尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『マイスモールランド』と『遠いところ』、これが日本という国

2024年05月27日 21時52分57秒 | 映画 (新作日本映画)
 キネカ大森という映画館で「名画座」をやっている。3スクリーンある映画館の1つを「二本立て・自由席」にしているのである。今どき東京にもほとんどなくなったシステムである。そこで『遠いところ』(工藤将亮監督、2023、キネ旬29位)と『マイスモールランド』(川和田恵真監督、2022、キネ旬13位)をやっている(30日まで)。現時点でロードショー公開している映画じゃないけど、作られてから日が浅く内容的にも「新作」と考えて紹介しておきたい。

 どっちも見たいと思いつつ見逃した映画だった。キネマ旬報のベストテン号を見直したら、上記のような順位。つまりベストテンに入るほどの評価ではなかった。僕もその評価は大体同じで、弱いところもあると思った。しかし、社会的に貴重なテーマの「良心作」であり、「佳作」である。『マイスモールランド』から書くが、これは最近思わぬ形で一部で取り上げられている埼玉県川口市在住のクルド人をテーマにしている。父と3人の子で暮らしている(母は母国で死没)一家。主人公のチョーラク・サーリャ嵐莉菜)は、日本の高校に通う17歳の高校3年生。大学進学を目指していて、学校には友だちもいる。
(学校で)
 嵐莉菜(2004~)は優しい仕草に時々見せる鋭い眼差しが印象的。父はイラク、ロシアにルーツを持つ元イラン人(日本国籍)、母親は日本とドイツのハーフいう。本名はリナ・カーフィザデーだが、父親のアラシ・カーフィザデーから嵐という芸名にしてモデル活動をしている。この映画には実の父と妹、弟が同じ役で出演している。つまり出自的にはクルド人ではないわけだが、自分のアインデンティティに悩む生育歴を持つことは共通している。「ワールドカップでどこを応援するのと聞かれ、ホントは日本と答えたかったけど、いけないのかと思ってドイツって答えた」というセリフがあるが、実体験をセリフに取り入れたという。
(一家でラーメンを食べに行く)
 サーリャは小学校の教員が親切に対応してくれて、日本語も早く使えるようになった。一番年長だからクルド語も使えて、周囲の大人の通訳として重宝がられている。学校でも地域でも家庭でも良い子で、頑張ってきた。大学へ行きたいとコンビニでアルバイトを始めたが、それは川を渡った東京の店だった。そこで崎山聡太奥平大兼)というボーイフレンドも出来て充実した日々は突然暗転する。父親の難民申請が却下され、「仮放免」となったのである。働くことは出来ず、埼玉県以外に出るには許可がいる。ビザが不安定なので、大学への推薦もダメになる。それでも秘かに働いていた父親は、見つかって入管に収容されてしまう。
(難民申請が却下される)
 父親がいなくなり家賃を払うお金にも困ってくる。「パパ活」している同級生もいて、つい心も揺れる。そんな中、父親はある決断をするのだが…。映画は最後まで描かないけど、この一家は一体どうなったんだろう? 楽観的な見通しを安易に語ることは出来ない。クルド人の文化、あるいはムスリムの風習などがきめ細かく描かれ興味深い。川和田恵真監督(1991~)はイギリス人の父と日本人の母の間に生まれ、主人公のような悩みを抱いてきたという。2017年から企画された映画で、自ら小説化もしている。主人公がちょっと出来過ぎという気もするが、嵐莉菜の魅力を引き出す設定だ。

 もう一本の『遠いところ』は、沖縄の貧困問題を描いている。ホームページから引用すると、「一人当たりの県民所得が全国で最下位。子ども(17歳以下)の相対的貧困率は28.9%であり、非正規労働者の割合や、ひとり親世帯(母子・父子世帯)の比率でも全国1位(2022年5月公表「沖縄子ども調査」)。さらに、若年層(19歳以下)の出産率でも全国1位」という沖縄県。コザに住む新垣あおい花瀬琴音)は17歳ですでに2歳の子がいる。夫は働きたがらず、暴力も振るう。キャバクラで働いて生計を立てているが、未成年を雇っているとして警察に摘発されてしまう。自分の父は頼れず、母もいない。時々子どもを預ける祖母もいい顔をしない。
(「夜の街」で生きる)
 そうなると、さらに直接「フーゾク」で身を売る以外に道はあるのだろうか。そうして子どもを一人で放っていると、匿名で通報されてしまう。これでもか、これでもかと負の連鎖にはまるあおい。二人の出会いが描かれないが、どうしてこんな男と一緒にいるんだろう。定番的設定だが、「妻子」がいるのに働く気がない男。親になるには早すぎたのか。工藤将亮監督(1983~)は多くの監督の下で助監督を務め、『アイム・クレージー』『未曾有』に続く長編第3作だという。現実を提示するだけで、解決の方向性が見えないドラマだが、それが現実の日本ということだろう。

 『遠いところ』の花瀬心音は2002年生まれなので、撮影時20歳を越えていただろう。飲酒喫煙シーンもあるし、あからさまなセックスシーンもあるから、今は20歳以下では難しい。そのため学校で見せるわけにはいかない映画だが、『マイスモールランド』は学校で鑑賞するのに相応しい。もっとも「何でサーリャがこんな目に合うのか」と質問されても教員が困ってしまうだろうが。それに両作とも、「世の中はお金」であり「手っ取り早くお金を得るのはフーゾク」という「日本社会の現実」が描かれている。これが日本という国なのだ。
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濱口竜介監督『悪は存在しない』、ヴェネツィア銀獅子賞の評価は…

2024年05月14日 21時42分24秒 | 映画 (新作日本映画)
 『ドライブ・マイ・カー』で世界的に評価された濱口竜介監督の新作『悪は存在しない』(Evil Does Not Exist)。2023年のヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(審査員賞)を受賞した作品である。この受賞で濱口監督は世界三大映画祭と米国アカデミー賞すべてで受賞したことになった。『ハッピーアワー』(317分)、『ドライブ・マイ・カー』(179分)など長大な映画を作ることで知られる濱口監督だが、今度の映画は106分とずいぶん短い。長い映画が多くなってしまった現在では、むしろ少し長い中編の味わいである。だけど正直言えば、ラストの着地点の解釈が難しい。全く理解不能と言っても良い。

 この映画は非常に魅力的だと思う。退屈だという評もあるようだが、僕は退屈さは感じなかった。自然描写の美しさに圧倒された思いがする。だけど、どこか変だなとも思う。環境映像じゃなくて一応劇映画なんだから、自然描写的なシーンが余りにも長すぎてはおかしい。映画で人物同士の絡み合うドラマティックなシーンばかりでは見る者の緊張がほぐれない。小津の映画では銀座(だ思うけど)のバーの看板などをただ映すシーンが合間合間に挟まれて、絶妙なリズムを作っている。だけど『悪は存在しない』の風景シーンは異様に長い。しかも真下から木々を見上げた映像など抽象美の映像である。何だろう、これは?
(巧と花親子)
 一応ストーリーらしきものをコピーして紹介しておく。「長野県、水挽町。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。代々そこで暮らす巧(大美賀均)とその娘・花(西川玲)の暮らしは、水を汲み、薪を割るような、自然に囲まれた慎ましいものだ。しかしある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねないずさんな計画に町内は動揺し、その余波は巧たちの生活にも及んでいく。」「水挽町」は架空で、おおよそ長野県の富士見町、原村などでロケされたという。長野県の自然を背景に、「グランピング場」をめぐる地域の葛藤が一応主筋。
(芸能事務所のメンバーと巧)
 いろんな人が出て来るけど、結局村で「便利屋」をしているという安村巧と花という親子が中心になってくる。知っている俳優は一人も出て来ない。監督恒例の「棒読み」なのか、シロウトを使っているのか、それこそ村人のリアルなのか判らないけど、ところどころ聞き取れないぐらいの小声で人間関係も良く理解できない。そして巧はよく忘れる。花を迎えに行く時間を失念していることが多いし、グランピング場説明会に対し地元で事前に相談する日も忘れている。『ハッピーアワー』のワークショップ、『ドライブ・マイ・カー』の下読みの場面が面白かったように、今回の映画でもグランピング場建設説明会の場面が非常に面白い。
(ヴェネツィア国際映画祭で)
 その説明会終了後に建設企画会社の内部事情が描かれる。このようにして、グランピング場建設をめぐる「自然保護」という社会問題を描く映画なのだろうか。そんな展開になりそうな最終盤に、映画は突然不吉な方向に向かって転回し、何が起こっているのか判らないラストを迎える。果たして「悪は存在しない」という題名の意味は何だろう? ラストは「自然」の「悪意」ということか。いや、それでは「悪が存在する」ことになってしまう。あるいは人間同士には「悪は存在しない」が、「自然」はただ存在するだけということか。ラストを細かく書くことは控えたいが、ラストが理解不能で評価するのが難しい。それでも十分美しく、見る価値がある魅力的な映画だと思う。
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映画『正義の行方』、飯塚事件の真実を探る迫真作

