魚の町』や『魚の序文』『清貧の書』などは冷徹なリアリズム描写を身に付ける前のメルヘン的な作風になっている。それが欠点とならず、詩情と郷愁が巧みに織りなされている。『風琴と魚の町』は近代短編小説のベスト級ではないかと思う。尾道の小学校や女学校の教師もよく芙美子の才能を見逃さず援助し続けたものだ。
(若い頃の林芙美子)
 母の姉妹に転々と預けられる子どもを描く『泣虫小僧』(1934)も名品で、1938年に豊田四郎監督によって映画になった。「ちくま日本文学」に入っている作品の後ろ半分は、皆「戦争」が登場人物の人生を大きく変えている。『下町』(ダウン・タウン)はシベリア抑留から帰らぬ夫を待って行商をしている女が、ふと親切な男に巡り会うが…。この作品は千葉泰樹監督の中編映画『下町』(1957)の原作だが、映画は全く同じ筋だった。原作で主人公の男は山田五十鈴の写真を貼っているが、映画で行商女を山田五十鈴が演じているのが面白い。(男は三船敏郎。)

 『魚介』は日中戦争下、伊豆天城の温泉場の酌婦たちが仕事がなくなって「満州」まで稼ぎに行く。『河沙魚』(かわはぜ)は夫が召集されている銃後の女の悲劇。さらに講談社文芸文庫にある『晩菊 水仙 白鷺』に収録された戦後に書かれた短編集はもっと直接に「戦争」を描く。というか、戦争時代を生きていたから、戦争で変貌する女の姿を描くしかなかったのである。『晩菊』を読むと、映画で主人公を演じた杉村春子がいかに凄いかがよく判る。数年前までは軍需産業などで羽振りがよかった男も、戦争に敗れると皆没落した。戦前は玄人女を「世話」出来た男たちが、戦後は昔なじみの女を頼るしかなくなっている。

 時代の変遷と悲哀をこれほど鋭く描いた作品は少ないだろう。もはや「詩情」は裏に隠れて、冷徹なリアリズムに徹している。子どもを抱えて、時には体を売ったり、子を捨てたりしてまで生きていかざるを得ない女たち。「敗戦を抱きしめ」ることが出来ない女たちのリアルがここにある。民衆の中から出て来た林芙美子の作品には、様々な民衆像が描かれる。女も男も等身大で描かれ、特に偉くもないが何とか生きている。それでも男はダメになっていっても、女は生き抜くのである。

 今までどちらかと言えば、やはり「女と男」を描いた作家と思われてきた林芙美子を、むしろシスターフッド(女同士の連帯)の作家として読み直すのが、一番最初に紹介した柚月麻子である。今まで他の作品集に収録されてこなかった作品の中に、そういう作風の小説があるという。そこで見られる「ふてぶてしさ」こそが魅力なのだと言う。確かに『寿司』など実に興味深い。『市立女学校』は名前こそ変えてあるが、尾道の女学校時代を形象化した作品でとても貴重だ。「貧困」と「食」と「性」があからさまに語られ、同時代の男性作家からは低く見られたのかもしれない。だけど、新しい「貧困」と「戦争」の世紀を生き抜くために、女も男も林芙美子を再発見する価値がある。
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藤野千夜『じい散歩』『じい散歩 妻の反乱』を読む

2023年12月18日 21時55分37秒 | 本 (日本文学)
 散歩の話を先に書いてしまったが、じゃあ『じい散歩』と続編の『じい散歩 妻の反乱』はどういう小説だろうか。非常に巧みなユーモア小説で、文章的に引っ掛かるところはほぼないだろう。後は内容の問題で、ウーン、へえなど結構考えさせられる所が多い。「老人散歩小説」というかつてないジャンルだけに、自分と比べ合わせて思うことがあるわけだ。その意味では高齢者向けとも言えるが、主人公が元気すぎて笑える本で若い人も面白いと思う。

 題名はテレビ朝日のかつての朝番組「ちい散歩」(2006~2012)がヒントになってるんだと思う。地井武男に始まり、加山雄三、高田純次と続く散歩シリーズの最初である。そこから「じい散歩」を思いつくのは簡単だが、普通なら70代あたりを主人公にしそうだ。散歩する体力を考えると、普通そこら辺が限界だろう。それをこの小説では冒頭で夫の明石新平は10月で89歳、妻の英子は11月で88歳と明記している。後で判るけど、新平は1925年生まれである。だから、2014年時点からスタートしている。

 続編では令和への改元を翌年に控えた2018年から、コロナ禍さなかの2021年まで出て来る。もう90歳を越えているにもかかわらず、散歩はさらにヴァージョンアップして早稲田に建築を見に行ったり、西武線の下りに乗って江古田の富士塚に登ったりしている。そういう人がいないわけじゃないが、普通の90代ではない。続編の帯に「シニア世代の御守小説」とあるのも、新平にあやかりたいということかもしれない。だが明石家にも家族の悩みがないわけじゃない。というか、大ありである。
(藤野千夜)
 明石新平は北関東のM町(県名不明)に生まれた。父は大工で、後を継ぐつもりで修行中に召集された。その前から郵便局の娘、英子とは心許した仲だったが、戦後になって東京に出た英子を追うように上京した。(兄弟からは「駆け落ち」と思われているが、そうじゃないと新平は主張する。)職を転々としながら、20代終わりに建設会社を立ち上げた。高度成長の波に乗って、明石建設は大いに伸びてゆく。英子も社業を手伝いながら、三人の男子に恵まれた。書いてないけど、新平はでかしたと思っただろう。

 三人も男子がいれば、一人ぐらい後継者になるだろう。新平は会社の顧問かなんかになって、創業者と奉られながら孫と楽しく暮らすという「老後」が待つ。そう思ったのではないだろうか。もちろん幸福な老後を送っていてはブンガクにならない。それにしても、である。長男は高校中退の「引きこもり」、一度も仕事をしたことがなく、毎日自宅の部屋で暮らしている。次男は早大中退で、トランスジェンダーである。今も両親と仲が良いが、自分では長女と称している。

 問題は三男で、ある時点までは順調に働いていたらしいが、数年前に会社を辞めて起業した。それがアイドルの撮影会などを主催する会社で、恒常的に赤字を抱えている。そのたびについ保険を解約したりして援助してしまい、ついに2千万円も出している。親が甘かったから、つぶすべき会社を延命させてしまった、もう一切援助しないと宣言しているが、一向に堪えないのはある意味立派かも。新平は「借金王」と呼んでいる。「借金王」に比べれば、「引きこもり」などカワイイもの。トランスジェンダーはもうそれで良しとするしかなく、今は仲良くしている。かくして男子三人いても、孫は望めない状態の明石家なのであった。

 新平は子育てを誤ったかと思わないでもないが、それでも後悔はしていない。自由すぎたかもしれないが、何よりも「自由」が好きなのである。戦争中の不自由にはとことん懲りている。そういう世代だからこそ、自分も自由でいたい、子育てが甘かったとしてもである。だが、その彼の「自由」は妻の英子を苦しめたものでもあった。会社と自宅が一体化した暮らしに疲れ果て、相談もなく衝動買い的に妻が買ってしまったのが椎名町の家だった。そして最近、妻は彼の浮気を疑っている。いくら何でも今さらと突っぱねつつ、それなりの過去もあったらしい。酒は飲めずとも、今もエロ本収集が趣味という爺さんなのであった。

