尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「こころの時代」のトリュフォー映画

2014年10月25日 23時45分45秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フランソワ・トリュフォー(1932~1984)の没後30年ということで、トリュフォー映画祭をやっている。もともと好きで、ほぼ全作品を見ているのだが、未見の「黒衣の花嫁」、劇場未見の「華氏451」だけでなく、この機会に出来れば全部見直そうかなと思っている。自分の家から行きやすいということも大きく、会期内のフリーパスを買ってしまった。だから最近見たばかりの作品ももう一回見に行っている。これほどまとめてトリュフォーを見る機会はもうないだろうから。今後各地に巡回する予定もあるので、ぜっかくいっぱい見たトリュフォーの映画をまとめて書いておきたい。

 もう30年も経ってしまったのかというのが率直な感想である。僕は70年の「野生の少年」から以後は、日本公開直後に見てきた。しかし、当時は僕にとってそれほど大きな存在だったわけではない。フェリーニヴィスコンティの新作が公開されていた時代だったし、大島渚ゴダールの方が僕にとっては大きな存在だったのである。私的な世界の恋愛映画ばかり作るトリュフォーが、いくらか疎遠に思えたものである。もちろん、映画史的知識として、「ヌーヴェルヴァーグの旗手」としてのトリュフォーの位置は知っていたが、その時代の作品には同時代的に接していない。僕は「恋のエチュード」や「緑色の部屋」の暗い熱情を愛していたが、世評はあまり高くなく、フランスでも日本でもそれほど大きく評価されなかった。

 僕が本当に入れ込んだのは「突然炎のごとく」を見てからで、とても惹かれるものを感じて、その後も折に触れて再見している。多分、今回で劇場で5回目になるのではないか。(ビデオも持ってて、それでも見ている。)今回初めて自分で気付いたのだが、このように何度も見ている日本映画として吉田喜重「秋津温泉」がある。撮影や音楽の素晴らしさも共通している。同じく何度も見ている成瀬巳喜男「浮雲」を思い出すと、やはりトリュフォー映画で好きな「恋のエチュード」も考え合わせ、すべて「男と女がくっついたり離れたりする年代記」ではないかと気付いた。自分はそういう映画が好きなんだろうか。たまたまなんだろうか。

 それはともかく、こうしてトリュフォーをまとめてみるという体験は、素晴らしいことだったけれど、思ったより疲れる体験でもあった。短編2、長編21の全21プログラムだけど、上映回数や上映時間が見やすくそろっているわけではない。時間が不規則になってしまうこともあるんだけど、トリュフォーの映画自体が今見るとかなり大変なのである。トリュフォー映画を昔見ていた時は、「傷つきやすい詩人の魂で、青年の恋愛や映画への愛をうたいあげる」といったイメージがあり、「反抗者」として出発しながらだんだん「フランス映画の頂点」になっていった「成功者」のように思っていた。その繊細な魂、傷つきやすい愛は多くの映画ファンの心の糧になり、「映画詩人」として多くの映画ファンをつかんだ。ヌーヴェルヴァーグの同僚だったゴダールが政治化して、商業映画から遠ざかり、復帰した後も「難解」な映画ばかり作っていたのと対照的に、映画ファンに愛されるトリュフォーという印象があったわけである。

 ところで題名にした「こころの時代」というのは、現代日本の「自分探し」「新型うつ」などといった言葉が「流行」する社会というような意味で使っている。自分の居場所が社会の中に見つけられず、引きこもり、自殺、ストーカー、児童虐待、「こころの闇」などに人々がとらわれるような社会。現代の日本をそういう文脈でとらえることが適切かどうかは別問題だが、そういった現象が昔より注目され問題視されているのは間違いないと思う。その時代に生きる目でトリュフォー映画を見てみれば…。改めて、暗いビョーキ系の人々ばかりが出てくることに驚くしかない。いや、ほんと。

 実際に心を病んで精神病院に入院するのは、「アデルの恋の物語」のアデル、「隣の女」の主人公女性(ファニー・アルダン)で、また「アメリカの夜」の劇中映画のヒロイン、ジャクリーン・ビセットが演じる女優も入院歴があり、担当医と結婚して復帰第一作という設定である。「隣の女」がそういう展開だったかとはビックリで、後に具体的な各作品評で触れるが、これは「こころを病む」ことをめぐる物語だったのである。初めからミステリーとして作られた映画が犯罪を扱うのは当然だけど、やはりその描き方は偏執的だったり、異常性が強く見られる。「突然炎のごとく」と「恋のエチュード」の2作は同じ原作者の映画化だが、やはり引きこもりや神経衰弱などの展開が悲劇につながる。「緑色の部屋」も現実世界に生きられず死者の世界に「引きこもり」していく男の映画。

 要するに、まともに社会適応している主人公はほぼ出てこない。冒頭ではそんな感じでも、だんだん逸脱してくる。もっとも社会の中で成功している人は小説や映画の中で主人公になることは少ないし、現実に成功している人はアートを必要としない(ことが多い)。主人公の死や自殺、そうではないとしても永遠の別れで終わる映画ばかりで、ラストにハッピーなのは数本しかない。そもそも、トリュフォー自身をモデルにした「アントワーヌ・ドワネル」もの(短編を含め5つある)そのものが、現実世界に居場所を求められない少年、青年の「自分探し」の物語だった。「大人は判ってくれない」も細かく見ていくと、発達障害や「自分から不幸になりたがる少年」の物語という構造を持っている。それは「虐待」の与えた傷だと僕は思う。そのようなトリュフォーのさすらいの青年期が、「カイエ・デュ・シネマ」のアンドレ・バザンという「代理の父」を得て、一応の居場所(映画作り)を見つけたのが、トリュフォーの人生だった。トリュフォー映画というのは、つまりは壮大なる「シネマ・セラピー」の記念碑なのだと思う。だから、今見ても物語が古びずに、魂に直接届いてくるのだ。
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リティ・パニュ監督の映画-カンボジア虐殺の記憶

2014年06月24日 23時44分23秒 |  〃 (世界の映画監督)
 引き続いて映画の話だけど、今回紹介するのは「国際問題」のカテゴリーに入れた方がいいのかもしれない。リティ・パニュという監督の映画で、僕も一つも見ていない。知ってる人も非常に少ないのではないかと思う。僕は原則として「見た映画」について書きたいのだが、書かないと知らないままになるのではないかと思って、事前に紹介する次第。7月5日から、渋谷ユーロスペースで「消えた画 クメール・ルージュの真実」という映画が公開される。今年のアカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品。それに先立ち、リティ・パニュ監督特集「虐殺の記憶を超えて」が同じユーロスペースで行われる。6月28日から7月4日まで、一日3回にわたり、旧作5作が上映されるのである。
   
 見てないからチラシをもとに書くが、リティ・パニュ監督という人は、「カンボジアで生まれ、クメール・ルージュの支配下、13歳で労働キャンプを脱出しフランスにわたり、映画監督になるという驚くべき人生を歩んできた」と書いてある。年齢が出てないので、映画のサイトで調べたら1964年生まれだった。カンボジア内戦でクメール・ルージュのポル・ポト政権が勝利したのは、1975年のことだった。ベトナム戦争の終結と同じである。以後、ベトナムとの間で国境紛争が相次ぎ、1979年にベトナム軍がカンボジアに侵攻して、ポル・ポト政権が崩壊した。

 「消えた画」という映画は、「犠牲者の葬られた土から作られた人形たちが、35年前の虐殺の成り行きを語り始め、発掘された映像によってその悲劇が紐解かれていくのだった」とある。チラシを見れば、その人形の写真が載っている。こういうやり方があったのか。町山智弘氏はいみじくも「アクト・オブ・キリング」が「演劇療法」だとすれば、「消えた画」は「箱庭療法」だと言っている。なるほど。これはまた、内容とともに方法の問題としても、見過ごすわけにはいかない映画のようである。2013年のカンヌ映画祭で「ある視点部門」グランプリを受賞している。

 一方、特集上映される5本も興味深い映画ばかりである。2011年にフランスで作られた「飼育」は、名前から判る通り、大江健三郎の芥川賞受賞作品の映画化である。日本でも大島渚によって映画化されたが、この映画ではカンボジアで撃墜された米軍機の黒人パイロットがクメール・ルージュ支配地区で「飼われる」という刺激的な設定になっているそうだ。2011年の東京国際映画祭で上映されたと言うが、全く知らなかった。この監督が何本作っているのかは知らないが、今回上映の中で最初の作品は「さすらう者たちの地」(2001)で、山形国際ドキュメンタリー映画祭でグランプリを取った。カンボジアで光ケーブル敷設作業を通して、土地を失う農民、復員兵士らがさすらうさまを描くという。

 次の「S21」(2002)は、チラシによれば「代表作と言える傑作」と書いてある。虐殺の加害者と被害者をその場所に集めて、非人間的な過酷な日々を再現していくという。これは驚くべき発想の映画である。というか、「映画」ではあるけど、映画は形式というか手段であって、「過去を克服する試み」というべきだろう。しかし、映画を作る、映画を見るという行為の中には、本質的にそのような「祈り」のようなものがいくぶんか入っている。この映画も世界各地で受賞している。次の「アンコールの人々」(2003)は、アンコールワットの遺跡修復の人々と土産売りの少年を通して、クメール文化と伝説をたどる。「紙は余燼(よじん)を包めない」(2007)は、プノンペンで娼婦として暮らす5人の女性を描く黒く映画。今回上映の作品の中ではただ一つ「カンボジアの今」を記録する。しかし、エイズや貧困を描きながらも「内戦の傷深く、腐敗したカンボジア社会の底辺に暮らす瀕死の魂たちへの鎮魂詩」だとある。どの映画もただカンボジアに限らず、現代を生きる人々に重大な問いを突きつけている。

 カンボジアで何が起こったのか。ベトナム戦争が激化した60年代末、カンボジアのシハヌーク国王は親北ベトナムの「中立政策」を続けて、注意深く戦争に巻き込まれるのを防いでいた。ベトナム、ラオスでは内戦が続き、タイは米軍の要請で南ベトナムに派兵していた。そんな中、北ベトナムは南北をつなぐ「ホーチミン・ルート」の一部をカンボジア領内を遠し、シハヌークも黙認していた。しかし、アメリカは1970年にカンボジア空爆に踏み切り、親北ベトナムのシハヌーク政権をクーデタで打倒してしまった。その時中ソ歴訪中だったシハヌークは、その後北京に留まり、亡命政府を組織する。こうして、カンボジアも内戦の渦に巻き込まれ、中国の影響が強くなった。カンボジア国内では、以前からフランス留学中に共産主義者となったポル・ポトらの革命運動があったが、このポル・ポトらの「クメール・ルージュ」が中国の援助を得て一挙にしえ力を拡大していく。1975年の政権奪取後は、都市文明を否定し農村に人を移動させ、知識人を絶滅させるような政策を進めた。数百万の死者が出たと言われている。20世紀に世界で起こったいくつもも悲惨な事態の中で、人口比からすればナチスによるユダヤ人虐殺に並ぶものではないかと思う。