2024年05月09日 22時02分40秒 | 映画 (新作日本映画)
 『死刑台のメロディ』を見たから、次に見るべきは『正義の行方』だ。渋谷のユーロスペースで上映している記録映画。もともとはNHKのBS1スペシャルで2022年に放映された「正義の行方~飯塚事件30年後の迷宮~」である。(文化庁芸術祭大賞ギャラクシー賞選奨受賞。)監督の木寺一孝(1965~)は、劇場公開された『“樹木希林”を生きる』(2019)の監督だった人。2023年にNHKを退職し、満を持して放つ超問題作。158分もある長い映画だが、全く時間を感じさせない。

 この映画は1992年に福岡県飯塚市で女児2人が殺害された事件飯塚事件)を扱っている。2年後に久間三千年(くま・みちとし)が逮捕され、一切の供述を拒んだが「状況証拠」の積み重ねで起訴された。被告・弁護側は無実を主張したが、1995年に福岡地裁で死刑判決が出され、福岡高裁でも維持、2006年9月に最高裁で確定した。そして2008年10月28日に死刑を執行された。その後、DNA鑑定や目撃証言の証拠価値を否定する新証拠をもとに再審請求を行った。再審請求は2014年3月に棄却され、2021年に最高裁で確定した。この棄却決定はDNA鑑定の価値を否定しながら、それ以外の証拠で有罪が維持出来るとしたものだった。
(木寺一孝監督)
 この映画は「冤罪」を扱う記録映画として、かつてなく深い取材を積み重ねている。ちょっと信じられないぐらい、捜査に加わった元警察官が取材に応じている。再審請求中の事件をテーマにした取材に捜査側が応じることは珍しい。それはNHKの力もあるかもしれないが、恐らく「死刑執行後の再審請求」は絶対に認められないとする当局の意向があるのではないか。いつもなら公務員の守秘義務をタテに沈黙する元捜査官たちが、皆一生懸命になって捜査の正しさ、有罪判決の正しさを力説している。これは本気でそう思い込んでいるんだろう。死刑判決を聞いて日本の司法に正義が生きていたと感動しているぐらいだ。
(取材に応じる元捜査官)
 事件捜査が時系列に沿って描かれているため、前半は捜査官や新聞記者の証言が多い。そのため有罪寄りの心証になるかもしれないが、後半は再審弁護団に密着することが多く疑問だらけの捜査だった印象になる。実は警官の中には直接証拠や自白は得られなかったが、「4つの状況証拠」(DNA型鑑定、目撃証言、血痕鑑定、繊維鑑定)が合わさって有罪の証拠価値は十分だと力説した人がいた。しかし、再審棄却決定ではDNA型鑑定の価値が否定された。だから、本来有罪の証拠は瓦解するはずだが、今度はDNA抜きでも有罪は揺るがないとなる。車の目撃証言も誘導の疑いが濃い。

 また地元紙の西日本新聞の記者が語っていることも非常に興味深い。同紙の記者は早くから久間氏が容疑者として目を付けられていることをつかみ、地元紙として他紙に抜かれたくないと積極的に有罪方向の記事を書いた。そのため取材の中心にいた記者は、死刑判決や再審棄却決定に対して「正直ホッとした」という感想を抱くまでになった。それは正直とも言えるけど、マスコミの対応として間違いだろう。DNA型鑑定を「有力証拠」と書いた記事を他紙に先んじて書いたが、その記事を取り消したのだろうか。後になって西日本新聞は飯塚事件の再検証を行い、それに携わった記者が最後に語ることが僕には納得出来るものだった。
(遺体発見現場近くの山道) 
 実は同じ地域で2年前にも女児行方不明事件が起こり、久間氏は「最後に見た人物」(自分の子どもの遊び友だちの妹だった)として疑われた過去があった。それだけで疑うのもどうかと思うが、捜査官によれば「(久間は)ジキルとハイド」だという。そう決めつければ、どんな人でも恐るべき少女殺害犯になり得る。その時は逮捕出来なかったが、2年後の事件で当初から警察は「見込み捜査」を行ったと考えられる。警察は久間氏の車を知ってから、車の目撃証言を調書にした。逮捕後には庭を掘り返したが、それは2年前の少女の遺体が見つかると踏んだのである。しかし出なかったので、ポリグラフの結果として捜索を行い「2年前の女児の服を見つけた」。(しかし、それは数年間雨風にさらされたとは思えないものだったという。)

 この映画の中で何人かの人々が「真実を知りたい」という。僕もまあ知れるなら知りたいとは思うけど、実は裁判は真実を知るための制度ではない。もう時間も経って新しいDNA鑑定も(足利事件や東電OL事件などのように)実施出来ない。そのことを誰もが知っていて、「真実が知りたい」というのはおかしい。刑事裁判の原則(再審でも同様)は「疑わしきは被告人の利益に」である。「状況証拠」が怪しげな物だと判明した現時点で、有罪の原判決を維持するのは正義に反する。そう僕は思うけれど、元警察官は「その後事件が起きてないのは久間が真犯人の証明」と語る。こういう発想は冤罪を作るものだ。

 もう一点、この事件は死刑制度の恐ろしさをまざまざと示している。「有罪か無罪か判断出来ない」では困る。100%の確率で検察側が有罪を立証出来なかったら、その事件は無罪にならなくてはならない。「51対49」ではマズいのだ。しかも死刑判決である。執行されてしまって、取り返しが付かない。布川事件、足利事件、東電OL事件、東大阪事件などの冤罪も恐ろしいが、無期懲役だったから再審で無罪になって自由の身となれた。世界にはイギリスのように「死刑執行の冤罪」発覚が死刑廃止のきっかけになった国もある。(逆に考えれば、死刑制度廃止の声が高まらないために、どんな新証拠があっても日本の裁判所は再審請求を棄却する可能性がある。)この映画は非常に多くの人に取材しているが、もう一人死刑執行を命じた森英介元法相の考えも聞きたいと思った。
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映画『カムイのうた』、アイヌ民族の文化を伝える感動作

2024年04月18日 22時33分17秒 | 映画 (新作日本映画)
 『カムイのうた』という映画を見た。この映画は近代のアイヌ民族の苦難と優れた文化を真っ正面から描いた作品である。北海道で先行公開された後、東京では1月末に公開された。その時から見たかったんだけど、上映時間が限定的で見られなかった。今回阿佐ヶ谷Morcという小さな映画館で見たんだけど、そこも今日が最終日。ホームページを丹念に探すと、今後も上映があるようだ。映画館以外でも自主上映や学校などでの上映があるかもしれない。どこかでやっていたら是非見て欲しい力作である。

 アイヌ民族の口承文芸「ユーカラ」を『アイヌ神謡集』に翻訳したと言えば、知里幸恵(ちり・ゆきえ 1903~1922)を思い出す。この映画は明らかに知里幸恵がモデルだが、名前は北里テルに変えている。アイヌ語を研究する学者は金田一京助じゃなくて、兼田教授。この映画を見ようという人の多くは知里、金田一の名を知ってる気もする。だがフィクション化したことで、テルに婚約者がいたり、兼田教授が人類学教室に乗り込んで「盗掘」を非難するなどのエピソードが可能になった。
(ムックリを吹くテル)
 アイヌ民族が登場する映画は少ないけれど、幾つかはある。武田泰淳原作の『森と湖のまつり』(1958、内田吐夢監督)、石森延男原作の『コタンの口笛』(1959、成瀬巳喜男監督)のように、微温的ではあるが一応民族差別を扱った映画もある。しかし、それらは50年代の製作時点を描いた作品である。福永壮志監督の『アイヌモシリ』(2020)も現代の話。劇映画で明治・大正期のアイヌ差別を本格的に描いた作品は初めてではないか。北海道の東川町が製作に協力し、北海道各地の美しい自然が印象的だ。ずいぶん昔の建物があるなと思ったが、札幌近郊の「北海道開拓の村」でロケされたようだ。
(テルに心を寄せる一三四)
 北里テルは道立女学校を受験するも成績優秀なのに落とされて、旭川区立女子職業学校に進学した。これは知里幸恵の実話である。映画では成績に基づき副級長に指名されるも、同級生から排斥されるシーンは心に刺さる。その頃、祖母のイヌイェマツに東京から兼田教授がユーカラ研究に訪れる。小さい頃から祖母から聞いていたテルも覚えていると言うと、兼田教授は是非にと聞きたがる。そして美しいユーカラを是非日本語に訳して欲しいと頼む。テルはその後一生懸命訳したノートを兼田のもとに送ると、上京して自分の家で勉強してはと言う。旭川から東京まで、長い長い旅をして、テルは東京へ行くのだった。
(兼田教授の家で)
 そういう展開はずべて知里幸恵の実話で、あの美しい「銀の滴(しずく)降る降るまわりに」(Sirokanipe Ranran Piskan シロカニペ ランラン ピㇱカン)の訳語が生まれた瞬間を描いている。心臓が弱かった知里幸恵は、その原稿が完成した日に亡くなった。わずか19歳だったが、それも実話である。僕は今まで『アイヌ神謡集』(岩波文庫)を読んで、この美しい言葉を知っていたが、どういうリズムで語られるのかは知らなかった。今回映像で聞くことが出来て感銘深い。才能に恵まれながら、差別と病苦に苦しめられた薄幸の「北里テル」の生涯が心に残る。
(監督と主演女優)
 この映画の監督・脚本を担当しているのは菅原浩志(1955~)で、誰かと思えば『ぼくらの七日間戦争』(1988)の監督だった人である。その後「ぼくら」シリーズを監督したり、『ほたるのほし』(2004)などの作品がある。2018年に全国公開された『写真甲子園 0.5秒の夏』を撮っていて、そこで東川町との関わりが出来たんだろう。主演のテルは吉田美月喜、恋人の一三四は望月歩、祖母が島田歌穂、兼田教授が加藤雅也、教授夫人が清水美砂。神(カムイ)と生きている先住民族の文化を知るためにも、多くの人にどこかで見て欲しい映画だった。
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記録映画『戦雲』(いくさふむ)、先島諸島の軍事基地化を追う

