尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『オッペンハイマー』をどう見るかー栄光と悲劇に迫る傑作

2024年04月16日 22時44分25秒 |  〃  (新作外国映画)
 2024年のアカデミー賞で作品賞等最多7部門で受賞した話題作『オッペンハイマー』を昨日見た。早く見たかったが、何しろ180分という長尺で、気力体力充実した日じゃないと見に行けない。じゃあ昨日はそういう日だったかというと、そうでもないんだけど完璧に元気な日を待ってたら見逃しちゃうから出掛けたわけである。新聞休刊日で早めに出られたので、IMAXシアターの大迫力で見ることにした。その分高いけど、値段分の価値はあったと思う。しかし、あまりにも長くて久方ぶりに生理的限界でちょっと出ることになった。まあ寝ちゃう映画もあるんだから、それよりマシか。

 この映画は傑作である。それは疑いようがない。だが同時に「複雑な感慨」を催す映画であるのも間違いない。監督のクリストファー・ノーラン(1970~)は脚本、製作も兼ね、この大作映画を見事に統率している。米アカデミー賞の監督賞受賞作である。(『ダンケルク』に続く、二度目のノミネート。)実は僕はノーラン監督作品が苦手で、高く評価された『ダークナイト』『ダンケルク』などもどうも乗れなかった。SF系の『インセプション』『インターステラー』なども今ひとつ。だから前作の『TENET テネット』は見逃してしまったぐらいである。しかし、今回の『オッペンハイマー』は見事な出来映えだ。

 その最大の貢献者はタイトルロールを演じたキリアン・マーフィーだろう。理論物理学者のロバート・オッペンハイマー(1904~1967)は、確かにこんな人物だったのではないかと思わせる。下に本人の写真を載せておくが、驚くほど似ている。米英では実在人物を扱う映画が数多く作られ、高い評価を得ている。近年のアカデミー主演男優賞を見ても、『ウィンストン・チャーチル』のゲイリー・オールドマン、『ボヘミアン・ラプソディ』(フレディ・マーキュリー)のラミ・マレック、『博士と彼女のセオリー』(ホーキング博士)のエディ・レッドメインなど枚挙にいとまない。『ドリーム・プラン』『英国王のスピーチ』『カポーティ』『ミルク』『Ray/レイ』『ガンジー』…。日本ではどうして本格的な評伝映画が作られないのだろうか。
(オッペンハイマー=キリアン・マーフィー)
 キリアン・マーフィー(Cillian Murphy、1976~)って誰だっけという感じだが、アイルランド出身俳優として初のアカデミー賞主演男優賞を得たという。ケン・ローチ監督のカンヌ映画祭パルムドール『麦の穂を揺らす風』で主演していた人である。若き物理学徒の頃から、「赤狩り」の標的にされた時代まで、苦悩し揺れ動くオッペンハイマーを見事に演じている。この映画は描く時代が複雑に前後するので、物理学やマッカーシズム(戦後アメリカに吹き荒れた「赤狩り」)の知識が見る前にあった方がよい。

 映画には著名物理学者がいっぱい出て来る。ニールス・ボーアケネス・ブラナーアインシュタイントム・コンティ(『戦場のメリークリスマス』のローレンス中佐役)が演じている。他にもハイゼンベルクエンリコ・フェルミなど超有名学者が続々と出て来るのも見どころ。時代的には量子力学が登場した頃で、アインシュタインは(映画にも出て来るが)「神はサイコロを振らない」と言って量子力学を認めなかった。オッペンハイマーはアインシュタインは時代に置いて行かれたと思いながら、折に触れて相談している。ブラックホールを予言する研究などをしていたが、当初は特に原子力研究をしていたわけではない。
(オッペンハイマー本人)
 この映画は「広島・長崎の被害を描いていない」と批判的に紹介されたりして、日本公開が延びたと言われる。ただし、この作品のような「アカデミー賞最有力」の下馬評が高い映画は、賞の発表に合わせて公開されたことはあるだろう。だが配給会社が大手ではなく、『PERFECT DAYS』や『ドライブ・マイ・カー』などを配給したビターズ・エンドだったことは、大手は逃げたのかと思う。オッペンハイマーは投下に疑問を呈したが、後は政治の権限だとトルーマン大統領は取り合わない。現場を見てもいないオッペンハイマーを描く映画で、広島・長崎の現場が出て来たらかえっておかしい。

 公開日が同じで世界的に大ヒットした『バービー』とは、賞レースで大きな差が付いた。見れば一目瞭然で、完成度が違う。『バービー』は作者(グレタ・ガーウィグ)のフェミニストとしての世界観が前面に出ている。そこが興味深いけれど、完成度を低くしたのは間違いない。アート作品は社会的、政治的主張をナマに行う場ではない。(ナマで政治的主張をする作品もあってよい。)クリストファー・ノーランがこの映画で被爆者の苦悩に踏み込んだら、作家が「神の位置」に立って世界を上から俯瞰することになる。そういう作品を求めてしまうことで、日本のアートはどれほど貧しくなってきたことだろう。
(ルイス・ストローズ=ロバート・ダウニー・Jr.)
 今までノーラン監督はつい俯瞰的に世界を見てしまうことが多かった。この映画でも主人公が知らない出来事(裏の政治事情)も描かれるが、それらは最小限に止まっている。オッペンハイマー本人に密着して語るが、彼の複雑な生涯を幾つものピースに分け再構成している。見る側はそれを自分で道筋を付け、オッペンハイマーを通して自分の世界観を作らざるを得ない。これはノーランが慎ましく語ったということじゃないと思う。表現は大仰だし、演出もけれんみたっぷり。ただ俯瞰的に描くとあまりにも長大な作品になってしまい、これ以上の情報を詰め込めなかったのではないか。それが逆に功を奏したのである。
(クリストファー・ノーラン監督)
 この映画の原作は、カイ・バード、マーティン・J・シャーウィンによるノンフィクション『オッペンハイマー 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』(American Prometheus: The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer)で、ハヤカワ文庫から上中下3巻で出ている。あまりにも長いので読む気はないけれど、2006年にピューリッツァー賞を受賞している。原題にも邦題にもあるように、彼の生涯は「栄光と悲劇」に彩られている。原題の「プロメテウス」とはギリシャ神話で「天界の火を盗んで人類に与えた神」である。それに怒ったゼウスは女性パンドラを地上に送り込み人類に災厄がもたらされた。

 オッペンハイマーは「災厄」を人間界にもたらしてしまったことを悔いて、水爆開発に反対したため原爆開発に成功した「栄光」は失墜する。オッペンハイマーを取り上げた時点で、核兵器の悲惨がテーマになるのである。ただし彼は決して組織者として優れていると評価されていたわけではない。語学にも秀で、芸術にも関心があった。30年代の青年の常としてソ連の社会主義にも強い関心があった。ユダヤ系としてナチスドイツに危機感を持っていた彼を原爆開発(マンハッタン計画)の責任者に抜てきしたのは、米軍としても賭けだった。思わぬことに、そこから組織者としての才能が発揮されたのである。

 原爆開発や「成功」の描写も興味深いが、それ以上に戦時中から張りめぐらされていた、彼をめぐる網の目のような罠の数々が印象的だ。彼は原爆開発でノーベル賞を得られると思っていた。ダイナマイトの発見者ノーベルが創設した賞なんだからと言っている。だが幾重もの秘密に閉ざされた軍事研究では、新発見をしても論文を書けないから受賞は出来ない。現代の日本でも「軍事研究」の是非が問われているが、政治に関わることがいかに恐ろしいかをこの映画がまざまざと示している。それこそが最大の教訓ではないか。原爆の惨禍を見た人類は二度と戦争をしないという彼のナイーブな発想は完全に裏切られてしまったのだ。
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傑作犯罪映画『ラインゴールド』、ドイツの獄中ラッパー!