 クメール・ルージュの支配がこれほど苛烈とは世界では誰も思っていなかった。「革命」後に「反革命派」が処刑されたり、思想が制限されることはあるとしても、国を支える住民そのものを半減させてしまうような政策が行われるとは誰にも信じられなかった。これは「共産主義」の本質なのか。このようなグループが国家権力を握れたのは何故なのか。まだ理解されていないことは多い。現在のカンボジア政府は、反ポル・ポトの人民党政権が続いているが、ASEANで中国が問題となった時には、やはり中国よりのスタンスを取っている。それを見れば、「世界政治は地政学なのか」という感じがしてしまうが。カンボジアはその後、自衛隊のPKOが初めて派遣されたところとなる。日本でも「カンボジアに学校を作ろう」といった運動が盛んに行われている。もっと深くカンボジアを理解するためにも、必見の映画ではないかと思う。
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ジャック・タチ映画祭

2014年04月14日 23時33分42秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フランスの喜劇映画作家ジャック・タチ(1907~1982)のデジタル復元された全監督作品を上映する「ジャック・タチ映画祭」が始まった。東京渋谷のシアター・イメージフォーラムで5月9日までの上映。1日4プログラムを交代で上映するけど、上映が少ない作品もある。チラシを載せておくので、拡大して確認してください。
    
 日本初公開の長編は「パラード」(1974)で、これは上映が少ない。18日までの13時30分と、5月3日から9日の11時の回しかないので、さっそく見てきた。話題の記録映画「アクト・オブ・キリング」の上映も同劇場で始まったばかりで、小さな劇場だから大混雑。ジャック・タチ映画祭も平日の昼間だというのに、席がいっぱいである。さて、「パラード」というのは、もともとはスウェーデンのテレビ局が製作したビデオ作品だそうで、フランスでフィルム変換して公開されたジャック・タチ最後の映画だという。映画の構造は「あるサーカスの記録映画」だけど、観衆も含めて演出されたもので「記録映画みたいに作られた劇映画」ということになる。ジャック・タチはロワイヤル氏というサーカスの座長という設定で、自分でもパントマイム芸を存分に披露している。喜劇人ジャック・タチはミュージックホール出身の芸人だというが、洗練された舞台芸が素晴らしい。「スポーツの印象」という持ちネタらしいが、テニスの試合やサッカーのゴールキーパーなどの「形態模写」である。また荒ラバを観客が乗りこなそうとするシーンなども面白い。とにかく良く出来たサーカス喜劇だった。

 ジャック・タチと言えば、ユロ伯父さん。「ぼくの伯父さんの休暇」(1953)、「ぼくの伯父さん」(1958)、「プレイタイム」(1967)、「トラフィック」(1971)と、自身が監督、主演したユロ伯父さんシリーズを作ってきた。最高傑作はやっぱり「ぼくの伯父さん」だと思う。カンヌ映画祭審査員特別賞、アカデミー賞外国語映画賞、キネマ旬報ベストテン2位と公開当時の評価も一番高いが、とにかく楽しい映画である。文明風刺や人生論もあれば、セットや色彩設計の素晴らしさもあるけど、それよりも「センス」としか言いようがない。若いころテレビで見て何が面白いか全くわからなかったけど、ジャック・タチの特集上映があった時に見て、素晴らしく面白いのに絶句した。(シネヴィヴァン六本木という映画館で、そこの全作品を掲載しているサイトで確認すると、1989年11月3日から、12月8日まで行われていた。)

 ユロ伯父さんというのは、言ってみれば「歩くゆるキャラ」とでも言うべき存在なので、今の方がもっと面白いかもしれない。「ぼくの伯父さん」をフランス語で言えば「モノンクル」。岸田秀と伊丹十三を思い出す人も今では数少ないかと思うけど。ジャック・タチは、体技もすれば、「存在そのものがおかしい」というチャップリンや渥美清みたいなコメディアンではあるけど、ちょっとタイプが違う面も多い。「プレイタイム」「トラフィック」などの「近未来空間」設計などの「都市」空間が面白いのである。ストーリイ的には、都会と田舎が対比され都市文明を風刺するという筋道になる。でも田園生活の賛美というより、風刺の対象である都市のセットや機械や自動車などのアイディアの方が面白すぎるのである。特に「プレイタイム」で作った「タチ・ヴィル」(タチの都市)という近未来都市のセットは有名。映画は当たらず、セットが大掛かりでタチは破産する。今では最高傑作という人もいるけど、それはどうなのかなあ。「人類史上最高の喜劇」(いとうせいこう)はほめ過ぎだと思う。

 前に見てない「トラフィック」も初めて見た。パリの自動車設計技師ユロの作ったキャンピングカーをアムステルダムのモーターショーに出品するべく出発したのであるが…。警察や事故、渋滞など様々な出来事に巻き込まれ、カフカのようにたどり着けない。警察でのキャンピングカーの説明、事故後の修理を頼む修理工場での体験など、不条理そのもののおかしさがすごい。アメリカのアポロ計画のさなかという設定で、月着陸を見た後の月世界歩行のマネがおかしい。モーターショーもヨーロッパ自動車界が一番輝いていた時代とも言え、実在の自動車会社のフロアなど豪華で面白い。これはゴダールの「ウィークエンド」と並ぶフランスの自動車風刺映画の双璧というべきだろう。とにかくジャック・タチはおすすめ。
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追悼・アラン・レネ

2014年03月05日 00時01分52秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フランスの映画監督、アラン・レネ(1922~2014)が3月1日に亡くなった。91歳。僕には思い出深い監督なので追悼文を書いておきたい。亡くなるまで現役の映画監督で、なんと今年のベルリン映画祭で新作が上映されている。マノエル・ド・オリヴェイラや新藤兼人になるのかと思っていたら、さすがに100歳を超える映画監督というものは難しい。

 でも、アラン・レネが世界映画のもっとも先鋭的な監督だったのは、ずいぶん前の話。キネマ旬報ベストテンには、「二十四時間の情事」(1959、7位)、「去年マリエンバードで」(1964、3位)、「戦争は終わった」(1967、3位)が入選しているが、半世紀ほども前の話である。最近もずいぶん公開されているが、あまり強い印象はない。晩年のフェリーニや黒澤明のように、まあ見ればそれなりに面白くないこともないのだが、全盛期には遠い作品群が作られていたと思う。

 マスコミ報道では「ヌーヴェルヴァーグ」と書いてあるものもあったが、ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)の定義次第だから間違いとも言えないが、本来は「ヌーヴェルヴァーグの先駆者」と言うべきだと思う。50年代末に映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」に集う若い批評家(シャブロル、ゴダール、トリュフォーなど)が一斉に映画作りを始めて注目を集めたから、「波」というわけである。でもアラン・レネは1948年に作った短編記録映画「ヴァン・ゴッホ」がアカデミー賞短編映画賞を取っているのだから、キャリアはずっとずっと早い。しかし、「新しい」という方で見れば、確かにアラン・レネの映画はそれまでのフランス映画に多かった感傷的な文芸映画ではなく、知的でドキュメンタリー風な作風だった。アニェス・ヴァルダやクリス・マルケルなどとともに、よく「セーヌ左岸派」と呼ばれて、50年代半ばから非商業主義的な作家の映画を作り出していた一員ということになる。

 アラン・レネのテーマはほぼ一貫して「記憶」だと思う。「時間」と呼んだり「歴史認識」と呼んでもいいかもしれない。1955年に作ったナチスの強制収容所に記録映画「夜と霧」で世界的に注目され、1959年には初の劇映画「二十四時間の情事」を作った。これは邦題では判らないが、マルグリット・デュラスの脚本の邦題は「ヒロシマ、私の恋人」(原題 Hiroshima mon amour)である。前年の58年に来日して広島ロケをして作った。岡田英次とエマニュエル・リヴァが広島で恋仲となり、街の様子を見て回る。そして「広島で何を見たか」をめぐって語り合う。岡田英次は「あなたは広島で何も見なかった」と語る。エマニュエル・リヴァはやはり戦中戦後の過去を回想する。(エマニュエル・リヴァと言っても長く忘れられていたが、この人はミヒャエル・ハネケ「愛、アムール」のあの老女で、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。)

 このようにアラン・レネは、早くも50年代において「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ」をともに取り上げた映画作家なのだが、そこでは政治的な告発ではなく、思想的な懐疑でもなく、「われわれは過去の記憶をいかに認識できるか」がテーマになっていた。その当時は考えられもしなかっただろうが、その後「ホロコーストはなかった」などという「歴史修正主義」が世界的に登場して、「記憶をめぐる闘い」が重大な思想課題になることを先取りしていたと思う。それはさらに一般化された形で「去年マリエンバードで」(1961)に結実する。これはアラン・ロブ=グリエの脚本の映画化で、ロブ=グリエは黒澤の「羅生門」に影響されたという話である。男と女が温泉地マリエンバードで会うが、男は「去年会った」と言うが女は「知らない」と言う。それだけのような映画だけど、一体、「客観的真実」とは何なのだろうかと深く考えさせるような痛切な情感に満ちている。

 もっとも以上の2作とも、難解である意味では不毛な言葉の応酬が延々と続く中で、いわゆる「物語」的な展開を見せない。僕が映画ファンになった頃には、アラン・レネと言う監督は「伝説的な難解映画を作る人」と思われていた。でも、今でも「1937年12月、南京で何が起こったか」「いや、何も起こらなかった」などと言った「不毛な論争」は現実に続けられている。何も感じることが出来なければ「2011年、フクシマで何も起こらなかった」とさえ言えてしまうのではないか。そうでなければ、原発を「ベースロード電源」などと言えないだろう。「記憶をめぐる闘い」は今でも世界各地で続いていて、アラン・レネ映画のアクチュアリティは失われていない。

 続いて作った「ミュリエル」(1963)は、日本公開が1974年となり僕が初めて見たレネの映画である。ここでもアルジェリア戦争での過去の記憶がテーマとなっている。画面は静かながら常に緊迫していて、美しい映像が続く。僕はこういう静かで思索的な映画が基本的に好きなので、いっぺんで気に入った。アラン・レネ映画(特に初期)は難解だという定評があったが、「二十四時間の情事」も「去年マリエンバードで」も画面が非常に美しく、画面を見ていて陶酔できる。特に「去年マリエンバードで」は一度見るとシンメトリカルな構図が忘れられない。1966年の「戦争は終わった」はスペイン内戦と現代の反フランコ運動家の物語で、過去の戦争の記憶と言う意味では共通している。しかし、映画は過去をめぐる抽象的思索ではなく、現実の革命家の日常を描く物語性が今までより強い。この映画の脚本を書いた作家、ホルヘ・センプルンが実際に内戦でスペインを去り、ナチスの収容所経験があるということもあるんだろうと思う。アラン・レネが一番面白かったのはここまで。