2024年04月01日 21時56分37秒 | 映画 (新作日本映画)
 『戦雲』(いくさふむ)というドキュメンタリー映画が公開された。三上智恵監督の作品なので、これは見ないといけない。三上監督は毎日放送、琉球朝日放送を経て独立、沖縄をテーマにドキュメンタリーを作り続けている。特に『標的の村』(2013)、『沖縄スパイ戦史』(2018)はキネマ旬報文化映画部門ベストワンを獲得した。これらの映画はちょっと遅れて見たので、記事としては書いてないと思う。しかし、大変スリリングで「面白い」(という表現は語弊があるかもしれないが)映画だった。

 今回の『戦雲』も沖縄を舞台にしているが、今まで沖縄本島や沖縄戦を扱っていたのに対し、南西諸島の中でも「先島」と呼ばれる島々、具体的には与那国島石垣島宮古島に続々と自衛隊の基地が作られた経過を追っている。8年間に渡り取材を積み重ねた映画で、大変な力作だ。反対派ばかりでなく、多くの人々に取材していて見ごたえがある。というか、事態をどう考えればよいのか、見る者に難問を突きつけてくる。内容的には「政治」「社会」などのカテゴリーで書くべきかもしれないが、映画だから映画館で見るしかない。東京ではポレポレ東中野で上映している。
(南西諸島地図)
 日本最西端、台湾に最も近い島である与那国(よなぐに)島に自衛隊が基地を作ろうとしているという話は新聞などで見た記憶がある。反対運動があり、島が大きく揺れたと報道されていたが、2016年に自衛隊の駐屯地が完成した。石垣島や宮古島でも自衛隊基地が増強され、弾薬庫やさらにミサイル基地まで計画されている。これらは東京でも折々に小さく報道されているが、地元の人々の声を含めきちんと取り上げられることは少ない。この間の変化を映像で見ると、この8年間であっという間に軍事化が進行したことが判る。もちろん、言葉で言えば「東アジアの安全保障環境」が悪化しつつあるという背景がある。だが、位置が近いというだけで人口も少ない島々に、これほど軍事基地を集中させるのは何故だろう。
(与那国島)
 住民からすれば、「基地があるから戦争に巻き込まれる」心配がある。中国軍がこれらの島々を軍事侵略するというのだろうか。「台湾有事」があったとして、ミサイル基地は攻撃の対象になりうる。基地も何もなければ、外国軍隊は素通りするだろう。特に占領して意味があるとも思えない。基地があって、住民が戦争に巻き込まれる恐れはないのか。それは自衛隊側も認識していて、その際の避難計画を練っているらしい。かつての伊豆大島の三原山噴火時の「全島避難」が前例として参照されている。住民説明会も開かれているのである。事態はそこまで切迫しているのだ。
(与那国馬)
 ところで、そういう風なことが起きているのだが、そこには反対運動だけがあるわけではない。基本的にそこにも「日常」がある。与那国島と宮古島は日本在来馬(全部で8種)の「与那国馬」と「宮古馬」がいるところだ。宮古馬は北部にある牧場でしか見られないので与那国馬もそうなのかと思ったら、基地の前の道を悠然と馬が歩いていたりしてビックリ。カジキマグロを追う漁師は、ある日カジキマグロの「角」(正確には前方に長く延びた上顎で、「吻」(ふん)というらしい)に足を刺されて大ケガをしてしまう。しかし、負けてたまるかと奮起しカジキマグロを捕まえると誓う。カジキマグロ漁に成功するかも大きな見どころ。
(集英社新書『戦雲』)
 冒頭で反対運動をしている山里節子さんの歌が流れる。「戦雲がまた湧き出てくるよ 恐ろしくて眠ろうにも眠れない」と始まる琉歌である。ここで恐れているのは、沖縄が再び(本土の)犠牲になるのかという気持ちだろう。自衛隊は初めからミサイル基地を作るとは言わなかった。駐屯地を作った後で、どんどん既成事実にしてしまう。宮古島の弾薬庫も初めは訓練はしないと言っていたらしいが、今は日々銃声が聞こえるらしい。しかし、反対運動に参加していた人が、次のシーンでは市議に当選したりしている。日々の日常と進行する軍事基地化、そして抗い続ける人々。是非多くの人に見て欲しいドキュメンタリー映画だ。
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熊谷博子監督『かづゑ的』、ハンセン病を生きた女性

2024年03月04日 20時05分23秒 | 映画 (新作日本映画)
 熊谷博子監督のドキュメンタリー映画『かづゑ的』が公開された。これはハンセン病療養所長島愛生園に住む90歳(撮影開始時点)の宮崎かづゑという女性を8年間追った映画である。ハンセン病に関するドキュメンタリー映画はずいぶんあって、僕もかなり見ている。しかし、その中でもこの映画は非常に大きなインパクトがあって、ベスト級の映画だと思う。東京ではポレポレ東中野とヒューマントラストシネマ有楽町で上映していて、家から電車一本の有楽町で見られるから早速見に行った。

 宮崎かづゑさんという人を僕は知らなかった。ハンセン病関係の本は結構読んできたはずだが、本を出したのが高齢になってからなのである。『長い道』(みすず書房、2012)、『私は一本の木』(みすず書房、2016)という2冊の本がある。それまで自治会運動や国賠訴訟などで活動してきた人ではない。詩や短歌などで知られた人でもなかった。若い頃から園誌「愛生」に随筆を書いていたようだが、全国に知られた人ではなかった。それが70代でパソコンを(手に障害があるので特殊な器具を使いながら)使うようになって、まとまった長い文章を書くようになったのである。そして、知人の紹介で熊谷監督はかづゑさんと会った。
(宮崎かづゑ)
 宮崎かづゑさんは10歳の時に入所して以来、80年間も療養所に住んでいる。戦後すぐに結婚した2歳年上の夫とともに暮らしてきた。映画は愛生園に暮らす二人をじっくり見つめていく。かづゑさんの覚悟は半端なく、入浴シーンまで撮影している。自ら望んだのである。そこまで自らをさらけ出して撮影しないと、「らい病」(ハンセン病の旧称)を理解して貰えないという。らい菌は温度が低いところを好むので、顔や手足など外気に接する部分に集まる。そのため指や足の感覚が失われたり、顔面に障害が残る。かづゑさんは義足で指もない。そんな姿を映像はとらえていく。人間の尊厳とは何か、見る者に迫ってくる場面だ。
(『長い道』)
 映画にはかづゑさんの「金言」が散りばめられている。「孤独ではない。うぬぼれさせていただいたら、ちゃんと生きたと思う。みんな受けとめて、私、逃げなかった。」「本当のらい患者の感情、飾っていない患者生活を残したいんです。らいだけに負けてなんかいませんよ。」「らいは神様が人間に最初からくっつけた病気。だったら私、光栄じゃないかと思って。」 多くのハッとする言葉が詰まっている。かづゑさんは若い頃に病状が重く、園内でも(病状が軽い患者から)差別されていたという。それでも図書室で本をよく読んでいた。故郷(岡山県)と園しか知らないけど、本の中では「地中海」に行けるのが救いだった。
(長島愛生園)
 長島は瀬戸内海にある岡山県の島で、そこに愛生園邑久(おく)光明園という二つの療養所が作られた。長く本土との橋もなかったが、1988年に通称「人間回復の橋」が架けられた。瀬戸内海の穏やかな風光が素晴らしいが、一度収容されたら逃げ出すこともかなわない孤島だったのである。愛生園は1930年に開園した初の国立療養所だが、タテマエとは別に患者にも厳しい作業が課せられていた。戦後になって特効薬も開発され、今は「元患者」なのだが、長い隔離と差別のために生涯を園で暮らす人が多い。