 その後、妻の介護という問題が生じ、それが続編のテーマとなる。墓はどうする、遺産相続はという問題もチラホラ語られるが、それだけでは散歩にならない。90過ぎても散歩してる新平は、まず朝起きると一時間以上自分が考案した健康体操をマットレスの上で行う。それからヨーグルトにきなこ、すりごま、レーズンを入れて食べる。もう一つ、梅干し一粒、米ぬかを煎ったものを一杯、ハチミツ2杯を入れて食べる。だから「健康オタク」と言われるのだが、誰かの受け売りじゃなく、全部自分で考えて、自分で実行する。この主体性ある生き方こそ長寿の秘訣だろう。何しろ、今もネットで情報を調べて散歩に行くのである。

 この本で感じたのは「高度成長世代」の凄さである。今は皆亡くなりつつあるから、もうマスコミでもほとんど出て来ない。「バブル世代」の思い出は語られるが、その前の時代は当たり前のこととなって忘れられる。しかし、日本の現在を築いたのは紛れもなく新平たちの世代なのである。新平は押しつけがましいところ、自分勝手なところも多いけど、それでもいつまでも自分でやり切る覚悟は見上げたものである。こうなると、新平の最期も知りたくなるが、それは新平の視点では不可能。

 結局「長女」の健二が葬儀も相続も仕切るしかないだろう。実は藤野千夜もトランスジェンダーなので、その意味でも彼(彼女)の目から見た続編を期待したい。(なお、「妻の反乱」という副題は誤解を呼ぶので、文庫化時点で改題する方が良いと思う。)最後の最後が日光旅行で、この前行ったところがいろいろ出て来て、その意味でも思い出深い読書だった。
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『金子光晴詩集』と『風流尸解記』他ー金子光晴を読む④

2023年10月03日 20時51分50秒 | 本 (日本文学)
 夏に読んでいた詩人金子光晴の本がまだ残っていた。もう飽きてきていたが、今読まないと読まずに終わると思って頑張って読み切った。僕はこの詩人にずっと関心があり、全集を探して読むことまではする気がないが、文庫に入るたびに買い求めてきた。主に中公文庫だが、結構出ているのである。そして今回持ってる本に関しては全部読んだことになる。

 最近ここで書いた「金子光晴を読む」シリーズは、「『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』」「『マレー蘭印紀行』」「『詩人/人間の悲劇』」の3回である。それらは自伝紀行で、非常に面白いのである。しかし、やはり本職は詩人である。岩波文庫にある清岡卓行編『金子光晴詩集』(1991、品切れ)は、2012年の第7刷版を持っていたが、470ページを越える分量でなかなか読む気にならなかった。だが、収録された詩は紛れもなく傑作であり、日本人の精神史に忘れられない足跡を残す。

 フランス象徴派から出発し、やがて戦時下に独自の抵抗詩を書き続ける。一部は当時刊行されたが、さすがに戦況悪化とともに山中湖に疎開し、発表できない詩を書いていた。それらが戦後に公開されて大評判となったが、金子光晴は何かのイデオロギーによって戦争に反対したわけではない。だから、戦後を迎えても「民主主義」を謳歌する文学者にはならなかった。一貫して独自の「自分」を貫き通したところがすごいのである。ところが晩年になって孫(若葉)が誕生すると、メロメロになっちゃって『若葉のうた』なんていう、象徴も抵抗もない判りやすい詩を書くようになるのも面白い。

 僕が一番すごいと思うのは、やはり1937年に刊行された詩集『』だと思う。日中戦争開始の年で、すでに軍部主導政権だったけれど、まだこのような詩集が刊行出来たのである。もっとも軍や戦争批判というよりも、安易に時流に流されていく日本人への自虐的批判が多く、その中には自分も含まれている。ここまで「難解」かつ「韜晦」(とうかい=自分の本心や才能・地位などをつつみ隠すこと)だと、検閲の目を通り過ぎるかもしれない。冒頭の「おっとせい」は、「その息の臭せえこと。/口からむんと蒸れる」と始まり、延々と続いて「おいら。/おっとせいのきらひなおっとせい。/だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで/たゞ/「むこうむきになってる/おっとせい。」」は、群れることの嫌いな「自分」を貫いた詩人の絶唱だ。
(金子光晴と森三千代)
 詩や紀行や評論がほとんどの金子光晴の中で、貴重な小説集が1971年の『風流尸解記』(ふうりゅうしかいき)という本で、賞に縁のなかった金子光晴には珍しく、1972年に芸術選奨文部大臣賞を受賞した。まあ、この本に文部大臣が賞を与えていいのかなという内容だけど。「尸解」(しかい)は解説によると、「道家の方術の一つ。肉体を残して霊魂だけが抜けさる術」だという。「尸」は「しかばね」のことで、「抱いた少女の裸身の背後に、尸の幻影を見る中年の男」と案内にある。戦争直後の荒れ果てた東京で、死を幻視する詩人の業。だけど、ちょっとやり過ぎ的な叙述が多いかも。52歳の金子は、1948年に25歳の大川内令子と知り合う。森三千代とは離婚していて、その後令子と結婚し、また離婚し、三千代と再婚したと出ている。そこらの現実もモデルとして利用されているらしい。講談社文芸文庫から1990年に出たが、一応今もカタログにはあるようだ。

 他にもいっぱいあるのだが、珍しく妻の森三千代の作品も入っているのが『相棒』という本である。森三千代は小説家としてかなりの本を出していて、戦時中の1944年には『小説 和泉式部』で新潮社文芸賞を受けている。戦後は闘病生活が続き、作品的には日本の古典やシェークスピアなどの再話がほとんどだった。まあ、金子光晴ほどの才能はなかったが、それでも妻の立場から見た金子光晴像などは興味深い。他にも『じぶんというもの』『自由について』『世界見世物づくし』などのエッセイ集が文庫になっている。題名だけ見ると面白そうな気がするんだけど、これが案外退屈。詩や紀行だと面白いのに、論を立てると冴えなくなる。
 
 それより多くの人が金子光晴を論じた文章を集めた『金子光晴を旅する』(2021、中公文庫)が面白かった。細かくは書かないが、そこに収録されている人を少し挙げると、茨木のり子、開高健、草野心平、沢木耕太郎、寺山修司、山崎ナオコーラ、吉本隆明等々(アイウエオ順)といった多彩な顔ぶれである。多くの人に注目された人だったのである。

 講談社文芸文庫の解説に、金子光晴が1975年に亡くなった時に追悼特集を出した雑誌が載っている。「文芸」「面白半分」「いんなあとりっぷ」「海」「新潮」「四次元」「諸子百家」「現代詩手帖」「うむまあ」「いささか」「あいなめ」「時間」「ユリイカ」だという。今はなくなっている雑誌も多いし、そもそも知らない雑誌がかなりある。それでも、これだけ多くの追悼特集が組まれるほど人気、知名度があった人だったのである。
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『詩人/人間の悲劇』ー金子光晴を読む③

2023年08月28日 22時22分32秒 | 本 (日本文学)
 夏に読んだミステリー、『卒業生には向かない真実』『リボルバー・リリー』が長すぎて、なかなか他の本が読めない。前に2回書いた金子光晴はまだ断続的に読んでいて、僕の持ってる未読の文庫本は後2冊なので頑張って読み切りたいと思っている。と思ってたら、8月のちくま文庫新刊で『詩人/人間の悲劇』(1200円+税)が出た。400ページもあって、エンタメ本じゃないからなかなか進まない。『詩人』は前に「ちくま日本文学」版で部分的に読んだことがあって、ものすごく面白かった。成り行きで読んだが、特に後半の長編詩集『人間の悲劇』は全然判らない。でも、まあ凄いということは伝わってくる。