 その後は未公開映画も多くなる。1974年の「薔薇のスタビスキー」が30年代の政界スキャンダルをジャン・ポール・ベルモンド主演で華麗に描いた娯楽大作で、話題になったし面白くもあったけど、大分変った印象があった。「プロビデンス」(1977)、「アメリカの伯父さん」(1980)などまでは、なかなか刺激的な映画だった。近年の「恋するシャンソン」(1997)、「巴里の恋愛協奏曲」(2006)、「風にそよぐ草」(2009)などになると、まあ見てはいけないわけではないが、ごく普通のフランス映画で「昔の名前で出ています」という印象が強かった。しかし、まあ僕も一応律儀に見に行ったのである。好きな映画監督は最後まで見ておきたいから。でも、まあかなり長く見ても1980年頃までの映画作家だったと思う。それでも映画を作り続け一定のレベルは維持したのだからあ、そこはすごい。
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「暗殺の森」とベルトルッチの映画

2013年08月21日 23時50分19秒 |  〃 (世界の映画監督)
 キネカ大森で、ベルナルド・ベルトルッチ(1941~)の2本立て、9年ぶりの新作「孤独な天使たち」と「暗殺の森」。「暗殺の森」は、もう2回か3回見てるが、何度見ても素晴らしい。

 ベルトルッチは前作「ドリーマーズ」(2003)後は病気で映画が撮れなかった。(フランス五月革命を背景にしたその映画は、どの映画にもまして愚作だった。)9年ぶりの新作「孤独な天使たち」は、ニコロ・アンマニーティの新作小説の映画化。アンマニーティは10年位前に公開された映画「ぼくは怖くない」の原作者。人となじめない14歳の少年が、学校のスキー教室に行くふりをして、地下室の一室にもぐりこむ。そこには電気やベッドもあり、孤独な一週間を過ごす心づもりだったのに、突然異母姉がちん入してくる。彼女は薬物中毒の写真家で、二人の意図せざる一週間の同居を描く。映画はそこで終わるが、新聞に載った書評を読み直したら、小説の方は10年後の驚くべき再会があるらしい。大傑作ではないが、まあ面白い作品。

 ベルトルッチはイタリアの監督だが、パリで撮った「ラスト・タンゴ・イン・パリ」(1972)が大評判になり(「芸術ポルノ」としての評判とも言えたが)、「ラスト・エンペラー」(1987)でアカデミー賞受賞と世界で活躍してきた。しかし、世界的にヒットする映画は大体つまらないもので、多くの映画監督のおちいるワナにベルトリッチもはまり、以後は大した作品がない。結局、ボルヘスの映画化「暗殺のオペラ」から超大作「1900年」までの1970年代が、ベルトルッチの全盛期だと言える。

 中でも「暗殺の森」(1970)が最高傑作だろう。日本で1972年に公開された時はロードショーされず2番館の公開だった。(当時の外国映画は、上映期限未定のロードショーを行う1番館とロードショー公開後の映画を上映する2番館があった。2番館終了後が名画座になる。)そのような扱いを受けたが、一部で大評判となった。当時のベストテンでも日本初公開の監督ながら、16位に入っている。(ベスト3は「ラスト・ショー」「フェリーニのローマ」「死刑台のメロディ」で過大評価気味、10位以下に「ダーティハリー」「脱出」「暗殺の森」などが並んでいる。)僕は多分翌年になってどこかの名画座で見て、よく判らないながら、映像美と刺激的な主題に大きな興奮を覚えた。

 この映画は時間が入り組んでいるうえ、人物も複雑に絡み合っている。また当時のイタリア政治状況が判っていないと理解できない部分がある。一見すると難解な映画に見えるし、心理的、思想的に深読みしたければ、いくらでもできそうだ。簡単に言えば、少年時代のトラウマから「大勢順応主義者」となり、ファシスト政権の秘密警察で働くことになった青年(ジャン・ルイ・トランティニャン)が、新婚旅行を兼ねてパリを訪れ、反ファシズム運動の中心者である昔の恩師夫妻を暗殺する。それが主筋で、冒頭からその場面だが、その後昔の時間に戻る。時間順ではなく、モザイク状に様々なエピソードが羅列されるので、見る者が自分で再構成していく必要がある。

 一つ一つのシーンは凝った構図シンメトリカルなセット流麗なカメラワークで撮影されていて、イタリア未来派、表現主義、シュールレアリスム、あるいはそれらが底流で合流したと言えなくもないファシズム建築の「官能的魅惑」が画面に満ちている。紛れもなく「ファシスト青年の空疎な内面」を告発する反ファシズム映画なんだけど、同時に性や暴力をめぐるスリリングな思考実験でもあり、官能に満ちた映像美に浸る映画でもある。この映画の中には、70年当時に大きな意味を持っていたファシズム、狂気、同性愛、テロリズム、性的自由などの問題が散りばめられている。こういう「危険なアイテム」を満載して、しかもそれを思入れたっぷりの映像美と構図で描き出す。

 「盛り込み過ぎ」の趣向は大失敗に終わる場合も多いけど、この映画はテーマの問題性と映像美が密接に結びついて成功している。名場面は数多いが、パリで主人公と教授が夫婦4人で食事をして(中華料理店で箸でチャーハンを食べる)、その後ダンスホールへ行く場面が印象に残る。窓に赤い縁取りがある建物の中で、教授の妻(ドミニク・サンダ)の黒い服と主人公の妻(ステファニア・サンドレッリ)の白い服が交差しながら女同士で踊るシーンの美しさ。教授の妻は主人公と前に会っているようで、また両性愛らしく、主人公とも主人公の妻とも関係を持つ。彼女はバレエ教師でもあり、反ファシズム運動家の妻でもある。この複雑な役柄を、ドミニク・サンダが稀にみる官能的魅惑で演じていて、主人公夫妻と観客を虜にしてしまう。

 しかし、暗殺の実行時に彼女はいない予定だったのに、何故か教授と一緒にいて目撃者は抹殺ということになる。助命を懇願するが主人公は黙殺し、教授の妻は森を逃げ回り、ついに殺害される。このシーンも忘れがたい名シーンである。また、主人公が母親の家を訪ねて母の愛人の運転手を「始末」した後の枯葉を追って流れる映像、狂気になって精神病院にいる父親を訪ねるシーン、ムッソリーニ失脚後のローマを歩き回るシーン、新婚旅行でパリへ行く途中の列車のシーン(ダニエル・シュミットの「ラ・パロマ」を思い出させる)など、美しいと同時に心を震わせるような危うい精神性に満ちた映像。このように、美しくも危険な映画という感じが全篇に漂っているのである。

 主人公は「大勢順応主義者」(原題)として生きていくが、心の中は常に空疎で、殺人を何回か犯す(と思い込む)が罪の意識はない。その代り「真の愛情」も持てない。大事な場面では常に、卑怯、臆病、裏切りを選択してきた人生だ。それは「父の狂気」を恐れる潜在意識から来るのかもしれない。「父なき時代」に彼はムッソリーニという「父」を支持し、(自分の卒論を担当せずに亡命した)恩師を抹殺する。ムッソリーニがいなくなれば、またファシズムを平気で否認する。その順応性はどこから来たのか。一方、彼の女性関係には「母」と「娼婦」しかいないという理解もできる。心理的な背景と同時に、思想的な問題設定も見逃せない。彼が少年時代に殺してしまったと思い込んだ男は、実は生きていたらしい。ラストにそれが判明し、彼の半生の偽りはすべて覆るところで終わる。それはイタリア現代史の偽り(ファシズム体制)が覆るのと同時だった。

 原作はイタリア近代文学の巨匠、アルベルト・モラヴィアの「孤独な青年」(角川文庫で刊行された時の表題)。小説は映画と違って時制が入り組んでいるわけではない。「孤独な青年」がファシズム体制に同調し利用されていく様がリアリズムで描かれる。モラヴィアは若くして発表した「無関心な人びと」や、ゴダールが映画化した「軽蔑」で知られている。今簡単に読めるのはこの2作だけだと思うが、他にソフィア・ローレンがアカデミー賞主演女優賞を取った「二人の女」などがある。主要作品はかつて角川や早川で文庫化されていて、僕はほとんどを読んだ。原作を読めば、作品の構図は判りやすくなるだろう。若きベルトルッチは原作を換骨奪胎して、時間をバラバラにして、あえて判りにくくして、魅惑的な映像美学を披露した。それが才気というもので、判りにくいと思った人は何回か見直してほしい。映像美を堪能するとともに、人生の肝心要の時に「自分らしく生きる」ことの大切さを痛感するだろう。
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タル・ベーラの映画を見る

2012年11月13日 23時16分57秒 |  〃 (世界の映画監督)
 ハンガリーの映画監督、タル・ベーラ(1955~)の特集を東京吉祥寺のバウスシアターでやってる。今年公開された「ニーチェの馬」は見ていたけれど、「ヴェルクマイスター・ハーモニー」(2000)と「倫敦から来た男」(2007)は見ていなかったので、この機会に見てみた。16日までやってるけど、別に勧めるつもりはなく、自分の備忘のために書いておく次第。

 ハンガリーはアジア式に姓を先に書くので、タルが姓、ベーラが名前である。で、このタル・ベーラ監督には、1994年に発表された「サタンタンゴ」という7時間超にもなる伝説的傑作がある。去年一度だけ「ぴあフィルムフェスティバル」で上映されたけど、その上映時間に恐れをなして見なかった。今年見た「ニーチェの馬」もとても特徴的な作品で、はっきり言って面白いとは言えないのだが、妙に忘れがたい作品だった。ベルリン映画祭銀熊賞を取っている。

 哲学者のニーチェは、1889年1月3日、イタリアのトリノの街角で御者に鞭打たれる馬を見て、馬を守ろうと近づき馬の首を抱きしめながら昏倒し、そのまま精神が崩壊してしまった。しかし、ニーチェはいいから、その馬はどうなったという映画。もちろんその馬が生きているわけはないから、タル・ベーラが勝手に考えて映像化したわけである。御者の男は娘との貧しい暮らし。荒野の一軒家で質素な食事を取る。寒風が吹き荒れ、ほとんど嵐になってくる。男と娘と馬の暮らしを映画はただ見つめる…。
(「ニーチェの馬」)
 というただ見つめるだけの映画で、画面は「そこにはただ風が吹いているだけ」である。白黒で、暗い画面がちっとも動かない。動かないと進まないので、もちろん動きはあるんだけど、非常に遅いし、何か19世紀ハンガリーの寒村にカメラを据え付けたような映画だった。これは一体なんだ。「ニーチェの馬」というけど、ニーチェの映画ではなく、馬の映画ですらない。難行苦行のような修行の2時間半

 そういうザラザラした、納得できないながら何か心に引っ掛かる映画を作ったタル・ベーラ。いつか他の映画も追いかけてみたいと思っていた。21世紀だって言うのに、白黒の映画しか作ってない。しかも以上の4つの作品しか出てこないし、これでもう映画を作らないとも言う。僕が1回見た限りでは「ヴェルクマイスター・ハーモニー」が一頭他を抜いた傑作のように思った。145分を37カットという、これはまた極端に長回しの映画で、画面は見つめるだけで動かない。動かないってことはないんだけど、実に静かにゆっくりと動いて行く。だから疲れているときっと寝る。