 映画では夫の故郷福岡県への里帰り事業(ソフトバンクの野球を見に行っている)や、岡山で行われた年末の「第九演奏会」に出掛けるシーンがある。今は健康が許せば、どこへでも行けるわけだが、その時にはもう高齢になっていた。昔は何千人もいた入所者も、今は百人程度。(2022年段階で、全国で927人となっている。)入所者の平均年齢は88歳を超えて、ハンセン病問題が最終局面に入っているのは間違いない。そんな時点で『かづゑ的』が公開される意義は大きい。ハンセン病問題を啓もう、告発する映画というより、紛れもなく「かづゑ的生き方」を多くの人に伝える「知恵と勇気の映画」だ。
(熊谷博子監督)
 熊谷博子監督(1951)は1989年にアフガニスタンを舞台にした『よみがえれカレーズ』を土本典昭と共同監督して注目された。この映画は『映画をつくる女性たち』(2004)とともに、国立映画アーカイブで回顧上映されている。(3.9に上映)。その後、『三池 終わらない炭鉱の物語』(2005)で注目を集め、『作兵衛さんと日本を掘る』(2019)も評判を呼んだ。社会的なテーマを扱いながらも、人間に迫るドキュメンタリー映画を作ってきた人である。なかなか見る機会も少ないかと思うけど、是非逃さずにどこかで見て欲しいなと思う。
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『夜明けのすべて』、三宅唱監督の「病友」映画

2024年02月23日 19時49分02秒 | 映画 (新作日本映画)
 瀬尾まいこ原作、三宅唱監督の『夜明けのすべて』はちょっと予想を裏切る映画だった。松村北斗×上白石萌音主演と宣伝しているけど、恋愛的要素が最後までゼロなのである。三宅唱監督がベストワンを獲得した『ケイコ 目を澄ませて』(2022)の次回作で、人気俳優を迎えて拡大公開されたが2週目、3週目とどんどん上映が減っている。だから「失敗作」や「作家性の高い映画」かなと思うと全然違うのである。確かに前作の岸井ゆきのほどの凄まじいエネルギーは今回の映画にはない。しかし、居場所を求める人々を温かく描く「小さな宝物映画」、かつ「病友映画」になっている。

 瀬尾まいこの小説はある時期までよく読んでいた。映画『幸福な食卓』(2007)を他の映画を見るついでに併映作品として見て(二本立て名画座だった)、なかなか良いじゃないかと思って原作も読んでみた。2005年に吉川英治文学賞新人賞を得た作品だが、僕はまだ作者の名を知らなかった。その時点で京都の中学校教員だったこともあって、応援するつもりで読み続けたのである。その後、作家専業になり『そして、バトンを渡された』(2018)で本屋大賞を受賞。すっかり人気作家になって、僕も少し飽きてきた感じもあって近年は読んでない。だから今度の映画も原作は読まずに見たのである。
(山添の髪を切る藤沢さん)
 画像のように若い女性が若い男性の髪を切るスチル写真を見ると、多分この二人は恋愛関係にあるか、少なくとも片思いなのかと想像すると思う。だけど、それが違うのである。藤沢美紗上白石萌音)は高校生の頃から、時々非常にイライラし体調不良になることがあった。それが「PMS」(月経前症候群)という病気で、その後大会社に就職したが適応できずにすぐに退社してしまった。その後栗田科学という小会社で働いている。そこに山添孝俊松村北斗)という青年が入社してくる。ある時彼が会社で異常な感じになって早退する。藤沢は追って行き「もしかしてパニック障害?」と聞く。

 そこから二人は時に助け合う「病友」になっていく。「病友」という言葉は一発で変換出来なかったけど、ハンセン病ではよく聞く言葉だ。その場合は同じ療養所に「隔離」されて、ともに人生を過ごすわけだから「病友」にならざるを得ない。今度の場合はお互いに職場で大変な思いをした過去がある。「生きづらさ」をともに抱えて、恋愛に至る状況にないんだと思う。藤沢はPMSを告げて「一緒に頑張ろう」と言うが、山添は二人の病気には違いが大きいと言う。藤沢は「病気にもランクがあるんだ」と思わず言う。この言葉はとても心に突き刺さる。病気を抱えた者同士が「しんどさ比べ」に陥っている。
(藤沢と山添)
 山添には「彼女」もいたが、電車も乗れなくなってしまった彼とは付き合っていくのが大変である。彼からすれば、日常生活への支障が大きいパニック障害に対し、月に一回であるPMSは大変さが違うと思ってしまうのだ。僕はパニック障害の生徒は知っているが、PMSは病名も知らなかった。映画は二人の病態を丁寧に描き、観客も大変さを理解していく。そして、もう一つ大切なのは彼らを受け入れている「栗田科学」という会社である。その社長(光石研)にも悲しい過去があったと判っていき、辛さを支え合う会社になったんだと判る。そういう場所の存在は、観客にとっても宝物を見つけた気持ちになる。

 Wikipediaを見ると、原作では会社名は「栗田金属」というらしい。それが映画では「栗田科学」に変更され、子ども向けの科学用品(顕微鏡や天体望遠鏡)などを作っていることになっている。そして年に一度、地域貢献活動として小学校の体育館を借りて移動プラネタリウムを実施する。山添と藤沢はその担当になって、解説原稿を一緒に作ることになった。かつてない「天体映画」でもあり、自分の子ども時代にも天体望遠鏡を見たなあと久しぶりに思い出した。この終わりの方の展開はとても心に沁みる。
(ベルリン映画祭の三宅監督)
 藤沢は父がいないらしく、母も病気らしい。彼女は医者にピルを使いたいと言うが、母親に血栓の既往歴があるからダメと言われるシーンがある。そのことと関係があるのかどうか、最後の方では入院している。二人は会社でいつも隣同士なんだから、「普通」なら「好きになっちゃう」もんじゃないか。しかし、この映画では最後まで「友人」で終わり、少しは恋愛要素が出て来るかなと思う(期待する?)観客の予想は裏切られる。そこで自分の「普通」感覚も問われる気がするのである。

 僕はこの映画は何だか良いものを見つけた気がして、宝物みたいな映画だなと思った。しかし、病気を自分事として感じられないと、届かない映画じゃないかとも思う。多分主演俳優を見に行った若者にはちょっと遠かったのかもしれない。三宅監督の演出は的確で、主演の二人の病気を違和感なく伝える。同時にいつも感心する月永雄太の撮影が素晴らしい。前作も担当して東京下町の女性ボクサーをドラマティックに映したが、今回の柔らかい映像も見事だ。こういう映画もあるんだなというか、こういう「男女の友情」やこういう会社も良いなと思ったりする「ほっこり映画」である。
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映画『風よ あらしよ 劇場版』、伊藤野枝の生涯を描く

2024年02月16日 22時31分29秒 | 映画 (新作日本映画)
 『風よ あらしよ 劇場版』という映画が一部映画館で上映されている。大々的な公開じゃないので、知らない人が多いと思う。でもこれは女性解放運動家の伊藤野枝の生涯を描く初めての映画なのである。大々的な公開じゃないのは、これが「劇場版」だからだろう。もともとは直木賞作家村山由佳の小説『風よ あらしよ』(2020)が原作で、テレビドラマ化されて2022年3月31日にNHK BS8Kで放送された。そして9月にNHK BSプレミアムとNHK BS4Kの「プレミアムドラマ」枠でも放送された。このデータはWikipediaに出ていたものだが、BSにもそんなにいろいろあるんだ。

 伊藤野枝(1895~1923)は地元福岡県で無理やり結婚させられそうになり、なんとか家出して東京へ行く。上野高等女学校で学び、英語教員の辻潤(1884~1944)から女性だけで作った雑誌『青鞜』(せいとう)が発刊されたことを知る。そして、青鞜社の主宰・平塚雷鳥(1886~1971)を訪ねて同志となる。また辻と同棲するが、辻は責任を取るとして学校を辞任した。二人はその後結婚し、子どもも生まれる。しかし、辻は正業に就かず、野枝は女性運動に奔走し、家庭はイザコザが絶えなくなる。これは社会運動史に関心がある人には非常に有名なエピソードで、正直言うと全部知っていた話である。
(辻潤)
 だけどよく考えたら今まで伊藤野枝の生涯を描く映画はなかった。吉田喜重監督の『エロス+虐殺』や深作欣二監督『華の乱』はあった。伊藤野枝の娘を描くドキュメンタリー映画である藤原智子監督『ルイズ』も作られた。また宮本研の『美しきものの伝説』や『ブルーストッキングの女たち』という戯曲は今も時々上演される。だがそれらは伊藤野枝が主人公ではない。まあ周囲の人物が面白すぎるから、群像劇にする方が興味深くなる。でも伊藤野枝のドラマティックな人生だって映像化されて良い。
(大杉と伊藤野枝)
 そして野枝はやがて無政府主義者の大杉栄(1886~1923)と知り合い、惹かれていく。夫の辻潤は社会問題に無関心で、正義感の強い野枝には物足りない。ついに二人は別れ、野枝は大杉のもとへと奔る。ところが「自由恋愛」を唱える大杉には、妻の保子に加え、新聞記者の神近市子という愛人もいたのだった。その(男から見た)「理想」生活は、神近市子が大杉を襲って傷を負わせた「日蔭茶屋事件」(1916年)で破綻した。事件後は大杉は野枝と共同生活を送り、二人の間には5人の子が生まれた。しかし、大杉と野枝は1923年の関東大震災後に憲兵隊によって虐殺されてしまう。
(大杉をめぐる女たち)
 キャストを見ると、伊藤野枝は吉高由里子、大杉栄は永山瑛太である。下の写真を見ると、かなり似ているんじゃないかと思う。まあ「そっくりさん」ショーを望んでいるわけじゃないが。辻潤は稲垣吾郎、平塚雷鳥は松下奈緒、神近市子が美波といったあたり。瑛太はこの後で、映画『福田村事件』でも虐殺されてしまうのはご苦労様である。演出の柳川強は、朝ドラを5本担当していて吉高由里子主演の『花子とアン』もその中にある。NHKスペシャル『最後の戦犯』『気骨の判決』など重要な作品を幾つも生み出してきた。脚本の矢島弘一ともども、中島京子原作の『やさしい猫』を担当した人でもある。
(伊藤野枝)(大杉栄)
 正直言うと僕はドラマとしてはサラッとし過ぎで、伊藤野枝がよく描かれすぎている気がした。野枝と辻潤の間には、もうひとり里子に出した子どもがいるが、全然出て来ないのもどうなのか。野枝が雷鳥から青鞜社を譲り受けるシーンも出来過ぎっぽいし、劇中の野枝は大理論家みたいに見える。殺された時点でまだ28歳の野枝は、運動家としても理論家としても未成熟だった。なお野枝は足尾鉱毒事件を全然知らないという。よくよく考えてみると川俣事件(被害民が東京へ押し出しを試みて警官隊と衝突した事件)は1900年、田中正造が明治天皇に「直訴」したのは1901年である。伊藤野枝はまだ幼少期で、遠い九州に住んでいたから知るはずがないのだ。なんだか僕らからすると明治大正期が皆一直線に見えてしまうけど。
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塚本晋也監督『ほかげ』、戦争の心の傷を描く傑作