2024年04月11日 20時35分55秒 |  〃  (新作外国映画)
 『モンタレー・ポップ』を見る前に、ドイツのファティ・アキン監督の『RHEINGOLD ラインゴールド』という映画を見ていた。これがものすごく面白くて是非紹介したい。この映画はジャンルとしては犯罪映画だが、主人公が獄中でラッパーとして成功してしまうという展開が興味深い。これは実話だそうで、主人公の前半生を描く。その後はドイツ人なら誰でも知っているから描かなかったという。日本じゃ全然知らないけど、そんな人がいたのである。題名の「ラインゴールド」はワグナーのオペラ「ニーベルンゲンの歌」にある曲の名前で、「ラインの黄金」の意味。黄金をめぐる犯罪映画と音楽映画に掛けてあるんだろう。

 ファティ・アキン(1973~)はトルコ系ドイツ人で、その出自をテーマにした映画で知られてきた。『愛より強く』『そして、私たちは愛に帰る』『ソウル・キッチン』 『女は二度決断する』などで、若くしてカンヌ、ヴェネツィア、ベルリンの三大映画祭で受賞したことで知られた。しかし、それら社会性が強い作風の作品は、特にヒットしたわけじゃない。しかし、今回の映画はドイツで大ヒットしたという。確かにすごく面白くて、背景に社会性はあるものの、今回は娯楽に徹した感じの作風である。物語がどんどん展開して、飽きる間もなくスピーディに進行するので目が離せない。
(ファティ・アキン監督)
 主人公ジワ・ハジャビはイラン生まれのクルド人で、冒頭は1979年。つまりイスラム革命の年である。彼の父は有名な作曲家で、コンサートで指揮していたところに革命派が乱入して、音楽は反イスラムで止めろという。反論した客は撃たれて死に、客たちは逃げ出す。母はヴァイオリニストとして一緒にいたが、二人はともに逃げる。しかし、革命派はクルド人勢力を攻撃し、妊娠中だった母は一人でジワを産んだ。その後、子どもを連れて、何とイラン・イラク戦争中にイラクに脱出、スパイと疑われて逮捕され拷問される。だから、ジワの最初の記憶は監獄だった。やがて父は有名な作曲家と知られ、フランスへ出国することが認められた。

 フランスからドイツへ(音楽ホールが多いと聞いて)移って、ドイツで難民となった。ジワもピアノを習い始めたが、父はコンサートを成功させた後で愛人のもとに奔った。ジワはピアノをやめ、ストリートでつるむ麻薬売人となった。他のグループにボコボコにされたのをきっかけにボクシングを始め、復讐に成功した。そのためクルド語でガター(危険なやつ)と呼ばれるようになった。逮捕状が出てオランダに逃げるが、知人が叔父を紹介してくれる。その人は実はマフィアの頭で、彼には良くしてくれる。タテマエでは音楽学校に通いながら、ジワは本格的な犯罪者になっていく。
(ジワ)
 その後、大きなしくじりがあって(そのエピソードは笑える)、借金を負ってしまった。そこで情報をもとになんと死体から金歯を取って運ぶ車を襲撃することになる。その犯罪が上手く行くのかどうかが見どころだが、思わぬことから発覚して世界中を逃亡する。ドイツと犯罪者引き渡し条約を結んでない国を探して、2010年に(内戦直前の)シリアに逃げる。そこでアサド政権に逮捕され拷問されるが、結局ドイツに護送されてしまう。こうしてドイツの囚人となったが、もともと音楽の才能に恵まれていた。そんな彼が何故獄中でラッパーになれたのか。日本の刑務所と違う驚きの展開である。
(獄中でラップを吹き込む)
 その間女性には純情で、幼なじみのシリン(イラン人)にずっと熱を上げているが、犯罪者のジワにシリンは冷たい。その恋がどうなるかも興味深い。映画としては、犯罪実行シーンが一番面白く見ごたえがある。そのスリルが受けたんだろう。もともとラップを作っていたが、獄中で作れてしまうのがすごい。それにしてもイラン・イスラム革命はとんでもない災厄だったことが判る。帝政イランには問題も多かったが、少数民族のクルド人でも作曲家として活動出来たのである。ドイツの中東難民事情も垣間見ることが出来るが、やはりいろいろと大変そうである。ただこの映画はそういう社会問題を訴えるよりも、疾走するアクション映画になっている。まあ、僕には次に見た60年代ロックほどラップには熱くなれなかったけど。
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記録映画『美と殺戮のすべて』、薬害と闘うアーティストの生涯

2024年04月03日 20時41分22秒 |  〃  (新作外国映画)
 『美と殺戮のすべて』(All the Beauty and the Bloodshed)という映画が公開された。あまり知らないと思うけど、2022年のヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞作である。ヴェネツィア映画祭と言えば、黒澤明『羅生門』や北野武『HANAーBI』に最高賞を与えるなど世界への目配りで知られてきたが、近年は翌年のアカデミー賞狙いの映画が集まる傾向が強い。『シェイプ・オブ・ウォーター』『ROMA』『ジョーカー』『ノマドランド』などである。23年の金獅子賞も『哀れなるものたち』だった。ところが、2022年は『イニシェリン島の精霊』『ター』『ザ・ホエール』などを押えて、ドキュメンタリー映画が受賞したのである。

 ローラ・ポイトラス監督の『美と殺戮のすべて』は、驚くほど鮮烈な傑作だ。内容はアングラ系アーティストであるナン・ゴールディン(Nan Goldin、1953~)の生涯を追いながら、薬物中毒を引き起こした製薬会社を告発する近年の活動に密着している。日本ではあまり知られてない題材、人物なので、観客にアピールする要素が少ない。公開も2年遅れたが、これは見逃すにはもったいない映画だ。しかし、2週目からはもう上映時間も少なくなっている。ヴェネツィアでは最高賞を得たが、米アカデミー賞では長編記録映画賞ノミネートで終わった。受賞作は『ナワリヌイ』だったが、同じように刺激的だ。
(抗議するナン・ゴールディン)
 冒頭はメトロポリタン美術館である。そこに人々が集まっている。絵を見に来たのではない。人々は幕を広げ、池に何か(薬の空きビン)を投げ込み、スローガンを発する。多くの人々が中毒死して社会問題になっているオピオイド鎮痛剤。その「オキシコンチン」を作っている会社のオーナー、サックラー一族は美術館の支援で知られ、メトロポリタン美術館にもサックラーの名が付いた部屋があった。集まった人々はサックラー家を非難し、寄付金を受け取る美術館にも責任があると声を挙げたのである。
(ルーブル美術館前の抗議活動)
 そこから運動の中心になっているナン・ゴールディンの人生を振り返る。それが凄まじく、目を奪われてしまう。11歳の時、18歳の姉が自殺してそれが大きな衝撃となった。姉は同性を好きだと妹に告げていたが、両親は彼女を理解出来ず精神病院に送ったのである。そして彼女も養女に出されてしまう。その体験からセクシャル・マイノリティの人々と暮らす「拡大家族」を好むようになり、写真や映像などで彼らを記録するようになった。ニューヨークのゲイ、トランスジェンダーの文化を描く『性的依存のバラード』が話題になった。僕は知らなかったのだが、ナン・ゴールディンは有名な前衛アーティストだったのである。

 しかし、彼女の友人たち、写真のモデルになった人々は多くが亡くなってしまった。エイズである。そして、やがて病気になった彼女は鎮痛剤を処方され、オピオイド中毒になってしまう。何とか立ち直った彼女は、薬害を告発するPAINという団体を作り、抗議活動を始めたのである。この薬物中毒のことは全米で50万以上が亡くなり、大きな社会問題になっている。そのことは知っていたが、ナン・ゴールディンとこの抗議活動をのことは知らなかった。彼女の数奇な人生と現在の抗議活動が交互に織りなされ、非常に興味深く、深い感慨を覚える映画になっている。この映画はナン・ゴールディンの姉に捧げられている。
(ヴェネツィア映画祭のローラ・ポイトラス監督)
 映画を作ったローラ・ポイトラス(1964~)は『シチズンフォー スノーデンの暴露』(2014)でアカデミー賞を受賞している。アメリカの外交文書を暴露したスノーデンを追ったドキュメンタリーである。この映画に関しては『スノーデンを扱った2本の映画』で紹介した。アメリカの暗部を告発する映画を作り続ける勇気ある女性監督である。奇しくも直前に紹介した『戦雲』の三上智恵監督と同年生まれである。薬害告発とともに、20世紀のゲイ・コミュニティやアートに関心がある人にも是非見て欲しい映画。
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フランス映画『12日の殺人』、ある未解決事件を追う

2024年03月23日 20時44分17秒 |  〃  (新作外国映画)
 昔の映画を見ることが多いのだが、最近の新作ではフランス映画『12日の殺人』がなかなか面白かった。フランスを代表する映画賞セザール賞の作品賞を2022年度に受けた作品である。2023年度の作品賞はこの前書いた『落下の解剖学』だった。二つの映画はともにフランス東部のグルノーブルが舞台で、「事件」をめぐる物語という共通点がある。しかし、後者が「法廷映画」なのに対し、こちらは「警察捜査映画」になっている。実際に起きた事件をモデルにして舞台を移したらしい。

