尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『福田村事件』をどう見るか、虐殺事件を直視した問題作

2023年09月13日 23時22分55秒 | 映画 (新作日本映画)
 森達也監督『福田村事件』を見たので、どう評価すれば良いのか感想を書きたい。テアトル新宿は水曜日がサービスデーなので、ほぼ満員になっていた。何もそういう日に見なくても良いのだが、諸般の事情で他の日が取りにくかった。話題になっているから、まだまだやってるだろうが、関東大震災関連の記事を書いてる間に見ておきたいなと思った。

 見る前には心配もあったが、まずは「なかなか良く出来ていた」というのが僕の評価である。事前の心配として、このような「歴史劇」の場合ストーリーが事前に決まっているので、「絵解き」になりやすいことがある。この事件を知らずに見る人もいるかとは思うが、実際にあった話だとは知ってるだろう。また、はっきり言ってしまうとドキュメンタリー映画の監督森達也の初めての劇映画という懸念もあった。記録映画から出発して劇映画で大成した監督も(黒木和雄のように)いるけれど、あまり成功しない場合の方が多いのではないか。(ヤン・ヨンヒ『かぞくのくに』はオートフィクションとして成功したので、ちょっと例外。)
(演出する森監督)
 事件そのものの内容に関しては、『福田村事件』を書いてるので省略する。問題はこの事件だけ描いていては、ドラマとして弱いということにある。だからフィクションにするときは、「補助線」とか「狂言回し」的な人物を創作することになる。この映画では澤田智一井浦新)、澤田静子田中麗奈)という夫婦が「朝鮮帰り」という設定で、村内の対立構造と朝鮮問題の本質をあぶり出す役割を担う。また千葉日日新聞(架空の新聞)の記者恩田楓木竜麻生)が亀戸に平沢計七に取材に行くなどして、広い視野で震災時の虐殺事件を考えさせる。この工夫をどう見るかが評価の決め手だろう。
(澤田夫妻)
 この映画のチラシ(上記)を見ると、俳優名より大きく、脚本を書いた佐伯俊道井上淳一荒井晴彦の名前が出ている。脚本が映画成立のために最大の貢献をしていることを示している。3人とも活躍してきた脚本家だが、特に荒井晴彦は現在の日本で最高の脚本家と言って良い。具体的にどう分担したかは(今のところ)僕は知らないけれど、この脚本は力作であり、映画を支えていると思う。ただ、「盛り込みすぎ」で総花的な構成を批判する意見もあるようだ。それも理解出来ないではないし、僕も亀戸事件まで描くのはちょっと散漫になると思った。
(行商人リーダーの沼部新助)
 一方被害者になる行商人側はリーダーの沼部新助永山瑛太)を中心的に、よく描き分けられている。初めて参加した若者、出産間近の夫婦などを交えながら、被差別部落出身者が行商に出た様子を事細かに描いている。途中で朝鮮人の飴売り(当時「朝鮮飴」と呼ばれて関東一円にかなり多かったと言われる)と出会うシーンも、フィクションとして許されると思う。(ただ扇子を貰うのはどうか。また放浪のハンセン病者も出て来るのは、盛り込みすぎと言われても仕方ないだろう。)そのようなリーダーは統率者として厳しい反面、優しい一面もあるという設定がラストに生きてくる。
(ラストの事件の描写)
 この事件は現代人からすると、実際に起こったとは思えない「ありえない話」に見えるだろう。それをいかに説得力あるストーリーとして表現するか。ラストまでに村内の権力構造を細かく描いている。強硬な在郷軍人会リーダー、宥和的な村長などに加え、渡し船船頭の田中倉蔵東出昌大)と戦死者の妻島村咲江コムアイ)の許されざる関係、日清戦争時の旅順虐殺を経験した井草貞次柄本明)の真実、そして朝鮮帰りの澤田夫婦の内情などが描かれる。その結果、日本近代史を縦横に飛び交い、性的な側面も含めた重層的な村内構造を提示する。それあってこそ、村人と行商人たちが出会ってしまった時の悲劇が納得出来る。

 この映画が描き出した悲劇が何故生まれたか。それは観客が一人一人自ら考えるべきことで、ここでは触れない。(他の記事で散々書いてきている。)映画の構造としては、様々な人物を描きわけながらラストで皆が集まって悲劇が起きるというスタイルになる。この構図はかなり効いていて、観客を飽きさせずにラストまで連れて行き、これは一体何故起こったんだと考えさせる効果をもたらしたと思う。だが、この種の物語の場合、どこまで「歴史離れ」が許されるのかという問題はある。

 具体的に書いておくと、冒頭にシベリア出兵の戦死者が村に帰ってくるシーンがある。シベリア出兵時もこういう迎え方だったか疑問もあるが、日本軍は各国の中で一番遅くシベリアから引き揚げたが、それでも1922年に全員引き揚げているから震災の年(1923年)にはあり得ない。また野田醤油の大争議は確かに1923年に起きていたが、4月には一端終わっていたという。また香川県の被差別部落でどの程度「水平運動」が伝えられていたかも疑問。「水平社宣言」を生存者が唱えているが、「人間に光あれ」は「にんげん」ではなく「じんかん」である。作者が間違っているのか、判っていてやってるのか不明。9月1日に山本内閣はまだ発足していないので、山本首相が暗殺されたというデマが飛んだというのも不思議。「富士山噴火」の方が良いと思う。
追伸・澤田の耕す畑を見ると、澤田夫妻の帰郷は震災直前ではない。だから冒頭シーンは震災直前ではなかったはずだ。三一独立運動(1919年)と関東大震災(1923年)の間のいつかになり、澤田夫妻とシベリア戦死者の帰郷が重なることも起こりうることに書いた後で気付いた。)

 いろいろ盛り込んで重層的な差別構造を示した面は評価出来るが、ちょっと盛り込みすぎて図式的で浮いたセリフもある。ここまで作り上げた脚本の貢献は大きいが、それに加えて美術、衣装なども見事だった。見るべき問題作で今年の収穫なのは間違いないが、今年のベストワンの大傑作とまでは評価しない。見ててアレレと思うシーンも結構多かったからだ。森達也監督の演出力は一応満足出来る。ドキュメンタリーよりずっと成功していたと思う。ジャーナリスティックな活躍をしてきたと思うが、ここではその感性を抑えて観客に考えさせる演出をしている。(新聞社の上司が「似てるな」と思ったら、やはりピエール瀧だった。テーマ以上にキャスティングに勇気を感じた。)

 森監督の経歴を今まで知らなかったが、僕とほぼ同時代に立教大学法学部を卒業していた。在学中に黒沢清監督らの自主映画製作グループ「パロディアス・ユニティ」にいたと出ている。じゃあ、どこかですれ違っていたはずだなと驚いた。
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『リボルバー・リリー』、原作と映画はどう違う?

2023年08月24日 22時22分23秒 | 映画 (新作日本映画)
 映画『リボルバー・リリー』を見たけど、その前に長浦京の原作も読んだので、まとめて感想。僕はこの原作を何となく戦争中の女スパイの話かと思い込んでいた。そうしたら全然違って、関東大震災から始まる国内の争いだった。それも「帝都」のど真ん中で陸軍と海軍が相争い、そこに内務省も絡んでくるというムチャクチャな設定である。640ページもある長い長い原作は、そこら辺の無茶を何となく納得させてしまう力業を発揮している。映画は原作に沿いながらも、かなり大きな変更も加え、一気に見せるアクションに仕上がっている。まあ、主演の綾瀬はるかのための映画だなあとは思ったけど。

 綾瀬はるか演じる「小曾根百合」(おぞね・ゆり)は、映画では描かれないが原作では壮絶な幼年期を送っている。「幣原(しではら)機関」に見出されて、台湾で優秀な諜報員として育成された。(ちなみに、幣原機関は原作通りだが、戦前の幣原喜重郎外相とは何の関係もない架空の存在である。フィクションなんだから、別の名前を付けた方が良いと思うが。)その結果、百合は「最高傑作」と言われる存在となり、数多くの暗殺事件を実行したとか。しかし、愛人でもあったボスが急死して、その後は東京の玉ノ井で「銘酒屋」(私娼を置く店)を束ねている。玉ノ井は現在の東向島で、永井荷風濹東綺譚』の舞台である。
(原作=講談社文庫)
 原作は関東大震災から始まるが、映画はそこをカットして震災1年後、つまり1924年8月末に始まる。まず玉ノ井が出て来るが、すぐに秩父に移る。原作でも突然秩父に話が変わり、一体何のつながりがあるんだか最初は理解出来ない。ところが実は陸軍が兵士を動員して、ある一家の抹殺を図っているのだ。何のために? 結局その「事件」こそが、この物語のすべてなのだった。簡単に言えば「裏金」の争奪戦みたいなものなんだけど、映画はかなり簡略化している。原作だとなかなか複雑な仕組みと陸軍内の派閥争いが絡み合っている。総じて、映画ではその複雑な部分を省略するので、映画だけ見ると筋書き的に判りにくいのではないか。