2023年12月08日 22時21分21秒 | 映画 (新作日本映画)
 入院中は少し元気になるとヒマを持て余してテレビばかり見ていた。他にすることがないのである。そして楽しみにしていたのが、普段見てない「朝ドラ」だった。今やってる『ブギウギ』が面白いのである。主演の福来スズ子(笠置シズ子)役の趣里のはつらつとした演技が見事。足立紳が書いてる脚本も面白かった。と言いつつ帰って来たら見なくなっちゃったのだが。その趣里が全く違った感じで出ている映画が『ほかげ』だという話を昨日書く予定だった。訃報特集が一回延びてしまったため、今朝朝日新聞を見たら石飛徳樹記者が同じことを書いていた。まあ、別に後先を気にしているわけではないけれど。

 塚本晋也監督の『ほかげ』は2023年のヴェネツィア国際映画祭オリゾンティ部門に出品され、NETPAC賞(最優秀アジア映画賞)を受賞した。『野火』(2015)、『斬、』(2018)に続く戦争三部作とされる。もっとも『斬、』は幕末を舞台にした映画で、「戦場の人間」三部作と言うべきか。塚本監督とは相性が悪くて、今まであまり感心したことがないのだが、今回の『ほかげ』はとても感じるところがあった。今までにない戦争映画として非常に貴重だと思う。

 どこか不明だが、敗戦直後の日本である。主要登場人物は3人の大人と1人の少年。いずれも戦争の傷を深く負っている。最初に空襲でボロボロになったらしき居酒屋に女(趣里)がいる。役名も出て来ない。酒を持ってきてくれる男がいて、時々身体を売っているらしい。ほとんど言葉も表情もなく、暗い映像の中で「存在感」だけが残っている。やがてどういう事情があったか少し判ってくるが、戦争で家族を失ったのである。そして壊れてしまったのである。
(趣里)
 その店に復員してきた元兵士(河野宏紀)と恐らく空襲で親を失った少年(塚尾桜雅)が寄りつくようになる。復員兵は明日は金を作ってくると言いながら、作れないまま。少年は時々野菜を持ってくるが、どうも盗んでいるらしい。女は泥棒はダメだと言い渡すが、少年は止められない。3人は次第になじんできた感じもあったが、戦争で失われたものはあまりにも大きかった。復員兵は突如暴れ出すし、女も自分の中に閉じこもる。その時の趣里の目がすごくて今年の有力な演技賞候補だと思う。
(趣里と少年)
 中盤で描く視点が変わる。少年は女から追い出され、片手が不自由なテキ屋の男(森山未來)に付いていくことにする。男は何か目標があって出掛けることになる。何が目標なのか説明されないが、ある場所で少年は誰かを呼びに行かされる。それはかつての上官だったのである。上官は戦争犯罪を部下に押しつけて自分だけ帰国したのである。男は銃を取り出し、一つずつ「罪状」を語りながら上官を撃つ。彼の目的は上官を殺すことだったのだろうか。
(森山未來と少年)
 その後、男は少年に金を与え、少年は元の女のもとに帰ってくる。少年が自立出来る日は来るのだろうか。この映画はテーマも映像も非常に暗くて未来が見えない。構成も途中で分裂しているように思えるが、僕はそこも革新的だと思った。戦争で分裂した世界をまるごと映像にしているように感じたのである。「ほかげ」とは「火影」だろう。それは女の店の薄暗い照明であり、同時に「戦火の影」でもあるだろう。そして、その影は「心の傷」である。

 ベトナム戦争後のアメリカで「PTSD」が認識するされるまで、この問題は注目されなかった。日本映画でも、復員兵は『仁義なき戦い』など数多く描かれてきたし、体を売る女性も多くの映画で描かれた。しかし、いずれも「民衆のバイタリティ」みたいな展開が多い。この映画のようの「心の傷」を深く描いた映画は記憶にない。井伏鱒二『遙拝隊長』のエピソードを取り込んだ映画『本日休診』はあるが、それは一つのエピソードという扱いだった。今の時代にこの問題を描いた功績は大きいと思う。
(ヴェネツィア国際映画祭で)
 ほぼ同じ時代を扱った『ゴジラ-1.0』も公開されている。これは特撮など非常によく出来ていて、確かに面白く出来ている。この映画でも主人公は「心の傷」を抱えている。しかし、それは精神傷害ではないだろう。ラストは「生き抜く」方向で感動させる出来になっている。一方、『ほかげ』は暗いままで終わる。少年に未来を託したとも言えるだろうが、そう簡単でもないだろう。見た後に「感動」ではなく、ザラザラしたものを残し続ける。そこに心引かれ忘れがたいという映画だ。
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映画『花腐(くた)し』、荒井晴彦監督の新作はやはり素晴らしい

2023年11月28日 22時25分44秒 | 映画 (新作日本映画)
 『花腐し』(はなくたし)というのは、松浦寿輝(ひさき)の芥川賞受賞作である。(2000年上半期に、町田康『きれぎれ』とともに第123回芥川賞を受けた。)松浦寿輝は東大名誉教授のフランス文学者にして詩人・小説家という人である。僕もその受賞作しか読んでないけど、いやあ面白かったなあという記憶がある。そしてその記憶しかない。もう20年以上も前の作品が今度映画化された。日本一の名脚本家荒井晴彦の4作目の監督作品。相変わらず「過激」(?)な性描写も含みつつ、行き場のない疲れたような感覚に浸っている。しかし、それでいて腐食した日本を撃つ眼差しも確かだ。やはり傑作だと思う。

 冒頭で2012年と出る。原作は2000年に芥川賞を受けているんだから、震災直後に時間を移したのは映画の趣向である。ある男が葬儀に赴き参列を断られた。白黒映像である。次第に判ってくるが、ピンク映画の監督栩谷(くたに=綾野剛)と同棲していた女優桐岡祥子(きりおか・しょうこ=さとうほなみ)が、栩谷の親友の監督桑山と心中してしまった。「ピンク映画」(セックスシーン主眼の低予算映画でピンク映画専門館で上映していた)も斜陽の一途をたどっている。栩谷も5年映画を撮っていない。祥子との暮らしも行き詰まっていた。しかし、よりによって何故親友と心中したのか。
(栩谷と祥子の生活)
 上記画像はカラーだが、これも次第に判明するように、過去がカラー現在が白黒なのである。その逆は見たことがあるが、現在時点が色を失っているというのが作者の心情を象徴している。栩谷が祥子の家に転がり込んで始まった同棲だった。当然一人では家賃を払えず引き払うしかない。今も数ヶ月分を溜め込んでいる。家主に家賃を待ってくれと頼みに行き、代わりにアパートに居付く男の追い出しを頼まれてしまった。早く取り壊してマンションにしたいのに、一人何だかいつまでも動かない男がいるという。案外あんたみたいのが行く方が効果があるかもしれない。
(アパートを訪ねる)
 ある雨の日、栩谷は古びたアパートを訪ねる。何度も扉をたたいてやっと出て来た男が、伊関柄本佑)だった。彼は今まで追い出しに来たのと違うタイプの男に戸惑い、つい話を始めてしまう。栩谷が売れない映画監督なら、伊関は昔シナリオライターを目指した男だった。そこで業界の話、映画の話が始まり、やはり女の話に行き着く。伊関は20代の頃、女優を目指す女と付き合っていた過去がある。シナリオの話、映画や演劇の話、そして子どもが出来た時のこと。日々の生活の重みに負けていった日々。過去の映像がところどころでインサートされるので、観客には判る。二人が語っている女性は同一人物なのである。
(二人は語り合う)
 三人の主要人物がいるが、三人がそろうシーンは一つもない。祥子をはさんで、二人の男が右往左往するのである。その難役を見事にこなしたさとうほなみに驚いた。また先に『春画先生』で見たばかりの柄本佑は、どうにも正体がつかめないような男を再び演じて絶品。「花腐し」とは「卯の花くたし」のことで、「卯の花を腐らせるほどにしとしとと降り続く雨」だという。初夏の季語だというが、映画中の伊関は万葉集にある「春されば 卯の花腐(く)たし 我が越えし 妹(いも)が垣間は 荒れにけるかも」を引用している。「低木である卯の花の垣根を乗り越えながら通ったあの娘の家の垣根は今ではすっかり荒れてしまった」。
(伊関と祥子の生活)
 追憶と悔恨の心情が現在の二人とつながる。どこで道を間違えたのだろうか。今の腐った自分は、それでも生きていけるのか。折しも震災直後、日本は何故原発を廃止できないのか、ドイツは廃止したのに。あるいは沖縄の基地問題などもセリフで語られる。そのように現実批判をも取り込みながらも、基調は梅雨時のうっとうしい雨の中で語られる倦怠と悔悟である。これは「大人」の映画であり、全く若い人のための映画ではない。荒井晴彦監督は自分の出身(若松プロ)でもあるピンク映画界を舞台に使いながら、悔いても戻らぬ過去を見事に映像化している。撮影の川上皓市と新家子美穂も魅惑的な映像を映し出している。