 題名通り、事件は12日に起きる。10月12日の深夜、パーティーから帰る途中で女子大生クララが何者かにガソリンをかけて火を付けられた。グルノーブル近郊の山間の住宅地である。そのとき警察では、引退する殺人捜査班長の送別会が開かれていた。新しく班長に昇格したヨアンにとって、初めての大事件である。被害者の身元はすぐに判明した。被害者のスマホが無傷で残っていて、鳴り出したからである。電話は親友のナニーからで、前夜はそこでパーティーをしていたのである。
(ナニーに聴取するヨアン)
 ナニーからクララが付き合っていた男性を聞き出し会いに行くけど…。男には他に本命があって、クララの方が勝手に熱を上げていたという。他にもいろいろと男の影が見えてきて、自ら「セフレ」という男もいる。高校時代に付き合っていた男は、クララを焼いてしまいたいというラップをユーチューブにアップしていた。さすがに心配になって自ら出頭して釈明する。その間に刑事側の事情も語られる。相棒のマルソーは家庭が上手く行かず、ずっと警察に泊まっていたので、ヨアンは自分の家に泊める。それでもマルソーの心は荒れてしまい、問題を起こして捜査から離れて行く。ヨアンは時々自転車で走り回って精神的安定を得ている。
(ヨアンとマルソー)
 様々な「容疑者」が現れながら、動機も判らず犯人は見つからない。そのまま時間が経って迷宮に入ったかと思われる時、ヨアンは女性の予審判事に呼び出される。3年目の命日が近づいた今こそ、この事件の再捜査を始めるべきだと言う。やり方としては、事件現場で張り込み、お墓にカメラを仕掛けることを勧められた。捜査班には今では女性刑事も入っている。張り込んでいると両親が現れるが、他には誰も来ない。一方、墓のカメラからは謎の男が現れて歌を歌うシーンが撮れていた。この男は一体何なのか? 
(予審判事)
 この映画では真相が判明して見る者がスッキリする結末は与えられない。捜査側は男性ばかりだが、被害者は女性である。事件は被害者に対する恨みなのか、それとも女性一般に対するヘイトクライムなのか。この映画は2013年に起きた事件を取材したノンフィクションの映画化だという。日本との司法制度の違いもあるが、被害者家族に伝える苦労などは同じである。捜査側から描いた物語だが、どういう経過をたどるのか見入ってしまう。人間心理を描く意味では『落下の解剖学』の方がすごいけど、フランス社会や女性に対する犯罪を考える意味では『12日の殺人』が興味深かった。
(ドミニク・モル監督)
 監督のドミニク・モル(1961~)は、前作『悪なき殺人』を撮った人である。その映画は見てるけど、書かなかった。あまりにも入り組んだストーリーがちょっとご都合主義的に関連している感じがしたからである。今まで『ハリー、見知らぬ友人』(2001)や『マンク 〜破戒僧〜』(2011)という映画などが公開されているというが、全く記憶にない。セザール賞監督賞を『ハリー、見知らぬ友人』と『12日の殺人』で受賞している。確かな演出力を感じるが、女性の目で捜査に進展があるという観点が犯罪映画としての新味である。見て楽しいだけの映画じゃないが、見ごたえは十分だった。
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映画『落下の解剖学』、カンヌ最高賞の法廷ドラマ

2024年03月08日 22時17分25秒 |  〃  (新作外国映画)
 フランス映画『落下の解剖学』(Anatomie d'une chute)が公開された。2023年のカンヌ映画祭でパルムドールを受賞した作品である。ジュスティーヌ・トリエ監督は日本初公開なので、名前を知らなかった。しかし見事な演出力で、カンヌ映画祭史上3人目となる最高賞獲得女性監督となった。「解剖学」という題名だけど、別に死体解剖の話じゃない。確かに死者は出て来るが、死者を中心にした人間関係を「解剖」するという意味だろう。雪に囲まれた山荘で、男の転落死体が発見される。それは事故か、自殺か、他殺か。大人は妻の女性作家しかいないので、他殺なら彼女が犯人だろう。疑われて起訴され、法廷ドラマになる。

 妻のサンドラはドイツ人で、ザンドラ・ヒュラーが演じている。非常に見事な演技で、米アカデミー賞の主演女優賞にノミネートされているほどだ。同じ年のカンヌ映画祭グランプリ『関心領域』でも主演していて、2023年のカンヌは彼女の年だった。『ありがとう、トニ・エルドマン』(2016)で、ヨーロッパ映画賞の女優賞を獲得した人である。1978年、東ドイツ(当時)に生まれ、ベルリンで演劇を学んで舞台に立った。この映画ではフランス人の夫と結婚してフランス語を話すが、ドイツ語が出来ない夫と深い話をするときは英語を使う設定。独英仏語を駆使できるんだから、今後世界的に引っ張りだこになるだろう。
(サンドラと夫)
 夫のヴァンサン(スワン・アルノー)は少し変わっているように見える。冒頭で妻がインタビューに応じている時、上の部屋にいる夫が音楽を大音量で鳴らし始める。下の階でも会話が困難になるほどで、明らかにおかしい感じがする。二人の間には一人っ子ダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)がいて、最初は気付かないがこの子は視力障害がある。この家では犬を飼っていて、ダニエルが犬と散歩して帰ると、父親の転落死体を見つけた。夫の大音量音楽はいつものことなので、妻は耳栓をしていたから気付かなかったと言う。(犬の本名は「メッシ」という名前らしい。カンヌ映画祭でパルムドッグ賞を受賞した。)
(法廷のダニエル)
 この子どもと犬が見事。ダニエルは11歳だが、当時の家にいたのはサンドラを除けば彼だけだから、証言に立つことになる。いろいろ検察側、弁護側が立証した後で、ダニエルがもう一回証言したいと言い出して、結審後に特別に証言を許される。一体何を語るのだろうか。その中身や評決結果を監督はザンドラ・ヒュラーに教えずに撮影したという。だからどういう結末になるのか、本人も不安な状態で撮影に臨んだのである。法廷では夫婦間の様々な事情が明かされ、ダニエルが障害を受けた事情も説明される。カメラは法廷の彼女をクローズアップして微細な感情まで写し取る。素晴らしい演出、演技で、緊迫した見事な出来映えだ。
(ジュスティーヌ・トリエ監督)
 欧米で高く評価され、フランスを代表するセザール賞を作品、監督、主演女優、助演男優、脚本、編集の6部門で受賞した。ヨーロッパ映画賞でも作品、監督、脚本、女優賞などを受けた。そして米アカデミー賞でも作品、監督、主演女優、脚本、編集賞でノミネートされている。(今年は『オッペンハイマー』『哀れなるものたち』『バービー』『関心領域』など主要作品が脚色賞に含まれたため、オリジナル脚本賞をこの作品が受賞する可能性もある。)こうしてみると、特に監督、脚本、編集、そしてザンドラ・ミュラーが高く評価されている。それは理解出来るが、好き嫌いとしては微妙かも。(実際に受賞した。)

 カンヌ受賞作ですでに日本公開されているのは、『枯れ葉』『ポトフ 美食家と料理人』『PERFECT DAYS』『怪物』。これらと比べてみて、『落下の解剖学』が明らかに優れているとは言えないと思う。審査員の好みも大きく影響したのではないか。法廷ドラマとして緊迫感はあるが、日本とフランスの裁判制度の違いなのか、起訴そのものが理解不可能なところがあると僕は思う。そこを書いていくと内容に大きく触れざるを得ないのでここまでとするが。

 ジュスティーヌ・トリエ(1978~、Justine Triet)は2010年に長編第一作を発表、今作が5作目になる。他に短編もあるが、日本では劇場公開されなかった。海外で多くの女性監督が活躍しているのに驚くほどだ。その見事な演出と演技は見ておく価値がある。
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映画『瞳をとじて』、ビクトル・エリセ31年ぶりの新作

2024年02月19日 22時16分15秒 |  〃  (新作外国映画)
 映画『瞳をとじて』はスペインのビクトル・エリセ監督(1940~)の31年ぶりの新作長編映画である。いやあ、わが人生でもう一回エリセの新作が見られるとは思っていなかった。映画ファンにとって、これは「事件」と言うべきだ。とはいえ、何とこの映画は169分もある長い長い映画である。ビクトル・エリセ、お前もか!と言いたくなる。何でこんなに長いのかと困惑するが、見たら長さは全く気にならなかった。とても興味深く見られる映画だったが、じゃあ出来映えはどう評価するべきだろうか。

 冒頭で「パリ1947年」と出る。「悲しみの王」と呼ばれる古びた洋館で、あるユダヤ人男性が病に冒されている。彼はアメリカ人探偵を呼び寄せて、かつて上海でもうけた娘を探して欲しいと頼む。中国人の妻が娘を連れて去ってしまったという。そして娘の写真を見せるのである。(中華人民共和国の建国は1949年だから、1947年はまだ革命前の国共内戦中で人捜しも可能だろう。)と、そこでフィルムが途切れる。実はその映画は1990年に撮影していた映画の冒頭部分だったのである。探偵役の俳優フリオ・アレナス(ホセ・コロナド)が失踪してしまい、映画は中断せざるを得なくなった。
(ヴィクトル・エリセ監督)
 テレビ番組「未解決事件」でこの失踪事件を取り上げることになり、監督のミケル・ガライ(マノロ・ソロ)がフィルムを担当ディレクターに見せていたのである。ミケルはこの失踪事件もあり結局映画監督を引退し、作家となって賞を受けた。しかし、今は離婚して海辺の小さな村に住み、時には漁師をしたりして暮らしていた。テレビに協力するため、久しぶりにマドリードに来たのである。失踪後にフリオの車が海辺で見つかり、遺体は見つからなかったが自殺したと思われてきた。理由が判らず、関係者には今も気に掛かる出来事だった。このテレビ番組は2012年という設定。
(海に出るミケル)
 フリオには娘アナがいたが、テレビには協力していないという。一度話してくれないかと頼まれ、ミケルは久しぶりにアナに連絡してプラド美術館のカフェで会う。アナはプラド美術館で外国人向けの説明員をしているという。このアナを演じているのが、アナ・トレントなのである。言うまでもなく、エリセ監督の1973年作品『ミツバチのささやき』に同名少女役で出演した人である。7歳だった少女は半世紀経って、再びアナという役を演じた。『ミツバチのささやき』は日本では1985年に公開され、その時の驚きは未だに新鮮である。それにしてもエリセ監督は「アナ」に取り憑かれた映画人生だったのか。
(アナとミケル)
 ミケルは古本屋で自分が昔好きだった女性に贈った本と巡り会う。ミケルとフリオは軍隊で出会って友人となり、同じ女性を好きになった関係でもあった。テレビ出演は自分の青春時代を思い出すきっかけになった。ミケルは昔の恋人にも再会し、アナにも会った。アナはテレビにはやはり出ないと言うので、ミケルは村へ帰る。そこでは友人たちと犬との暮らしが待っていた。そしてテレビ放映の日が来て、彼は食堂にテレビを見に行くが途中で帰って来てしまう。このように展開するのだが、映画は後半になって驚くべき展開を見せる。テレビ放映を見たある高齢者施設職員がフリオに似た人がいると連絡してきたのである。

