尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『PERFECT DAYS』、隠された東京物語

2024年01月13日 22時38分49秒 |  〃  (新作外国映画)
 ヴィム・ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』。冒頭で男が目覚め、歯を磨き、缶コーヒーを買ってから車に乗る。背景にスカイツリーが見えているから東京東部である。首都高に乗って都心部に向い、降りると男は公園にあるトイレを掃除する。その間セリフはなく、タイトルも出てこない。一体これはドキュメンタリー映画なのだろうか。いや、もちろんこれは劇映画である。男を演じる役所広司カンヌ映画祭男優賞を受けたというニュースを知らずにこの映画を見る観客は一人もいないだろう。

 ヴィム・ヴェンダースは最近も多くの劇映画を作っているが、近年はドキュメンタリーの方が出来が良いかもしれない。『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(1999)、『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』(2011)、 『セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター』(2014)などで、日本未公開ながら前作も『Pope Francis: A Man of His Word』(2018)というフランシスコ教皇の映画である。そんなヴェンダースが日本のトイレをテーマにドキュメンタリーを撮っても全然おかしくない。
(カンヌ映画祭の役所広司)
 この映画は『パリ、テキサス』(1984)や『ベルリン 天使の詩』(1987)など最高傑作には及ばないが、なかなかよく出来ていて流れるように見られる。役所広司演じる男は「平山」と言うが、これは映画ファンならすぐ思い当たるように小津映画の主人公の多くに付けられた名前である。だから、この映画はヴェンダース版『東京物語』みたいなものだと思う。小津映画が表面上気持ち良く見られる裏側に多くの隠された事情があったように、この映画も「何が隠されているか」を探りたくなってくる。

 日本人から見ると不自然な点にこだわってもヤボというもんだろうが、一応いくつか書いておく。この映画は2023年5月のカンヌ映画祭に出品されているんだから、当然それ以前に撮影されている。しかし、日本で新型コロナが5類に移行したのは2023年5月の連休明けで、それまではほとんどの日本人がマスクをしていたはずだ。ところがこの映画では道行く人が誰もマスクはせず、それどころかトイレ清掃員の平山もマスクなしである。これは最近のトイレ清掃を見ていても考えられない描写だ。時には素手で掃除しているのもおかしい。ヴェンダース流の「もう一つの東京」を描いた映画なんだろう。
(渋谷区のトイレ)
 墨田区辺りから毎日のように高速で渋谷区のトイレ掃除に行くというのも、非常に不自然な設定だ。しかもトイレが素晴らしくキレイ。というか、そういうトイレ(有名建築家が設計している)を設置しているという事実が先にあり、その「宣伝」というか広報がもともと企画の始まりだという。ああいうトイレだと皆ちゃんと使うのか、どれもわざわざ掃除するまでもないぐらい。普通は何か「事件」があって、そこに「試練」がある。学園映画なら全員優等生みたいな設定じゃ詰まらないから、誰か問題を起こす生徒がいる。でもこの映画のトイレは誰も汚してないのである。

 もちろん現実の日本では、そんなにキレイなトイレだけではない。特に男性用なら、便座を立てたままで使用して汚れていることは多い。まるで「日本人はトイレを清潔に使い、そんなキレイなトイレも毎日精魂込めて掃除している」と言わんばかりだ。平山の生活も不可思議。昼にサンドイッチを食べて、夜に飲みに行く以外の食事はどうなっているんだろう。この平山の住む家のトイレはどうなんだろう? 夜間頻尿はないのか。浅草まで行くのに吾妻橋じゃなく桜橋(X字型の橋)を使うのも不自然だが、まあ「絵になる」んだろう。自転車の鍵は掛けるがそのまま置いて(何故か持っていかれない)、地下鉄浅草駅地下街の店の常連という設定は、余りに定番すぎて笑ってしまうぐらい。
(夜読書する平山)
 この平山の決まり切った日常を描いて少し退屈する頃合いに、平山をかき回す人物が現れる。そこで彼の人物像が少し明らかになるが、ケータイも持ってないのかと思ってたら、会社との連絡用に持っていたじゃないか。読んでいる本は古本屋で買うが、出て来るのはフォークナー『野生の棕櫚』、幸田文『木』、パトリシア・ハイスミス『11の物語』である。この選書センスは驚くほどで、要するに彼の過去は結構な学歴があるか、まあ学校は別にしても「文学青年」的だったのだろう。そして姪が家出してきて、妹がいることが判明する。父親との確執があったようだが、「平山の過去」はこの映画で「隠された」一番大きなものだ。