 一家で一人生き残った「細見慎太」は父から、玉ノ井の小曽根百合を頼れと言い渡され「書類」を預かった。(原作では弟もいるが、映画では省略されている。)百合はその前から秩父の事件の真相を探るつもりで出掛けていく。二人は出会って、攻撃してくる陸軍兵に立ち向かいながら、何とか東京を目指す。そこが映画ではよく判らないけど、原作では埼玉県の地名が細かく書かれていて、リアリティがある。もっとも国内で陸軍がドンパチやっていて、それに対し百合が昔取った杵柄の銃さばきで逃げ続けるという、設定は全く無理。それをいかに納得させるか。原作では細かな設定と描写で、映画は綾瀬はるかの魅力で魅せる。
(子どもを連れて逃げる)
 映画としては『グロリア』である。ジョン・カサヴェテス監督の映画で、ジーナ・ローランズが故あって子どもを連れてギャングの追跡から逃げ回る。もう一つ、小説ではギャビン・ライアルの『深夜プラス1』で、こっちは警察と殺し屋双方から逃げる実業家を主人公が安全地まで連れて行く。恐らく作者はそれらに影響されて発想したのかと思う。映画は大分原作をコンパクトにしているが、まあ面白く見られるのは間違いない。僕は消夏映画として、それなりに楽しんだけど、これじゃ判らんという人も多いだろう。だからかどうか、東映が意気込んだ大作の割りには案外大ヒットになっていないという話。

 綾瀬はるかのアクション映画というのが、あまり受けないのか。それともほぼ綾瀬はるか単独主演に近く、ちょっと動員力に無理があったのか。映画の百合は美しいドレスを着ながら、銃を撃ちまくっている。トンデモ設定だけど、楽しめる。玉ノ井で百合を助けている奈加シシド・カフカ)、仕事上で助手的な岩見弁護士長谷川博巳)は、原作では百合との関わりが細かく出ている。最後の銃撃戦でも「第二戦線」で大活躍するが、映画はその辺は変えている。その他、豊川悦司、佐藤二朗、野村萬斎、石橋蓮司など豪華脇役を揃えている。しかし、阿部サダヲ山本五十六というのは違和感が強い。
(長浦京)
 原作の長浦京(1967~)は時代小説『赤刃』(2011)でデビューし、次が『リボルバー・リリー』(2016)。そこから冒険・ミステリー系になり、第4作『アンダードッグス』(2020)が直木賞候補になった。映画は行定勲(ゆきさだ・いさお)監督、共同脚本。撮影の今村圭佑はセットやロケの入り交じる映画を印象的に撮っている。玉ノ井は大きなセットを作っているので、原作にはない陸軍との銃撃戦をそこでやってる。いくら何でも首都の真ん中で陸軍軍人がホンモノの銃撃戦を行うという無理についていけるかどうか。そこが評価の分かれ目かもしれない。
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映画『君たちはどう生きるか』をどう見るか

2023年08月16日 22時55分39秒 | 映画 (新作日本映画)
 宮崎駿監督(1941~)の10年ぶりの新作アニメーション映画『君たちはどう生きるか』が7月14日に公開された。これは「事件」であり、映画ファンなら見ないという選択肢はない。だが事前の宣伝が全くなされず、どんな映画かよく判らないまま見たわけである。当初はパンフレットも発売されず、作者側の情報発信は極めて少なかった。当初の評価も「よく判らない」「もう一回見ないと」という感想が多いようだった。実は自分も同様で、最近ようやく2度目を見直したのである。(なお、以下では内容に触れる部分があり、全く白紙で見たいと思う人は、見てから読んで欲しい。)

 いま「よく判らない」という表現があったが、ファンタジー映画なんだから設定が謎めいているのは当然だ。リアリズムの実写映画だろうが、あるいは映画以外の様々なジャンルであろうが、作品のテーマが完全に観客に伝わるわけではない。そんな映画があったら、それはつまらない映画だろう。宮崎映画を思い出せば、『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』のストーリーを説明せよと言われても、僕にはうまく言えない。だけど、その2本の映画(明らかに宮崎映画の頂点)を見ている間、この映画は判るとか判らないなどと誰も思わないだろう。「うまく説明出来ないけれど、今すごいものを見ている」と皆が思っていたからだ。

 だから、「よく判らない」なんて議論をしている段階で、やはりこの映画は宮崎監督の大傑作ではないのである。世の中には、100歳で作った『一枚のハガキ』が最高傑作レベルだった新藤兼人みたいな監督もいる。だけど、黒澤明フェデリコ・フェリーニのように、壮年期の大傑作に比べると晩年の作品には不満が残る方が普通だろう。近年の山田洋次監督も同じ道をたどっている気がするが、それでももちろん見る意味はある。『君たちはどう生きるか』が宮崎駿最後の映画になる可能性は高いだろうが、黒澤最後の『まあだだよ』やフェリーニ最後の『ボイス・オブ・ムーン』より良く出来ていると思う。
(宮崎駿)
 映画の冒頭で、サイレンが鳴り響き「母さんの病院が家事だ」と「」が飛び出していく。僕はこれを「空襲」だと思い込んでしまったのだが、それは戦時中の話だという程度の事前情報は持っていたからだ。しかし、その後、「戦争3年目に母が死に、4年目に東京を離れた」といったナレーションが入る。どうも時間が合わない。(東京が本格的空襲にあうのは1944年11月以後。)パンフでは「母を火事で失った11歳の少年」とある。ところで、冒頭に出て来た「」はどうなったのだろう。徴兵、徴用されたか、または遠くの大学へ進学したか。それとも母を救おうとして、兄も火事で亡くなったのか。

 この映画がどうもよく判らない感じがするのは、ストーリーの細部にうまくつながらない箇所が散見されるからだと思う。異世界に紛れ込んだ後はどういう進行をしても構わないわけだが、2度見たらストーリー的なつながりに疑問な展開がかなりあった。もう一つ、ファンタジーの構造として少し弱い点がある。ファンタジーには「異世界のルールのみで進行するもの」と「現世から異世界へ行って、再び現世に戻るもの」の2タイプがある。『指輪物語』(映画『ロード・オブ・ザ・リング』)や『ハリー・ポッター』シリーズなどは前者、エンデ『果てしない物語』(映画『ネバーエンディング・ストーリー』)などが後者だ。

 宮崎映画では『風の谷のナウシカ』や『もののけ姫』が前者で、『千と千尋の神隠し』が後者である。後者の場合、あるミッションを果たすため異世界に赴いて、いくつかの通過儀礼をこなして現世に戻って来る。『千と千尋』の場合、両親がブタに変えられてしまい、千尋は家に戻るためにも救出のミッションを果たさざるを得ない。ブタ変身もなるほどと思わせる描写がある。一方、今回の映画では義理の母(実母の妹)夏子が「青鷺屋敷」に行くのを見るが、何故向かわざるを得ないかが判らない。そして、異世界で囚われるた義母を主人公、眞人(まひと)が救い出す。

 義母を救出に向かうのは当然と言えば当然だが、やはり実の両親を救うのに比べれば弱いだろう。眞人はどこか新しい母になじめなかったが、ラストでは「夏子母さん」と呼ぶようになっている。謎めいた異世界で、若き日の母であるらしき少女ヒミや世界のバランスを取り続ける青鷺屋敷の塔に住んでいた大叔父に出会って、眞人は変わってゆくのである。だけど、新しい母を「母さん」と呼べるようになるというのは、本人には大事だろうが世界全体には大きな意味はない。だから、眞人のこのミッション自体に切実さが低くないかと思ってしまう。

 さらに「大叔父」は自分も年を取ったので後継者が欲しいという。それは自分の血を引いた者に限られるという。それが何故なのかが説明されないが、世界を救う役は「血筋」で決まるのか。それじゃ「身分制度」である。そこで冒頭に戻るのだが、血筋で言うなら「」が継いでも良いはずだ。もし「兄」が死んでいたら、この謎世界で出会うのではないか。(母は「あっち」にいるのだから。)では兄は元気なのか。その説明は不可欠ではないか。この問題は『風の谷のナウシカ』から続く「宮崎駿と天皇制認識」として慎重に検討すべき問題だ。

 さて、別の観点から考えると、宮崎駿映画の最大の魅力は「飛翔」にある。今度の映画には鳥がいっぱい出て来る。だがアオサギは別にして、ペリカンもインコも飛ばずに歩いている。主人公も飛べないから、飛行機の世界を描いて「飛翔感」にあふれていた前作『風立ちぬ』に比べ、どこかこの映画に違和感を感じてしまう。むしろ「地下世界」を描いているように思う。その意味では、村上春樹の小説のような感触がある。「ミッション」の濃度が薄まっている感じがするのも、村上春樹と近いかもしれない。

 ただ、今度は「建物映画」としての魅力が増している。『千と千尋の神隠し』や『魔女の宅急便』と並ぶような、洋館、和館に魅せられる映画である。それを見るためだけでも、もう一回ぐらい見てもいい気がする。「戦時下の疎開=いじめ」映画にも出来るし、「義母と子の和解まで」をじっくり描く方向もある。そういうリアリズム映画は他にあるけれど、宮崎映画は異世界ファンタジーになるのである。

 題名の『君たちはどう生きるか』は言うまでもなく、吉野源三郎・山本有三名義で出された「児童小説」から取られている。映画では母の贈り物として出て来る。僕は前作『風立ちぬ』が堀辰雄の映画じゃないように、今度の映画もまあ「名義借り」に近いと考える。吉野源三郎の原作に思い入れし過ぎて「深読み」するのは間違いだろう。僕も若い頃に叔父さんから貰ったことがある。ある時期には、ちゃんと本を読める時期になった子どもへの定番ギフトだったのだろう。その時は僕には何だか古い話に思えて、あまり影響されなかった。そんなことを思い出した。なお、パンフは820円したが、情報的には少ない。(絵は多い。)誰が誰の声か知りたい人は、Wikipediaに出ている。
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映画『658km、陽子の旅』、菊地凛子の「再生」まで