 ミケルはすぐにその施設に出掛けていき、謎の人物に会ってみる。連絡してきた女性職員は、その人は3年前に熱中症で倒れていたといい、その時には記憶喪失だったという。だが、実は証拠になるかもしれないものをその人は持っていたとも言う。ミケルはアナを呼び寄せて会わせてみる。そこで再び彼女は半世紀前と同じセリフを語るのである。ラスト近くの詳しい展開は省略するが、この映画は『ミツバチのささやき』を見ていないと、良く伝わらない部分があるのではないかと思う。
(『ミツバチのささやき』)
 映画史的記憶が見る者の個人的記憶をも呼び覚ます。どうやらそんな映画であるらしい。僕には失踪した友人はいないけど、何年も会ってない人はたくさんいるから、何だか思い出しながら見てしまった。僕は全然退屈しないで長時間の映画を見たのだが、どうやら出来映え的には過去に捕われすぎかなと思った。僕みたいに高齢映画ファンはいいけど、これが初のエリセ作品だという若い人は面白さを感じられるだろうか。そこに疑問も残るが、何にしても見逃せない映画だ。

 ビクトル・エリセは生涯で『ミツバチのささやき』(1973)、『エル・スール』(1982)、『マルメロの陽光』(1992)しか長編映画を作らなかった。オムニバス映画の短編映画は4作あるが、これら4つの長編映画で映画史に残るだろう。『ミツバチのささやき』『エル・スール』は今回も参考上映されているので、今後も見る機会があるだろう。楽しいとか面白いという以上に、心の奥底が深く揺さぶられるような映画である。恐らく最後のビクトル・エリセ作品だろうから、是非頑張って見たい映画だ。
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映画『コット、はじまりの夏』、アイルランドの「静かな少女」

2024年02月15日 20時41分04秒 |  〃  (新作外国映画)
 『コット、はじまりの夏』という映画を見たのはちょっと前のことだ。時間が経ってしまったけど、何だか心に残っているのでやはり書いておきたい。アイルランドの映画で、2022年度の米国アカデミー賞国際長編映画賞にノミネートされた。これは同国初だという。またベルリン映画祭の国際ジェネレーション部門でグランプリを受賞している。

 アイルランドの農村地帯に住む一家の物語である。1981年の話らしいが、それはインターネットの情報による。一家は横暴な父が支配していて、9歳の少女コットキャサリン・クリンチ)は親にもなかなか心を開けない。学校でも孤立しているようで、友人と遊ぶこともない。英語題が「The Quiet Girl」で、まさにおとなしく静かな少女である。別に傷害があるとか、いじめられているとかではなく、ただ内気なのである。父母に加えて、年の離れた姉もいて、自分のペースで話すことが出来ないのである。
(コット)
 その年の夏、母は妊娠していてコットを構うことが難しい。母親のいとこ夫婦が預かっても良いと言うことで、夏休みの間だけやはり農家のアイリンショーンの家に行くことになった。厄介払いみたいなもんだけど、コットはおとなしく従う。その家には子どもはなく、夫婦は親切に受け入れてくれる。やがて牛の世話も手伝えるようになり、コットもなじんでくる。アイリンは「わが家には秘密はない」と言って、何でも困ったことはしゃべってくれるように言う。子供服がないので、一緒に町まで買いに行ったりする。そんなひと夏の愛おしい一瞬一瞬を美しい映像で記録した映画である。
(コットとアイリーン)
 ところが実はその家には悲しい「秘密」もあったのである。コットがその事を知ることで、預かってくれている夫婦と心が通ってくるのである。アイルランドの美しい自然の中で、コットの「はじまりの夏」を描くだけの映画。それだけなので、大きな社会的テーマがあるわけじゃない。欧米では子どもも皆独立心旺盛で自己表現に優れているなんてことは、やっぱりないのである。内気でおとなしい少女はやっぱりいるんだけど、誤解されやすいのである。夏休みも終わるので家に戻るというとき、コットも初めて自分の気持ちを全開にする。それが見る者の心を打つ。
(コルム・バレード監督)
 子どもの眼で描くある夏の日々。それだけの映画である。いじめも虐待もないけど、がさつで口うるさい父親のもとで、静かに生きていた少女。コットという少女が、とてもいじらしく忘れがたいのである。ドラマというほどのドラマもない映画だが、何十年も経ってからもコットはこの夏を覚えているだろう。監督・脚本は1981年生まれのコルム・バレードという男性である。短編映画やドキュメンタリー映画を作った後で、初めての長編劇映画としてこの映画を作った。コットは芯が強いけど、表面上おとなしいから、心の中を周りが気づけない。こういう子どもっているなあと思った。「夏休み映画」はいっぱいあるが、こんな風に静かで心に沁みるような作り方も出来る。
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映画『哀れなるものたち』、異様な毒放つ破格の傑作

2024年02月06日 22時02分34秒 |  〃  (新作外国映画)
 2023年のヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を獲得した『哀れなるものたち』(Poor Things)が公開された。ギリシャ出身のヨルゴス・ランティモス(1973~)監督渾身の大傑作で、米国アカデミー賞でも作品、監督、主演女優など計11部門でノミネートされている。(最多は『オッペンハイマー』の13部門。)もう間違いなく破格の大傑作なのだが、では全員に是非見るべしと言うのはちょっと憚られるか。皮肉というレベルを遙かに超えた異様な毒を放つ映画なのである。だから見た後で「名作映画を見たなあ」という感慨に浸りたい人には向かないだろう。しかし、これほど刺激的な映画には滅多に出会えないと思う。

 ヨルゴス・ランティモス監督は今までも『ロブスター』『女王陛下のお気に入り』など、毒のある変な傑作を作ってきた人ではある。そんな監督が『女王陛下のお気に入り』の次回作として5年ぶりに作ったのがこの作品。アラスター・グレイ(Alasdair Gray、1934~2019)という作家の作品が原作になっている。日本ではほとんど翻訳されていないが、この作品はハヤカワ文庫epiから翻訳が出ている。Wikipediaを見ると、A・グレイはスコットランド出身の非常に重要な作家として評価されているという。原作は読んでないけど、「毒ある設定」のほとんどは原作由来のようである。
(ゴドウィン・バクスター博士)
 19世紀のロンドンに異常までの才能を持つ外科医ゴドウィン・バクスターウィレム・デフォー)博士がいた。彼は動物の脳移植に成功するほどだったが、ある時投身自殺した女性の脳に胎児の脳を移植して再生させることに成功した。ベラ・バクスターエマ・ストーン)と名付けて育てるが、何しろ体は成人女性なのに脳が子どもなのである。教え子マックス・マッキャンドレスにベラが日々成長する様子を記録させると、やがてマックスは彼女に恋してしまった。体は大人のベラは性的快感に目覚めてしまってもはや歯止めがきかず、博士は二人を結婚させることにした。
(ベラの様子)
 ここら辺までモノクロで進行し、「前衛風フランケンシュタイン」なんだろうかと思うが、心配は無用である。その後は目くるめくカラー大冒険映画になっていく。結婚の書類を作るため、弁護士ダンカン・ウェダバーンマーク・ラファロ)を雇うと、ダンカンもベラにいかれてしまい、駆け落ちしようと持ち掛ける。成長を続け世界を見たくなったベラは申し出に乗り、リスボン、アレキサンドリア、パリを彷徨う。「礼儀」を身に付けていないベラは、常に「忖度なし」の言動を繰り返し、ダンカンを悩ませる。ついにはダンカンが船のカジノで大勝した金を、ベラがすべて貧民に寄付してしまう。
(ダンカンとベラ)
 ベラは今まで世界に貧富の差があることを知らず、真実を知ってしまった今では世界を変えなくては思う。だが無一文でパリに放り出されたベラには、自らの体を売る(=娼婦になる)以外の生き方は不可能だった。それは「19世紀イギリス女性」にとって絶対にあり得ない「不道徳」であるという「世間の通念」がベラには存在せず、彼女は「革命家の売春婦」になってしまった。その後博士の病気を知りロンドンに戻り、再びマックスと結婚することになると、今度は「自殺」前の前夫が現れ彼の館へ。ところがその夫がとんでもないDV男だった…。どこまでも波瀾万丈なベラの人生である。
(ヴェネツィア映画祭のヨルゴス・ランティモス監督)
 冒頭に原題を見た時、「Poor Things」なんだと驚いた。「哀れなる者たち」ではないのである。その事の意味に僕はようやくラスト近くで感づいたが、ここでは書かないことにする。表面的に見れば、この映画にはセックスシーンが多い。エマ・ストーンも全力で演じている。見せられるのは愛し合う二人が結ばれる美しいセックスではない。いつの間にか身に付ける「性的なことはあからさまに語らない」という「礼儀」をベラは身に付けていない。だから性的な言動が激しくなるのだが、それは決してエロティックではない。むしろ痛ましいと感じるが、ベラは全く気にしてないのである。