 脚本は中野太と監督自身が書いている。荒井監督は『火口のふたり』(2019)以来の作品。『身も心も』(1997)、『この国の空』(2015)と荒井監督の作品を見てくると、共通点があるように思う。他の人が映画化しそうもない原作であること。また「過去」を自分の心の中でどう処理するべきかの物語である。こんな暗い映画を撮る人は他に思いつかない。若手の勢いもいいけれど、僕はこういう映画が好きなんだなと思った。
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映画『春画先生』(塩田明彦監督)を見る

2023年11月24日 20時34分50秒 | 映画 (新作日本映画)
 退院後に初めて見に行った映画が塩田明彦監督の『春画先生』だった。なかなか良く出来ていて面白かったが、これはどうなのかと思う設定もある。「映倫審査で区分【R15+】として指定を受け、商業映画として全国公開される作品としては、日本映画史上初、無修正での浮世絵春画描写が実現した」とうたう映画で、映画内に多くの「春画」が出て来る。この映画は、江戸時代までの日本人は性に対しておおらかな感性を持っていたが、明治政府の欧化政策により「春画」が弾圧されるようになったという史観で成立している。まあ大まかな認識としては、それで正しいんじゃないかと思う。

 神保町の古い喫茶店で働いている春野弓子北香那)は、ある日勤務中に地震が起きて立ち止まってしまう。その時客が見ていた春画の本に気付くと、興味があるなら一度訪ねてきなさいと名刺を渡された。その客が「春画先生」と呼ばれる芳賀一郎内野聖陽)で、あの人はちょっと危ない人と同僚から警告された。それでも、ある日家を訪ねてみるとお屋敷町にある古い建物で、どうしようかと迷いつつも意を決して呼び出しベルを押した。そこで見せられた春画に魅せられ、いつの間にか「内弟子」となって週二日働くことに。和服でなければならないなどの「謎ルール」に従って新しい日々が始まる。
(口を覆って秘蔵春画を見る)
 「春画マニア」は多いらしく、そのような集まりを通して「春画とは何か」を語りながら、同時に芳賀の人生も明らかになっていく。そしてどうなるんだろうという時に、編集者として「春画大全」を完成させたい辻村俊介柄本佑)が現れて映画世界をかき回す。この柄本佑が非常に印象的で、こういう俗っぽく騒がしい役柄が似合っているのではないか。そして、もう一人ここに重要な登場人物が現れる。それは伝説に包まれた先生の亡き妻である。写真でしか登場しない亡妻に今も深く囚われた先生は、新たに登場した内弟子・弓子の好意に気付きながらも応えることが出来ない。
(監督と主演メンバー)
 ところが金沢で開かれた春画鑑賞会で思わぬ人物が登場する。亡妻の双子の姉(にして、亡妻より先に先生の恋人だった)藤村一葉安達祐実)である。一人二役というか、片方は死んでいて写真しか出て来ないが、アメリカに行ってしまったはずが突如日本に舞い戻ったのである。そして映画の世界を暴力的なまでにかき回し、弓子の嫉妬心を煽る。この辺で物語は「春画」を越えて「変態コメディ」化して暴走を繰り返すが、やがて負けん気の強い弓子の意思が先生を圧倒するのである。春画の講釈とともに、二人の女性に引き回される「春画先生」を鮮やかに描いて映画は終着点に至る。
(北香那)
 この映画を成功させたのは弓子役の北香那だろう。2017年以来テレビや映画に出ているようだが、僕は知らなかった。この映画では全力投球でチャレンジしている。ふとした表情が魅力的だが、弓子は単に若いだけではなく「過去」があった。先生に対する気持ちが当初は理解しにくい。内野聖陽と北香那は実年齢で29歳差があり、年齢差を越えさせたものが春画というのはちょっと無理がある。だが、柄本佑や安達祐実の登場で暴走コメディとなっていくことで、観客も弓子の思いを応援するようになっていくのである。その意味で敵役としての安達祐実の鮮やかな存在感にも注目。あっと驚くシーンがいくつもある。
(安達祐実)
 塩田明彦監督(1961~)は黒沢清監督に就きながら自主的に作った長編映画『月光の囁き』と『どこまでもいこう』が1999年に公開されて注目された。思えば『月光の囁き』も「異常性欲」を扱った青春映画だった。その後『害虫』や『カナリア』など独自の映画を作ってきた。後者はオウム真理教を思わせるカルト宗教にいた若者を描いている。『黄泉がえり』『どろろ』などのヒット作もある。近年では小松菜奈、門脇麦主演の『さよならくちびる』(2019)が素晴らしかった。こうしてみると青春を描くことが多く、昨年の『麻紀のいる世界』も期待したが今ひとつだった。

 今回は監督自身が原作・脚本にもクレジットされている。むしろこういう作風の作品を作りたかったのかと思う。ただし、編集者辻村と弓子の最初の出会いなどには問題もあると思う。「先生」も「辻村」も策謀をめぐらし過ぎで、弓子がそれを受け入れてしまうほど先生や春画に入れ込んでいるのが判らないのである。それでもコメディとして完結していくので、ラストの着地点も笑って見過ごせるか。「春画」というものを毛嫌いしてない限り面白く見られると思う。
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映画『月』と『愛にイナズマ』、石井裕也監督の2作が公開中

2023年11月01日 22時33分02秒 | 映画 (新作日本映画)
 石井裕也監督のタイプの異なる作品が同時に公開されている。『』と『愛にイナズマ』である。石井監督には『舟を編む』『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』など高く評価された映画があるが、僕は今ひとつピンと来なかった。コロナ禍最中に作られた『茜色に焼かれる』(2021)はとても良かったと思うが、どちらかというと相性が悪い監督かもしれない。今回の2本の作品は表面的には全く違う感触の映画だが、果たしてどう評価すれば良いのだろうか。

 最初に公開された『』は、『福田村事件』を越えるかもしれない本年屈指の「問題作」である。辺見庸原作を基にしながら、監督自ら脚本も書き新しい登場人物を作り出している。テーマは紛れもなく「相模原障害者施設襲撃事件」である。故あって今は書けなくなった作家、堂島洋子宮沢りえ)が障害者施設に非正規職員として働き始める。その職場には作家を目指して賞に応募し続けている坪内陽子二階堂ふみ)や障害者に紙芝居を自作して見せているサト君磯村勇斗)らがいる。
(宮沢りえは森の中の施設へ行く)
 施設には全く感覚を失った人などもいて、職員の中には入所者を差別したり虐待する人もいる。洋子はそれを見て施設長に訴えに行くが、非正規の立場をわきまえろと言われる。洋子は彼女を「師匠」と呼ぶ夫・堂島昌平オダギリジョー)と暮らしているが、二人には乗り越えられない悲しみがあった。二人の家庭を描きながら、施設の中では「サト君」をめぐって問題が起きる。同僚にいじめられている彼は、次第に自分で声を挙げられない障害者には価値がないと思うようになっていく。一方、陽子(二階堂ふみ)は洋子の小説をきれい事だと痛烈に批判する。主要登場人物はお互いに批判しあい、そして「その日」を迎える…。
(サト君)
 原作は障害者の一人称で語られていて、宮沢りえの役は映画オリジナルだという。(原作は未読。)この映画は急逝したプロデューサー河村光庸(スターサンズ)の遺作で、現代日本では非常に貴重な企画だろう。だが劇映画として成立させるためには、「宮沢りえ」的な役柄が必要なのか。今さらだが、今回も女優賞レベルの存在感を示していて、映画としては堂島洋子をめぐる物語として見る者を深く感動させる。だが、それでも「事件」は止められない。それあって作られた物語なので、サト君が悔い改めるという「きれい事」になるはずがない。そのことを皆が判っているから、画面に一貫して重苦しい雰囲気が漂っている。