 時代は判らないが、戦車やヘリコプターは出てくる。ある地方の都市の広場に、クジラを見世物にするトラックがやってくる。それをきっかけに暴動が起き、人間関係が変容していく。という筋では判らない。何でクジラが来ると町がおかしくなるのか、さっぱり判らない。まあ象徴という意味で理解するしかないんだろうけど。この街の様子が、光と闇の映像で美しく描きだされる驚異の映像叙事詩。だけど物語的には、なんだかよく判らない。でもその長回しと町の夜の美しい映像は忘れられない。
(「ヴェルクマイスター・ハーモニー」)
 「倫敦から来た男」は、ジョルジュ・シムノン原作の港町の映画。だからハンガリーではない。フランスかベルギーか、フランス語の映画。そこでロンドンから来た男は行方不明になり、金がなくなる。偶然にその大金を入手した男が、人生を狂わせていく。光と影の白黒映像の美しさはこれが一番かもしれない。でも、長回し、静かな映像という点は他の映画と共通する。これは犯罪が出てくる「フィルム・ノワール」に入ると思うけれど、世界映画史上もっとも変わった犯罪映画ではないかと思う。犯罪、犯人、それをめぐるサスペンスを言うところにこの映画の焦点はない。犯罪をきっかけに変わっていく人間のありさまを、ただ見つめる、そういう映画。138分。夜のとばりを美しく表現する映像は、まさに語義通りの「黒い映画」(フィルム・ノワール)と言ってもいい。
(「倫敦から来た男」
 人間の顔だって、どんな美人の顔もただ見つめていれば、ほくろやシミ、しわが目についてくる。これらの映画でも、じっくりと人間を見つめる(人間だけでなく、すべての眼前にあるものを)ので、「世界の原形質」みたいなものが露出してくる地層を掘っている感じ。そういう原初的な感動がある。ただ普通の意味で面白いと言えるかは、かなり疑問である。タルコフスキーにならちゃんとあるストーリイやテーマが、タル・ベーラには見えにくい。「ミニマリズム映画」というべきか、「静かな映画」(「静かな演劇」に対応して)というべきか。まあアート映画に特別に関心がある人以外は見ない方がいいと思うけど、そういう世界を知りたい人は見て損はない。
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タルコフスキーの映画を見る

2012年08月18日 01時03分01秒 |  〃 (世界の映画監督)
 ソ連というよりロシアと言うべき、映画監督アンドレイ・タルコフスキー生誕80周年記念上映があって、全部見直してみた。タルコフスキーは、1932年4月4日生まれで、1986年12月29日に亡くなった。突然の訃報から、もう四半世紀以上経っているのか。奇しくも、1932年2月6日生まれで全く同年代のフランソワ・トリュフォーも、1986年10月21日に亡くなっている。トリュフォーもタルコフスキーも亡くなってしまって、これからも映画という芸術はありうるのだろうかと僕は大変に悲しかった。でもペドロ・アルモドバルやアキ・カウリスマキなど新しい才能が現れてくるのだが。東京の上映会はもう終わったんだけど、タルコフスキー体験を自分で考えるために書いておきたい。

 タルコフスキーの映画は誰にでも勧められるというものではない。思索的で、暗くて、長い。それでも「奇跡」と「救済」を求める深い映像体験が、タルコフスキーを必要とするファンを見つけていく。疲れているときに見ればよく寝てしまうが、かつて蓮見重彦もタルコフスキーを見るとは途中で寝てしまうという体験を含むみたいなことを確か書いていた。水のイメージを中心にして様々な象徴的な映像が長々と続く。独自のリズムがつい眠気をさそうこともあるわけだが、今回は比較的寝ないで見た。それでも続けて昼夜見たときの、夜の上映冒頭はなかなか辛いところもあった。

 タルコフスキーは、短編1と長編7つしか作品を残していない。しかし、一つ一つの作品が長いことが多い。どれも魅力的で、独自の作家として忘れがたい。僕は映画大学の卒業制作の「ローラーとバイオリン」は今まで見ていなかった。また第1作「僕の村は戦場だった」は、63年日本公開だから当然その時は見ていない。残りの6長編はいずれも日本公開当時に見て、深い影響を受けたが、以下に見るように日本での評価は必ずしも高かったとは言えない。

作品リスト
①1960(日本公開65) ローラーとバイオリン(46分)年ニューヨーク国際学生映画コンクール1位  
②1962(日本公開63) 僕の村は戦場だった(94分) キネ旬11位 ヴェネツィア金獅子賞
③1967(日本公開74) アンドレイ・ルブリョフ(182分) キネ旬27位 カンヌ批評家連盟賞
④1972(日本公開77) 惑星ソラリス(165分) キネ旬5位 カンヌ審査員特別賞
⑤1975(日本公開80) (110分)      キネ旬17位
⑥1979(日本公開81) ストーカー(163分)  キネ旬20位
⑦1983(日本公開84) ノスタルジア(126分) キネ旬8位 カンヌ創造大賞等
⑧1986(日本公開87) サクリファイス(149分)キネ旬12位 カンヌ審査員特別大賞、批評家連盟賞等

 国際的な映画祭では受賞しているが、日本のベストテンでは2回しかランクインしていない。当時は難解な映像派と思われていたし、ソ連映画、SF映画というだけで敬遠する人(その反対もいたが)もいたんだろうと思う。それに「ソラリス」「鏡」は岩波ホールで公開されたが、「アンドレイ・ルブリョフ」なんて非常に小さな限定的な公開だった。僕はソ連でなかなか公開が認められなかった反体制的作品として、前からこの作品を見たいと思っていて、何はさておき劇場に駆け付けたものだったけど。ソ連を離れてイタリアで作った「ノスタルジア」、スウェーデンで作った「サクリファイス」は、ミニシアターが東京に増えた時代でカンヌ受賞作の名作公開という感じだったと思うけど、ソ連時代の作品は公開自体もなかなか大変だった。③から⑧までをすべて同時代に見たわけだが、これは19歳から32歳の時のことで、僕の20代にほぼ当てはまる。タルコフスキーの特集上映は今までも時々あったけれど、僕が一番好きな「ノスタルジア」を除いて一本も見ていない。長いからなかなか再見する気にならなかった。

 この前紹介した世界映画ベストテンにタルコフスキー作品は3本入っていた。「」が一番評価が高いし、これを最高傑作とする評価も今では多いようだが、僕にはやはりあまり判らなかった。私的にすぎて難解を究め、魅力的な映像に満ちてはいるけど、どうも理解が他の作品以上に難しい。なんだか判らないのが実人生ではあろうが、もう少し作品的なまとまりが欲しい気がしてならない。では何が一番好きかというと、当時見ていた時はソ連を離れて望郷の念を描いた「ノスタルジア」が完成度が高いと思っていたけど、今回見ると「惑星ソラリス」「ストーカー」の魅力が増しているように思い、また「アンドレイ・ルブリョフ」の魅力が大きいと思った。「サクリファイス」は当時見たときは、長い失敗作と思ったんだけど、今回見ると風景の美しさもあり黙示録的な魅力が増していた。じゃ、何が一番いいかということは決められない。富士山型の一点傑作ではなく、八ヶ岳型のたくさん突出している作家ということなんだろう。もっと言えば、生きていればもっともっと作っただろう作品が真の最高傑作であり、そこへの途上で倒れた作家ということだ。

 「ルブリョフ」「ストーカー」「サクリファイス」などが一番そうなんだけど、破壊があり再生があり、今を生きる中で何を頼りに生きて行くべきかということが徹底して追求されている。これは大震災、原発事故を想起せずして見ることができない現在、バイアスがかかってしまうのを避けられない。「ストーカー」は今では題名が「つきまとい」を意味してしまうが、当時はまだそういう使い方は発明されていず、「ゾーン」と呼ばれる立ち入り禁止地区への案内人が「ストーカー」と呼ばれている。この地域は隕石が落ちたのではないかとも言われているが、もちろん時代が違うんだけど、チェルノブイリ原発事故近くなのではないかと思わずにいられないような設定である。事故は86年だから79年の作品に描かれるはずがないのだが。この映画は記憶ではほとんど怪しげな屋内をうろついている感じだったけど、前半部分はほとんどハイキングのような屋外シーンだったのが意外。中心部の「部屋」とは何か、禁忌と奇跡をめぐり、人間の醜さがあぶりだされていく。今回もよく判ったとは言えないし、というか通常の理解を拒絶していると思うけど、魅力的な映画である。

 「奇跡」が起こりうるか、「世界」を救いうるかという問いそのものを描いたと思うのが「ノスタルジア」でイタリアの温泉地の魅力的な映像とともに、やはり僕は大変好きな映画である。ソ連時代は製作以前の検閲などにエネルギーを取られ、「ソ連体制の抑圧」が画面に反映していたように思った。しかし、ソ連を離れてもタルコフスキーはやはり、暗い映像で世界は救えるかという映画を作った。世界を全部背負って生きる芸術家だったのであり、単なる「ソ連反体制派」ではなかったのである。20世紀後半を生きた本当の映像詩人だった。

 「アンドレイ・ルブリョフ」も難解な映画で、そもそも15世紀の聖像画家であるルブリョフ自体をよく知らないし、中世ロシアの状況もよく判らない。筋がよく把握できないけど、10のエピソードの映像的魅力が素晴らしい。宗教を真正面から扱い、ソ連で批判されて公開できなかった。67年製作で、2年後にカンヌ映画祭に出品を許可され受賞。国内公開は72年になり、日本では74年に小規模で公開された。恐らく前作「僕の村は戦場だった」が世界に受けて、その実績で大規模なロケをできたんだろうと思う。またタタール人の襲撃を「大祖国戦争」に見立て、民衆の抵抗を描くと言った感じで映画化を認めさせたのかと思うが、この作品の力は単なる歴史映画でも、宗教映画でもなく、ソ連内の反体制という枠も超えている。はっきりと「作家の映画」になっていて、戦争の世紀に作家が表現し沈黙し再生するということをテーマに描き切っている。これも暗い映像で、難解な映画だが、大変大きな魅力にあふれている。

 「惑星ソラリス」は、ポーランドのSF作家レムの有名な原作の映画化だが、映画化においては原作者と対立があったという。人間の無意識を実体化してしまう「惑星ソラリス」の「海」に立ち向かう探検隊員。この基本アイディアは割とポピュラーになってしまったけど、見直すと画面の緊張感がすごい。どんなSF映画よりもすごいかも。ある意味で「奇跡」が起こってしまったという状況下で人間は生きられるかというテーマではないかと思った。

 「僕の村は戦場だった」は、いかにも若手ソ連映画人の映画という感じで、映像感覚の素晴らしさは見て取れるけど、新人のあてがい企画(ベストセラーの映画化)で、世界に「大祖国戦争の悲劇」を伝える「ソ連製反戦映画」として成功した。ソ連の映画人は自分の映像や思想を少しでも語りたかったら、戦争中の悲劇に人間性を描くか、チェーホフやツルゲーネフなど古典文学の主人公に感情移入して作るかしかなかった。どちらも世界にソ連文化紹介として売りやすく外貨獲得にもなったんだろう。ここで終わって、「アンドレイ・ルブリョフ」を作らなかったら、学生時代からの盟友コンチャロフスキーが米国に亡命したら普通の商業映画監督になってしまったような歩みをしたかもしれない。