 ドイツ文学に「教養小説」(ビルドゥングスロマン)という概念がある。主人公があちこちを漂泊する中で成長する様子を描く小説で、ゲーテが代表的。日本の小説、あるいは物語全般にもそういう設定は多い。この『哀れなるものたち』もある意味、ベラの「成長」と「放浪」を描く「教養小説」的な構成になっている。だけど「マッド・サイエンティスト」の創造というSF的設定もあり、普通のリアリズムを越えている。その描き方も破天荒にすさまじく、一度見たら忘れがたい。「何も知らない」という設定を与えると、こんなに凄いことになるのか。同時に19世紀を再現した美術や衣装も素晴らしく、技術面の貢献も素晴らしい。

 ヨルゴス・ランティモス監督作品は、今まで『あまりに変な映画「ロブスター」』、『「聖なる鹿殺し」、再びの不条理劇」』、『傑作映画「女王陛下のお気に入り」』と3本をここでも紹介している。変な映画ばかりだが、間違いなく今の世界でもっとも才能にあふれた監督だ。好き嫌いはあるかと思うが、真ん中辺りまで見ればこれは凄い映画だと目を見張って見続けることになるだろう。
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香港映画『燈火(ネオン)は消えず』、懐古の中にある抵抗

2024年02月03日 22時36分08秒 |  〃  (新作外国映画)
 香港映画燈火(ネオン)は消えず』を見て、こういう作り方もあるなと思った。この映画は滅びゆく「ネオン」技術者の哀歓をテーマにしている。昔から香港の夜景は有名で「100万ドルの夜景」などと呼ばれていた。それは数多くのネオン広告によるところが大きかったが、21世紀になってからどんどん無くなっているという。映画の中で過去の香港が出て来て、現在と比べ昔はこんなに美しかったと慨嘆するシーンがある。「ネオン」の話なんだけど、見る側はそこに政治的な暗喩を感じずにいられない。

 新人女性監督アナスタシア・ツァンのデビュー作で、主演女優シルヴィア・チャン金馬奨(台湾で行われる中華圏全体を対象にした映画賞)で主演女優賞を受賞した。腕利きのネオン職人だった夫ビル(サイモン・ヤム)が亡くなり、妻のメイヒョンシルヴィア・チャン)は途方にくれる。そのうち閉めたはずの夫の仕事場がまだ残っていることに気付く。訪ねてみると、そこには最後の弟子を名乗るレオが住み着いていた。レオはビルの死を知らず、師匠が消えたと嘆いていた。
(ビルとメイヒョン)
 レオはメイヒョンが現れ一緒に最後の仕事に取り組もうとする。しかし、娘のチョイホンはもう香港を捨て婚約者とともにオーストラリアに移住したいと思っている。だから父親の服もリサイクルに出してしまうが、メイヒョンとレオはなんとか服を見つけ出しスマホを回収する。その間にネオン広告をどんどん撤去しようとする行政の動きや、ビルが作ったナショナル(松下電器)の広告塔が世界一大きいとギネス登録されたなどのエピソードが語られる。(ビルは架空の人物だが、香港のネオンがギネスブックに載っていたのは確からしい。)しかし、お金が続かず追い込まれていくが、レオは「クラファン」をしようと言い出す。
(メイヒョンとレオ)
 最後の仕事として頼まれていたのは、広告じゃなかった。「思い出のネオン」の再現だった。そして、二人はその仕事に全力で取り組むのだった。ところで、ネオン職人の仕事とは結局はガラス細工職人ということらしい。ガラス管を高熱の炎で熱して曲げていって表現したい字体の形にするのである。そこに気体のネオンを入れて電気で発光させる。そこにいろんな物質を混ぜることで、様々な色合いを出していくらしい。取りあえずベースとしてはガラス細工を完成させることが大事そうである。シルヴィア・チャンは金馬奨主演女優賞3回の大女優(にして監督、脚本家)だが、一生懸命ガラス管を曲げている。

 そう言えば「ネオン街」という言葉があった。昔は歓楽街のことをそう呼んでいたものだ。映画がカラーになって以来、数多くのギャング映画や恋愛映画で夜の街が背景に使われてきた。小津映画でも笠智衆や佐分利信などがバーに集うが、そのバーの名前もネオンだったろうか。「ネオン」は原子番号12,元素記号Neの物質で、1898年に発見された。1910年にフランス人技師クロードが新しい照明器具として発明したという。つまり、20世紀を代表する照明技術だろうが、ただネオンを懐かしむだけではダメだろう。日本人の技術で開発されたLED照明の方がエネルギー効率上、環境保護的観点から優れているんだと思う。
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映画『PERFECT DAYS』、隠された東京物語

2024年01月13日 22時38分49秒 |  〃  (新作外国映画)
 ヴィム・ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』。冒頭で男が目覚め、歯を磨き、缶コーヒーを買ってから車に乗る。背景にスカイツリーが見えているから東京東部である。首都高に乗って都心部に向い、降りると男は公園にあるトイレを掃除する。その間セリフはなく、タイトルも出てこない。一体これはドキュメンタリー映画なのだろうか。いや、もちろんこれは劇映画である。男を演じる役所広司カンヌ映画祭男優賞を受けたというニュースを知らずにこの映画を見る観客は一人もいないだろう。

 ヴィム・ヴェンダースは最近も多くの劇映画を作っているが、近年はドキュメンタリーの方が出来が良いかもしれない。『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(1999)、『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』(2011)、 『セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター』(2014)などで、日本未公開ながら前作も『Pope Francis: A Man of His Word』(2018)というフランシスコ教皇の映画である。そんなヴェンダースが日本のトイレをテーマにドキュメンタリーを撮っても全然おかしくない。
(カンヌ映画祭の役所広司)
 この映画は『パリ、テキサス』(1984)や『ベルリン 天使の詩』(1987)など最高傑作には及ばないが、なかなかよく出来ていて流れるように見られる。役所広司演じる男は「平山」と言うが、これは映画ファンならすぐ思い当たるように小津映画の主人公の多くに付けられた名前である。だから、この映画はヴェンダース版『東京物語』みたいなものだと思う。小津映画が表面上気持ち良く見られる裏側に多くの隠された事情があったように、この映画も「何が隠されているか」を探りたくなってくる。

 日本人から見ると不自然な点にこだわってもヤボというもんだろうが、一応いくつか書いておく。この映画は2023年5月のカンヌ映画祭に出品されているんだから、当然それ以前に撮影されている。しかし、日本で新型コロナが5類に移行したのは2023年5月の連休明けで、それまではほとんどの日本人がマスクをしていたはずだ。ところがこの映画では道行く人が誰もマスクはせず、それどころかトイレ清掃員の平山もマスクなしである。これは最近のトイレ清掃を見ていても考えられない描写だ。時には素手で掃除しているのもおかしい。ヴェンダース流の「もう一つの東京」を描いた映画なんだろう。
(渋谷区のトイレ)
 墨田区辺りから毎日のように高速で渋谷区のトイレ掃除に行くというのも、非常に不自然な設定だ。しかもトイレが素晴らしくキレイ。というか、そういうトイレ(有名建築家が設計している)を設置しているという事実が先にあり、その「宣伝」というか広報がもともと企画の始まりだという。ああいうトイレだと皆ちゃんと使うのか、どれもわざわざ掃除するまでもないぐらい。普通は何か「事件」があって、そこに「試練」がある。学園映画なら全員優等生みたいな設定じゃ詰まらないから、誰か問題を起こす生徒がいる。でもこの映画のトイレは誰も汚してないのである。

 もちろん現実の日本では、そんなにキレイなトイレだけではない。特に男性用なら、便座を立てたままで使用して汚れていることは多い。まるで「日本人はトイレを清潔に使い、そんなキレイなトイレも毎日精魂込めて掃除している」と言わんばかりだ。平山の生活も不可思議。昼にサンドイッチを食べて、夜に飲みに行く以外の食事はどうなっているんだろう。この平山の住む家のトイレはどうなんだろう? 夜間頻尿はないのか。浅草まで行くのに吾妻橋じゃなく桜橋(X字型の橋)を使うのも不自然だが、まあ「絵になる」んだろう。自転車の鍵は掛けるがそのまま置いて(何故か持っていかれない)、地下鉄浅草駅地下街の店の常連という設定は、余りに定番すぎて笑ってしまうぐらい。
(夜読書する平山)
 この平山の決まり切った日常を描いて少し退屈する頃合いに、平山をかき回す人物が現れる。そこで彼の人物像が少し明らかになるが、ケータイも持ってないのかと思ってたら、会社との連絡用に持っていたじゃないか。読んでいる本は古本屋で買うが、出て来るのはフォークナー『野生の棕櫚』、幸田文『木』、パトリシア・ハイスミス『11の物語』である。この選書センスは驚くほどで、要するに彼の過去は結構な学歴があるか、まあ学校は別にしても「文学青年」的だったのだろう。そして姪が家出してきて、妹がいることが判明する。父親との確執があったようだが、「平山の過去」はこの映画で「隠された」一番大きなものだ。