 金子光晴をずっと読んでみると、「自伝」「回想」は素晴らしく面白いのに、評論的な文章は実につまらないのが特徴だと思う。幼年時代に養子に出され、性への早熟な関心が芽生える。放蕩から文学への開眼、養父が死んで遺産で第1回訪欧。戻ると関東大震災、森三千代と交際、結婚。その後、最初に書いた『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』のアジア、ヨーロッパ大放浪が始まる。この破格の人生行路をあけすけに語って読む者を魅了する。

 この間、1923年に詩集『こがね蟲』を発表し、フランス象徴派の影響を日本の詩として結実させた若手詩人として認知された。しかし、刊行直後に関東大震災が起きたのは不運だった。その後一時関西へ行き、さらに世界大放浪をして詩壇から忘れられたとこの本には出ている。いっぱい詩人の名前が出て来るが、出て来る詩人にはよく知らない人が多い。ネットで調べながら読むが、若くして死んだ人が多い時代だった。金子光晴も幼い頃は病弱だったというが、その後貧困を生き抜いて戦争を迎えた。

 この本で一番凄いのは、やはり戦時中の記録だろう。一切戦争に協力せず、独自の反戦詩を書いていた。象徴性が高くて、当時の検閲官の目を逃れて戦時中に発表できたものもあった。そのことも凄いのだが、それとともに息子の乾をいかにして戦場に送らずに済ませるかの記述が驚き。あからさまな「徴兵忌避」なんだけど、子どもも病弱のため一度軍に連れて行かれたら戻って来れないと信じていた。もちろん日本の戦争は不義であると認識していたこともある。こういう人がいたんだと知ることは大事だ。
(『ちくま日本文学』)
 じゃあ、その金子光晴はどんな詩を書いていたのか。岩波文庫に『金子光晴詩集』があるが、現在品切れ中。「ちくま日本文学」の金子光晴の巻に代表作が入っているので、まずはそれを読んでみるべきだろう。はっきり言って僕にはよく判らない。でも『人間の悲劇』という10の長編詩が集まった詩集を読むと、やっぱり凄いなあと思った。
答辞に代へて奴隷根性の唄
 奴隷といふものには、/ちょいと気のしれない心理がある。
 じぶんはたえず空腹でいて/主人の豪華な献立のじまんをする。

 と始まる長い詩などは、実に鋭くテーマが伝わってくる。読むのが大変で内容も呑み込みにくいものが多いが、一度読んでおくべきかと思う。こういう表現があったのかと目を開かせられる。「時代の批判者として生きる」スタイルにもいろんなやり方がある。
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『マレー蘭印紀行』ー金子光晴を読む②

2023年07月27日 23時08分47秒 | 本 (日本文学)
 金子光晴を読む2回目は『マレー蘭印紀行』(中公文庫)。1回目で書いたように、金子光晴は1928年から32年に掛けて、上海からシンガポール、パリ、ブリュッセルに至る5年に及ぶ大旅行を行った。そのことは前回書いた自伝的旅行記三部作で広く知られるようになった。つまり、同時代的にはほとんど知られなかったのである。その中で『マレー蘭印紀行』だけが1940年に出版されている。戦前に公刊されたために「時局」に配慮した表現も見られるが、素晴らしい文章で綴られた忘れがたい紀行だ。

 最初に題名について解説しておきたい。「マレー」はもちろんマレー半島のことだが、当時はイギリス領マラヤだった。1957年に独立し、1963年にイギリス領のボルネオ島北部などと連合してマレーシアとなった。「蘭印」は「和蘭陀(オランダ)領東印度」の略で、現在のインドネシアである。金子光晴はマレー半島南部のジョホール州、首都のクアラルンプール(文中ではコーランプルと表記)などを訪れた。その後、「蘭印」に渡って、ジャワ島やスマトラ島も訪れたが、この本ではマレーが中心になっている。「蘭印」に関しては、別にまた本を書きたいと書いているが、結局書かれずに終わった。

 もともとは上海からパリへ渡る途中下船である。お金がないから最終目的地まで買えない。金子はあちこちの日本人を訪ねて、絵を描いて買って貰おうと考えた。しかし、帰途にもまたマレーを訪れているから、熱帯の風土が気に入ったのである。お金もないから、貧困の現地人の中に混じって交流した。そこで「植民地」の実態をつぶさに見た。また、当時はマレーに日本人も多くいたのである。ひとつは当時マレー半島に進出してた日本企業(ゴム農園や鉱山)関係者であり、もう一つは海外に渡った「からゆきさん」、つまり高齢になった元日本人娼婦である。

 「からゆきさん」については、70年代に山崎朋子サンダカン八番娼館』や森崎和江からゆきさん』が出て、大きな注目を集めた。しかし、戦前に書かれた書物の中で触れられているのは珍しいのではないか。また、帰途は1932年になって、1931年9月に起こった「満州事変」の後だった。パリもそうだったが、マレー半島でも各地の華僑に対してシンガポールから「抗日運動」が広がっている様が報告されている。これも貴重な歴史的文献だと思う。

 しかし、この本はそういう社会的関心で書かれた本ではない。熱帯の持つ魅力を独自の詩的な文体で描写した「散文詩」的な構成にある。だから、少し読みにくくもあるが、例えば冒頭近くのこんな文章。(「センブロン河」)
 「そして、川は放縦な森のまんなかを貫いて緩慢に流れている。水は、まだ原始の奥からこぼれ出しているのである。それは、濁っている。しかし、それは機械油でもない。ベンジンでもない。洗料でもない。鑛毒でもない。
  それは森の尿(いばり)である。
  水は、欺いてもいない。挽歌を唄ってもいない。それは、ふかい森のおごそかなゆるぎなき秩序でながれうごいているのだ。」
 
 どこを引用しても同じなんだけど、詩的といっても美文の連なりではなく、上記のような独特の比喩で描かれた熱帯地方の自然と生活である。金子光晴は特に南部ジョホール州のバトパハに長くいた。同地には石原産業系のゴム農園があって、日本人会館もあったからである。そこでは無料で寝られるベッドがあったらしい。この日本人会館は最近でも残っていて、金子光晴を追って訪ねた記録がネット上で複数存在する。以下のように特徴的な建物だが、全部じゃなくて3階の1室だったという。
(バトパハの旧日本人会館)
 合成ゴムがない時代で、戦略物資の天然ゴムは重要性が高かった。イギリス植民地当局は日本の資本進出を容認し、各地に日本人経営のゴム園があった。当初は信用がなく、中国人労働者は日払いでないと働かなかったという。そこで毎日シンガポールから現金を運んできたという。そのうち信用されるようになり、月払いになったと出ている。だが世界大恐慌で不況のなか、植民地当局の対応も厳しくなりつつあった。日本資本はやがて敗戦で壊滅してしまい、こうした(当時の言葉で言えば)「南洋進出」の歴史も忘れられてしまった。貴重な本だと思う。

 本にならなかった初期紀行文を集めた『マレーの感傷』(中公文庫)も出ている。これは題名に反して、ヨーロッパに関する紀行が大部分を占めている。この本を読むと、戦前に書かれた文章と戦後に書かれた文章の大きな落差が判る。本当は日本政府のあり方を批判的に見ていた金子だが、さすがに戦前には押えた表現にするしかなかった。金子が書いた絵もたくさん収録されている。下手を自称しているが、どうして味のある面白い絵が多い。また、ジャワに関して「珊瑚島」という夢幻のように美しい島を夫婦で訪れた文があり、皆一度読んだら忘れられなくなると思う。本当にあるのか、フィクションじゃないのかと思うぐらいだが、松本亮氏は訪ねたことがあると書いていた。
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『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』ー金子光晴を読む①