 この平山の暮らし方は、ある種の「隠者」というものだ。鴨長明や吉田兼好が林間に庵を結んだのと違い、現代では都会の「ボロ」家屋に隠れ住む。そして日々オリンパスのフィルムカメラ(僕も昔持っていた)を使って、「木漏れ日」を撮る。それが彼の「ゼン」(禅)であり、「サトリ」である、みたいな描き方だろうか。「足るを知る」シンプルライフは美しいとも言えるから、映画のキャッチコピーは「こんなふうに生きていけたなら」。だけど、僕はこういう風に生きていきたくはないのである。
(姪のニコと)
 役所広司は実は僕と同じ学年になる年齢で、会社員や公務員だったらもう定年である。政治家や会社経営者ならまだまだ現役かもしれないが、恐らく「自ら下りた人生」を送ってきた平山は、大した年金もないだろう。働かざるをえない経済事情があるから働いているのである。妹はお抱え運転手を伴って現れたから、生れつき貧困家庭に育ったのではなく、彼にも「経済的に恵まれた人生」はあり得た。そして、家族との関係もほぼ断っている。そういう人生も世の中にはあるわけだが、施設に入っている老いた父にも会いたくない人生というのは、僕が生きていきたい人生とは違う。

 この映画の魅力は使われている音楽である。それもカセットテープなのである。僕も知らなかった曲が多いが、調べればすぐに判るのでここでは書かない。また脇役というか、チョイ役みたいなところで、思わぬ人が出ている。クレジットを見るまで気付かなかった人(研ナオコ)などもいるが、これも自分で調べて欲しい。冒頭でアニマルズ「朝日のあたる家」が流れるが、平山行きつけの店のママがそれを日本語の歌詞で歌うシーンがある。この歌詞は浅川マキのもので、歌っているママは石川さゆり

 いろいろと調べていくとなかなか面白いし、ロケ地を訪ねた記事も一杯出て来る。まあ、一見の価値ある映画に違いないが、ただ感心して見ちゃマズいだろう。なお、役所広司はこういう「いい人」じゃなく、『シャブ極道』『うなぎ』『すばらしき世界』など犯罪者を演じる方がずっと凄い役者である。
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映画『ポトフ 美食家と料理人』、究極の美食映画

2024年01月12日 22時41分14秒 |  〃  (新作外国映画)
 フランス映画『ポトフ 美食家と料理人』は僕が見てきた映画の中でも極めつけの美食映画だ。「美食映画」なんてジャンルはないけど、料理が出て来る映画は多い。食事シーンにまで広げるなら、出て来ない映画の方が少ないだろう。しかし、日本の『土を喰らう十二ヶ月』なんかは、美食じゃなくて「粗食映画」という感じだった。それが悪いわけじゃないが、見てるだけで満腹する映画、美味しそうな香りが客席まで漂ってくるような映画としては、これがベストじゃないかと思う。

 ベトナム系フランス人監督のトラン・アン・ユンが2023年のカンヌ映画祭監督賞を受賞した映画である。監督はパリ育ちということだが、これほど完璧に19世紀末フランスを再現したのは驚き。原題は「La Passion de Dodin Bouffant」で、1924年の小説が原作だという。美食家で有名レストラン経営者のドダンブノワ・マジメル)という人物の料理への情熱を描いている。彼は今では森の中の館に住んでいて、料理人ウージェニージュリエット・ビノシュ)が彼のレシピを完全に実現するのである。冒頭から30分ぐらい、ドダンが友人たちを招く午餐会のシーンである。その間ずっと料理しているウージェニーたちをカメラは追い続ける。

 ある種のドキュメンタリー映画でもあり、最初はちょっとカメラがうるさく感じられるぐらい。キッチンのあちこちで進む調理過程を追うとともに、料理人の方も映し出す。そこで作り出される料理の数々、舌平目のクリームソース、当時創作されたばかりのパイ詰め、仔牛や鶏、ザリガニや数々の野菜などの食材、ハーブやスパイス各種が完璧に再現される。三つ星レストランのシェフ、ピエール・ガニェールが監修していて、実際に作って実際に食べている。多くの料理映画では、レストランを開くとか、なんとか客を増やしたいとかのドラマの方がメインである。しかし、この映画は実際に美食を作って食べること自体を描くのである。