 この平山の暮らし方は、ある種の「隠者」というものだ。鴨長明や吉田兼好が林間に庵を結んだのと違い、現代では都会の「ボロ」家屋に隠れ住む。そして日々オリンパスのフィルムカメラ(僕も昔持っていた)を使って、「木漏れ日」を撮る。それが彼の「ゼン」(禅)であり、「サトリ」である、みたいな描き方だろうか。「足るを知る」シンプルライフは美しいとも言えるから、映画のキャッチコピーは「こんなふうに生きていけたなら」。だけど、僕はこういう風に生きていきたくはないのである。
(姪のニコと)
 役所広司は実は僕と同じ学年になる年齢で、会社員や公務員だったらもう定年である。政治家や会社経営者ならまだまだ現役かもしれないが、恐らく「自ら下りた人生」を送ってきた平山は、大した年金もないだろう。働かざるをえない経済事情があるから働いているのである。妹はお抱え運転手を伴って現れたから、生れつき貧困家庭に育ったのではなく、彼にも「経済的に恵まれた人生」はあり得た。そして、家族との関係もほぼ断っている。そういう人生も世の中にはあるわけだが、施設に入っている老いた父にも会いたくない人生というのは、僕が生きていきたい人生とは違う。

 この映画の魅力は使われている音楽である。それもカセットテープなのである。僕も知らなかった曲が多いが、調べればすぐに判るのでここでは書かない。また脇役というか、チョイ役みたいなところで、思わぬ人が出ている。クレジットを見るまで気付かなかった人(研ナオコ)などもいるが、これも自分で調べて欲しい。冒頭でアニマルズ「朝日のあたる家」が流れるが、平山行きつけの店のママがそれを日本語の歌詞で歌うシーンがある。この歌詞は浅川マキのもので、歌っているママは石川さゆり

 いろいろと調べていくとなかなか面白いし、ロケ地を訪ねた記事も一杯出て来る。まあ、一見の価値ある映画に違いないが、ただ感心して見ちゃマズいだろう。なお、役所広司はこういう「いい人」じゃなく、『シャブ極道』『うなぎ』『すばらしき世界』など犯罪者を演じる方がずっと凄い役者である。
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映画『ポトフ 美食家と料理人』、究極の美食映画

2024年01月12日 22時41分14秒 |  〃  (新作外国映画)
 フランス映画『ポトフ 美食家と料理人』は僕が見てきた映画の中でも極めつけの美食映画だ。「美食映画」なんてジャンルはないけど、料理が出て来る映画は多い。食事シーンにまで広げるなら、出て来ない映画の方が少ないだろう。しかし、日本の『土を喰らう十二ヶ月』なんかは、美食じゃなくて「粗食映画」という感じだった。それが悪いわけじゃないが、見てるだけで満腹する映画、美味しそうな香りが客席まで漂ってくるような映画としては、これがベストじゃないかと思う。

 ベトナム系フランス人監督のトラン・アン・ユンが2023年のカンヌ映画祭監督賞を受賞した映画である。監督はパリ育ちということだが、これほど完璧に19世紀末フランスを再現したのは驚き。原題は「La Passion de Dodin Bouffant」で、1924年の小説が原作だという。美食家で有名レストラン経営者のドダンブノワ・マジメル)という人物の料理への情熱を描いている。彼は今では森の中の館に住んでいて、料理人ウージェニージュリエット・ビノシュ)が彼のレシピを完全に実現するのである。冒頭から30分ぐらい、ドダンが友人たちを招く午餐会のシーンである。その間ずっと料理しているウージェニーたちをカメラは追い続ける。

 ある種のドキュメンタリー映画でもあり、最初はちょっとカメラがうるさく感じられるぐらい。キッチンのあちこちで進む調理過程を追うとともに、料理人の方も映し出す。そこで作り出される料理の数々、舌平目のクリームソース、当時創作されたばかりのパイ詰め、仔牛や鶏、ザリガニや数々の野菜などの食材、ハーブやスパイス各種が完璧に再現される。三つ星レストランのシェフ、ピエール・ガニェールが監修していて、実際に作って実際に食べている。多くの料理映画では、レストランを開くとか、なんとか客を増やしたいとかのドラマの方がメインである。しかし、この映画は実際に美食を作って食べること自体を描くのである。

 もちろんドラマがないわけじゃなく、一つはドダンとウージェニーの関係。20年以上料理を続けていて、二人の間には愛情が芽生えている。ドダンは今まで何度も求婚しているらしいが、自由でいたいウージェニーはやんわりと断り続けてきた。(もっとも性的関係は受け入れているようである。)ところで、ウージェニーは時々台所で具合が悪くなることがある。それを含めて二人の関係はどうなるのか。ウージェニーのジュリエット・ビノシュは三大映画祭すべてで女優賞を獲得した大女優だが、ドダンのブノワ・マジメルはそんな人いたなという程度。映画『ピアニスト』でカンヌ映画祭男優賞を得ている。この二人は1999年に『年下のひと』で共演した後で交際が始まり、女児まで生まれたものの破綻したという。そんな二人の息の合った名演である。
(ドダンとウージェニー) 
 もう一つが「ユーラシア皇太子」の晩餐会である。ユーラシアがよく判らないけど、多分原作にある架空の国なんだと思う。美食家の評判を聞いて是非招待したいとなり出掛けたが…。8時間にも及ぶ3部に分かれた大晩餐会。しかし、戻ってからドダン初め仲間たちは、やり過ぎで満腹しただけ、何もかも出すのでは真の美食家ではないという批判が飛び交う。そしてドダンは返礼の晩餐会を企画して、そのメインメニューを「ポトフ」にすると決める。フランスの大衆料理であるポトフは果たして晩餐会のメインになるのか。いろいろと試行してみるが、なかなかうまく行かない。そしてウージェニーが病床につくことになって…。
(トラン・アン・ユン監督)
 トラン・アン・ユン監督(1962~)ももう60歳を超えている。読み方は「チャン・アィン・フン」の方がより正しいらしいが、日本ではトラン・アン・ユンが確立しているだろう。12歳で戦争を逃れて両親とフランスに移住したという。1993年に『青いパパイヤの香り』でカンヌ映画祭で新人監督賞を受賞して一躍世界に知られ、1995年の『シクロ』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を得た。日本で公開された2作品は確かに魅力的だったが、作品数が少なく低迷感もあった。2010年に『ノルウェーの森』を監督している。今回の『ポトフ 美食家と料理人』は久方ぶりの会心作だ。

 中国とフランスに支配されたヴェトナムは世界屈指の美食の国だと言われる。そういう歴史も反映しているのかもしれない。料理映画としては、ジュリエット・ビノシュ主演の『バベットの晩餐会』が素晴らしいと思う。他にいろいろとあるが、美食度と調理過程をじっくり見せる点では、この映画が一点抜けていると思う。ただフランス料理のこってりした味わいやワインが苦手な人は見ていて大変かもしれない。僕も少し満腹し過ぎた感もある。『かもめ食堂』や『土を喰らう十二ヶ月』が懐かしくなるところもある。なお、モーツァルトに「絶対音感」があったように、料理に関しても「絶対味覚」があるらしい。深い味わいを出すスパイスが全部判るような舌を持つ人である。ホントかな。
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フィンランド映画『枯れ葉』、アキ・カウリスマキ節の復活

2023年12月25日 22時15分38秒 |  〃  (新作外国映画)
 別の映画を見に行って満員だったので、フィンランドアキ・カウリスマキ監督の新作『枯れ葉』を見ることにした。カウリスマキは前作『希望のかなた』(2017)の完成後に突然引退を発表した。もう新作は見られないものと思っていたが、また突然新作『枯れ葉』を作ってカンヌ映画祭審査員賞を受賞したのである。公開に合わせてユーロスペースで特集上映が行われたので、2本ほど見直してみた。ものすごく面白くて「アキ・カウリスマキ節」を満喫したが、構図が似ているので飽きる面はある。