2023年08月12日 22時25分33秒 | 映画 (新作日本映画)
 熊切和嘉監督『658km、陽子の旅』は、出色のロードムーヴィーでいろいろなことを思う映画だった。陽子菊地凛子)は、一応テレワークで働いているが、ほとんど引きこもりみたいな暮らしをしている。後で判ってくるが、家を飛び出て20年以上も家に帰っていない。夢を持って上京したのに、夢破れたまま過ごしてきたらしい。そんな時、突然いとこ(竹原ピストル)が訪ねてきて、陽子の父が突然死んでしまって明日出棺、車で来ているから一緒に行こうという。陽子の兄から連絡が付かないから、見に行ってくれと頼まれたというのである。故郷は青森県の弘前市。突然始まった青森までの旅である。

 現代では皆がスマホを持っているから、連絡が付かない「行方不明」という設定は難しい。陽子の場合、たまたまスマホが壊れてしまったばかりで、そのまま連れて行かれたのである。だけど、普通は銀行のカードぐらい持ってるから、多少の金は何とかなるものである。ところが、この映画では陽子がお金もないままヒッチハイクせざるを得なくなる。つまり、いとこの車に置いていかれるのだが、そんなバカな。それをバカなと思わせずに、なるほどと思わせる設定が上手い。なるほど、こういう手があったか。それで陽子は高速道路のサービスエリアで金もなく一人ぼっちである。
(車に出てくる死んだ父)
 車には時々死んだ父(オダギリジョー)が出て来て、陽子は昔の恨みをつぶやく。その時はともかく、現実の人間と話す時は陽子の声はほとんど聞こえない。というか、何も言えなくなってしまう。長いこと人と接してなくて、声も出なくなってしまったのか。それとも乗せてもらった男に言われるように「コミュ障」(コミュニケーション障害)なのかもしれない。そんな陽子はヒッチハイクするにも、ほとんど声を掛けられない。やっと乗せて貰った車の女性ドライバー(黒沢あすか)からは、ほとんど車も来ない小さなパーキングエリアで下ろされてしまう。
(菊地凛子)
 そしてそのPAには怖がり屋の女の子が転がり込んで来るが、夜になっても車は全然見つからない。ようやく「くず男」に拾われるが…。中には親切な人もいるし、いろんな人に少しずつ乗せて貰うのだが、果たして青森まで行けるのか? それが見どころではあるが、僕はもうどうでもいいかもしれないと思った。ようやく陽子は自分の境遇をちゃんと話せるようになってきたからだ。家を出た時、父は42歳だったが、今は自分が42歳。まさに「就職氷河期世代」を生きてきたのだった。そんな「陽子」が声を取り戻すまでの「658㎞の旅」だったのである。
(上海国際映画祭で)
 菊地凛子はアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『バベル』(2006)で聾唖の少女を演じて、アカデミー賞助演女優賞にノミネートされ脚光を浴びた。その後、内外の映画、テレビに出ているが、これが初の単独主演だという。上海国際映画祭で、最優秀作品賞、女優賞、脚本賞を受賞した。熊切和嘉監督は大阪芸大を卒業後、映画監督としてコンスタントに活躍してきた。代表作は『私の男』『海炭市叙景』などで、前作は『マンホール』。脚本は室井孝介のオリジナルで、ツタヤの賞に応募して審査員特別賞を受賞したものだという。音楽のジム・オルークも素晴らしかった。
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映画『ハケンアニメ!』、上質のお仕事映画

2023年07月24日 22時31分05秒 | 映画 (新作日本映画)
 新作というか2022年の映画だが、1年前だから「旧作映画」とも言えないだろう。ちょっと前の映画は、昔なら「名画座」があちこちにあって、見る機会が多かった。最近は名画座が少なくなって、公開時に見逃すとなかなか見る機会がない。それでも映画は映像が残っているわけだから、網を張って待っていると、どこかでやってくれることがある。キネ旬ベストテン入選の日本映画で唯一見逃していた『ハケンアニメ!』を目黒シネマで上映しているので(26日まで)、是非見たいと思って行って来た。
   
 原恵一監督のアニメ『かがみの孤城』と二本立てだが、どういう関係があるかというと辻村深月原作の特集だった。僕は知らなかったけれど、『ハケンアニメ!』の原作は2014年に刊行されて、翌年の本屋大賞3位になっていた。原作とは少し違う点もあるようだが、アニメ業界を舞台にして非常に見応えがある「お仕事映画」になっている。キネマ旬報ベストテンでは6位になっているが、『土を喰らう十二ヶ月』『PLAN75』と同点で6位が3本もある珍しい年だった。5位の阪本順治監督『冬薔薇』とは1点差で、この4作品はほぼ同じ点になったが、僕は『ハケンアニメ!』が一番面白いと思った。

 土曜午後5時にぶつかる2本のテレビアニメ作品。ひとつは新人斎藤瞳監督(吉岡里帆)の『サウンドバック 奏の石』、もう一つは伝説の巨匠王子千春監督(中村倫也)の『運命戦線リデルライト』。瞳はかつて王子監督の作品に深い感銘を受けて、公務員を辞めてアニメ業界に飛び込んだという因縁がある。二つの作品の製作現場を並行して描きながら、アニメ製作の様々な部門(脚本、コンテ、背景、CG、アフレコ等々)だけでなく、宣伝やタイアップなど広範に描き出す。しかし、基本は創作に悩む巨匠に挑む新人監督の日々を描き出すことにある。アニメだけでなく、あらゆる仕事でも似たようなことがあるなあと思わせる設定だ。
(王子監督と斎藤瞳監督)
 吉岡里帆は代表作になるだろう快演で、ちょっとした仕草に共感出来る演技をしている。その斎藤瞳監督に立ちふさがるのが、プロデューサーの行城(ゆきしろ)で柄本佑が圧倒的な存在感で怪演している。この行城をどう理解するかが鍵になるだろう。一方、王子監督の奔放な言動に振り回されながらも、理想のアニメを求めて9年ぶりの王子作品に全力を注ぐのがプロデューサーの有科(ありしな)で、こちらは尾野真千子が演じている。監督対決以上に興味深いのがプロデューサー対決で、非常に面白かった。その他、数多くの人が描かれるが、ちょっと出る人も含めて皆が生きている。
(吉野耕平監督と原作者辻村深月)
 監督が本気を出せば、理想を目指して皆が頑張っていけると言ってしまえば、そんなに簡単じゃないよと言われるかもそれない。でもそれが辻村深月の世界なんだし、どんな仕事にも活かせる元気の素がいっぱいある。それはここで出て来る劇中アニメを見れば一目瞭然。辻村深月が話を書いて、それをちゃんとアニメ化されていて見応え十分。吉野耕平監督(1979~)は、CGクリエイターとして『君の名は。』(16)に参加した後、『水曜日が消えた』(2020)で劇場映画にデビューした人。今回が2作目だが、どんどん新しい才能が出て来るもんだと思う。劇場じゃなくて良いから、どこかで見て欲しい映画。
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映画『山女』、過酷な生を描く力作歴史映画

2023年07月18日 21時02分03秒 | 映画 (新作日本映画)
 福永壮志(たけし)監督の映画『山女』を見てきた。そんな映画は知らないという人が多いだろう。僕もよく知らずに見たのだが、これは非常に力のある歴史映画だった。事前に知っていたのは、柳田国男遠野物語』にインスパイアされた東北地方を舞台にした歴史映画であること。福永監督は前作『アイヌモシリ』を作った人という程度だった。主演の山田杏奈もよく知らなかったが、冒頭にキャストが出て森山未來永瀬正敏三浦透子でんでん白川和子などそうそうたる名前が並んでいて驚いた。それだけの俳優を集めた今年屈指の力作である。見逃さなくて良かった。

 18世紀後半の東北地方。冷害が続いて飢饉が広がっている。これは浅間山噴火後に起こった「天明の飢饉」を思わせる。冒頭にお産が出て来るが、とても育てられないと「間引き」されてしまう。その赤ちゃんを処理するのが「」(りん=山田杏奈)である。僅かな金を貰って、子どもを川に流している。次第に判ってくるが、凛の父親伊兵衛永瀬正敏)の曾祖父の時代に火事を出して、懲罰として村から田畑を取り上げられた。その後は村の汚れ仕事を引き受けて細々と生きてきたのである。