 もちろんドラマがないわけじゃなく、一つはドダンとウージェニーの関係。20年以上料理を続けていて、二人の間には愛情が芽生えている。ドダンは今まで何度も求婚しているらしいが、自由でいたいウージェニーはやんわりと断り続けてきた。(もっとも性的関係は受け入れているようである。)ところで、ウージェニーは時々台所で具合が悪くなることがある。それを含めて二人の関係はどうなるのか。ウージェニーのジュリエット・ビノシュは三大映画祭すべてで女優賞を獲得した大女優だが、ドダンのブノワ・マジメルはそんな人いたなという程度。映画『ピアニスト』でカンヌ映画祭男優賞を得ている。この二人は1999年に『年下のひと』で共演した後で交際が始まり、女児まで生まれたものの破綻したという。そんな二人の息の合った名演である。
(ドダンとウージェニー) 
 もう一つが「ユーラシア皇太子」の晩餐会である。ユーラシアがよく判らないけど、多分原作にある架空の国なんだと思う。美食家の評判を聞いて是非招待したいとなり出掛けたが…。8時間にも及ぶ3部に分かれた大晩餐会。しかし、戻ってからドダン初め仲間たちは、やり過ぎで満腹しただけ、何もかも出すのでは真の美食家ではないという批判が飛び交う。そしてドダンは返礼の晩餐会を企画して、そのメインメニューを「ポトフ」にすると決める。フランスの大衆料理であるポトフは果たして晩餐会のメインになるのか。いろいろと試行してみるが、なかなかうまく行かない。そしてウージェニーが病床につくことになって…。
(トラン・アン・ユン監督)
 トラン・アン・ユン監督(1962~)ももう60歳を超えている。読み方は「チャン・アィン・フン」の方がより正しいらしいが、日本ではトラン・アン・ユンが確立しているだろう。12歳で戦争を逃れて両親とフランスに移住したという。1993年に『青いパパイヤの香り』でカンヌ映画祭で新人監督賞を受賞して一躍世界に知られ、1995年の『シクロ』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を得た。日本で公開された2作品は確かに魅力的だったが、作品数が少なく低迷感もあった。2010年に『ノルウェーの森』を監督している。今回の『ポトフ 美食家と料理人』は久方ぶりの会心作だ。

 中国とフランスに支配されたヴェトナムは世界屈指の美食の国だと言われる。そういう歴史も反映しているのかもしれない。料理映画としては、ジュリエット・ビノシュ主演の『バベットの晩餐会』が素晴らしいと思う。他にいろいろとあるが、美食度と調理過程をじっくり見せる点では、この映画が一点抜けていると思う。ただフランス料理のこってりした味わいやワインが苦手な人は見ていて大変かもしれない。僕も少し満腹し過ぎた感もある。『かもめ食堂』や『土を喰らう十二ヶ月』が懐かしくなるところもある。なお、モーツァルトに「絶対音感」があったように、料理に関しても「絶対味覚」があるらしい。深い味わいを出すスパイスが全部判るような舌を持つ人である。ホントかな。
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フィンランド映画『枯れ葉』、アキ・カウリスマキ節の復活

2023年12月25日 22時15分38秒 |  〃  (新作外国映画)
 別の映画を見に行って満員だったので、フィンランドアキ・カウリスマキ監督の新作『枯れ葉』を見ることにした。カウリスマキは前作『希望のかなた』(2017)の完成後に突然引退を発表した。もう新作は見られないものと思っていたが、また突然新作『枯れ葉』を作ってカンヌ映画祭審査員賞を受賞したのである。公開に合わせてユーロスペースで特集上映が行われたので、2本ほど見直してみた。ものすごく面白くて「アキ・カウリスマキ節」を満喫したが、構図が似ているので飽きる面はある。