 タルコフスキーはソ連の体制を闘う中で、父である詩人の影響が大きくなり、だんだん幻視者として、体制を超えて人類の救済を追及する映像詩人になっていった。映像はいつも暗く、判りにくいので、誰もが見るべきとも思わないけど、今回も小さな会場だがほぼ満員で、子どもに教えられ母が来ていたり、今までDVDで見ていて初めて劇場に来るような人が結構いたようだ。(会場で待ってる時の他の人の会話。)きっとタルコフスキーを必要とする人がこれからも一定程度ずっといるんだろうなと思った。

 そして遺作の「サクリファイス」。僕は改めてなかなか魅力的な映像だと思ったし、日本への言及がかなりあったのにビックリした。この映画に「救い」はあるのか。核戦争と思われる世界の破滅を生き抜くことが主題と想えるように作ってあるとは思うが。まだまだ読み解くことの難しい、何か世界の秘密が隠されているような気もした。はっきり言って僕にはよく判らないところの多い作品である。病気でもあったわけで、ちょっと失敗作であるということなのかもしれないが。タルコフスキー、謎が多いなあ
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テオ・アンゲロプロスの追悼上映

2012年05月07日 21時51分18秒 |  〃 (世界の映画監督)
 東京・北千住の「東京芸術センター」というところの2階にある「ブルースタジオ」で、ギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロスの緊急追悼上映を夏まで延々と行っています。ほとんど誰も知らないのではないかと思うので、紹介しておく次第。僕も今日初めて行ったんだけど、大きな画面にガラガラの座席でもったいない。アート映画をやるような映画館にチラシをもっとおかないと誰も気づかないでしょう。(もっとも僕は新文芸坐で「芸術センター」という雑誌を入手して知ったのだけど。)


 ここはどういうところか今一つ判りません。神戸や福岡にもあるらしい「日本芸術センター」。政府や自治体の組織ではなく、株式会社で持ちビル会社が芸術振興事業もやってるのかな。天空劇場とかレストランが入った大きなビルです。ピアノコンサートなどを定期的に行っています。ハローワーク足立が入っているビルで、若者支援センターなんかもあります。そこの2階でひっそりと「名画上映事業」をやってるけど、僕もほとんど知りませんでした。もう5年間も続いているようです。ビルに入って1階にある自動券売機でチケットを買って階段を上って2階へ。椅子はそんなに良くないけど、画面はとても大きくて見やすいです。

 テオ・アンゲロプロスについては「追悼文」を訃報が伝えられた時に書いておきました。ギリシャ現代史の知識がないとわかりにくいのですが、それについては中公新書「物語 近現代ギリシャの歴史」の書評も参考に。現時点で早稲田松竹で二週間連続で追悼上映。3月に新文芸坐で全長編上映があったけれど、体調不良で半分しか見られませんでした。今日、その時見逃した「アレクサンダー大王」を1981年以来31年ぶりに見ました。「E.T.」や「1900年」、「炎のランナー」「黄昏」に続いて、その年のベストテン5位ですが、僕個人ではベストワンでした。

 19世紀最後の日にギリシャの牢獄から「義賊」が脱獄する。彼は白馬に乗って古代のアレクサンドロスを名乗って、「20世紀最初の日の出」をギリシャに見に来たイギリス貴族を誘拐して政府に恩赦、土地解放、身代金を要求。イタリア人アナーキストも加わり、故郷の北の村に帰ると、そこはコミューンになっていて、初めは歓迎される。その「英雄的義賊」が村人や政府と交渉、対立して専制化していき、流血の悲劇に終わるまでを3時間半の長さで見つめた映画。「大王」の過去や死に方など謎が多い映画。ロングショット、長回しの絵画的構図が常に緊張感をはらんでいる。テロと解放、英雄と民衆、神話と象徴など、大問題を突きつけている。

 「義賊」というのは社会史に出てくる概念で、シチリアの盗賊やアメリカのビリー・ザ・キッド、オーストラリアのネッド・ケリー、ブラジルのカンガセイロ(グラウベル・ローシャの映画に出てくる)などですが、日本で言えば国定忠治なんかが近い存在です。封建制から近代への変わり目の辺境地域で、実力を持つ悪漢(賭博や盗賊、殺し屋)が政府に反抗して民衆の英雄となる。そういう図式は世界各地にあります。しかし、人質を取って政府に要求を突き付けるのは、今はむしろ「テロリスト」と言われるでしょう。民衆に英雄視される「義賊」が暴力による専制になって民衆から排斥されていき、敗北したのちに神話化されるという、そういう仕組みが映画で描かれています。だから娯楽を映画に求める人は見ない方がいいけど、民衆史や民族学なんかに関心がある人なら面白いはず。長いけど。

 15日まで「アレクサンダー大王」で、その後「シテール島への船出」「蜂の旅人」「霧の中の風景」「こうのとり、たちずさんで」「ユリシーズの瞳」「永遠と一日」「旅芸人の記録」と、8月21日まで続きます。1作品2週間、水曜変わり。(「エレニの旅」「狩人」はすでに上映終了。)ギリシャの選挙がちょうど終わったところで、ギリシャ現代史を考えたい人もこの特集を見る意味があるでしょう。

 北千住は僕の家から近いけど、東京でも東のはずれの方だから行ったことがない人も多いでしょう。昔の日光街道の宿場町で、観光施設も少しあります。スカイツリーを見て行くこともできるでしょう。地下鉄日比谷線、千代田線、半蔵門線、東武線、JR常磐線が通ってます。東京芸術センターがある場所は、昔の足立区役所で区役所が梅島に移った後の跡地利用は政治的に大問題になり、一時は共産党区長が当選したりしました。長い間空き地で、劇団黒テントの芝居に使われたりしたこともありました。東京芸大の千住キャンパスに続き、4月から東京電機大が移転して学生の街になってきました。

 案外みんな知らないのが、森鴎外の旧居地であること。文京区のホームページに以下のようにあります。
「鴎外は30以上のペンネームを使ったが、最後まで使ったのが「鴎外」だった。「鴎外」の由来には諸説あり、千住にある「かもめの渡し」という地名をもじったものという説が有力。「かもめの渡し」は吾妻橋の上流にあり、吉原を指す名称でもあった。遊興の地には近寄らず、遠く離れて千住に在るという意味も込められている。」
 森林太郎は上京後、向島や千住に住んでいました。千住は父の病院があったところ。ドイツ留学前の時代です。「鴎外」というペンネームが千住を意味するものであるということを知らない人がまだ多いのではないかと思います。碑もあります。足立区のホームページ「森鴎外と千住」も参考に。
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グル・ダット映画の全貌

2012年04月16日 23時57分50秒 |  〃 (世界の映画監督)
 東京のアテネフランセ文化センターで、インド映画の伝説的巨匠グル・ダットの全作品上映会があった。グル・ダットの代表作「渇き」(1957年)は昨年見直した機会にこのブログにも感想を書いた。出演作品も含めて全作品を見られるというので、全部見たのだが、特に昨年の東京国際映画祭で上映されながら見逃していた「グル・ダットを探して」が貴重だった。イギリスのテレビ局が1989年に作成したドキュメンタリー作品。(ビデオ上映)

 グル・ダットは1925年生まれで、1964年に39歳で自殺したという短い生涯だった。監督第1作「賭け」(1951年)は26歳。最後の監督作品「紙の花」(1959年)は34歳。芸術の歴史でこのような悲劇的な人生は決して珍しいとまでは言えないけれど、それでもあまりにも痛ましい。「グル・ダットを探して」を見ると、本人の内省的な性向がうかがわれるが、芸術上、また私生活上にも苦悩が多く、最後は追いつめられたような状況にあった。今ならもっと周りで配慮するなり治療的対応も取れたのではないか。

 グル・ダット作品は、「渇き」が1989年の大インド映画祭で公開されて評判を呼び、2001年に国際交流基金による全作品上映会が行われた。その時に「」「表か裏か」「渇き」「紙の花」を見た。と言っても記録を見直してわかったことで、ほとんど記憶はない。今回見て思ったことは、たった7本の監督作品だけど、明らかに最後の2本(「渇き」「紙の花」)が突出している。この2本にしても最初に見たときは、白黒の古い映画でもあり、なんだかよく出来た娯楽映画に歌と人生の哀歓をまぶした程度に見えた感じもした。でも、「グル・ダットを探して」を見てよく判ったが、歌の使い方光と影の撮影などグル・ダットがインド映画の革新者であり、その後のインド映画に影響を与えている。だからその後のよくできたカラー映画を見てしまうと、グル・ダット映画が古いようにも感じられてしまうわけである。

 ところで「賭け」の歌を歌っている(吹き替え)のが当時の人気歌手。グル・ダットは彼女と結婚し、子供も生まれる。その後、「渇き」「紙の花」の主演を務めて、宿命的な出会いを演じたワヒーダー・ラフマーンと実人生でも「不倫」の関係になった。自伝的とよく言われる「紙の花」では、人気監督(グル・ダット)が偶然見つけた素人女性(ワヒーダー・ラフマーン)を大スターにして、個人的にも結ばれる。しかし、娘のために別れて、その後監督作品も失敗、映画界から見捨てられ、酒に溺れ破滅していく…という「自己予言的」な作品になっている。この2本の映画を見る限り、監督にとってラフマーンとの出会いは「宿命」と思われる。だから、ラフマーンという「運命の女」との出会いが歴史的傑作を生んだと言える。グル・ダット監督作品ではないけれど、両者が主演し映画内で不思議な縁で結ばれる「十四夜の月」を見ると、ワヒーダー・ラフマーンのあまりの美しさに驚き。グル・ダットとワヒーダー・ラフマーンは、映画史上ロベルト・ロッセリーニとイングリッド・バーグマン、ジャン=リュック・ゴダールとアンナ・カリーナに匹敵するような、監督と女優による「奇跡の映像」の伝説なのではないかと思う。

 初期作品はフィルム・ノワール的。どこの国でも、「愛」と「金」に引き裂かれる主人公が暗黒街で苦悩するというような映画が量産されていた。「賭け」や「」はグル・ダットは出演していません。この二つではまだ「作家」とまでは言えない段階。映画美術や歌は面白く、鈴木清順の初期などをちょっと思わせるが、まあ巧みな娯楽映画。3作目の海洋アクションというべき「」(グル・ダット自身が出演した初作品)の後半あたりから、「光と影」の絵画的構図などが目立ってくる。4作目の「表か裏か」もフィルム・ノワール的な喜劇。「的」と書くのは、彼の場合犯罪映画と言えども「愛の映画」以外の何物でもないからである。歌の魅力も大きい。5作目「55年夫妻」がコメディの傑作で、当時の社会状況も伝える面白い映画。人物の造形も面白くよくできた映画だが、内容的についていけない部分もある感じ。

 そして「渇き」になる。僕にとって、この映画は前より面白く、何度見てもいい感じがする。この映画の、ご都合主義的なストーリーは、一度見て知っておく方がつまづかないのかもしれない。筋としては、何だこれというような展開だが、歌と詩が本当に素晴らしい。白黒の撮影も素晴らしく、映像と歌という視覚的、聴覚的な快楽に身をゆだねる体験。そして主人公の「売れない詩人」の「詩と真実」の深さ。そして、最後の作品「紙の花」に至る。インド初のシネマスコープ作品で、横長の画面に光と影の美しい映像で、主人公の苦悩の人生が描かれる。その転落の様は、自分で演じているうえに、その後を知って見るから、悲しすぎる映画とも言える。そしてそれが彼の最後の監督作品になってしまった。映画監督が映画界を追われて転落して行く映画が。
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追悼・テオ・アンゲロプロス

2012年01月27日 00時18分14秒 |  〃 (世界の映画監督)
 ギリシアの映画監督で、世界的な巨匠テオ・アンゲロプロスが、24日、交通事故で死去。76歳。

 全く!ギリシア人は何と言うことをしてくれたのだ。ただでさえ、ギリシア発の経済危機で世界を揺るがせていると言うのに、アンゲロプロスをバイクではねるなんて。と八つ当たり気味のことを最初に思った。80年代にタルコフスキーやトリュフォー、トルコ(クルド人)のユルマズ・ギュネイらが相次いで亡くなって以来、映画の世界で注目すべき作品を作り続けた巨匠と言うべき人は、アンゲロプロスぐらいだったではないか。もちろん、50年代に出発したアンジェイ・ワイダやアラン・レネが生きている。でも、思想的、映像的に次回作が注目される、次回作が頂点かもしれない映画監督って、他に誰がいただろう?