 凛は折々に山(早池峰=はやちね)を仰いで心を静めている。(早池峰は岩手県にある山だが、ラストのクレジットを見るとロケは山形県で行われている。)そんな凛に同情している駄賃付けの泰蔵二ノ宮隆太郎)もいる。一緒に村を出ようと言うが、凛は父と弟を捨てて逃げられないと言う。藩からのお救い米が配給されるが、伊兵衛一家にはごく僅かである。これでは暮らせないと父は蔵から米を盗もうとする。父が村人に責められると、凛は自分がやったと言うのだった。
(凛と泰蔵)
 そして翌日、凛は村はずれの結界を越えて、「山」へ入っていく。父親は凛が「神隠し」にあったという。しかし、泰蔵は凛が山で生きているかもしれないと考えている。ある日、マタギたちが「山男」を見たと言って下りてきて、泰蔵はそこに凛もいると考えて連れ戻そうとする。その間、凛は謎の「山男」(森山未來)に出会っていた。泰蔵たちは結局凛を連れ戻すが、その頃村では凛を新たな犠牲にしようと目論んでいたのである。詳しくは書かないが、ラストまでの「怒濤の展開」には驚くしかない。
(凛と山男)
 東北地方を舞台にした土俗的なホラーっぽい物語を想像していたら、実際は困窮する村の差別構造を厳しく描き出す話だった。映像的魅力もたっぷりで、凛を演じた山田杏奈の魅力も素晴らしい。『樹海村』『ひらいて』『彼女が好きなものは』などに出たというけど、どれも見てない。凛に心を寄せながら、結局連れ戻して苦難に陥らせる泰蔵役の二ノ宮隆太郎は映画監督でもあり、『逃げきれた夢』を見たばかり。定時制高校の教頭を光石研が演じる映画で、題材に興味を持って見たがここでは書かなかった。ロマンポルノの人気女優だった白川和子が巫女を演じて貫禄たっぷり。
(福永壮志監督)
 それより僕がビックリしたのは、共同脚本をお気に入りの長田育恵(おさだ・いくえ)が手掛けていたこと。劇団てがみ座主宰の劇作家で、映画館の紹介記事では「連続テレビ小説『らんまん』を手がける」と出ていた。えっ、『らんまん』は長田育恵が書いてたの? 見てないから知らなかったんですけど。監督、共同脚本の福永壮志は1982年生まれで、『リベリアの白い血』『アイヌモシリ』に続く長編第3作。傑出した演出力と力強い世界観で見るものの心をとらえる。編集のクリストファー・マコト・ヨギ、音楽のアレックス・チャン・ハンタイなど、全然知らないけど国際的スタッフで作られた作品である。
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是枝裕和監督『怪物』、「世界」の重層性に迫る

2023年06月15日 22時53分39秒 | 映画 (新作日本映画)
 カンヌ映画祭脚本賞坂元裕二)を獲得した是枝裕和監督の『怪物』。この映画をどのように理解するべきだろうか。カンヌ映画祭ではまた別にクィア・パルム賞も受賞した。そのことの意味がなかなか理解出来ないのだが、ラスト近くになってようやく観客に見えて来た頃、『怪物』という映画の凄みが見えてくる。ある小学校で起こった子ども同士の問題が、映画では視点を変えて描き直される。その複雑なピースは見終わっても完全にははまらないと思う。ラストで伏線すべてが上手に腑に落ちてしまう作りではないから、判りにくいと感じる人もいるだろう。でも非常によく出来た傑作だと思う。

 最初に湖が見えている。予告編を見たときから諏訪湖っぽいなと思ったけど、案の定冒頭で「上諏訪」と明示される。長野県の中央にある上諏訪下諏訪は温泉や諏訪大社で知られる大観光地である。僕も行ったことがあるけど、観光客の姿は全く消されている。映画では今年作られた『ロストケア』もここで撮られていた。フィルムコミッションが非常に協力的なんだという。何となく不穏なムードが共通している。映画は小学5年生の二人の少年とその周囲を描くが、主なロケ地となる小学校は2021年に閉校した旧城東小学校という所だという。このロケ地が映画に真実性と落ち着きを与えている。
(旧城北小学校)
 ストーリーを詳しく紹介するのは控えるべき映画だろう。骨子だけ簡単に書くと、クリーニング屋をしているシングルマザーの麦野早織安藤サクラ)、その小学5年生の子ども麦野湊黒川想矢)がいる。最近湊の様子がどうも少し変である。靴が片方ないとか、遅くまで帰らず川辺に出掛けていたり…。見つけて帰る途中で車から突然飛び降りてしまう。ある日、耳をケガした理由を聞くと、湊は保利先生永山瑛太)の名前を出す。母は翌日学校へ事情を聞きに行くが、ここで「事なかれ主義」の権化みたいな管理職の壁にぶつかる。もっと事情は複雑だが、ここまでが安藤サクラによる学校追求篇である。
(保利先生)
 そこから視点が変わり、保利先生を中心に見ることになる。そこで教室の様子も出て来るので、最初に語られたエピソードの数々は必ずしも「事実」ではないと判ってくる。同級生の星川依里(ほしかわ・より、柊木陽太)の家の事情も出て来て、湊と依里の関係性が重要になってくる。一方で、保利先生の私生活も出て来て、恋人(高畑充希)に結婚しようと言っている。どこで知り合ったのか不明だが、ガールズバーに出入りしていると親たちが噂している。そして、二人の子どもたちの視点で、物語が再度語り直される。二人にはトンネルの向こうに「秘密基地」があったのである。トンネルと子どもたちということで、今年公開された足立紳監督の秀作『雑魚どもよ、大志を抱け!』を思い出させる。
(麦野家の親子)
 是枝監督は基本的に自分で脚本も書く(編集もする)タイプである。『誰も知らない』も『万引き家族』もそうだし、外国で作った『真実』『ベイビー・ブローカー』も自分の脚本だった。今回は坂元裕二の脚本で、違う人が担当するのは、何とデビュー作の『幻の光』(1995)以来になる。そのことでテイストは少し変わったと思うけど、自由自在に俳優を動かす近年の是枝映画と変わってはいない。このように「真実」のありかを探す映画としては、なんと言っても黒澤明羅生門』があるが、そこでは最後まで真実が判明しない。むしろ同じシーンを違った視点で見せる内田けんじ監督『運命じゃない人』に似ている。
(是枝監督と坂元裕二)
 『運命じゃない人』はエンタメ系なので、伏線は最後にすべて回収され事実は解明される。しかし、『怪物』はそういう映画ではない。「人間世界の複雑さ、重層性」を感じさせて終わるため、解明されない謎も多く残る。(僕が最大の謎だと思うのは、冒頭で出て来るビル火災の真相。)物語の構造上、学校の対応は非常におかしなものになっている。「親から教育委員会に持ち込まれたら…」と言うセリフがあるが、教員の体罰や生徒間いじめが疑われるケースだから、当然学校側から直ちに報告するだろう。それにしても校長先生田中裕子)のキャスティングは意表を突いている。
(スタッフ、キャスト)
 僕は映画を見て、自分の教員時代を思い出してしまった。親や教師は子どもの世界を理解していないことが多い。何で判らないんだろうと思うけど、自分で教師をしてみれば、教師は生徒の一面しか見えていないことを痛感する。結局解明出来ない「謎の事件」は数多い。この映画の場合、二人の子どもたちが遊んでいる時は二人以外判りようがないけれど、教室での出来事は他の生徒が見ていた。小学5年生なんだから、判っているはずだ。保利先生は異動してきたばかり(多分)で、前年までの様子を知らないかもしれないが、女子生徒のリーダーがしっかりしていれば大分変わっていたはず。管理職の対応を見ていると、リーダー育成をちゃんとやって来なかったんだろう。保利先生も女性問題を親が吹聴して、女子生徒に人気がなかったのかもしれない。

 この映画を見て、僕は一つの俳句を思い出した。
 好きだから 強くぶつけた 雪合戦   風天
 「風天」(ふうてん)は渥美清の俳号である。雪合戦じゃないけど、僕は全く同じことを小学生時代に体験した。この俳句が映画に何の関係があるのかって? それは自分で見て感じて下さい。(なお、坂本龍一の遺作で、音楽が素晴らしい。)
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映画『せかいのおきく』、黒木華が素晴らしい傑作だけど…

2023年05月12日 22時42分44秒 | 映画 (新作日本映画)
 連休中は大島渚(国立映画アーカイブ)やゴダール(角川シネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷)をつい何本か見てしまった。やっぱり時代が違っていて、なんで見に行ったんかなあと正直思った。その間に新作もずいぶん公開されたが、最近見た阪本順治監督の新作『せかいのおきく』は傑作だった。しかし、『せかいのおきく』は3週目に入ったら上映が減っている。黒木華寛一郎池松壮亮主演で、拡大公開もされたから大ヒットしてもいいのだが…。