2023年07月10日 22時39分53秒 | 本 (日本文学)
 最近金子光晴(1895~1975)をずっと読んでいる。有名な詩人で、昔から関心があって本をずっと買っていた。中公文庫にいろいろ入ってるのである。特に70年代に発表された自伝的放浪紀行三部作『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』は、当時からものすごく面白いと大評判だった。『どくろ杯』は1976年に中公文庫に入った時に買ったんだけど、実は今まで読んでなかった。案外字が詰まっていて面倒そうだなあと思って、そのままになってしまった。今回読み始めたら、もう字が小さくて読みにくいったらない。2004年に大きな字に改版されているので、思わず買い直してしまった。
『どくろ杯』
 金子光晴は亡くなる直前の70年代には、ある種「怪老人」といった感じの人気者だった。同じ詩人、小説家の森三千代という妻がいながら、若い「愛人」とも長く続いていた。本になって、東陽一監督『ラブレター』(1981)という映画にもなったぐらいである。(日活ロマンポルノの一本だが、ポルノ色を薄めてヒットした。)もうすぐ2025年には没後50年、生誕130年という記念の年が来るが、僕は金子光晴が再び脚光を浴びるのではないかと思っている。ここまで本格的に「自由人」あるいは「変人」、さらに言えば「非国民」だった人は珍しい。戦時中に反戦詩を書いていた「不逞」な精神は今こそ必要じゃないか。
(金子光晴)
 『どくろ杯』(1971)、『ねむれ巴里』(1973)、『西ひがし』(1974)は、金子光晴、森三千代の二人が1928年から1932年に掛けて、中国、マレー、蘭印(現在のインドネシア)、フランス、ベルギー等を放浪した旅の追憶を書いたものである。40年以上経っているから、記憶違い、自己正当化(というより逆の自己卑小化というべきか)もありそうだが、むしろフィクション化もされているらしい。それにしても長大で、どうも少し飽きてしまうぐらい。紀行には一種スピード感も必要と思うが、この4年近い旅は途中で停滞するところが多い。そこが魅力だという人しか読めないが、この流されるままという感覚が大好きというファンも多い。
(『金子光晴を旅する』所載の旅行地図』)
 旅までの事情を簡単に書くと、金子光晴は養父の遺産で1919年に洋行し、帰国後に詩集『こがね蟲』(1923)を発表して評判を得た。1924年に東京女子高等師範在学中の森三千代(1901~1977)と知り合い、すぐに妊娠して森は退学して結婚した。息子乾が生まれたが、病気になって森の実家長崎に子どもを預けることになり、その間に夫婦で一ヶ月上海を訪問した。1927年にも子どもを預けて、今度は金子一人で三ヶ月上海に出掛けてしまう。当初からお互いに束縛しない約束だったようだが、その間に三千代には若い恋人が出来た。それが後の美術史家で神奈川県立近代美術館館長を務めた土方定一なんだという。

 金子も帰国して悩んだらしいが、一緒にパリに出掛けようと三千代に提案した。小さな子どももいるのに、これに三千代も乗ったのである。飛行機でちょっと一飛びという時代じゃない。船で何ヶ月も掛けて行くのである。「洋行」は一生に一度出来るかどうかの大事業で、やはり文学を志す三千代に取っても、すでに洋行を体験していた金子が誘うのは魅惑だったのである。ところが、実は金子光晴は詩が書けなくなっていて、雑文を書き散らしていたけれど、貧乏の極致なのである。ヨーロッパまで行ける金もないのに、とにかく出掛けてしまった。取りあえずは旧知の上海まで行く。それが『どくろ杯』である。
『ねむれ巴里』
 何とかシンガポールまで行くが、やはり金がない。上海ではエロ小説を書いたりしたが、シンガポールではマレー半島、ジャワ島などを訪ね回って絵を売ったりしていた。詩を書く前に日本画を勉強していたのである。下手を自称しているが、残された絵を見ると結構良い。「無名詩人」だから価値がないと思われたが、後の大詩人の絵という目で見れば貴重。その他、あらゆる金策をして、まず三千代夫人だけをパリに送った。その後、果たして後を追えるのかと心配になるが、何とか追いかけた。インド洋の航海中も奇妙な話が多いが、何とかフランスに着いてパリで奇跡の再会。

 中国では文人との付き合いもあったが、マレーでは植民地下層の人々と日本の植民者を見た。フランスでは日本人の画家たちが多いが、皆成功を夢みながら苦労している。金子にとっては、どこへ行っても人種や民族にこだわらず、人間の実相をつかむ。それは貧困のため、様々の仕事をしたからでもあるだろう。悪評が付きまとって、夫婦でいると森三千代まで就職出来なくなるので、パリで合意の上協議離婚したぐらいである。日本からは三千代の実家から一人で帰ってこいと金を送ってきたが、金子が一人で使ってしまう。もうメチャクチャで、破滅的なのである。
『西ひがし』
 そして、仕事がベルギーで見つかった三千代を置き、金子光晴だけ先にシンガポールまで戻ることになった。そして、またマレーで停滞するのだが、要するに東南アジアの風物に魅せられたのだろう。キレイじゃないとダメ、文明国が良いなどという金子光晴ではない。どんな貧苦にも耐えながらも、自然と人間を見つめるのである。単純なヒューマニズムを越えて、人間性の限界まで見た感じ。どうもやり過ぎのように僕は思い、そこまで行くと僕は楽しく読めないという箇所も結構あった。だが、世界と時代を見る目は確か。「満州事変」が起き、日本が世界から孤立していく様子を実感しているが、周囲の日本人はまだほとんど危機感を持っていない。「日本人」のニセモノ性を鋭く見つめた旅でもあった。
『金子光晴を旅する』
 今になると,時代も経ってしまい、大評判だったこの三部作も少し読みにくいかもしれない。地図も出てないし。そこで2021年に中公文庫から出た文庫独自編集の『金子光晴を旅する』が非常に役だった。金子光晴は開高健寺山修司との対談が載っていて、この二人を煙に巻く怪人ぶりに舌を巻く。一方、森三千代夫人の100頁を越えるインタビューが載っていて、背景事情が良く判る。聞き手は松本亮で、インドネシアの影絵芝居ワヤンの研究で知られた人である。またこの本には、実に様々な人(吉本隆明、茨木のり子、沢木耕太郎、角田光代等々)の金子光晴論が入っている。

 三部作には面白すぎるエピソードがいっぱいで、ここでは特に紹介しなかった。一つ挙げれば、やはり第一部の題名にもなった「どくろ杯」ということになるか。またフランスへ向かう船中で、中国人留学生の泊まっている部屋に入り込んでしまうところも面白い。中国も東南アジアもパリでさえ、安宿は悲惨。虫がいっぱいだったりするのが読むのも嫌という人は読めないかもしれない。けれど、そういう潔癖性こそおかしいという著者のスタンスがあふれ出る大著で、一度は読んでおきたい紀行だと思う。
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大傑作、永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』

2023年07月02日 20時59分16秒 | 本 (日本文学)
 永井紗耶子木挽町のあだ討ち』(2023.1、新潮社)は、読んでいるときに「ああ、いま名作を読んでいるなあ」としみじみ実感しながら読んだ小説だった。大傑作である。すでに山本周五郎賞を受賞しているが、さらに169回直木三十五賞候補作になっていて、受賞が期待されている。大衆小説に与えられる新人賞は、作家に与えられる性格が強く、同一作品の両賞同時受賞は、今までに2回しかない。(熊谷達也『邂逅の森』と佐藤究『テスカポトリカ』。)果たして3回目はなるか。