 この勇気ある映画に僕は完全には納得出来なかった。「優生思想」を乗り越えるにはどうすべきか。いくら批判されても考えを変えなくなったサト君をどう理解すれば良いのか。それはもちろん誰にも出来ないことかもしれない。この映画の登場人物は一生懸命止めようとしているが、果たされない。どうすれば良かったのか、深い問いを残して映画は終わる。この重い問いを共有出来る人は是非見るべき問題作。磯村勇斗は今年ずいぶん出ている。大変な役だが、頑張っていることを評価したい。

 一方『愛にイナズマ』は石井監督のオリジナル脚本で、恋愛コメディというか、家族ドラマというか、名付けようがない不思議な映画である。見た後は何だか「良いものを見た感」があるが、どうも語りにくい。それは人生における「名付けようがないもの」を描いているからだろう。26歳の折村花子松岡茉優)は「映画監督」である。世間に知られてるほどではないが、短編で評価されウィキペディアにも載っているとか。今度『消えた女』というオリジナル脚本で商業映画デビューの予定。これは監督自身の母親がある日突然いなくなってしまった体験を基にしている。しかし、プロデューサーや助監督は「突然消える」はあり得ない、「理由」がなくてはと言う。折村はコロナ禍で追いつめられながら、脚本を書き直している。

 常にカメラを持ち歩いている花子は、ある日「空気を読まない」舘正夫窪田正孝)を町で見かけ、後を付けてバーに行く。そこで運命的な出会いを果たすのだが、一方花子の映画は危機にある。業界の常識を押しつけてくるプロデューサーに欺され、いつの間にか「病気のため降板」とされ、自分のシナリオのまま助監督が監督に昇進することになっていた。映画を諦めるのか。「舐められたまま終われない」と花子は正夫とともに、父(佐藤浩市)を訪ねてカメラを回す。『消えた女』の真実を突きとめようと、父に本当のことを話してくれと言うのである。家族をめぐるドキュメント映画製作に路線変更したのである。

 その後、長男(池松壮亮)、次男(若葉竜也)も呼び寄せられ、家族がそろう。正夫がカメラを回しながら、花子が皆を問い詰めて母の真相を聞き出そうとするが…。その結果、驚くべき真相が次々と明かされていく。この映画は何なんだろう。前半の「業界ではこうやってる」は、大阪芸術大出身で若くして短編で認められた石井監督自身が言われてきたことかもしれない。物語には「理由」がいるのか。確かに理由なく人は消えないのが普通だろうが、花子と正夫の出会いは理由なく突然起こった。このような理由なき突発事こそ、人生を支えているとも言える。だが展開する物語は面白いけれど、今ひとつ理解出来ない部分がある。
(折村家の人々+舘正夫)
 『愛にイナズマ』は松岡茉優の魅力で成立していると思う。『月』の宮沢りえと同様に女優の映画かもしれない。今までの監督の映画でも満島ひかり尾野真千子など女優の魅力が際立っていた。『月』は障害者自身が入所者として出演しているという。一方、『愛にイナズマ』は兄弟を含めて、脇役が面白い。益岡徹、高良健吾、三浦貴大など皆印象的だが、ホンのちょっとした出番だが趣里が携帯ショップ店員として出ている。このような出来事に僕も直面したので、すごく共感した。本当に携帯電話の解約は大変なのである。この2作はいずれも見るに値する映画だが、評価が難しいという意味でも共通している。
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映画『BAD LANDS バッド・ランズ』、圧倒的に面白い犯罪映画

2023年10月14日 22時04分54秒 | 映画 (新作日本映画)
 映画『BAD LANDS バッド・ランズ』は最近の日本映画で一番面白かった。一応興収ベストテンに2週連続でランクインしたが、下位の方だから知らない人もいるだろう。外国映画みたいな題名だが、これは原田眞人監督・脚本・製作の日本映画である。というか直木賞作家黒川博行の『勁草』(2015)を原作にした「コテコテ関西映画」というべきか。殺人シーンも多い犯罪映画で、特に「特殊詐欺」を扱うから、面白く見られない人もいるかもしれない。だが、勢いある演出で全編を疾走する感覚にしびれる。主演の安藤サクラも最高。こういう映画が僕は大好きなのである。

 ストーリー展開を書くわけにいかない映画だが、最初は大阪を根城にした「特殊詐欺」グループに属する橋岡煉梨(ねり=安藤サクラ)の話である。「三塁コーチ」と呼ばれていて、その意味は「受け子」が金を受け取る場面に秘かに付き添い、監視の影を感じたら中止の指令を出す役目。突っ込むか、止まるかの指示を出すという意味だ。「ねり」は元は大阪の貧困地区出身だが、抜け出して東京にいたらしい。しかし、ワケありで戻ってきて犯罪グループの手下として身を隠している。だが、彼女を捜し回る謎の男も出てくる。「ねり」はすでに親がいないが、血のつながらない弟、矢代穣(矢代・ジョー=山田涼介)がいる。
(安藤サクラと山田涼介)
 「特殊詐欺」、つまり「オレオレ詐欺」「振り込め詐欺」などと言われる犯罪は一向に減る兆しがない。「分断」が進む社会の中で、「犯罪に使われる側」になった人々がこの映画にはたくさん登場する。そして、それをいかに束ねて「組織化」するか、その裏にある真の黒幕は誰か。それを捜査する警察側も描きながら、その仕組みを暴き出してゆく。黒川博行といえば、関西弁とともに、代表作「疫病神」シリーズ(直木賞受賞の『破門』など)に見られる「バディ」(相棒)小説の名手だ。原作でも本来「ねり」は男だったというが、原田眞人が原作者に断って「性転換」したという。その結果、「血のつながらない姉と弟」というドラマティックな設定が生まれた。弟のジョーが登場して、映画は全く転調してしまう。
(「特殊詐欺」の面々)
 博奕好きで、考えずに突き進むジョーの登場で、思わぬ殺人、思いがけぬ大金と話はどんどん転がっていって、どうなるかと思う。そこに隠された愛のテーマが浮かび上がり、悲劇の色が濃くなる。そこら辺は書かないけど、面構えの素晴らしい役者を揃えて、その中に天童よしみも出てくるが良くなじんでいる。時々壊れてしまう「曼荼羅」役の宇崎竜童も素晴らしい。裏社会で博奕などを仕切っている林田役のサリngROCK(サリングロック)も見事。関西を中心に活動する劇団「突劇金魚」の作家・演出家・舞台女優だというが、全く知らなかった。そしてもちろん、安藤サクラが素晴らしい。『怪物』『ある男』などシリアス系だと、やはりマジメになるけれど、こういう犯罪映画での存在感は見事としか言いようがない。訳あって片耳が不自由という役である。

 原田眞人(1949~)監督は、若い頃に「キネマ旬報」を熱心に読んでいると、読者の映画評によく登場していた。アメリカで映画修行をして、帰国後に映画監督としてデビューした。近年は『日本のいちばん長い日』『関ヶ原』『検察側の罪人』『燃えよ剣』など大作スター映画を任せられているが、それらは概して中途半端な出来。むしろ得意なのは犯罪映画だろう。井上靖の母を描く『わが母の記』という名作を除くと、『KAMIKAZE TAXI』(1995)や『バウンス ko GALS』(1997)などアイディア勝負の小悪党映画が面白い。この映画はその頃を思わせる疾走感で、僕は大いに満足した。無理に勧められないタイプの映画だが。
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映画『こんにちは、母さん』、永井愛原作を巧みに映像化

2023年09月27日 20時46分32秒 | 映画 (新作日本映画)
 山田洋次(1931~)監督90本目という映画『こんにちは、母さん』が上映されている。日本映画を代表する巨匠とはいえ、近年の作品は明らかにかつての傑作には及ばなかった。それに今回は吉永小百合大泉洋の主演だという。まあ、そこそこ面白いには決まってるが、それほど期待出来るとは思えないなどと思い込んでいたら、これが案外の面白さだった。というのも、あまり触れられてないしチラシにも小さくあるだけだが、これは永井愛の2001年の戯曲が原作なのである。