 この映画のチラシを初めて見たときは、てっきり「世界の記憶」かと思った。そうしたら、よく見れば『世界のおきく』という題名だった。これは阪本順治監督初めての「時代劇」で、幕末期の気高い青春物語である。何と大部分が白黒で、ところどころパートカラーという映画だった。安政五年(1858年)から万延を経て、文久二年(1862年)までの江戸が舞台だが、安政の大獄桜田門外の変も出て来ない。外国貿易も出て来ない。世は「尊皇攘夷」で騒がしくなりつつあるが、それも関係ない。
(池松壮亮と寛一郎)
 矢亮(やすけ=池松壮亮)と中次(ちゅうじ=寛一郎)は、武家屋敷や長屋を回って人々の糞尿を集める「汚穢屋」(おわいや)である。江戸では肥料として糞尿を近隣の農家に売る「循環経済」が成立していたのである。その糞尿を集めるのが「汚穢屋」である。インドと違って被差別身分の人々が担当したわけではない。矢亮は郊外に住んでいるが、中次は江戸市中の長屋にいる。つまり「町人身分」なのだが、それでも周囲の人々からは見下されている。この映画は江戸時代の循環社会を描くと同時に、世界映画史上に冠たる「糞尿映画」でもあった。まあホンモノじゃないと思うけど、これじゃあデートに使えないというリアルさである。
(おきくと出会う)
 ある日雨が降ってきて、矢亮とその頃は紙くず拾いをしていた中次が雨宿りをしていると、そこへおきく黒木華)も雨宿りに来る。武家の娘であるが、故あって今は長屋に落ちぶれている。父親松村源兵衛佐藤浩市)は、勘定方として不正を見過ごせず上司に報告したところお役御免になってしまったのである。母も亡くなり、おきくは木挽町の貧乏長屋に住んで、寺子屋で読み書きを教えている。今では「屁」とか「糞」とか平気で言えるようになってしまったと父に当たる勝ち気ぶりは見応えがある。
(長屋のおきく)
 その後、執念深い敵は長屋まで源兵衛を追ってきて、父は殺されてしまう。その時おきくも、首筋を切られて言葉を出せなくなってしまった。つまり、後半のおきくは全くの無言である。何とか命は助かったものの長屋の一室に引きこもったおきくだが、そんな時も「汚穢屋」の中次だけは親切にしてくれる。これは「身分違いの恋」なんだろうか。お互いに戸惑いながらも惹かれあっていく様子を、黒木華は実に繊細に演じている。長いコロナ禍の間にCM女優の印象が強くなった黒木華だけど、これは主演女優賞がやっと回ってくるかもしれない傑作だと思う。
(寺子屋に戻ったおきく)
 長屋のセットも素晴らしい。近年の阪本作品をずっと担当している笠松則通の撮影も実に見事。だけど、リアルすぎてちょっと敬遠したくなる人もいるだろう。今の若い人は「肥溜め」(こえだめ)を知らないと思う。僕の子どもの頃は周りにいっぱいあって、落ちた子もいるという話だった。どんな田舎だよと思うかもしれないが、僕は東京生まれ、東京育ちである。妻は日本一の米どころ新潟県出身だが、市内中心部で育ったから稲作を全然知らない。逆に東京区部だけど、周りが田園地帯だった僕は毎日あぜ道を通って小学校に通っていたのである。
(おきくと中次)
 この映画だけ見ると、集めた糞尿をそのまま畑にまくように思うかもしれない。しかし、それは間違いで、集めた糞尿は肥溜めで発酵させてから肥料にするのである。よく見ると、映画でも一度肥溜めに入れて、その肥をまいている。それはともかく、「汚穢」の世界に気高く生きる「おきく」と二人の青年は、表層の激動とは関わりなく必至に生きている。もうすぐ「ご一新」になるとはまだ誰も知らない。中次役の寛一郎は、佐藤浩市の息子で、親子共演。父が踏ん張って、早く汲み上げたい子が外で待つシーンがおかしい。阪本順治監督としてもデビュー作『どついたるねん』やベストワンになった『』レベルの忘れがたい名作である。まあ、頑張って是非見て下さい。
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『少女は卒業しない』、原作と映画ー「学校映画」の不思議

2023年04月17日 22時43分40秒 | 映画 (新作日本映画)
 朝井リョウ原作の『少女は卒業しない』という映画を見たのは、もう一月ぐらい前になる。かつて『カランコエの花』を作った中川駿監督の初の長編映画。どうも学校に関して不思議な設定が幾つもあって、原作を読んで確かめてみようと思った。案外手強い本で時間が掛かり、その間に卒業シーズンもロードショー上映も終わってしまった。まあ、今後も各地で上映はあるし、書きたいのは「学校映画」という理由だから書いてみたい。

 映画は4人の女子高生を描いている。それぞれのエピソードを時間的にバラバラにして、そのピースを並行して配置する。だから最初はよく判らないけど、最後になってピースがはまって「なるほど、そうだったのか」となる。ちょっとミステリー的な作りでもあるので、あまり筋を書かないことにする。4人の中でも、生徒会長でもないのに答辞を読むことになる「山城まなみ」のエピソードが長く、河井優美初主演とうたっている。2022年も『PLAN75』『ある男』など好調が続いていたが、これを主演というのは無理があるだろう。原作を読んだら、まなみが答辞を読むという話は全然出て来なかった。
(料理部長だったまなみ)
 そもそも原作は7話まであって、全然出て来ないエピソードに驚くようなものが多かった。この高校は進学校で、生徒会長の田所君なんか現役で東大に合格した。答辞は当然田所君がやるんだろう。映画にあるのは、男女バスケ部の「禁断の部長同士の交際」の行方、図書館の先生に憧れる作田さん、ヴィジュアル系バンドの森崎に密かに憧れている軽音部長、そして料理部のまなみと交際相手の駿の4つのエピソードである。それぞれのエピソードを若手男女俳優が演じて、卒業式間近の感傷的なムードを盛り上げる。演出や編集、音楽も巧みで、なかなかの佳作だった。

 ところで原作を読んだら、4つの話全部が原作とかなり違っていてビックリした。別に映画が原作通りである必要はなく、もちろんそれは全然構わない。しかし、僕には「どうして」と思うシーンが幾つもあった。例えば、バスケ部の部長同士が久しぶりに会って屋上で花火をする。今どき生徒だけで屋上に出られる学校なんてあるのか。原作を読むと、屋上に行くのは別の二人。退学してダンスで芸能活動をしている男子がいて、卒業式当日に幼なじみを誘って東棟の屋上へ行く。この学校は四角形(ロの字型)になっているが、東棟はボロでもう使われてない。誰も行かなくなっていて、強く蹴ると屋上の鍵が外れて出られるという設定だった。

 学校を舞台にした映画は、主にロケすることになる。教室や職員室だけセットを組むこともあるが、校庭の向こうに数階建て(高校は5階まで、中学は4階まで、小学校は3階までが原則)のセットを作る予算などないだろう。だから大体は夏休みなどを使ってロケすることになる。この映画のロケ地を調べると、山梨県上野原市立旧島田中学校で撮ったと出ていた。旧というのは、すでに閉校になって他の施設になっているからである。作田さんのエピソードで、図書室がやけに小さいなと思ったが、それは中学校でロケしたからだった。原作も映画も「廃校」と呼んでいるが、学校の場合「閉校」と呼ぶ。それもおかしいなと思った。

 時々芸能人が何年も経ってから大学受験して話題になることがある。大学の出願資格は「高校卒業または卒業見込み」だから、「卒業証明書」を出身高校で発行してもらったはずだ。時間が経ってもそういうことがあるから、高校を「廃校」にするわけにはいかない。どこか別の高校に書類を移管して、そこで発行を続けるわけである。もっとおかしいのは、その高校が「廃校」になって「卒業式翌日から解体作業が始まる」というのである。無くなる学校に下級生がいて、最後の軽音部の公演に詰めかけるというのも不可解。閉校になるということは、新入生が募集停止になるということで、最後の卒業生は下級生がいないはずである。
(原作本=集英社文庫)
 これは原作を読まなくちゃと思ったのである。そうしたら、「翌日から解体」は原作にある設定で、だからこそ生徒会がアンケートして「3月25日」に卒業式を動かしたというのである。では在校生の終業式は前日だったのか。翌日から解体という設定で、皆が特別に感傷的な雰囲気になっている。だが、教師はどこに出勤すれば良いのだろうか。教師は3月26日も(土日じゃなければ)勤務日である。次の学校に異動の辞令が出るのは、4月1日だろう。冒頭に「山梨県立」と出るんだから。それに卒業式後に軽音部の公演をしてるから、放送や照明の設備が体育館に残っている。それはいつ搬出するんだろう?

 まあ、別にどうでも良い話である。僕も別にこだわって書いているわけじゃない。ただ、NHKの大河ドラマなんかだと歴史家がアドバイザーになる。単なる時代劇じゃなく、歴史上の事実に基づくドラマである以上、基本的な史実に基づく必要があると思われている。一方、学校を舞台にする小説、ドラマ、映画などの場合、そういう人がいないからだろうか、どうも変な設定が多いのである。もちろんあり得ないような設定を楽しむ恋愛、アクションドラマの場合はどうでも良い。学校で殺人があろうが、教師がゾンビであろうが構わない。でもある程度リアルな学校映画の場合、誰かアドバイザーを付けるべきではないか。

 僕は一番驚いたのは、とても好きで優れた映画なんだけど、岩井俊二監督の『Love Letter』である。これは小樽の中学校の2年4組に、全く同姓同名の生徒がいたという設定だった。それも「藤井樹」という名前の男子と女子である。おかしいでしょ。いくら何でも、クラス分けで別にするよ。4組まであるんだから。それがクラス分けというものである。学校というか、教師をバカにしてるんだろうか。まあ、そういうことを気にせずに見られる傑作ではある。だけど、北海道なんだから、ちょっと山の方かなんかで学年一クラスしかなかったという設定にすれば、先の問題は解消するじゃないか。学校映画にはそういうことが多いのである。
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映画『ロストケア』、演技合戦の介護ミステリー

2023年04月06日 22時39分18秒 | 映画 (新作日本映画)
 葉真中顕(はまなか・あき)というミステリー系の作家がいる。2013年の『ロスト・ケア』が注目され、社会的な背景を巧みに生かすミステリー小説が多い。テレビドラマ化された作品はあるが、葉真中作品初の映画化が『ロストケア』という映画。(原作は「・」があるが、映画は「・」がない。)松山ケンイチ長澤まさみの壮絶な演技合戦が見どころだが、介護問題をめぐって現実に起きた事件などを思い出してしまう。なかなか大変な映画である。