 江戸時代後期、19世紀初頭と思われる頃(1783年の浅間山大噴火より、およそ30年後ぐらい)、江戸では「化政文化」が栄え、歌舞伎が庶民の人気を得ていた。その芝居小屋がある木挽町(こびきちょう)で、ある年の睦月(1月)晦日(みそか)夕べ、とある若武者が大柄な博徒に対して「父の仇」と名乗りを上げ、斬りかかった。道行く人々が見守る中、真剣勝負が行われ、ついに若武者菊之助が一太刀浴びせて、仇・作兵衛の首級(しるし)を上げたのである。この一件は巷間で「木挽町の仇討」と呼ばれた。(昔の町名は今の東京人でも忘れている人が多いが、木挽町はまさに今の歌舞伎座がある辺りである。)

 江戸でも評判になった、この仇討より2年。若武者菊之助は国元に帰り、そのゆかりのものと称する若者が芝居小屋を訪ねて、仇討の思い出を訪ね回る。その時に、語り手の今までの来し方も聞いてゆく。その聞き語りがこの小説なのだが、帯には「このあだ討ちの『真実』を、見破れますか?」とあるから、何か仕掛けがあるらしいのである。しかし、語り手それぞれの人生行路がすさまじいために、ひたすら物語の流れに身を委ねることになる。芝居を裏方で支える人々の声を聞いていくうちに、身分制度の下で呻吟する人々の真実を見る。しかし、4人目あたりから、この仇討ちには何か特別な事情があるらしいと気付いてくる。

 訪ね歩いたのは、小屋の前で芝居を宣伝する「木戸芸者」、役者に剣術を指南する立師、衣装の縫い物をしながら舞台にも端役で出ている女形、ひどく無口な小道具作りと逆に話し好きの妻…などなどである。彼らは蔑まれるような生まれ育ちだったり、武士に生まれながらも故あって「身分」を捨てて生きてきた人々だった。今は芝居小屋で仕事をしているが、皆の人気を集める主演の役者ではない。だが、彼らがいなくては人気芝居も成り立たない。例えば、あっという間に舞台が変わる「回り舞台」は客の目を引くが、それは実は小屋の一番下(奈落)で人力で舞台を回しているのである。

 この芝居小屋の「からくり」は、もちろん世の中そのものの「からくり」を示すものでもあるが、この小説においては実は「ある壮大なからくり」に結びついていた。終わり近くになって、そのことに気付くのである。ただ驚きながら読んでいた彼らの人生そのものが、実はこの「あだ討ち」の伏線だったのである。なんという上手な「からくり」だろう。それもただの「トリックのためのトリック」ではなく、この世の「からくり」を暴き、「義」のある世を目指して生きることに真っ直ぐ結びついている。「主題」と「方法」と「世界観」が、これ以上ないほど見事に結び合った小説ではないか。
(永井紗耶子)
 驚きと感動で読み終わったが、テーマが空回りせず、手法もなるほどと納得する。これほど上手い小説に巡り会うことはそんなにないと思う。最後の方になって、この聞いて回っていた人物が判明するとき、僕はこの小説の「からくり」に驚嘆してしまった。ラスト近くで主人公が「一人で江戸に出て分かったことの一つは、時には誰かを信じて頼るという勇気も要るということだ。何もかも背負う覚悟は勇ましいが、それでは何一つ為せないのだと気付かされた。」と語る。「自己責任」の風潮の中で、信じ合って義を求めた勇気の書である。「真の仇討ち」とは何か、深く考えさせられた。

 著者の永井紗耶子氏(1977~)は、2010年に『絡繰り心中』で小学館文庫小説賞を受賞してデビュー。2020年の『商う狼 江戸商人 杉本茂十郎』が新田次郎賞などを受賞、2022年の『女人入眼』が直木賞候補になるなど、ここ数年でグッと知名度を高めてきた作家である。僕は初めて読んだので、他の作品や作風はよく知らない。時代小説を中心に書いているようだが、横浜育ちで三渓園で知られる原三渓を描いた『横濱王』という作品もある。

 当然著作権の「二次利用」が強く期待される。ネット上には著者と神田伯山の対談も載っていて、講談にするのも良いと思うが、やはり舞台化、映像化が望まれる。本格的にやるには大きなセットがいるので、それこそ松竹映画がやるべきだろう。昔のままの芝居小屋が日本各地にいくつか残っているので、是非ロケで。また歌舞伎でも見てみたいものだ。登場人物をやるのは誰それで、などとつい思いながら読んでしまった。

 ところで、歌舞伎や仇討ちなどと言われると、何か古い義理人情ものに思われてしまうかもしれない。その結果、若い読者を逃すとすると、非常にもったいない。この小説は基本的には若者の成長小説なのである。是非とも若い読者に勧めたい名作である。
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奥田英朗『コメンテーター』、トンデモ精神科医「伊良部」カムバック!

2023年06月28日 22時15分32秒 | 本 (日本文学)
 奥田英朗(おくだ・ひでお)の『コメンテーター』(文藝春秋、2023)をついつい買ってしまい、早速読んでしまった。やっぱり無類に面白いな。これは奥田英朗の精神科医・伊良部シリーズの4冊目にあたる。だが、『イン・ザ・プール』(2002)、『空中ブランコ』(2004)、『町長選挙』(2006)以来だから、雑誌初出(2021年)で見れば15年ぶりである。以前の作品を読んでいる人には判ると思うけど、あり得ない精神科医・伊良部一郎の「活躍?」を描くコメディ連作小説である。何で戻ってきたのか。それは紛れもなくコロナ禍の日本の風刺ということに尽きる。

 一応設定の前提を書いておくと、医師会の有力者である伊良部一族に生まれた伊良部一郎だが、何歳になっても子どもじみた性格が治らない。医師免許によく合格したものだが、そこには「何か」が働いたという噂もある。都下の某駅前に立つ豪壮な伊良部総合病院の薄暗き地下で「神経科」をやっているが、訪れてもフィギュア作りなどに熱中していて患者をなかなか診ないことも多い。また注射が大好きで、マユミという不機嫌そうな看護師が注射を打つところを伊良部がじっくりと見つめるのがお決まり。

 こんな医者だけには掛かりたくないものだけど、つい受診してしまった人々の「受難」を描きながら、あら、不思議なことに「こころの病」も少し軽快している気もしてきて…。何せ、何も言い返せず不満を溜め込んで心身不調を訴える患者が来たりすると、事務に命じて「会計をわざと遅らせる」ことさえある。自分より明らかに後に来た患者がどんどん帰って行くのに、自分だけ全然呼ばれない。「ちょっと聞いてみる」ということが出来ない患者はひたすら待ち続ける…。何で怒らないの?と伊良部は言う。これも治療の一環だと言われて、事務の人も申し訳ななさそう。でも、自分ならちゃんと抗議出来るだろうか?
(映画『イン・ザ・プール』の伊良部とマユミ)
 今回は何とその伊良部がテレビのワイドショーでコメンテーターになるって趣向。あり得ないでしょう。そのあり得ないことが何で起こるかというと、誰か紹介して貰うつもりが自分のことしか考えない伊良部は自分が出ると言い張って、ついに一回オンラインで出してみるかとなる。コロナ禍のことゆえ、局まで呼ばなくてよいのである。しかし、伊良部にコロナのコメントさせるか? だが不思議なことに視聴率が悪くないのである。その理由はいかに?