 最近は永井愛の作品(二兎社公演)を見逃さないようにしているが、その頃はまだ見てなかった。(21世紀初頭は夜間定時制勤務をしていて、夜の公演が見られなかった。)この作品は今も上演が多いが、僕は見てない。むしろ吉永小百合と「母」といったら、『母べえ』(2008)、『母と暮らせば』(2015)を思い出す。だから、僕は「吉永小百合の母三部作」のオリジナル脚本だと思い込んでいた。永井愛の原作だと、最近までうっかり気付かなかったのである。いろんな映画評でも、ほとんど原作に論及してない。「永井愛」はそんなに宣伝にならないのか。しかし、今回の映画が面白いのは基本的に原作の設定によるものだと思う。
(山田洋次監督)
 もちろん舞台劇を映像化するときは、テレビや映画向けに変更する必要がある。この映画もそうだけど、それでも大手企業に勤める息子、老舗足袋屋の母という構図は原作由来だろう。神崎福江吉永小百合)は夫を亡くした後、一人で店を守っているが、今はそれ以上にホームレス支援のボランティア活動に熱心である。長男の神崎昭夫大泉洋)は人事部長として、リストラ最中で悩みを抱えている。同期入社で友人の木部課長宮藤官九郎)が、今度の同窓会は屋形船を借り切ってやりたい、お母さんにツテがないか聞いて欲しいと言うので、久しぶりに昭夫は実家を訪ねたが…。
(母と息子)
 このクドカンが非常によろしくなく(というのは助演者の演技としては「非常によろしく」)、重要な脇役となるのが観客に予感される。さて訪ねてみると、母は今日はボランティアの会だからと素っ気ない。そこで出会った教会の荻生牧師(寺尾聰)に惹かれているらしいのである。一方、昭夫は家庭も問題ありで、妻は出ていき、娘の永野芽郁)も祖母の家に身を寄せる。前作『キネマの神様』ではカワイイだけみたいな永野芽郁だったが、今回はなかなか陰影がある役をやっている。墨田区向島にある足袋屋は、大相撲の力士も愛用していて、立浪部屋の明生が特別出演している。すぐには顔が判らない人が多いだろうから、足袋屋に出入りしている枝元萌が「あっ、明生関」と言うセリフがある。)
(吉永小百合と永野芽郁)
 枝元萌が出て来ると、やはり永井愛作品だという感じが出て来るのだが、それはさておき…、全体的に淡々と進む中に時折驚くようなドラマがある。しかし、それも含めて上品な印象で後味が良い。未亡人の吉永小百合が秘かに恋しているといっても、お相手が寺尾聰となれば「オールド・サユリスト」も納得だろう。(ちなみにかつて吉永小百合ファンを「サユリスト」なんて言ったのである。)今まで乗ったことがないと水上バスに二人で乗るシーンなど、なるほどなあと思った。特に用もないから、地元民ほど地元の名物に行ってないことがある。
(吉永小百合と寺尾聰)
 この映画は今までの山田洋次作品を思い出す仕掛けが多い。支援する吉永小百合らに厳しく接するホームレス男性(田中泯)は「イノさん」というが、これは『学校』で田中邦衛が演じた忘れがたき役名と同じだ。牧師が最後に向かうという北海道の別海町は、『家族』で取り上げて以来、『男はつらいよ』シリーズ(の何作か)や『遙かなる山の呼び声』でロケされた中標津の隣町である。また「向島」という土地も、2作目の『下町の太陽』の舞台となったところと近い。そういう点も含めて、91歳を迎えた山田洋次監督の集大成的な作品だと思う。現代社会に対する批評もあるけれど、あまり重くならずに楽しめる。そういう映画もあって良いし、山田監督の細やかな演出を楽しめる映画だった。
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映画『福田村事件』をどう見るか、虐殺事件を直視した問題作

2023年09月13日 23時22分55秒 | 映画 (新作日本映画)
 森達也監督『福田村事件』を見たので、どう評価すれば良いのか感想を書きたい。テアトル新宿は水曜日がサービスデーなので、ほぼ満員になっていた。何もそういう日に見なくても良いのだが、諸般の事情で他の日が取りにくかった。話題になっているから、まだまだやってるだろうが、関東大震災関連の記事を書いてる間に見ておきたいなと思った。

 見る前には心配もあったが、まずは「なかなか良く出来ていた」というのが僕の評価である。事前の心配として、このような「歴史劇」の場合ストーリーが事前に決まっているので、「絵解き」になりやすいことがある。この事件を知らずに見る人もいるかとは思うが、実際にあった話だとは知ってるだろう。また、はっきり言ってしまうとドキュメンタリー映画の監督森達也の初めての劇映画という懸念もあった。記録映画から出発して劇映画で大成した監督も(黒木和雄のように)いるけれど、あまり成功しない場合の方が多いのではないか。(ヤン・ヨンヒ『かぞくのくに』はオートフィクションとして成功したので、ちょっと例外。)
(演出する森監督)
 事件そのものの内容に関しては、『福田村事件』を書いてるので省略する。問題はこの事件だけ描いていては、ドラマとして弱いということにある。だからフィクションにするときは、「補助線」とか「狂言回し」的な人物を創作することになる。この映画では澤田智一井浦新)、澤田静子田中麗奈)という夫婦が「朝鮮帰り」という設定で、村内の対立構造と朝鮮問題の本質をあぶり出す役割を担う。また千葉日日新聞(架空の新聞)の記者恩田楓木竜麻生)が亀戸に平沢計七に取材に行くなどして、広い視野で震災時の虐殺事件を考えさせる。この工夫をどう見るかが評価の決め手だろう。
(澤田夫妻)
 この映画のチラシ(上記)を見ると、俳優名より大きく、脚本を書いた佐伯俊道井上淳一荒井晴彦の名前が出ている。脚本が映画成立のために最大の貢献をしていることを示している。3人とも活躍してきた脚本家だが、特に荒井晴彦は現在の日本で最高の脚本家と言って良い。具体的にどう分担したかは(今のところ)僕は知らないけれど、この脚本は力作であり、映画を支えていると思う。ただ、「盛り込みすぎ」で総花的な構成を批判する意見もあるようだ。それも理解出来ないではないし、僕も亀戸事件まで描くのはちょっと散漫になると思った。
(行商人リーダーの沼部新助)
 一方被害者になる行商人側はリーダーの沼部新助永山瑛太)を中心的に、よく描き分けられている。初めて参加した若者、出産間近の夫婦などを交えながら、被差別部落出身者が行商に出た様子を事細かに描いている。途中で朝鮮人の飴売り(当時「朝鮮飴」と呼ばれて関東一円にかなり多かったと言われる)と出会うシーンも、フィクションとして許されると思う。(ただ扇子を貰うのはどうか。また放浪のハンセン病者も出て来るのは、盛り込みすぎと言われても仕方ないだろう。)そのようなリーダーは統率者として厳しい反面、優しい一面もあるという設定がラストに生きてくる。
(ラストの事件の描写)
 この事件は現代人からすると、実際に起こったとは思えない「ありえない話」に見えるだろう。それをいかに説得力あるストーリーとして表現するか。ラストまでに村内の権力構造を細かく描いている。強硬な在郷軍人会リーダー、宥和的な村長などに加え、渡し船船頭の田中倉蔵東出昌大)と戦死者の妻島村咲江コムアイ)の許されざる関係、日清戦争時の旅順虐殺を経験した井草貞次柄本明)の真実、そして朝鮮帰りの澤田夫婦の内情などが描かれる。その結果、日本近代史を縦横に飛び交い、性的な側面も含めた重層的な村内構造を提示する。それあってこそ、村人と行商人たちが出会ってしまった時の悲劇が納得出来る。

 この映画が描き出した悲劇が何故生まれたか。それは観客が一人一人自ら考えるべきことで、ここでは触れない。(他の記事で散々書いてきている。)映画の構造としては、様々な人物を描きわけながらラストで皆が集まって悲劇が起きるというスタイルになる。この構図はかなり効いていて、観客を飽きさせずにラストまで連れて行き、これは一体何故起こったんだと考えさせる効果をもたらしたと思う。だが、この種の物語の場合、どこまで「歴史離れ」が許されるのかという問題はある。

 具体的に書いておくと、冒頭にシベリア出兵の戦死者が村に帰ってくるシーンがある。シベリア出兵時もこういう迎え方だったか疑問もあるが、日本軍は各国の中で一番遅くシベリアから引き揚げたが、それでも1922年に全員引き揚げているから震災の年(1923年)にはあり得ない。また野田醤油の大争議は確かに1923年に起きていたが、4月には一端終わっていたという。また香川県の被差別部落でどの程度「水平運動」が伝えられていたかも疑問。「水平社宣言」を生存者が唱えているが、「人間に光あれ」は「にんげん」ではなく「じんかん」である。作者が間違っているのか、判っていてやってるのか不明。9月1日に山本内閣はまだ発足していないので、山本首相が暗殺されたというデマが飛んだというのも不思議。「富士山噴火」の方が良いと思う。
追伸・澤田の耕す畑を見ると、澤田夫妻の帰郷は震災直前ではない。だから冒頭シーンは震災直前ではなかったはずだ。三一独立運動(1919年)と関東大震災(1923年)の間のいつかになり、澤田夫妻とシベリア戦死者の帰郷が重なることも起こりうることに書いた後で気付いた。)

 いろいろ盛り込んで重層的な差別構造を示した面は評価出来るが、ちょっと盛り込みすぎて図式的で浮いたセリフもある。ここまで作り上げた脚本の貢献は大きいが、それに加えて美術、衣装なども見事だった。見るべき問題作で今年の収穫なのは間違いないが、今年のベストワンの大傑作とまでは評価しない。見ててアレレと思うシーンも結構多かったからだ。森達也監督の演出力は一応満足出来る。ドキュメンタリーよりずっと成功していたと思う。ジャーナリスティックな活躍をしてきたと思うが、ここではその感性を抑えて観客に考えさせる演出をしている。(新聞社の上司が「似てるな」と思ったら、やはりピエール瀧だった。テーマ以上にキャスティングに勇気を感じた。)

 森監督の経歴を今まで知らなかったが、僕とほぼ同時代に立教大学法学部を卒業していた。在学中に黒沢清監督らの自主映画製作グループ「パロディアス・ユニティ」にいたと出ている。じゃあ、どこかですれ違っていたはずだなと驚いた。
コメント (1)
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