 予告編で、長澤まさみ演じる検事が「あなたは42人を殺しました」と追求すると、松山ケンイチ演じる介護士が「私は42人を救いました」と答えるシーンが流されている。だから、見る前から「そういう映画だな」と判っている。原作も読んでるけど、ずいぶん前で細かいことは忘れてしまった。調べてみると、原作の舞台は東京都西部の八王子市あたり、検事も男性だった。

 映画では検事を女性という設定に変えて、長澤まさみをキャスティングした。興行的な理由でもあるだろうが、これが実に効いている。検事だから警察より広い部屋で尋問している。松山ケンイチと丁々発止のやり取りは緊迫感にあふれる。松山演じる介護士斯波(しば)は「確信犯」だから、むしろ大友検事は押され気味に見える。「安楽死」が認められない日本では、斯波の行為が刑法に触れることは間違いない。動機がどうであれ、それは動かない。だから検事の方が優位に尋問できるはずが、検事の主張はきれい事だと決めつける松山ケンイチの確信に満ちた口調が検事の内面を揺るがす。

 ロケは長野県諏訪市あたりで行われた。冒頭で諏訪湖が見えるので海辺かなと思ったが、長野県と出て来るから諏訪湖だなと思った。松山ケンイチの他に研修中の若い女性、ベテランらしい女性介護士が組んで、各家庭を回って介護している。いかにもテキパキと好ましい感じの介護である。だが松山ケンイチ演じる斯波には裏があることをすでに予期している。そういう目で見ると、なんだか出来すぎているようにも見える。ある出来事きっかけに、すべてが反転していく。最初は事故のようにも見えたが、統計的に怪しいと気付くのは検察事務官の椎名。『蜜蜂と遠雷』やテレビドラマ『silent』の鈴鹿央士が好演している。

 大友検事も母親を介護ホームに預けている。大分認知症も進んで来たようだ。だが、それだけの経済的余裕があって出来ることである。一方、斯波はこの社会には穴があって、一度落ちたら外に出られない。恵まれている人には判らないだろうという。そう言われると返す言葉がなかなかないだろう。確かにそういう側面があるが、だからといって「殺人」に手を染めるのは飛躍である。主人公がそう思って立ち止まるとドラマにならないから、行き過ぎぐらいの大犯罪になる。しかし、実は明確な物的証拠がないケースが多いから、斯波が全面否認したらなかなか起訴も難しかったかもしれない。その方が法廷ミステリーとしては面白い。でも斯波が「自白」するのは、社会に問題を突きつけたいという作者の意図だろう。

 原作は2013年刊行だから、2016年に起きた「やまゆり園事件」の前である。作家の想像力が同じような発想をする事件を予知したのだろう。映画は良く出来ているけど、テーマ性というよりは、初共演の松山ケンイチ、長澤まさみに注目する人が多いだろう。非常に迫力のあるぶつかり合いで、見応え十分。僕は訴追側でありつつ内心で動揺を隠せない検事役の長澤まさみが上手かったと思う。柄本明、藤田弓子、綾戸智恵、坂井真紀など共演陣も充実している。監督の前田哲は近年コンスタントに作品を発表している。『こんな夜更けにバナナかよ』『老後の資金がありません!』『そして、バトンは渡された』など話題作が続き、『大名倒産』が控えている。安心して見られる力量の持ち主だと思った。
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映画『零落』と『ちひろさん』、漫画の実写化2本

2023年04月03日 22時12分56秒 | 映画 (新作日本映画)
 『零落』と『ちひろさん』という映画を最近見て、どちらも僕にはとても面白かった。昨年の新作日本映画では、ここで書いた映画があまりベストテンに入らなかった。それは別にどうでもいいけれど、僕の好きなタイプの映画は人には受けないこともある。逆に『夜明けまでバス停で』『こちらあみ子』など、僕には疑問が残る映画ながらベストテン上位に入る作品もある。まあ、そういうもんだろうが、ここで取り上げる二本もあまり評判になってないし、好みは分かれるのかもしれない。

 二本の映画は、どちらも漫画の映画化。漫画の実写映画化はものすごく多いが、あまり成功しないことが多い。すごい人気作品だと、作品や主人公を実写で表現するとイメージが壊れると思う人も多いだろう。浅野いにお原作の『零落』は、竹中直人監督、斎藤工主演で映画化された。竹中直人は怪優イメージが強いが、俳優以外に様々な活動をしている。
(監督と出演者など)
 映画監督も10作目だという。最初の『無能の人』(つげ義春原作、1991)はヴェネツィア映画祭で国際批評家連盟賞を受けた傑作だった。つげ義春の映画化の中で一番成功していた。その後も『119』(1994)、『東京日和』(1997、荒木経惟夫妻をモデルにしている)あたりまでは面白かった。21世紀になっても時々監督作品があるが、あまり評判にもならず見てない映画が多い。先に挙げた作品では自分も出演しているが、今回は出ていない。

 斎藤工が演じる漫画家の深澤薫は大ヒット漫画「さよならサンセット」の連載が終了して、次の作品の構想も浮かんでこない。妻の町田のぞみMEGUMI)は漫画編集者で、担当の牧浦かりんが大人気になって多忙である。夫婦はすれ違いで、薫は離婚も考えている。「売れれば良いのか」という漫画界で、創作意欲の衰えた薫に居場所はあるのか。家を出て、風俗嬢を呼んでみるが…。そのうち「ちふゆ」(趣里)という風俗嬢と仲良くなっていき、あるとき田舎に帰省する彼女に付いて行く。アシスタントの女性、漫画界の様子なども描きつつ、大学時代に付き合った猫顔の女玉城ティナ)の呪縛が解けない。
(ちふゆ)
 深澤薫はその気になれば売れる漫画をいくらでも描けるけど、「孤独」を抱えている。その心の中へ入るのは他人には大変で、外から見ればずいぶん身勝手である。その身勝手な中に「真実」を見つけられるか。風俗嬢「ちふゆ」は彼の心に寄り添えるのか。それとも所詮は金のつながりなのか。薫の苛立ちが判らないと、この話は何も面白くないだろう。筋だけじゃなく、登場人物の顔なども原作漫画に似ているようだ。またカメラワークや演出もなかなか冴えていて、見応えがあった。この人の人生はこれでいいのかと思う場面が多いが、映画は人生訓じゃないのでそこに説得力がある。僕はこの手の暗め映画が好き。

 「ちふゆ」ならぬ「ちひろ」を名乗っていた元風俗嬢を有村架純が演じるのが『ちひろさん』。安田弘之原作の漫画の映画化で、こちらは映画には出て来ない人物も少しいるようだ。最近好調な今泉力哉監督作品だが、Netflix製作だから配信が中心の映画なんだろう。僕は新宿武蔵野館でやってるからそこで見たけど、これも面白かった。ここでも「孤独」が描かれている。ちひろさんはとある港町にある弁当屋「のこのこ弁当」で働いている。元風俗嬢ということを特に隠すわけでもなく、不思議に自然と客に接していて人気者になっている。そんなちひろさんの周囲に集まる群像を描いた映画。

 有村架純なら何も風俗で働かなくても生きていけそうなもんだけど、そこは家庭的な深刻な事情もあったらしい。何で辞めたかも描かれず、どうして港町(ロケは焼津)に来たのかも不明。映画ではすでに弁当屋で働いていて、ホームレス、ワケあり女子高生、問題家庭小学生などが集まってくる。何かいつのまにか「親密圏」がちひろさんの周りに出来ている。そして、昔の同僚バジルや元店長(リリー・フランキー)に会って、なんだか楽しそう…。そう見えるのは上辺だけなのか、彼女は居着くことが出来るのか。

 ここでも現代日本の「孤独」が描かれる。ただ『零落』は芸術家の堕ちてゆく身勝手な部分があるが、『ちひろさん』では壊れた家族の中に育つ苦しさが背景にありそうだ。こちらの映画も港町の風情、海に太陽が沈むシーンなどに魅せられた。僕はただ面白い映画ではなく、見る者の孤独に寄り添う映画が好きだ。主人公も身勝手なぐらいが良い。現実社会じゃないんだから、付き合いやすい人間ばかりじゃなくて構わない。
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映画『ラーゲリより愛を込めて』、シベリア抑留を描く感動編

2023年02月04日 23時03分30秒 | 映画 (新作日本映画)
 瀬々敬久監督、二宮和也主演の『ラーゲリより愛を込めて』を見た。公開2ヶ月近く経つが、今も興収ランキングベスト10に入っている。見れば判るけど、これは日本の戦争映画の中でも感涙度ベスト級の出来で、口コミで評判が伝わるんだろう。僕はこの映画は、監督や俳優ではなくテーマで見逃したくなかった。題名の「ラーゲリ」とはシベリアの収容所のことで、第二次大戦後に60万近い日本人「捕虜」がソ連によって抑留された出来事(「シベリア抑留」)を描いている。

 この映画の原作は辺見じゅん収容所(ラーゲリ)からきた遺書』(1989)で、発表当時大きな評判となった。大宅壮一ノンフィクション賞、講談社ノンフィクション賞を同時に受賞している。辺見じゅん(1939~2011)は、もう覚えてない人が多いかもしれないが、国文学者、歌人にして角川書店創業者として知られる角川源義(かどかわ・げんよし)の長女である。つまり、角川春樹角川歴彦の同母姉になる。映画になった『男たちの大和』の原作者でもある。