 アキ・カウリスマキ初期の『パラダイスの夕暮れ』(1986)の「2.0」版が今作だと監督は言ってるらしいが、実際本当に似ている。底辺を生きる貧しい労働者、理不尽な社会、孤独な男女、酒とタバコ、不器用なラブロマンス、偶然による誤解や別れ、映画だけに許される再会。ヘルシンキの「場末」に生きる人々を暖かく見つめる眼差し。独特な音楽選び(日本の歌も良く出て来る)。ちょっと見れば、すぐにこれはアキ・カウリスマキ監督の映画だなと判る。それは小津安二郎の晩年の作品でも同じだが、変わることなく自分の世界を貫いている。今作も同じような感じなんだけど…。
(主演の二人)
 スーパーで働くアンサアルマ・ポウスティ)は賞味期限切れの食品を困ってる人にあげて解雇される。一方、工場労働者のホラッパユッシ・ヴァタネン)は酒浸りで、ウツ状態。仕事中も酒を止められず解雇される。二人はそれぞれ同僚とカラオケに行って(「カラオケ」はやはりフィンランドでもカラオケと言っている)、何となく知り合う。また偶然会って、映画を見て次も会うことを約束する。その時に女は名前を教えないが、電話番号を紙に書いて教える。観客だけが知っているが、その紙はポケットから落ちて風に吹かれて飛んでいく。二人がまた会える日は来るのだろうか。
(アンサと愛犬)
 二人の日常にはスマホもなく、テレビさえない。みんなタバコ吸いすぎだし、いつの時代の話だよと思うのも、いつもと同じ。だが今度の映画ははっきり時代が特定可能だ。それは2022年である。アンサが付けるラジオからいつもウクライナ戦争のニュースが流れているのである。恐らく監督はこの戦争で変わってしまったフィンランドを記憶に留めるため、そしてそれでも世界の片隅に小さな愛があることを示すため、この映画を作ろうと思ったんだろう。そして、その映画は世界に届いた。世界で高く評価されているのがその証拠だ。主演のアルマ・ポウスティはなんとゴールデングローブ賞の主演女優賞にノミネートされたぐらいである。
(監督と主演の二人)
 また映画ファンには嬉しい「トリビア」がたくさんある。二人が見に行く映画は、監督の友人でもあるジム・ジャームッシュのゾンビ映画『デッド・ドント・ダイ』である。それを見ていた観客がロベール・ブレッソンの『田舎司祭の日記』だ、いやゴダールの『はなればなれに』だなどと言い合っている。(あの映画はそこまで面白くないと思うけど。)他にも俳優の背景に映画のポスター(ゴダールの『気狂いピエロ』など)があるし、最後の最後に犬の名前で締めとなる。
(『トーベ』のアルマ・ポウスティ)
 隣国ロシアが起こした戦争の現実と、判る人だけ判る映画愛のこだわり。それでいて、いつのものようにアキ・カウリスマキの映画は短い。この映画はなんと81分だが、2時間の映画を見たような余韻が残る。主演のアルマ・ポウスティは「ムーミン」シリーズの作者トーヴェ・ヤンソンを描く『トーベ』でタイトルロールを演じた人である。この映画は見ていて、なかなか面白かったがここでは紹介していない。『枯れ葉』によって世界でブレイクしそうである。ユッシ・ヴァタネンはソ連との戦争を描く『アンノウン・ソルジャー 英雄なき戦場』(未見)に出ていた人だという。
(映画で歌うマウステテュトット)
 アキ・カウリスマキ監督の映画は、短くてもいつも時間以上に豊穣な世界に浸ることが出来る。その理由に音楽の使い方のうまさもある。登場人物は沈黙し、感情は音楽で伝える。この映画ではカラオケで同僚が歌う「秋のナナカマドの木の下で」、あるいは解雇されたホラッパが働き始めるシーンで流れるカナダのシンガーソングライター、ゴードン・ライトフットの「夜明け前の雨」(高石ともやが「朝の雨」として歌っている)などが大きな意味を持つ。また若い女性バンド、マウステテュトットが時々出て来てすごく印象的。この名前はフィンランド語で「スパイス・ガールズ」という意味だという。

 いくら何でもフィンランドだって、犬を病院の面会に連れて行けるだろうか。また病院の入口にスロープがなくて、階段だけってどういうことだ。(多分、そういうビルしかロケ地を見つけられなかっただけだと思うが。)外国映画を見てると、そういう不思議な描写に戸惑うことが多いが、ヘルシンキがこんなに寂れた町のはずがない。アキ・カウリスマキ監督の映画に出て来る町は、監督の世界ということなんだろう。なお、題名はもちろんシャンソン「枯葉」からである。
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映画『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』、スコセッシ監督の超大作

2023年12月23日 22時16分59秒 |  〃  (新作外国映画)
 マーティン・スコセッシ監督の超大作『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』を見て来た。もう東京のロードショー上映は終わっているが、柏のキネマ旬報シアターでやってるから見に行ったのである。レオナルド・ディカプリオロバート・デ・ニーロとスコセッシ作品おなじみの俳優が大熱演している。でも、なんと206分という長さが困る。まあ、アメリカ先住民の悲劇を描く大叙事詩だし、ゴールデングローブ賞で作品、監督、脚本、男女主演俳優、助演男優にノミネートされた。やはり見ておくべきか。

 アーネスト・バークハートレオナルド・ディカプリオ)という青年が第一次世界大戦から帰還してきた。彼はおじウィリアム・ヘイルロバート・デ・ニーロ)を頼って、オクラホマ州オーセージ郡にやってきた。(映画には「オセージ」と出るが、Wikipediaでは「オーセージ」じゃないと出てこない。)そこは先住民のオーセージ族の居留地だが、彼らは地下資源の権利を持っていたのである。1897年に初めて石油が出て、その後いろんな経緯があったらしいが、とにかく1920年代には先住民が非常に裕福となり、貧しい白人労働者が働くという全米的に見れば逆転した状況になっていたのである。
(ウィリアムとアーネスト)
 おじは自らを「キング」と呼ばせ、この地区の有力者になっていた。急速に金持ちになった先住民の中には、酒に溺れたり糖尿病など「生活習慣病」になる人が多かった。そこで白人たちが「後見人」となって、お金を管理していた。裕福な先住民の女性と結婚する白人もいて、アーネストも運転手として知り合った先住民のモーリーリリー・グラッドストーン)と親しくなっていく。リリー・グラッドストーンは先住民の血を引く女優だが、19世紀のイギリス首相グラッドストーンの遠い親戚でもあるという。ケリー・ライカート監督『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』で知られたというが、鮮烈な存在感を発揮している。
(アーネストとリリー)
 二人は結婚し子どもも生まれるが、その頃からリリーの周辺で不可解な事件が起きてくる。リリーの妹はすでに亡くなり、その次に姉が殺される。それらの事件は地元警察には手が余り解決の兆しがない。このような事件は現実に起こったもので、「オーセージ族連続怪死事件」の犠牲者は60人にもなるという。リリーの糖尿病も悪化し、世界で5人しか使えないというインスリンを取り寄せていた。だが、ちっとも効果が出ないことに、苛立ちを強めていく。疑心暗鬼が渦巻く中で爆発事件がおき、部族協議会はワシントンに使節を送ることを決める。そして後のFBIにあたる司法省捜査局がやって来たのである。
(アーネストとリリー)
 その後は法廷ミステリー的な展開になるので、書かないことにする。この事件を日本で知る人は少ないだろう。デヴィッド・クラン『花殺し月の殺人 インディアン連続怪死事件とFBIの誕生』というノンフィクション作品が原作である。日本でも早川書房から翻訳が出ている。原書は2017年に出てベストセラーになったという。邦訳は翌年に出ているが、読むどころか知っている人も珍しいと思う。自分も全く知らなかった。そもそもオクラホマ州は本来先住民のための地区だった歴史があり、オーセージ族以外にも多くの居留地がある。現在は先住民に特別に認可されているカジノが多い地域になっているようだ。「花殺し月」というのは先住民の暦で5月を指す言葉だという。4月にお花畑が咲き誇り、5月に枯れるからという。
(監督と主演者)
 この映画はスコセッシ作品の『グッド・フェローズ』や『アイリッシュマン』と構図が同じ。自分を守るために法廷で司法取引に応じるかどうかというテーマである。それは遠藤周作原作の『沈黙』を映画化したことでも判るように、「裏切りとは何か」が終生のテーマなのだろう。しかし、それにしても長すぎると思う。製作会社側は休憩を取らずに上映することを求めていて、ヨーロッパでは休憩を入れたために契約違反に問われたという。だけど、3時間半近く拘束するなら、もっとキビキビした展開が必要だ。力作ではあるが、賞レースではノミネート止まりになる気がする。ラストで後日譚がラジオドラマの公開放送で示されるのは新工夫。なお、2023年8月に亡くなった音楽担当のロビー・ロバートソンに捧げられている。
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映画『マエストロ』、レナード・バーンスタインを描く傑作

2023年12月15日 22時18分30秒 |  〃  (新作外国映画)
 『マエストロ: その音楽と愛と』という映画を一部映画館で上映しているけど、知らない人が多いと思う。これはブラッドリー・クーパー監督がアメリカの大音楽家レナード・バーンスタインの生涯を見事に描き上げた傑作映画だ。だけどNetflix製作で、配信前の特別上映なので、そういう場合はほとんど宣伝しないのである。最近発表されたゴールデングローブ賞の候補発表では、作品(ドラマ部門)、主演女優、主演男優、監督賞の各部門にノミネートされている。劇場で見られる機会を逃すのは惜しい名作。

 レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein、1918~1990)はアメリカの音楽界に現れた初の巨匠(マエストロ)である。指揮者、作曲家、ピアニストであり、特にクラシックの作曲や指揮を中心に活躍したが、ミュージカル『ウエストサイド物語』や映画『波止場』の作曲なども彼である。単なる「指揮者」や「作曲家」ではなく、自ら「音楽家」と称した人だった。僕ももちろん名前はずっと前から知っていたが、何度も来日公演しているのに行かなかった。若い頃はけっこうクラシックのコンサートに行ってたが、やっぱりカラヤンやベームに行ったのである。ニューヨーク・フィルじゃなくてウィーン・フィルなどに。
(レナード・バーンスタイン本人)
 バーンスタインはアメリカ生まれのユダヤ人で、映画の中でも「バーンズ」に変えるべきだとか言われている。1943年にニューヨーク・フィルの副指揮者になり、11月にたまたま病気になったブルーノ・ワルターの代演を行い、ラジオ放送でセンセーションを呼んだという。その有名なエピソードも描かれるが、その頃の話はモノクロ映像。脚本、監督とともに自ら主演しているブラッドリー・クーパーが本人かと見紛う大熱演である。それはアカデミー賞2度受賞のカズ・ヒロ(辻 一弘)の特殊メイクの素晴らしさでもある。もともと大熱演型の指揮者だったというが、若い頃から晩年までまで見事に演じているのに驚嘆。
(指揮するバーンスタイン=映画)
 しかし、ブラッドリー・クーパー以上に印象的だったのは、妻フェリシアを演じたキャリー・マリガンである。チリ出身の舞台女優だったフェリシアと出会った時、すでにバーンスタインは結婚していた。(詳しくは描かれないが、すでに関係は破綻していたらしい。)すぐに2人は恋に落ち、3人の子どもが生まれる。しかし、フェリシアが常に悩んでいたのは夫レニーの同性愛だった。夫は身近なところに常に「友人以上の」男性がいて、イチャイチャしていたのである。まだバイセクシャルが容認される時代じゃなく、周囲や子どものためにフェリシアはずっと隠し通す。しかし、次第に二人の関係は悪化していくのである。
(知り合った頃の二人)
 その有様を美しい風景(バーンスタインの住む家がすごい)の中で描き出す。歓喜と苦悩を見事に演じたキャリー・マリガンは有力な演技賞候補だと思う。今まで『17歳のカルテ』『プロミシング・ヤング・ウーマン』で2度アカデミー賞主演女優賞にノミネートされたが、今度は受賞するかもしれない。バーンスタイン役のブラッドリー・クーパーも、『世界にひとつのプレイブック』『アメリカン・ハッスル』『アメリカン・スナイパー』『アリー/スター誕生』と今まで4度もアカデミー賞主演男優賞にノミネートされている。この2人の演技合戦が実に素晴らしいのである。
(フェリシア本人)
 フェリシアは子どもが大きくなり、再び舞台への情熱を取り戻す。そのフェリシアが先に病魔に倒れるのである。レニーはものすごいヘヴィー・スモーカーでフェリシアも喫煙者だったらしい。肺がんになったのでタバコの影響を否定出来ないと思う。しかし、それでも妻のそばでタバコを吸っている。それは当時の事実に基づいているんだろうし、そんなものだったんだろうけど、ひどい時代だったなあと思った。フェリシアが倒れる前、心血を注いでいた「荘厳ミサ曲」が完成して初公演を迎える。再現されたものだと知ってるわけだが凄い迫力で、フェリシアも訪れ何度も抱き合った成功を喜ぶ。感動的な名シーンだ。
(レニーとフェリシア)
 二人が背中をもたれあう場面が2回ある。それがとても心に沁みる。そして映画ではずっとバーンスタインの音楽が使われる。同じユダヤ系ということで本人も愛好していたというマーラーが流れると、見ている側にも幸福な感情があふれてくる。マーティン・スコセッシスティーヴン・スピルバーグが製作に加わっている。『アリー/スター誕生』でも組んだマシュー・リバティークの撮影も見事だった。12月20日に配信予定。
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ルーマニア映画『ヨーロッパ新世紀』、すさまじき偏見の恐ろしさ

2023年10月23日 20時56分18秒 |  〃  (新作外国映画)
 ルーマニアクリスティアン・ムンジウ監督(1968~)の新作『ヨーロッパ新世紀』(2022)を渋谷のユーロスペースで見た。これが希望を感じさせる題名と反して、ヨーロッパ辺境のすさまじき差別感情の噴出を見つめる傑作だった。2022年カンヌ映画祭のコンペティションに選ばれたが、無冠に終わった。全く理解出来ない結果で、僕からすればパルムドールの『逆転のトライアングル』や75周年記念賞の『トリとロキタ』より、明らかに衝撃的である。もっと大きな公開が望ましいが、内容の暗さ、重さから難しいだろう。貴重な機会を逃さず、是非チャレンジして貰いたい映画だ。

 冒頭で字幕が3色になると出る。ルーマニア語、ハンガリー語、その他(ドイツ語や英語)が映画の中で飛び交い、それを色分けするというのである。さらに字幕なしのせリフもあるが、それは監督の意図なので字幕は付けないという。何故そうなるかというと、ルーマニア西北部のトランシルヴァニア地方で撮影されたからである。そこはルーマニア人の他に少数民族のハンガリー人が多く住んでいる。また昔から移住していたドイツ系の人も残っているようだ。「吸血鬼ドラキュラ」の舞台で知られ、1989年の東欧革命では反チャウシェスク蜂起が始まった地方である。だけど映画の舞台になるのは、山の中の因習の村である。
(緑=トランシルヴァニア)
 男たちはドイツなどに出稼ぎに行って家族を養っている。クリスマスを前にマティアスは暴力事件を起こして、国に帰って来た。夫婦関係は破綻していて、小学生の息子ルディは山の中で怖いものを見て口を聞かなくなっている。羊を飼っている父親は高齢で衰え、その世話もしなくてはいけない。村に居場所がない彼は昔の恋人シーラに安らぎを求めようとするが…。シーラは村のパン工場の責任者をしているが、そこの悩みは労働者が集まらないこと。何度求人を出しても、全然集まらない。最低賃金しか払えないからである。そこでEUの補助金を活用して、外国人労働者を雇うことにした。その結果、スリランカ人が3人やって来る。
(マティアスと息子)
 村にあった鉱山が閉山して、人々は失業したが、最低賃金で働くより生活保護の方が有利なので働かない。貧困地域だから生活必需品のパンを値上げすることも出来ず、やむを得ず会社は外国人に頼ることにした。村の壮年層はドイツなどに働きに行き、そこで見下げられて苦労している。それを知っているのに、高齢の人々はアジア人を受け入れることが出来ない。教会で不満が爆発し、村人を集めて集会が行われる。村人は彼らは未知のウイルスを持ち込む、ムスリムはお断りだと決めつける。シーラたちが会社はちゃんと衛生管理をしている、スリランカ人はムスリムじゃない、彼らはカトリックだと何度言っても聞く耳を持たない。昔ロマ人(ジプシー)を追放した村に、今度はアジア人を入れるな、解雇するまでパンは買わないと宣言する。
(村人の集会)
 マティアスをめぐる女性、子ども、父親などの悩みがそれに関わってくる。冬の村はいつも薄暗い。そんな中でスリランカ人たちはきちんと働くし、自分たちで料理を作って暮らしている。彼らにはルーマニアの最低賃金でも、働く意味があるんだろう。そんな様子もきちんと描いている。それなのに人々は現実のスリランカ人労働者と会うこともなく、偏見を持って見ている。「ヨーロッパ新世紀」とは、このような偏見だらけの世界を意味するのか。村には隠微なルーマニア人とハンガリー人の対立がある。しかし、彼らは「反アジア人」では一致できる。村の自然をとらえる映像は壮大で、そんな中に偏見に囚われた人々が暮らす。
(ムンジウ監督)
 実にすさまじき展開の連続で、全く驚いてしまった。この驚くべき作品が様々な映画祭で受賞していない。カンヌでも審査員は大体ヨーロッパ系だから、ここまでヨーロッパの偏見を見つめた映画を評価したくなかったのか。そうとでも思いたくなる傑作だ。クリスティアン・ムンジウ監督は、『4ヶ月、3週と2日』(2007)でパルムドール、『汚れなき祈り』(2012)で女優賞、『エリザのために』(2016)で監督賞とカンヌの常連となっている。すでに受賞しているから外された面もあるだろう。自国の闇を見つめる作品を作っている監督である。

 原題は『R.M.N.』というが、これは核磁気共鳴画像法(MRI)のルーマニア語の頭文字だと英語のWikipediaに出ていた。そう言えば、父親が病院でMRI検査を受ける場面があった。ルーマニア社会を「スキャンする映画」という意味らしい。そう考えると、これは的確な題かもしれない。邦題の方が理解不能である。シーラが劇中で何度かチェロで弾いているブラームスのハンガリー舞曲(第5番)も印象的。
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