 それが冒頭の「コメンテーター」で、他に「ラジオ体操第2」「うっかり億万長者」「ピアノ・レッスン」「パレード」の計5篇が収録されている。コロナばかりではないが、「現代人の悩み」を抱え込んでしまった人々が、何故か伊良部を訪れてしまう。こんないい加減な医者でいいのか? いや、実際には良くないでしょ。本当に「こころの病」を抱えた人は面白く読めないかもしれない。だが、ちょっと最近疲れ気味かなレベルだったら、人生こんなにテキトーでもいいんだと読む薬になるだろう。
(奥田英朗)
 奥田英朗(1959~)は『邪魔』『最悪』などで注目され、伊良部シリーズでブレイクした。2作目の『空中ブランコ』では直木賞を受賞した。今回の帯には、シリーズ累計290万部と出ている。だけど、こういう暴走系キャラは扱いにくく、僕も3作目の『町長選挙』にはちょっと飽きたかなと思った。その後は『沈黙の町で』『オリンピックの身代金』『罪の轍』など、本格的な事件小説を多く書いている。そっちの方が好きな気もするけど、久しぶりの伊良部は面白かった。気が楽になるのである。

 今まで何度か映画、テレビ、舞台になっていて、映画『イン・ザ・プール』では伊良部を松尾スズキがやっていた。テレビでは阿部寛、舞台では渡辺徹などが伊良部をやっている。今回の『コメンテーター』も是非映像化を期待したい。こんな暴走医師も困るけど、さすがにホントに医師免許をはく奪されるまでにはならない。その意味では安心して爆笑出来るのである。
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山本文緒『自転しながら公転する』を読む

2023年03月22日 23時09分10秒 | 本 (日本文学)
 山本文緒自転しながら公転する』(新潮文庫)を読んだのは、『彼女はマリウポリからやってきた』より前だった。少し時間が経ってしまったけど、やはり書いておきたいと思う。2021年10月に58歳で亡くなった作家の、(多分)最後から二つ目の小説である。2020年9月に刊行され、島清恋愛文学賞中央公論文芸賞を受けている。2022年11月に文庫化されたが、650ページを越えるから長くてなかなか読み進まない。山本文緒は2000年に『プラナリア』で直木賞を受けた作家だから、文章自体は読みやすい。でも登場人物の境遇や心理をじっくり描いて、「身につまされ度」が高くいろいろ考えちゃう。

 人間の一生には大きなことが幾つかある。人それぞれ少し違うだろうが、特に恵まれた生まれの少数の人以外は「仕事」をしなければ生きていけない。そして誰かを好きになって「結婚」をする。しなくてもいいし、したくても無理な条件があるときもある。同性を好きになることもあるが、異性を好きになって家庭を作ることが多い。そして「」の問題がある。子のない人はいても、親がない人はいない。そして親が先に老いてゆくから、親の介護などの問題が付いて回る。

 なんて当たり前のことを書いてしまったが、この小説の主人公、30代初めの与野都という女性は、この3つすべて問題を抱えている。高卒で好きなアパレル・ブランドでアルバイトを始め、正社員に昇格して東京で店長にもなった。しかし、仕事も恋愛もいろいろあって(何があったのかはなかなか出て来ないけど)、さらに母親が体調不良で病院通いになってしまう。父親は家のローンが残っていて、仕事を辞めるわけにはいかない。だから一人娘の都に戻ってくれないかという話になる。母が死んだりしたらずっと悔いが残ると思って、そこは一応納得して都は故郷に戻ってきたのである。

 その故郷というのが茨城県南部の牛久あたりなのである。都は牛久大仏が望めるアウトレットのアパレルショップで契約社員として働きながら、仕事のない日は母に付き添って病院に通っている。結婚したいけど、今は特に付き合っている男性はいない。小説の中では書かれていないが、働いているのは牛久市の隣の阿見町にある「あみプレミアム・アウトレット」だろう。また「牛久シャトー」を思わせるレストランで母親と友人が食事をする場面もある。東京タワーが象徴的に出て来る物語はあるけど、牛久大仏に見守られている小説もあるのか。このような「東京からちょっと離れた」地域感が印象的だ。
(牛久大仏)
 山本文緒は1999年の『恋愛中毒』が凄いと思った。でも、こういう小説を書いちゃう人はどうなんだろうと思わないでもなかった。その後直木賞を取って人気作家になるも、2003年にうつ病になって闘病を余儀なくされた。その後エッセイで復帰するも、長編小説は少ない。この小説は2013年以来7年目の新作小説だった。どんな小説でも共感できる要素があるわけだが、この小説の主人公はどう生きれば良いのか。僕にはアイディアが浮かばない。アパレルショップの事情は判らないし、ましてや誰と結婚するべきかなど僕があれこれ言う問題じゃない。

 都は偶然ある男と知り合う。アウトレットにある回転寿司の第一印象最悪の店員である。だけど何となく悪くない感じもする。名前は寿司職人の父が名付けた貫一。だから彼は都を「おみや」と読んで面白がる。「貫一お宮」の『金色夜叉』である。何、それと本を読まない都には全然通じない。この二人は境遇も生き方も全然違っていることが段々判ってくる。それでも全然違うからこそ引かれ合う部分もある。で、どうするんだよと突っ込みたくなる展開が続いて、あまりにも痛い言葉が行き交う。
(山本文緒)
 ある仕掛けがあって、結局そうなったのかと思うラストまで一気呵成に読んでしまった。ラスト近く、都が広島にボランティアに行く場面など、あまりにいたたまれなくて読む方も沈んでしまう。高校時代(卓球部)のメンバーと時々会って、鋭い指摘を聞かされる場面。職場のセクハラ、パワハラなどの事情。それと冒頭に出て来るベトナムでの結婚式。どう着地するのか、なかなか見えてこないけど、人の一生は計りがたいことの連続だ。ちょっと可愛くて、仕事はきちんと出来るのに、なかなか幸せになれない。そんな主人公を生き生きとと描き出し、自分のことを書かれたのかと思う人も多いだろう。

 ところで題名はどういう意味だろう。小説内で貫一がよく言ってるけど具体的にはよく判らない。僕らは全員「自転しながら公転」しているけど、それを自覚はしない。あれこれ、グルグル思考が空回りすることの比喩にも思うけど、自分の回転は自分で認識出来ないということかもしれない。皆が皆、地球と共に自転しながら公転しているわけだけど。
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石原慎太郎『わが人生の時の時』ーホモソーシャルな世界

2023年01月11日 22時39分57秒 | 本 (日本文学)
 石原慎太郎わが人生の時の時』(新潮文庫)を読んでみた。最近はいつ中断しても大丈夫なように、新書や短編集を読んでいる。この本は40編の短編というか、むしろ掌編というべき文章を集めている。1990年に刊行され、その後文庫版が品切れになっていたが、2022年7月に「追悼新装版」として復刊された。題名は普通には意味不明だが、まあ「わが人生の決定的瞬間」とでもいう意味だろうと思って読むと、なるほど確かに決定的な時の中でも特に重大な瞬間を切り取った文章が集められている。

 成り立ちが面白い。80年代半ばにヨーロッパで反核運動が盛り上がった時時に、日本から取材で西ベルリンに派遣された。そこで同様に反核運動を取材に来ていた旧知の大江健三郎に出会った。かつて50年代には同志だった関係も、その時は核問題には正反対のスタンスである。しかし、「スクーバダイビング」の話になって、オキノエラブウナギという猛毒の海蛇のことを話したら、大江氏が面白がって暇な折に書き残して「新潮」の坂本編集長のような親しい編集者にあずけておいたらと言ったという。それが作中の「まだらの紐」に描かれていていて、確かにシャーロック・ホームズシリーズの「まだらの紐」を思わせる姿だ。
(エラブウナギ)
 この本はかつて福田和也(文芸評論家)が『作家の値うち』で最高点の96点を付けたという。また豊崎由美、栗原裕一郎『石原慎太郎を読んでみた』(中公文庫)の中で、小川榮太郎(安倍晋三本で論壇デビューした文芸評論家)が絶賛していると書かれている。このような保守論客に絶賛される作品とはどのようなものなのか。確かにこの中の半分ぐらいの作品はなかなか良いと思う。特に「落雷」の中で海上に雷が落ちる様子はすさまじい迫力。半分ほどの作品はヨットダイビングの世界で、そこには「大自然の神秘」や「生命の危機」があって粛然として読むことになる。