 冒頭は敗戦直前の「満州国」北部、ハルビン。そこで結婚式が行われ、山本幡男(やまもと・はたお)、もじみ夫妻も子どもたちとともに出席している。配役はそれぞれ二宮和也北川景子。直後にソ連軍による空襲があり幡男は妻子と別れることになるが、自分は絶対に日本に帰ると「約束」した。その後の経緯は描かれないが、次にはシベリアに送られる列車の中である。幡男はそこで「愛しのクレメンタイン」(Oh My Darling Clementine)を口ずさんでいる。「雪山讃歌」の曲となり、またジョン・フォード監督『荒野の決闘』のテーマ曲となったアメリカの民謡だ。この曲が映画では何度も繰り返される。
(ラーゲリのセット)
 その列車の中で様々なタイプの軍人が点描される。「臆病者」を自覚する松田(松坂桃李)や軍人であることに固執する相沢(桐谷健太)である。ロシア語ができて通訳を引き受ける幡男だが、そのことで誤解もされる。所内では旧軍の上官の横暴が続く一方、ソ連軍の強制労働のため、極寒のシベリアで死者が多数に上る。ともすれば自暴自棄になる人が多い中、幡男はあくまでも「希望」を持つことを説き、「帰国」(ダモイ)の時は必ず来ると語るのだった。そして実際にダモイの列車がやって来るが、最後の最後で何人かは留められて戦犯裁判に掛けられた。

 それでも屈することなく、山本幡男は所内で野球や俳句を広めて、皆の心をまとめていく。何度もソ連兵によって営倉に入れられるが屈しないのは、ポール・ニューマン主演の『暴力脱獄』を思わせるぐらいである。日本軍による中国戦線の残虐行為、収容所内の「民主化闘争」の問題など、過不足なく描いていくが、映画の眼目は所内で人間性を失わないで生き抜く山本幡男の勇気と誠実を描くことにある。しかし、そんな彼を病魔が襲った。病院での診察を求めて、松田は一人で作業を拒否して「ストライキ」を始める。やがてそれが皆に広がり、ソ連軍もついに彼を病院に送るのだが…。
(野球に興じる)
 その後、死期を悟った山本幡男は渾身の力を振り絞り、「遺書」を残す。二宮和也の鬼気迫る演技が胸を打つ名場面だ。しかし、収容所内では日本語の文書はスパイ行為とみなされ、見つかれば没収される。それを防ぐために遺書を分割して、4人で記憶して日本へ伝えることを考えたのである。(実際は6人で運んだ。)その間に妻もじみの様子が点描される。子どもたち4人を連れ何とか帰国でき、生活に苦労しながらも夫の「約束」を信じて生き抜いてきたのである。
(実在の山本夫妻)
 そして最後の帰国船が着く直前に、幡男の死去を知るのである。その後、4人が折々に山本家を訪れ「遺書」を伝えていく。これは実話であり、見る者に深い感動を与えるシーンだ。様々な戦争映画が日本で作られたが、感涙度では有数ではないか。ただ原作ではもっとたくさんのエピソードが語られていたと思う。(読んでるけど、細部は忘れた。)ウィキペディアに「山本幡男」の項目があり、「アムール句会」を開いたり演芸大会を企画したり、映画以上に文化活動に活躍したようである。この「遺書」は人間は最後は「まごころ」だと子どもたちに伝える。

 シベリア抑留に関する複雑な事情を語り始めると長くなりすぎるから省略する。この映画も原作をさらに切り詰めていて、そこから来る「わかりやすさ」とともに、何だか「簡潔すぎる」感じも抜けない。2021年に撮影されたが、もちろん国内ロケが中心。よくよく見れば、ここはシベリアかという風景である。それは目をつぶるとしても、山本幡男を中心に「人間の善なる部分」を描くことの限界性もある。だけど若い世代に伝えていくためには、ここからのスタートで良いのだろう。シベリア抑留の体験記や一般的解説書は多数あるが、最近は入手しにくいと思う。最初から石原吉郎の詩や香月泰男の絵の世界じゃ伝わらないだろう。
(クロ)
 なお、犬のクロが出て来て、帰国船を追ってくるシーンがある。これが実話だというので驚いた。この犬の名演が見事で、最優秀名犬賞をあげたい。シベリア抑留の死者はまだ全員が判明しているとは考えられない。故・村山常雄氏がロシア語の名簿を大苦労してまとめた「シベリア抑留死者名簿」のサイトがある。それを見ると、山本幡男もあるし、尾形眞一郎(伯父、父の兄)の名も掲載されている。ついでに書くと、映画にも出て来る長男、山本顕一氏はフランス文学者で、立教大学名誉教授だった。自分の在学時代に教授だったわけだが全く知らなかった。(辺見著が出るまで誰も知らないんだから当然だが。)まだお元気で、ニューズウィーク日本語版に、『二宮和也『ラーゲリより愛を込めて』の主人公・山本幡男氏の長男が語る、映画に描かれなかった家族史』があるのを見つけた。
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映画『ケイコ 目を澄ませて』、聴覚障害の女性ボクサー

2023年01月21日 22時43分54秒 | 映画 (新作日本映画)
 三宅唱監督の『ケイコ 目を澄ませて』の評判が高い。2ヶ月近く映画に行ってなかったけど、上映も終わりつつあるので解禁することにした。間違いなく2022年の日本映画でも出色の傑作で、特に主演岸井ゆきのの圧倒的熱演は必見。映像の持つ熱量を信じて作られた作品である。毎日映画コンクール作品監督主演女優の他に撮影月永雄太)、録音川井崇満)の技術部門2つでも受賞した。見れば判るけど、確かにこの両部門は非常に素晴らしい技量を示している。

 この映画は聴覚障害者である小河恵子岸井ゆきの)という女性ボクサーを描いている。実際に小笠原恵子という聴覚障害の女性プロボクサーがいたそうで、その自伝『負けないで!』という本を原案にしている。フィリピンのブリランテ・メンドーサ監督の『GENSAN PUNCH 義足のボクサー』という映画が去年公開されたが、そこでは義足でプロを目指す日本人ボクサーを描いていた。日本ではプロのライセンスを得られずフィリピンで練習をしているのである。その映画も実在人物をモデルにしているようだが、こちらは実際に聴覚障害のプロ女性ボクサーの話である。世の中には凄い人がいるもんだ。
(ケイコと会長)
 ケイコは東京都荒川区に育ったと最初に字幕で説明される。東京23区の北東部である。生まれつき聴覚に障害があるという。冒頭でもう試合をしていて、どのような事情でボクシングを始めたのか、それ以前の人生はどのようなものだったかなどは直接は描かれない。弟と一緒にマンションに住んでいて、昼間はホテルの客室清掃の仕事をしている。

 そんな暮らしの様子が淡々と描かれるが、そこに至った事情は判らない。2つの試合に勝って、記者が取材に来る。ジムの会長三浦友和)が答えているが、突然入りたいと言ってきて熱心に毎日通ってくる。プロになりたいのかと聞くと、テストを受けると言って合格した。学校時代はいじめられていたらしいなどと会長が答える。素質はないけど、素直なんですよという。
(ケイコと会長)
 説明的要素はほぼ会長による取材対応だけで、映画はひたすらケイコの練習、試合を映し出す。岸井ゆきのは相当にトレーニングを積んで撮影に臨んでいる。だが映画の特徴は「ボクシング映画」としての完成を目指さない。ボクサーを描く映画は多いけど、試合を重ねてチャンピオンになるか、挫折するかという経過をドラマティックに追うのが普通だ。それに対して、女子ボクサーを描く場合、「スポーツ映画」とはちょっと違うことが多い。何故ボクサーになるのか、そこへ至る孤独や絶望を扱うのである。

 まして、この映画の主人公は聴覚障害者である。主に手話で意思疏通を図っている。言いたいことが伝えられず、また周囲の会話を理解出来ない。だからコンビニでも困るし、警官に職務質問されても説明出来ない。その困惑と孤独を岸井ゆきのの鋭い目つきと鍛えられた肉体で見せるのである。圧倒的な存在感に見るものが押されてしまうぐらいだ。この「肉体」を映像として提示するわけだが、映像の原初的な迫力を思い出させてくれる映画だった。そして主人公の姿を撮影や録音が的確に捉えて映像化する。
(三宅唱監督)
 この映画は東京東部でロケされている。「荒川区出身」と出るが、むしろトレーニングをしているのは足立区の荒川土手だろう。(荒川区は荒川に接していない。荒川区が誕生した当時は今の隅田川が荒川で、新たに開かれた荒川放水路が荒川と呼ばれるようになったのは1965年のことである。)また手話で話す友人と会うのは浅草。北千住駅前と思われる映像も出て来る。会長のジムは奇跡的に空襲を免れた古い地区にあるとされる。このような東京東部の映像が映画を落ち着かせる役割を果たしている。

 監督の三宅唱(1988~)は世界で注目される若手有望監督の一人である。商業映画としては『きみの鳥はうたえる』があった。脚本は三宅唱と酒井雅秋。ケイコの弟をやってる佐藤緋美は浅野忠信とCHARAの子だそうである。ケイコの母が中島ひろ子、会長の妻が仙道敦子と懐かしい顔ぶれが演じている。なお、アカデミー賞を取った『コーダ』は聴覚障害者が当事者を演じていたのに対し、この映画では健常者が演じている。近年は民族性、性的指向、障害などで「当事者性」を重視する傾向が強い。それも必要だと思うけれど、「俳優」には自分と違う役柄を演じる演技力が求められる。当事者性を強調し過ぎると、人を殺したことがある人しかギャングを演じられないなんてバカげたことになりかねない。
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映画『ある男』、確かな映像で原作を映画化した傑作