 1979年に岩波ホールで「旅芸人の記録」が公開されたとき、僕も含めて、皆、驚天動地というべき感情を味わったと思う。ギリシア現代史を背景にして、4時間にも及ぶ、ほとんどロングショットばかりの静かな映画。でもその静けさの中に、歴史に翻弄された現代人の愛と怒りがいっぱい詰まっていた。圧倒的。その一言につきる。いや、判らないことが多すぎた。ギリシア現代史を行き来する複雑な構成は、途中で人間関係が把握できなくなってくる。日本だったら、「リンゴの歌」が流れれば戦後の闇市みたいな、同国人ならすぐ判る同時代を生きた証が多分あるんだと思う。それに、登場人物がアガメムノンだのエレクトラだの、ギリシア悲劇なのかという名前が(もちろん意識的に)付けられていて、そんな名前が今でもあるんかいな。などと思いながら、暗いギリシアの風景を見つめていた。4時間もあるので、なかなか再見できなかったけど、数年前にようやくまた見た。やはり判らない。けど、傑作傑作だということはよく判る

 長すぎるし、暗すぎるし、テーマが重い。「旅芸人」がベスト1になったから見たけど、以後はもう敬遠して見ないと言う人がいる。それはもったいないなあ。岩波ホールでやった「アレクサンダー大王」は、「旅芸人」に匹敵する傑作である。紀元前の話ではなく、19世紀に現れ大王を名乗った義賊の話で、現代史じゃない分、こっちの方が判りやすかった。

 以後、(今はなき)「シネヴィヴァン六本木」や「シャンテ・シネ」ができたおかげで、アンゲロプロスはほとんど日本公開されてきた。「シテール島への船出」「霧の中の風景」「こうのとり、たちずさんで」「ユリシーズの瞳」「永遠と一日」「エレニの旅」と日本でも大きな評価を得た作品ばかりである。少し遅れて公開された「狩人」「蜂の旅人」も後で見たから、僕は日本で公開されていない初期の作品以外、長編は全部見ている。個人的には、「ユリシーズの瞳」「永遠と一日」が中でも傑出していると思う。

 ギリシアでも「子供を寝かせたいなら、アンゲロプロスを見せろ」と言われているらしい。タルコフスキーのように、眠くなる時もあると言えばあるけど、映像の緊張感が続くので、すごいものを見ているという意識は途切れない。僕はこれが映画だと思う。転換が早い映画もいいけれど、世界と歴史を見続けていく映像の緊張感は忘れがたい。

 ギリシアと言えば「エーゲ海の真珠」かと思うと、北の方は寒く雪に閉ざされた冬があるということを、アンゲロプロスの映画が教えてくれた。これでは観光にならないし、いつも暗いと敬遠する人も確かにいるだろう。それと左右対立の激しかった現代史。考えて見れば、ギリシアの北は、アルバニア、旧ユーゴスラヴィア、ブルガリアだから、冷戦時代は「社会主義国」との前線国家だった。大戦中はナチスに占領され、イギリスに亡命した王室・政府とソ連の影響下にあった共産党が、戦後も争い続けた。隣国のトルコは同じNATO加盟国だったけれど、イスラム教国でキプロスをめぐって対立関係にあったので、ギリシア現代史は厳しい綱渡りを続けてきた。60年代末から70年代にかけては軍事政権の時代があった。そういう現代史の闇を抱えた国だったのである。

 まあ、亡くなってしまった以上は、もとに戻ることはできない。残されたものが頑張っていくしかないわけである。スペインのペドロ・アルモドバル、セルビアのエミール・クストリッツァ、ベルギーのタルデンヌ兄弟、フィンランドのアキ・カウリスマキらに頑張ってもらうしかない。僕はヨーロッパの小国の映画作家が大好きなのである。

 なお、いずれ読めると思うんだけど、多くの人がそう思ってるように、僕も池澤夏樹の追悼文が待ち遠しい。アンゲロプロスの字幕は、すべて池澤夏樹が付けてきた。芥川賞を取るずっと前から。僕らは池澤夏樹を通してテオ・アンゲロプロスの世界に接してきたのだ。
(追記:池澤夏樹氏の追悼文は、1月31日付朝日新聞に掲載。必読。)
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ジャファール・パナヒ監督のこと

2011年11月25日 22時43分36秒 |  〃 (世界の映画監督)
 東京フィルメックスという映画祭を今やっていて、その招待作品で「ジャファール・パナヒ、モジタバ・ ミルタマスブ」の二人の名前がクレジットされているイラン映画「これは映画ではない」を見た。「これは映画ではない」というタイトルの映画。でも、映画ではないかと言われるかもしれないが、ここには二つの意味がある。

 ジャファール・パナヒは、2009年のイラン大統領選でムサヴィ候補を支持し反体制派の立場で映像を撮った。そのことで、「反体制の宣伝活動に携わった」などとしてテヘラン革命裁判所から禁錮6年の判決を言い渡され、監督活動や外国への渡航を20年にわたって禁じられたという人物である。その後、保釈され、その間に作られたのがこの映画。従って「映画は撮れない」ので、友人の記録映画監督を招いて自分を撮ってもらう。自分は監督していないので「これは映画ではない」。もう一つ、監督活動や出国と並び、脚本執筆も禁止された。そこで自分が前に書いて映画化が許可されなかったシナリオを読む。「脚本を読むことは禁止されていないと思う。」で、本当は映画化されるべきだったが未だに映像化されていない世界が朗読と自作解説で示されるところを記録する。従って「これは映画ではない。」

 ジャファール・パナヒという監督は、95年に「白い風船」でデビュー。これはカンヌ映画祭新人監督賞。アッバス・キアロスタミが脚本を書いた。2000年の「チャドルと生きる」はヴェネツィア映画祭金獅子賞。日本では2002年に公開され、9.11以後のアフガニスタン戦争との関係で大きな反響を呼んだ。2006年の「オフサイド・ガールズ」はベルリン映画祭審査員グランプリ。つまり三大映画祭制覇という監督なのである。この映画は、イランでは女性がサッカーを見られないということを世界に示した。どうしても見たいと男装してサッカー場に潜り込もうとする女子学生を描いたこの映画は、もちろんイランでは上映禁止である。ちなみになぜサッカー場に女性が入れないかと言うと、「男が汚い言葉で野次を飛ばすような風紀が悪い場所から女性を保護する必要がある」という理由かららしい。それなら男の入場をこそ禁止して、女だけで見れば解決すると思うけど。

 こういう世界的に注目されている映画監督が、撮影した映画の中身のことで(撮影禁止、上映禁止と言った行政処分ではなく)、禁錮刑と言う刑事処分を科されようとしている。ちょっと他の国では聞いたことがない。戦時中の日本で記録映画監督の亀井文夫が治安維持法に問われた。ソ連や文革中の中国でも弾圧や粛清はあったが、映画撮影そのもので罰せられた例は少ないのではないか。そういう恐ろしいできごとを世界に示す映画として、これは見てみたかった。弁護士への電話、スマートフォンで撮った映像、飼っているイグアナの映像(部屋の中で放し飼いにしている)、ごみ処理にきた男性のインタビュー(美術の大学院生)などのなかで、先ほど書いたような過去のシナリオを読むシーンが長い。テレビには東日本大震災の映像(南三陸町の大津波の様子)が突然映し出されて、心を突かれる。イラン暦では新年が3月21日に始まるそうだ。日本が津波と原発事故で衝撃を受けていた時、イランは年末年始だった。若者たちは爆竹を持って町へ出て騒ぐらしい。テヘランの町は騒然としている。「これは映画ではない」ので、筋らしい筋もないが、とても興味深い映像体験だった。

 この映画は、26日(土)10時半からもう一回上映がある。(有楽町マリオンの朝日ホール)今紹介しても遅いんでしょうけど。国際的な支援、注目が重要だと弁護士も電話で言っていた。今年のベルリン映画祭の審査員に招かれていたが、出国は認められなかった。様々な方法で支援することができないかと思う。まずはこの映画がもっと上映されるといいのではと思う
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ゴダールー映画と革命と愛と

2011年08月29日 00時15分23秒 |  〃 (世界の映画監督)
 ゴダールの本の話。四方田犬彦「ゴダールと女たち」(講談社現代新書)が発売された。四方田さんの本はずいぶん読んでるけど、これは対象がゴダールということもあって、格別に面白い。「女に逃げられるという天才的才能」なんて、書いてあるよ。そして、昨年、山田宏一さんによる「ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代」(ワイズ出版、本体2800円)という大部の本が出ている。山田さん本人が撮影したアンナ・カリーナの写真満載の460頁にもなる本で、ゴダールかアンナ・カリーナのファンじゃないと読まないかもしれないけど、僕にはとても素敵なプレゼントのような本だった。まとめて紹介。

 僕がゴダールを初めて見たのは、1970年、中学3年生の時。日劇の地下にあった「日劇文化」で、「アルファヴィル」の初公開に「気狂いピエロ」が併映されていた。この「気狂いピエロ」こそ、脳天直撃フィルムであまりの素晴らしさに心が震えた。さっそく「白い本」を買ってきて、「気狂いピエロ」と大きく表題を書き、詩やら評論やらの真似事をつぶやき始めたのだった。僕にとってその年公開の個人的ベストテン1位はブラジルのグラウベル・ローシャ「アントニオ・ダス・モルテス」だったし、「イージーライダー」「明日に向って撃て!」「M★A★S★H」「ウッドストック」などアメリカの「ニューシネマ」と言われた映画も全部同時代的に見て、ものすごく影響された。でも、ゴダールの「気狂いピエロ」の衝撃が一番大きい