 特に小笠原諸島南島がいかに素晴らしいかは印象的。自分で調べてみたが、ここは個人では行けない。父島から出発する団体ツァーに参加するしかない。だけど、その気になれば行けるところである。そのように自然、特に海の神秘については、なかなか読ませる。文章もキビキビしているのだが、しかし、やがてどことない違和感も感じてしまった。「ヨット」というスポーツは誰でもやったことがあるというものではない。そこでヨットのレースに参加して、こんな凄い体験をしたんだという「俺様」意識が何となく匂って来るのである。それは「石原慎太郎」という名前に先入観があるためだろうか。
(南島)
 そして気付くんだけど、ここには「ヨットでともに苦労する男たち」しか出て来ない。まあ多少は他の人も出て来るし、弟や子どもも出て来る。しかし、本質的な意味で重要な意味を持って出て来る女性は一人もいない。ここで出て来るのは「女のいない男たち」ではない。石原慎太郎は『太陽の季節』で芥川賞を受賞する直前に結婚している。だけど妻子を置いて、ヨットレースに出掛けているわけである。そして男だけの「ホモソーシャル」(「男の絆」の同質的世界)に生きている。そこで凄い体験をするわけだが、どうしてもそれを語る時の「ナラティブ」(語り)には「俺様」感がにじみ出てくるのである。

 そう思って読み進めていくと、やっぱりなと思う文が出て来る。「人生の時を味わいすぎた男」という作品で、何しろ「私はホモといわれる男たちにはアレルギー的反応を示すたち」と始まるのだから凄い。「興味がないだけでなく、どうにも好きになれない」んだそうだ。江戸川乱歩にゲイバーに連れて行かれて往生した話が延々と続く。どこかで聞きかじった「同性愛が2割、完全な異性愛が2割」などという説を信じて、自分はその完全な2割だというのである。残りの6割がバイセクシャルということになり、ゲイバーなどに出入りしていると「ホモ」に近づくとでも思っているのか。同性愛でも異性愛でもいいけど、「アレルギー的反応」を起こすのは差別意識があるからだと今なら誰でも思うだろう。

 その直前にある「骨折」も凄い。ヨットで骨折した話が主眼なのだが、その前に高校時代の思い出を語る。あるとき、「気の合った仲間で作っていたサッカーチーム」で試合をやった。その後に「私がいい出して」、ラグビーボールも持ってきていたので「いい加減なルールでラグビーの試合をやった」。寒い日で、いくら走っても体が暖まらない。「いい出しべえの癖に私はひそかに自戒して」、「スクラムとかモールとか、何かと危険な仕組みの多いラグビーはこの際ほどほどにやっておくことにした。」しかし、ちゃんとやってた友人が骨折してしまい、完治するまで3年もかかり、一生走れなくなってしまったというのである。

 嫌な話だなと思ったし、読んでいて石原慎太郎も嫌なヤツだなと思った。自分で言い出して始めた遊びのラグビーで、自分は手を抜いて他の友人が大けがをする。そういう話があったら、テーマは「罪悪感」になるはずだと思うが、それが全く描かれない。「そういうこともあるさ」的な感慨で終わって、すぐに自分の骨折話に移るのである。これがどうやらこの人なんだと思う。怪談的な話も多く、そういう超自然的なことを信じているのかも。それは作品的には面白いのだが、どう考えるべきか判らない。そもそもフィクションなのかもしれないが、一応「私」の語りは「自分の体験」をもとにして書かれている体裁になっている。
(石原裕次郎と北原三枝の結婚式)
 特に不思議なのが「ライター」。弟の結婚の直前に裕次郎と北原三枝を中心に水ノ江滝子の家でパーティをしたそうだ。その時に「海に落としたライター」を謎の女性が届けに来る。当時スチル・カメラマンだった斉藤耕一(後に映画監督になって「約束」「旅の重さ」などを作った)も出て来て、確かにあれは海に沈んだと証言する。何だかよく判らないけど、当時の映画界の証言にもなっていて興味深い。一番最後の「」は長いけれど、弟の死期を見つめた作品でさすがに重いものがある。面白いのも、そうじゃないのも混じっているが、まあ取りあえず石原慎太郎の「時の時」を理解するためには役に立つ。
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『風媒花』、占領期の混沌と風俗ー武田泰淳を読む③

2022年11月25日 23時28分53秒 | 本 (日本文学)
 武田泰淳を読む3回目は『風媒花』。1952年に出た長編小説で、今は講談社文芸文庫に入っている。この前、安水稔和の本を図書館に返却に行ったら、この本があったので借りてきた。僕は昔新潮文庫で読んでいて、その時の記憶ではとても面白かった。奥付を見ると、1976年6月に25刷の本である。当然ながらそれ以後に読んだわけだから、大学時代のことになる。

 近年武田泰淳の本を一番出しているのは中公文庫である。それも純文学以外の『十三妹』(シーサンメイ)とか短編集『淫女と豪傑』とか中国を舞台にしたエンタメ系の作品を出している。中国の古代史、中世史を舞台にしたチャイナ・ファンタジーというべき小説やマンガ、映画などは日本でもずいぶん多い。日本ではほとんど紹介されてこなかった「武侠小説」の日本版として、武田泰淳も発掘されたらしい。そういう視点もあるかと思うけど、武田泰淳と中国との関わりはもっと宿命的なものである。

 そもそも出生名「大島覚」だったものが、父の師である武田芳淳の養子になって武田泰淳となった。お寺の子である。「仏教」を教え込まれながら、悩みが多く左傾した。東京帝大支那文学科に入学するも、逮捕されて退学した。しかし、大学のつながりは残り、1934年に竹内好らとともに「中国文学研究会」に参加した。竹内は魯迅研究者として知られ、戦後を代表する評論家になった。晩年まで友人として深く関わった。東大が「支那文学」と呼んでいるときに、日本で初めて「中国文学」を研究するんだと旗を揚げた。この思いは同時代の中国文学者に伝わった。
(竹内好)
 ところが1937年に召集され輜重補充兵として華中に派遣されたのである。愛好する中国の地をあろうことか侵略軍の一員として踏むという屈辱。翌38年に除隊し、評論『司馬遷』を構想し始めた。よく知られているように『司馬遷』の冒頭は「司馬遷は生き恥さらした男である」と始まっている。これは司馬遷が武帝から「宮刑」(性器を切り取られる刑)に処せられたことを指すが、武田泰淳本人の意識でもあっただろう。1943年に『司馬遷』刊行、同じ年に「中国文学」が終刊になった。翌年上海の「中日文化協会」に勤務して、そこで日本の敗戦を見た。解説の山城むつみは「小説家、武田泰淳誕生の秘密は上海にある。『司馬遷』の著者が小説家になったのは、上海で日本帝国の滅亡を経験したからだ」と書いている。