2022年11月26日 22時38分21秒 | 映画 (新作日本映画)
 石川慶監督『ある男』が公開された。原作は平野啓一郎ある男』で、ほぼ原作通りの物語になっている。小さな部分で変更もあるが、テーマ性は原作を踏まえている。2018年に刊行された原作は、2021年に読んで非常に大きな感銘を受けた。原作の考えさせられる部分を映画はよく映像化していて、傑作だと思う。今年の日本映画は収穫が乏しかったが、この映画はベスト級の力作だ。

 原作に関しては、読んだときに「大傑作、平野啓一郎『ある男』を読む」を書いたので、詳しい物語はそちらを参照。僕も細部を忘れていたが、原作では主人公の弁護士が震災ボランティアの法律相談に一生懸命になって妻との関係が悪くなるという設定だった。映画ではその部分は全く出て来ない。この数年で震災のリアリティが失われたのかと感慨深い。石川慶監督(1977~)は前作『蜜蜂と遠雷』で長大な原作を上手に刈り込んで見事に映画化した。その実績からも期待大だったが、いつものように自ら編集も担当しキビキビした映画になっている。脚本は向井康介で、最近見た『マイ・ブロークン・マリコ』の人である。
(原作)
 冒頭に絵が出て来る。ラストにも出るが、それはルネ・マグリット複製禁止』という絵だという。下に示すが、二人の男の後ろ姿が描かれている。人間であることは判るけれど、個別認識が出来ない。「人間とは何か」、そう問われれば様々な答え方が出来る。生物学的に、哲学的に、また社会的存在として…等々。だけど普通一般的には、「」と「名前」を個別に記憶して、それぞれ自分の周囲の人間を認識しているものだ。政治家や芸能人、スポーツ選手、あるいは歴史的人物など、直接会ったことはなくても名前で覚えている。その「名前」というものは人間にとって何なんだろうか。
(「複製禁止」)
 離婚して息子を連れて宮崎県の実家に帰った里枝安藤サクラ)は、家業の文房具屋を手伝っている。絵の材料を買いに来る男と知り合い、次第に心を通わせてゆく。やがて里枝は谷口大祐窪田正孝)と名乗る男と結婚し、娘も生まれる。しかし林業をしている大祐は木の下敷きになって亡くなり、一周忌に伊香保温泉の旅館主という兄がやって来る。写真を見てこれは弟ではないと言って、では誰だったのかと探索が始まる。このぐらいは書かないと、先に進めない。
(里枝と「大祐」)
 全編からすればプロローグにあたるこの出だしが素晴らしい。ちょっと古びた文房具屋が懐かしい。昔は学校の近くに必ずあったものだ。一人で店番していると里枝は自然と涙ぐんでくる。安藤サクラの涙は『万引き家族』をしのぐらしい素晴らしい。そして鏡やガラス窓、水面などを通して捉えられた映像の素晴らしさ。それは映像的に見事なだけではなく、テーマとしっかり結びついている。「人間とは何か」は「反射」としてしか我々には判らないのである。全編通じて柔らかな光の中で撮られた映像は近藤龍人の撮影。『私の男』『万引き家族』などの撮影を担当した。
(幸せだった在りし日)
 里枝は離婚訴訟で世話になった城戸弁護士妻夫木聡)に依頼して、「谷口大祐」の真相を調べることにする。結局、原作も映画も城戸を「探偵役」にしたミステリー的な物語になる。探索を進めてゆくと「戸籍」、「死刑制度」、「ヘイトスピーチ」など様々なサブテーマが出て来る。それらは結局「スティグマ」を負わされた人間という問題に行き着く。城戸弁護士も「在日三世」としてヘイトスピーチに無関心ではいられない。そして「谷口大祐」ではない「男X」はあまりにも巨大なスティグマを背負って生きてきたことが浮かび上がってくる。その人間像を多くの人物を通して描き分けていく。
(城戸弁護士の事務所)
 谷口の兄(眞島秀和)やボクシングジム会長(でんでん)など脇役が生きている。また、子役、特に大きくなった長男(坂元愛登)が良かった。彼は亡くなった「父」を慕っていたが、何度も苗字が変わることで自分は何者かに悩んでいる。また「主役」である城戸弁護士を演じる妻夫木聡の抑制された演技は、全編を引き締めている。それに比べると、いつもの名演(怪演)をしている詐欺師小見浦を演じる柄本明がやり過ぎに感じられるぐらいだ。ただ彼も城戸を「イケメン弁護士」と呼び、自らの顔を「不細工」だと言う。「名前」じゃなければ「顔」にこだわるのである。

 ちょっと残念だったのは、主なロケ地が宮崎じゃなかったことだ。文房具屋や林業のシーンは山梨県笛吹市でロケされた。ラストのクレジットを見て主要なロケ地は山梨だったのかと思った。伊香保の旅館の次男が山梨にいたのでは近すぎる。だから映画でも宮崎になっているが、多くの人気俳優を長時間拘束するには九州は遠すぎたのか。宮崎と山梨では光も樹種も少し違うと思うけど、そこは上手に撮られている。すべてを映像で語る映画になって落ちた部分もあるから、映画を見た人は原作も読んで欲しいと思う。だが、原作をキビキビとしたセリフと編集で語り尽くした映画の魅力も捨てがたい。生きることの難しさ、日本社会の問題を突きながらも、終わった後の後味が良いのは子役が良かったからだと思う。
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荻上直子監督『川っぺりムコリッタ』、不思議な魅力

2022年10月24日 22時30分31秒 | 映画 (新作日本映画)
 荻上直子(おぎがみ・なおこ)監督の『川っぺりムコリッタ』という映画をやっている。ホントは去年公開の予定が、コロナ禍で今年に延期されていた。題名が判らんと思って見るのが遅れたが、これがなかなか不思議な魅力で面白かった。僕はこの監督の映画が苦手で、2017年の前作『彼らが本気で編むときは、』をうっかり見逃してしまった。フィンランドで撮影した『かもめ食堂』(2006)はヒットしたけれど、あの映画もところどころ不気味な描写があって「癒し映画」なんて思えなかった。

 『川っぺりムコリッタ』も何だか変なところは多いんだけど、全体としてはなかなか気持ちよく作られている。冒頭で山田(松山ケンイチ)という男が水産工場にやってくる。そこで雇われるのだが、社長が「更生出来るから」と言っている。どうやら前科者で、住まいも会社があっせんした「ハイツムコリッタ」というところが用意されている。大家の南(満島ひかり)に会うと、聞いていると鍵を渡される。平屋建ての長屋みたいな部屋で一風呂浴びていると、隣室の住人島田(ムロツヨシ)がお風呂貸してとやってくる。それから毎日のように「ご飯ってね、ひとりで食べるより誰かと食べたほうが美味しいのよ」と言って押しかけてきて、一緒にご飯を食べることになってしまう。
(山田と島田は一緒にご飯を食べる)
 このムロツヨシの強引さが魅力で、何だか判らないながら段々なじんでくる。会社ではイカをさばいているが、結構大変そう。それでも次第になじんできたある日、家に役所からの通知が届いた。小さいときに出ていった父親が死んで発見されたという。どうでも良いと思ったが、隣室の島田がお骨は大事と言うから、ある日市役所に骨を取りに行った。部屋には同じような身元不明の遺骨がたくさん並んでいた。そして部屋に遺骨を置いておくけど、どうしたら良いのか。一方、島田の作る家庭菜園に協力したり、大家の南さんの事情、向かいに住む墓石売りの溝口(吉岡秀隆)、南や溝口の子どもたちなど、少しずつ人間関係も出来てきたのだが…。
(皆ですき焼きを囲む)
 登場人物はみんな過去に大きなドラマがあるが、それは現時点では描かれない。映画内ではシチュエーションだけで、過去を持つ人々が何となく仲良くなっていく様子を見つめている。不思議な出来事がいっぱいあって、どう理解していいのかというシーンもあるけど、人間は何となく仲良くなっていけるんだなあと思える。会社でも重労働ながら、時々イカの塩辛を貰ってきて、島田と一緒に食べている。山田の過去は説明されず、「母親はクズだったし、父親も野垂れ死にだし。ろくでもないのってうつるのかなって」と思っている山田も、最後に皆で父の葬儀をしている。見ていて不思議に心が和むのである。ま、いろいろあっても、トマトやキュウリは美味しいよなあと思える映画。「食べること」と「生きること」、そして「死ぬこと」について感じる映画。
(荻上直子監督)
 ムコリッタというのは、仏教用語で漢字で書けば「牟呼栗多」になるという。時間の単位で「少しの間」というような意味。具体的に言えば、「1昼夜=30牟呼栗多」というから、約48分間ぐらいになるらしい。しかし、そういう具体的な時間を意味しているわけじゃないだろう。この映画はオールロケで撮影されているが、撮影地は富山県である。最近富山県でロケされた映画が多い。富山出身の山内マリコ原作の『ここは退屈迎えに来て』『あの子は貴族』、富山に場所を移した『ナラタージュ』『羊の木』等の他、調べると『真白の恋』、『追憶』、『RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ』『ほしのふるまち』『人生の約束』など多数にのぼる。ロケ誘致を進めてきて成功している。この映画も富山県の「空気感」がうまく生かされて魅力的。
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