 これを見てなかったら、その後の映画や小説の好みがずいぶん変わったと思う。(ちなみ四方田犬彦「ハイスクール1968」を読むと、新宿文化に若い時から行ってる。三島の「憂国」を上映したり、清水邦夫作、蜷川幸雄演出の舞台をレイトショーでやった映画館である。東京東部の中高生だった自分は新宿文化へ行ったことがない。「日劇文化」でATG映画を見るのが精一杯だった。)その頃のゴダールの影響力の凄さは今では信じられないと思う。そして、映画の革命を成し遂げた若き映画作家ゴダールは、68年の五月革命でカンヌ映画祭を粉砕したあと、「革命の映画」に突き進んだ。作家性さえ「止揚」して、「ジガ・ヴェルトフ集団」と称して「東風」などの映画を撮っていた。(東風というのは中国の文化大革命の中で毛沢東が言った言葉ですよ。)

 だけど、ゴダール映画で、凄い、面白い、わくわくする、刺激的などの評語が当てはまるのは初期作品になると思う。デビュー作の「勝手にしやがれ」は、今でも素晴らしく面白い。この映画は公開前に時間短縮を命じられ、ゴダールは(普通のやり方と違い)各シーンから少しずつ抜き去った。だから展開が判りにくいと当時は非難もされたが、逆にリズムが破格で現代風と若い映画ファンに受けた。今見ても全然古くなく、素晴らしく生き生きした現代に生きるフィルムである。その時の主役がジャン・ポール・ベルモンドとジーン・セバーグ。セバーグはアメリカの女優だが、のちにブラックパンサーにコミットして大変な人生を歩むことは、四方田さんの本に詳しい。暗然とする。

 ゴダールはその後、デンマーク出身の若きアンナ・カリーナを知り、次作「小さな兵隊」に抜擢。これが上映禁止になりミュージカル「女は女である」を作り、アンナ・カリーナにベルリン映画祭女優賞をもたらした。その間、20歳のアンナに「小さな兵隊」撮影中に求愛して結婚。続く「女と男のいる舗道」「はなればなれに」をアンナ・カリーナ主演で撮る。しかし、両人の個人的関係は破たんしてしまう。まあ、ゴダールとの結婚生活は大変そうだということは、いろいろな証言でよく判る。このころが、山田宏一さんの「わがアンナ・カリーナ時代」になるわけである。しかし、別れた後もカリーナ主演で何本か撮っていて、わが生涯最高のフィルム「気狂いピエロ」もその一本。逃げるベルモンドに謎の女カリーナが、地中海のブルーによく似合う。ミステリアスな展開、パリの夜と地中海の陽光、ヴェトナム戦争などへの風刺、何より、この日常からの脱出願望。愛と死。政治と革命。映像と言語…。何度見ても素晴らしい。

 こういう風に女に逃げられながら、主演に起用して奇跡的にきらめくフィルムを作る。次の女性、アンヌ・ヴィアゼムスキーにも去られたと聞いて、大島渚が言ったのが「女房に逃げられるという一種の才能」という言葉である。四方田さんはそれを手がかりに、ゴダールと関係の深い女性を取り上げ丹念に評していく。この大島渚の言葉は、赤瀬川原平のいわゆる「老人力」みたいなもんだと思うが、大島(小山明子)、吉田喜重(岡田茉利子)、篠田正浩(岩下志麻)と「松竹ヌーベルバーグ」はみんな添い遂げる(?)ことを思うと、洋の東西の違いは大きいか。

 アンヌ・ヴィアゼムスキーは、ロベール・ブレッソン「バルタザール、どこへいく」という映画に素人で出演したところをゴダールにつかまった。わけもわからぬ革命映画(「中国女」)のセリフを棒読みしながら、ゴダールと結婚してしてしまった。年は17違う。(今思うと、むしろ17しか違ってなかったのか。ちなみにアンナ・カリーナとは10歳違う。)アンヌは政治化したゴダールに引き回され、当然結婚は破たんする。アンヌはパゾリーニ他の監督に出演した後、小説家として成功した。実は母方の祖父がフランソワ・モーリヤックで小さい頃から文学的環境に育ったのである。日本でも翻訳が出て、今年来日した。

 この頃のゴダールが作った映画、つまり商業映画をやめて政治プロパガンダ映画に専念していた時代の「ブリティッシュ・サウンズ」「プラウダ」「東風」「イタリアにおける闘争」なども、日本で自主公開みたいにやったときに、ご丁寧にもほとんど見に行った。まあ、はっきり言って、全く面白くない。革命映画が映像の革命ではなく、「言語の優位性」を誇示するだけでは詰まらない。

 ところで、この後ゴダールの隣にアンヌ・マリ・ミエヴィルという協同者が現れ、共同で映画作品を作り始める。しかし、ほとんど論じられることはなかった。この「聡明な批判者」こそが、ゴダールの真の批判者であり、真の協同者であるというのが、四方田さんの本の最大の主眼である。そして、ミエヴィルを「抹殺」している映画史の見直しを図っている。こういう状況をテクスチュアル・ハラスメントと言うらしい。前の二人の10倍近く、すでに40年近くも理想的パートナーであり続けているというのに、誰も論じない。と言うんだけど、「復帰」以後のゴダール作品は、面白いんだろうか?いや、面白いという評価基準は間違ってるかもしれないけど、「パッション」「カルメンという名の女」「右側に気をつけろ」「映画史」「アワー・ミュージック」「ゴダール・ソシアリスム」などなど。うーん、「アワー・ミュージック」はなかなか刺激的で、重要な映画だったかな。「パッション」は今はなき(六本木ヒルズに飲み込まれた)「シネヴィヴァン六本木」の最初の映画だったけど、全然つまらなかった。

 ゴダールの作品は今でも結構やってる。フランスでヌーヴェルヴァーグ(新しい波)という映画が出てきたことは、この何十年かの映画史の中でももっとも重大な出来事ではないか。しかし、当時のフランスでは、「アンチ・ロマン」という小説、「アンチ・テアトル」という演劇があったわけだが、(というかそういう呼び方をした)、ゴダールは言うならば「アンチ・シネマ」というような道を歩いて行ったのかもしれない。だけど「気狂いピエロ」一作あれば、僕はもういいかな。ゴダールを見てない人が読んでも仕方ないかもしれないが、四方田さんの本は芸術と女性というテーマでも読める。まあ、でも四方田犬彦、ゴダールって言うだけで買う人こそに読まれるべき本かもしれないが。ゴダールの初期習作に「男の子の名前はみんなパトリックっていうの」という短編があるが、思えばゴダールの人生は「女の名はみんなアンヌという」という人生だったことになる。
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ヤスミン・アフマド監督の映画②

2011年07月15日 21時10分01秒 |  〃 (世界の映画監督)
 マレーシアの女性映画監督、故ヤスミン・アフマドは6本の長編映画を残した。
 ラブン(2003)
 細い目(2004) 東京国際映画祭最優秀アジア映画賞
 グブラ(2005) マレーシア・アカデミー賞グランプリ
 ムクシン(2006)
 ムアラフ 改心(2007) 東京国際映画祭アジア映画賞
 タレンタイム(2008) 

 最初の4本が「オーキッド4部作」で、オーキッドという少女の年代記。オーキッドは妹の名前だそうだ。次の「ムアラフ 改心」は宗教をめぐる討論の映画で、実に興味深い。遺作になってしまった「タレンタイム」は、高校生の音楽コンクールを描く青春映画でエンターテインメント色が一番強く、本人も意気込んで作ったらしい。母方の祖母が日本人だったそうで、次回作は能登出身の祖母の人生を描く「ワスレナグサ」という題でシナリオも作られていたという。

 各映画を簡単に寸評すると、
 一番最初の「ラブン」はプライベート色が強く、実験映画的なエチュード。
 続く「細い目」が最初の傑作で、涙なしに見られない切ない青春映画の大傑作
 「グブラ」はオーキッドの結婚生活を描くが、「細い目」を受けた続編的作品。
 「ムクシン」はオーキッドの10歳の初恋を描く、瑞々しい映画で痛快。
 「ムアラフ 改心」は、宗教と民族をめぐるメッセージがこめられた問題作。
 「タレンタイム」は、考えさせると共に、切々と心に響く青春映画の傑作で、是非一般公開されて欲しい素晴らしい作品。

 「細い目」は、マレーシア映画で初めてマレー系少女と華人系少年の恋を題材にした映画だという。ムスリムの少女が場末の中華料理屋でデートする場面もある「超問題作」である。(「豚を食べる場所」にムスリム少女が出入りする場面があるのは、厳格なムスリムにとっては許せない場面だろう。)この二人がどうして出会うかと言うと、主人公オーキッドは大の香港映画ファン、「金城武大好き」少女で洋服箪笥を開けると金城武の写真で一杯。町で出あったビデオ売りの華人青年ジェイソンと映画の話題で盛り上がるという設定である。好きな映画はジョン・ウーの「男たちの挽歌」で、ジョン・ウーはハリウッドに行ってダメになった、とか…。このあたり、ヤスミン自身の映画への愛情があふれた名場面であると思うし、自伝的な背景があるのかもしれない。
 二人は携帯電話で連絡を取り合う。もし、携帯電話がなければ、これほど生活環境の違う二人が連絡を取り合うことは不可能だったろう。そういう意味で、全世界の恋愛事情を変えてしまったケータイの登場を考察した映画ということもできる。
 もちろん、二人の恋は障害にぶつかる。民族を超えた恋愛は、切ない思いとともに、果たしてどういう結末を迎えるのだろうか・・?マレーシアの教育事情が分からないので理解しにくい場面もあるが、ヤスミンは、二人を初め家族それぞれを寄り添うように描き、決して大げさではなく、静かに見守る。主人公オーキッドを演じたジャリファ・アマニは、この映画で新人賞を受け、以後ヤスミン映画の主人公を演じ続ける。フランソワ・トリュフォー監督映画のジャン・ピエール・レオのような存在。すごい美人という感じではないが、はつらつとして、忘れがたい素晴らしい女優である。

 ヤスミンの映画には、マレー系、華人系、インド系などを問わず、伝統にとらわれたまま、心を閉ざして生きる不幸な人々、不幸な家庭がたくさん出てくる。特に、家父長制の「伝統」の下で、抑圧される女性、虐待される子供たちの姿が描かれている。
 一方、オーキッドは「ムクシン」では、10歳の少女にして、女子のグループが嫌いで男子と遊んだり、男の子と木登りするような痛快なお転婆少女に描かれている。両親が仲良くピアノを弾く場面が「グプラ」のラストに実写で出てくるが、実際にヤスミンの両親は開かれた心の持ち主で、仲の良い家庭だったらしい。それがヤスミン映画の原点なのだと思う。

 「ムアラフ 改心」では、父親の虐待を逃れてきた姉妹が、カトリックの華人青年教師と知り合いになる物語である。姉は宗教に詳しく、シンガポールの大学で宗教社会学を学びたいと思っている。そういう設定で、コーラン、聖書、アウグスティヌスなどの言葉がとびかう、あまり今までにみたことがない宗教討論映画になっている。こんな映画が世界にはあるのか、というような映画である。また、この映画を見ると、宗教の違いより、親の虐待の方がはるかに大きな問題であるとよくわかる。