 さて前置きで長くなったが、『風媒花』は1952年の1月から11月まで「群像」に連載された長編小説である。ちょうど1952年4月の講和条約発効を間にはさみ、朝鮮戦争のさなかになる。著者の私生活では前年に鈴木百合子と結婚し、長女武田花が生まれていた。主人公は「エロ作家」の峯三郎。峯が狂言回しとなって、当時の左翼、右翼の有象無象が混沌と乱れ合っている様を描き出している。冒頭は「中国文化研究会」の会合で、これは戦時中に解散した中国文学研究会のメンバーである。学生時代にはよく判らなかったけど、リーダーの「軍地」は明らかに竹内好がモデルになっている。
(武田泰淳と百合子夫妻)
 僕が若い頃に読んだとき、この小説を気に入ったのは観念的な思想小説でありながら、戦後風俗をたっぷりと描いている面白さだったのではないかと思う。今読むと、その辺は古くて現代ではよく判らない部分が多い。まさに「朝鮮戦争下小説」なのである。峯には同棲相手の蜜枝がいて、これは明らかに武田百合子がモデル。その弟と付き合っている左翼の細谷桃代という女性は、同時に峯にも惹かれている。桃代は「PD工場」に勤めていて、峯を工場見学に誘う。そこでは青酸カリによる殺人事件が起きる。この「PD工場」が判らなかったが、検索すると「米軍の調達工場」と出ていた。銃や青酸カリが当然のように登場し、登場人物は「革命」を信じている。隔世の感がある。

 そんな登場人物を結びつけているのは「中国」である。左翼は大陸で成立したばかりの共産党政権を支持している。一方、右翼は台湾に移った蒋介石を支援するために武器を送ろうとしている。前に読んだ新潮文庫の解説は三島由紀夫が書いているが、三島は「『風媒花』の女主人公(ヒロイン)は中国なのであり、この女主人公だけが憧憬と渇望と怨嗟と征服とあらゆる夢想の対象であり、つまり恋愛の対象なのである」と喝破している。この三島の解説は講談社文芸文庫でも収録して欲しかった。

 蜜枝が峯三郎に「毛沢東と私とどっちを愛しているの」と聞く印象的なシーンがあるが、まさにそういう言葉が成り立ちうる時代だったのである。この小説では朝鮮戦争に中国が「人民義勇軍」を送り、事実上の米中戦争になった時代相を背景にしている。「男の世界」では再び中国人民の敵となって、米軍の補給基地となった日本で生きる精神的、物質的苦しさが封じ込められている。それは今から見ればリアリティが欠けている。一番生きているのは蜜枝と桃代の二人の女性である。ただし、この二人の行動も今となれば全く理解出来ないことが多い。

 以前は60年代反乱の余韻の中で読んだから、あまり違和感がなかったんだと思う。時代が全く違ってしまい、今では恐ろしく読みにくい小説になった。でもこの小説を無視して「戦後精神史」は理解出来ない。中国革命に理想を見出した時代があったことも、今では理解出来ないだろう。この小説の「新中国」はやはり理想化された部分がある。この時代はまだ、凄絶な権力抗争は起きていなかった。しかし、それはもうすぐ始まったのである。(東北地方の責任者であり、中央政府の副主席だった高崗が失脚したのは1954年2月だった。前年にはソ連のスターリンが死去していた。)
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『秋風秋雨人を愁殺す』、革命家秋瑾の人生ー武田泰淳を読む②

2022年11月24日 23時06分07秒 | 本 (日本文学)
 武田泰淳の本は何冊も持っているから、この際読んでしまおうと思って、次に「ちくま日本文学全集」の武田泰淳の巻を読んだ。これは全集と言っても文庫版なので読みやすい。全50巻で出て、その後全40巻になって今も出ている。もっとも、残念ながら武田泰淳は残っていない。僕が持っている本は1992年10月に刊行されて、ちょうど30年前の本なのかと驚いた。
(ちくま文学全集「武田泰淳」)
 「全集」だから幾つか入っている。中国史に材を取った『女賊の哲学』や戦後の青春を描く『もの喰う女』、間違いなく最高傑作の『ひかりごけ』などが入っている。1954年に発表された『ひかりごけ』は、戦時中の北海道で起こった船の遭難、そして「人肉食」を扱っている。非常に重いテーマだけに書き方が難しく、途中から戯曲形式になる。それが非常に効果を上げている。熊井啓監督によって映画化(1992年)されたが、映画は成功していたとは言えない。今も新潮文庫に残っているので必読。

 他に評論の『司馬遷伝』『滅亡について』もあるが、大部分(450頁中270頁ぐらい)を占めるのは、1967年に発表された『秋風秋雨人を愁殺す』である。1968年に刊行されて、1969年に芸術選奨文部大臣賞に選ばれたが固辞した。武田泰淳はその戦争体験もあって、国家からの賞は受けなかった。この作品は筑摩書房から出ていた雑誌「展望」に連載されたこともあるんだろうけど、他の文庫に入っていなかったのでありがたかった。その後、2014年にちくま学芸文庫に入ったが今は品切れのようだ。
(ちくま学芸文庫版)
 この本は辛亥革命に向かう時期の女性革命家、秋瑾(しゅう・きん、1875~1907)の評伝である。清朝を倒した辛亥革命、その指導者孫文は、公式的にはもちろん中華人民共和国でも高く評価されている。でも、それ以前に刑死した秋瑾のことは、本国でもちょっと忘れられていたらしい。武田泰淳は1967年に文化大革命さなかの中国を訪問して、その時に紹興(浙江省)を訪れた。「紹興酒」で名高いが、それとともに魯迅の生地として知られている。また秋瑾の故地でもあり、死刑が執行された町である。しかし、その当時はあまり秋瑾の記念物などはなかったらしい。
(秋瑾)
 その後2回も映画化されていて、現在は違うかもしれない。発表当時は文化大革命の真っ只中で、政治的に微妙な問題が多かった。作家などの評価もあっという間に転落したりした。この本でも微妙な書き方になっているところがあると思う。秋瑾という人は、僕は名前は知っていたが詳しくは知らなかった。ずいぶん「過激」で、死ななくても良い結果を自ら招いた気もした。だけど「死刑にされた女性革命家」だから、今も名を残している。そういう人がいて歴史は進むとも思う。

 秋瑾は名家に生まれ、子どもの時は纏足(てんそく)をさせられていた。纏足とは、女性の足を細くするために子どもの足に布を巻いて大きくならないようにすることである。小さい足を美しいとする当時の風習で、革命思想に目覚めると纏足を恥じるようになった。代わりに武芸に励み、刀剣(特に日本刀)を愛好したという。親の決めた結婚をして子どもも出来るが、酒浸りの夫に愛想を尽かし、やがて日本留学を志す。1904年に来日し嘉納治五郎が設立した弘文学院に入った。(その後実践女学院に通う。)そして来日していた多くの学生たちと会合を持ち、同郷あるいは女性だけなど多くの革命結社に加入した。
(映画『秋瑾~競雄女侠』)
 孫文も日本に来たわけだが、まさにその様子を見ると日本が中国革命の根拠地となっていた。清国も困って日本政府に取り締りを要請し、日本は1905年に留学生取締規定を設けた。これに反発した留学生たちは授業のボイコット運動を起こす。秋瑾は一斉帰国を主張するが、日本留学中の魯迅は批判的に見ていた。この人は熱く燃えあがると、もはや後戻りできないのである。そして帰国して「学校」(という名の反政府組織)を結成し、一斉蜂起へひた走る。そして早すぎた決起は失敗し囚われる。そこまでの様子をこの本は丁寧に追っていく。こういう人だったんだという感じ。

 僕がこの本を読んで感じたのは、辛亥革命前後の日本留学の重要性である。知ってはいたが、改めて重大な出来事だったと思う。今ではほとんど忘れられているだろう。知ってる人でも孫文や魯迅、あるいは共産党幹部の周恩来などが多いと思う。「日中連帯の歴史」を記憶しておくのは大切なことだ。ところで題名の「秋風秋雨人を愁殺す」だが、これは秋瑾が最後に残した言葉として伝わった。すごく心に残る言葉だと思ってきたが、実は違うという話がこの本に出ている。そもそも死刑執行は7月15日で秋ではなかった。まあ伝説として残して置いてもいい言葉かもしれない。
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