 遺作となってしまった「タレンタイム」は、忘れがたい「学園祭映画」である。学園の講堂に電気が灯って映画は始まり、電気が消えていって映画は終わる。世界中のすべての人の心の中にある「学校と言う特別な場所」の懐かしさを呼び起こす、素晴らしい映画の始まりと終わり。マレーシアの教育事情が良く判らず理解しにくい設定も多いが、高校が終わって大学に行くまでの間の学校があるらしい。そこで、音楽、舞踊などのコンクールがある。「今年で7回目」という設定。それが「タレンタイム」で、これがマレーシアで一般的な言葉かどうかはわからない。
 その大会をめざす何人かの若者群像を描く。一人はマレー系の少女メルーで、メルーを送り迎えする役を学校から命じられたのが、インド系の少年マヘシュ。どうして送り迎えを他の生徒がするのか不明だが、それはともかくこの二人が恋に落ちる。今度はマレー系とインド系の恋、なのだ。さらにこのマヘシュは聴覚障害という設定で、せっかくのメルーの歌も彼の心に届かない。

 一方、マレー系の少年ハフィズは、母親が病気で毎日通っているが、自作の歌を歌ってタレンタイム優勝を目指す。この歌が素晴らしい。さらに華人少年の二胡演奏、インド系少女の舞踊などがあり、それぞれの家族関係が描かれる。ハフィズや華人少年もメルーが好きらしい。このように青春音楽娯楽映画という枠組みの中で、マレーシアの様々な現実が描かれる。ここでは書かないが、青春の忘れられない1頁を映像化した忘れがたい名場面がいくつもある。

 ヤスミンの映画には、会話や現実の音を消して、主人公を(大体は恋人同士や家族の戯れ)クラシックの演奏の中で叙情的に見つめる短い至福のシーンがよくある。人生の素晴らしさ、世界の美しさを圧倒的な映像美と音楽で描き出す。「タレンタイム」では、ドビュッシーの「月の光」が使われているが、そういう場面も忘れがたい。

 何と、美しく切ない、青春の映画だっただろう。電気が消され、学校は閉まり、映画は終わる。が、人生は続いていく。世界も続いていく。ヤスミン・アフマドがいない世界が・・・。
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ヤスミン・アフマド監督の映画①

2011年07月14日 21時03分54秒 |  〃 (世界の映画監督)
 マレーシアの女性映画監督故ヤスミン・アフマドの特集上映が東京渋谷のユーロスペースで16日から一週間にわたって行われるので、その紹介をする。

 ヤスミン・アフマド 1958~2009.7.25 
 6歳で見た「座頭市」に衝撃を受け、イギリス留学を経て、CMで活躍。自分の家族を題材に長編劇映画を撮り始め、6本の作品を残した。ヤスミン・アフマドというマレーシアの女性監督が映画祭で評判になっているということは、数年前から聞いていた。しかし、一本も一般公開されないまま、2年前に急逝してしまった。僕は昨年東京のアテネフランセ文化センターで長編6本を見る機会があった。とても鮮烈な印象を受けたので、多くの人に知って欲しいと思っている。

 世界文化の辺境とも言えるマレーシアの地で、民族や宗教や性別にとらわれない人間の豊かな生き方を示したヤスミン・アフマドの映画。敬虔なムスリム(イスラム教徒)だった女性が東南アジアでそういう映画を撮り続けていたのである。僕たちは、9・11以後のもっとも大切な映画作家を失ってしまったのではないかと思うのである。

 具体的な映画の紹介は次に回し、今日はまずマレーシアという国の紹介から。世界地理は今の生徒の苦手とするところだけど、中でも東南アジア諸国は皆が苦労するところ。日本との関係も深いし、是非知っておくべきだと思うが、マレーシアと言われても場所もよく判らない人も多いだろう。特にマレー半島南部とカリマンタン島北部の両方にまたがる国家と言うことが理解を難しくさせている。その上、社会的、歴史的に複雑な東南アジア社会の中でも、もっとも複雑な民族構成の社会と言ってもよいのが、マレーシアである。

 「マレーシア」という国家自体が、1963年にマラヤ連邦とシンガポール、カリマンタン島北部のサバ、サラワクというイギリスが支配していた領域が合邦して成立した「人工国家」である。オランダ領だったところは「インドネシア」としてすでに独立していたわけだが、当時のスカルノ大統領はマレーシア独立をイギリスの新植民地主義として非難し対決政策を取り、一時インドネシアは国連を脱退したぐらいである。その後、1965年にシンガポールがマレーシアから離脱して独立。1969年5月には、マレーシア史上最大の事件と言えるマレー系と華人の民族衝突が起こり、大きな衝撃を与えた。その後、プミプトラ政策(マレー人優先政策)が取られている。

 人口2750万ほどのうち、マレー系が65%、華人系が25%、インド系が7%と言われる。マレー系はマレー語だが、かつての支配言語の英語を話せる人が多い。華人系は広東語と福建語が多いが、北京語(官話)を話せる人も多い。もちろん、英語を話せる人も多いし、華人の英語国家シンガポールとは仕事や結婚でつながりが多い。インド系はゴムのプランテーション労働者だったタミル系が多いので、タミル語が中心。宗教的には、マレー系がイスラム教、華人系が仏教、インド系がヒンドゥー教だが、各民族ともキリスト教徒がいるし、インド系のイスラム教徒もいる。こういう民族、言語、宗教の「ごった煮」状態なのがマレーシアという国なのである。

 複雑な社会を反映して、映画の中では「マレー語社会」が描かれてきたと言う。華人系は香港映画をみるし、インド系はタミル語のインド映画を見る。従って、多数派のマレー系のためのマレー語映画が「マレーシア映画」という市場を形成し、当然マレーシアの複雑な民族問題は描かれない。そういうようなマレーシア社会に関する知識がある程度はないと、ヤスミン・アフマドの映画はよく理解できない部分があるだろう。

 そんな中で作られたヤスミン・アフマドの出世作「細い目」こそは、マレーシア映画で初めてマレー系少女と華人系少年の恋を題材にした映画なのである。映画の中で広東語がいっぱい出てきて、字幕もつく。映画自体が切ない青春映画の傑作だけど、設定自体がマレーシアではそれまでありえないような映画だったのである。では、具体的な映画作品の紹介は次に。 
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クロード・シャブロル監督の映画を見る

2011年07月02日 23時05分56秒 |  〃 (世界の映画監督)
 クロード・シャブロル監督映画の日本初の大特集がフランス映画祭の企画として行われている。去年、シャブロルとエリック・ロメールが亡くなり、ヌーヴェル・ヴァーグも歴史となった。それで追悼特集かと思ったら、そうではなく初めはシャブロルを日本に呼ぶ計画もあったのだそうだ。
 
 1950年代末のフランス「ヌーヴェル・ヴァーグ」(新しい波)という若き映画人の映像革命があった。それが世界に波及し、映画を変える。それまで映画と言うのは、プロにしか作れないものだった。映画芸術と言おうが、美男美女スターの娯楽映画であろうが、普通の若者がすぐに作れるものではなかった。50年代半ば、批評家アンドレ・バザンの主催する「カイエ・デュ・シネマ」に集う若き映画ファンの中から、「カメラ=万年筆」論が出てきて、誰もが自分の言いたいことを映像化してよいのだという主張がなされた。誰でも動画を投稿できる現代と違う。金持ちなら8ミリ映画などでホーム・ムーヴィーを撮ることはあったが、公開される映画作品はプロが長年の修業を経て作るものだった時代の話である。

 それを初めて打ち破ったのが、若き映画ファンの批評家シャブロル。よく「ヌーヴェルヴァーグは遺産で始まった」と言われるが、それは事実で当時の妻のおばの遺産が入り、それで映画会社を作ったのだ。「美しきセルジュ」「いとこ同士」などの長編が評判を呼び、ヌーヴェル・ヴァーグの開祖となる。その後、トリュフォーが「大人は判ってくれない」を撮り、ゴダールが「勝手にしやがれ」を撮る。やがてヌーヴェル・ヴァーグと言えば、この二人と言うことになり、今年の夏に日本で公開予定の記録映画も「ふたりのヌーヴェルヴァーグ  ゴダールとトリュフォー」というのである。
 ゴダールは60年代の伝説となり、過激な映画を撮り続け、ついには商業映画と縁を切り、マオイスト(毛沢東主義者)として政治プロパガンダの映画を撮るに至る。やがて商業映画に回帰するも、一般的な物語をつくることはその後もない。トリュフォーはやがて自伝的な青春映画の世界を抜け出し、フランスの恋愛映画の巨匠となっていき世界的に評価され52歳で亡くなる。

 「ゴダールか、トリュフォーか」という命題は世界のシネフィルの心を捕える。「革命か、恋か」、生の目的はなんなのか?そんな時代に、シャブロルは何をしていたか?いつの間にか娯楽映画に徹し、ミステリーばかり撮り続けるシャブロルは「ヌーヴェルヴァーグの裏切り者」と思われる。60年代半ば以後は、日本でもほとんど公開されず、忘れられた映画作家となっていった。しかし、今見るとシャブロルはブランクなく60本以上の映画を残した。それが実に面白いのである
 カイエに集う若者たちはヒッチコックを崇め、またアメリカでは単なる職人監督としてしか思われていなかったニコラス・レイやサミュエル・フラーを「作家」として「発見」した。今見ると、ヒッチコックのサスペンスや、レイやフラーの犯罪映画の呼吸を一番フランスで生かしたのはシャブロルではなかったか。

 思えば革命や恋を信じられた60年代後半に、すでにシャブロルは何者も信じられない、自分さえ信じられない心理サスペンスを作りまくっている。キャリアの中にはパトリシア・ハイスミスやルース・レンデルの映画化があるが、ミステリー好きならよくわかると思うが、つまりシャブロルが作ったミステリーとはそういう映画だったのだ。「オリエント急行殺人事件」などが作られていた時代に、ハイスミスの「ふくろうの叫び」を映画化していることを思えば、驚くべき先見性。今こそシャブロルの再発見の時だ

 今見ると、ゴダールやトリュフォーには面白くない映画もある。この二人もミステリーやSFを随分撮っているが、面白さはシャブロルが随一。映画はサスペンスなのだというような映画のオンパレード。これは驚きだ。恐れ入った。僕は特に面白かったのが「肉屋」「女鹿」。別の機会に見た「引き裂かれた女」や「悪の華」も大変良かった。また同時代的に見た唯一の日本公開作品、「主婦マリーがしたこと」はサスペンスというよりマジメな社会派でもあるが、ナチス支配下で「堕胎」で罰せられる主婦を描いて傑作。イザベル・ユペールがヴェネチアで女優賞を取り、以後のシャブロル作品のヒロインとなった。
 特集は今後も続くが、東京の日仏学院で字幕なし、または英語字幕が多く、それはちょっとつらいかなと思う。(日本語字幕、または同時通訳作品もある。)ということで、どこかでシャブロル特集があったらおススメです。

 と同時に、時代がたって見直すべきことと言うのは多いなあと感じる。単なる娯楽作家になってしまったと思っていたシャブロルが今見ると、むしろ新しいとは。僕は晩年によく公開されていたエリック・ロメールが案外つまらないものが多かったと思ってるんだけど、芸術とか政治とか歴史を見るときには「悪意」が大切で、善人では深みが出ないということを示しているかと思う。
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