 アキ・カウリスマキ初期の『パラダイスの夕暮れ』(1986)の「2.0」版が今作だと監督は言ってるらしいが、実際本当に似ている。底辺を生きる貧しい労働者、理不尽な社会、孤独な男女、酒とタバコ、不器用なラブロマンス、偶然による誤解や別れ、映画だけに許される再会。ヘルシンキの「場末」に生きる人々を暖かく見つめる眼差し。独特な音楽選び(日本の歌も良く出て来る)。ちょっと見れば、すぐにこれはアキ・カウリスマキ監督の映画だなと判る。それは小津安二郎の晩年の作品でも同じだが、変わることなく自分の世界を貫いている。今作も同じような感じなんだけど…。
(主演の二人)
 スーパーで働くアンサアルマ・ポウスティ)は賞味期限切れの食品を困ってる人にあげて解雇される。一方、工場労働者のホラッパユッシ・ヴァタネン)は酒浸りで、ウツ状態。仕事中も酒を止められず解雇される。二人はそれぞれ同僚とカラオケに行って(「カラオケ」はやはりフィンランドでもカラオケと言っている)、何となく知り合う。また偶然会って、映画を見て次も会うことを約束する。その時に女は名前を教えないが、電話番号を紙に書いて教える。観客だけが知っているが、その紙はポケットから落ちて風に吹かれて飛んでいく。二人がまた会える日は来るのだろうか。
(アンサと愛犬)
 二人の日常にはスマホもなく、テレビさえない。みんなタバコ吸いすぎだし、いつの時代の話だよと思うのも、いつもと同じ。だが今度の映画ははっきり時代が特定可能だ。それは2022年である。アンサが付けるラジオからいつもウクライナ戦争のニュースが流れているのである。恐らく監督はこの戦争で変わってしまったフィンランドを記憶に留めるため、そしてそれでも世界の片隅に小さな愛があることを示すため、この映画を作ろうと思ったんだろう。そして、その映画は世界に届いた。世界で高く評価されているのがその証拠だ。主演のアルマ・ポウスティはなんとゴールデングローブ賞の主演女優賞にノミネートされたぐらいである。
(監督と主演の二人)
 また映画ファンには嬉しい「トリビア」がたくさんある。二人が見に行く映画は、監督の友人でもあるジム・ジャームッシュのゾンビ映画『デッド・ドント・ダイ』である。それを見ていた観客がロベール・ブレッソンの『田舎司祭の日記』だ、いやゴダールの『はなればなれに』だなどと言い合っている。(あの映画はそこまで面白くないと思うけど。)他にも俳優の背景に映画のポスター(ゴダールの『気狂いピエロ』など)があるし、最後の最後に犬の名前で締めとなる。
(『トーベ』のアルマ・ポウスティ)
 隣国ロシアが起こした戦争の現実と、判る人だけ判る映画愛のこだわり。それでいて、いつのものようにアキ・カウリスマキの映画は短い。この映画はなんと81分だが、2時間の映画を見たような余韻が残る。主演のアルマ・ポウスティは「ムーミン」シリーズの作者トーヴェ・ヤンソンを描く『トーベ』でタイトルロールを演じた人である。この映画は見ていて、なかなか面白かったがここでは紹介していない。『枯れ葉』によって世界でブレイクしそうである。ユッシ・ヴァタネンはソ連との戦争を描く『アンノウン・ソルジャー 英雄なき戦場』(未見)に出ていた人だという。
(映画で歌うマウステテュトット)
 アキ・カウリスマキ監督の映画は、短くてもいつも時間以上に豊穣な世界に浸ることが出来る。その理由に音楽の使い方のうまさもある。登場人物は沈黙し、感情は音楽で伝える。この映画ではカラオケで同僚が歌う「秋のナナカマドの木の下で」、あるいは解雇されたホラッパが働き始めるシーンで流れるカナダのシンガーソングライター、ゴードン・ライトフットの「夜明け前の雨」(高石ともやが「朝の雨」として歌っている)などが大きな意味を持つ。また若い女性バンド、マウステテュトットが時々出て来てすごく印象的。この名前はフィンランド語で「スパイス・ガールズ」という意味だという。

 いくら何でもフィンランドだって、犬を病院の面会に連れて行けるだろうか。また病院の入口にスロープがなくて、階段だけってどういうことだ。(多分、そういうビルしかロケ地を見つけられなかっただけだと思うが。)外国映画を見てると、そういう不思議な描写に戸惑うことが多いが、ヘルシンキがこんなに寂れた町のはずがない。アキ・カウリスマキ監督の映画に出て来る町は、監督の世界ということなんだろう。なお、題名はもちろんシャンソン「枯葉」からである。
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映画『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』、スコセッシ監督の超大作

2023年12月23日 22時16分59秒 |  〃  (新作外国映画)
 マーティン・スコセッシ監督の超大作『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』を見て来た。もう東京のロードショー上映は終わっているが、柏のキネマ旬報シアターでやってるから見に行ったのである。レオナルド・ディカプリオロバート・デ・ニーロとスコセッシ作品おなじみの俳優が大熱演している。でも、なんと206分という長さが困る。まあ、アメリカ先住民の悲劇を描く大叙事詩だし、ゴールデングローブ賞で作品、監督、脚本、男女主演俳優、助演男優にノミネートされた。やはり見ておくべきか。

 アーネスト・バークハートレオナルド・ディカプリオ)という青年が第一次世界大戦から帰還してきた。彼はおじウィリアム・ヘイルロバート・デ・ニーロ)を頼って、オクラホマ州オーセージ郡にやってきた。(映画には「オセージ」と出るが、Wikipediaでは「オーセージ」じゃないと出てこない。)そこは先住民のオーセージ族の居留地だが、彼らは地下資源の権利を持っていたのである。1897年に初めて石油が出て、その後いろんな経緯があったらしいが、とにかく1920年代には先住民が非常に裕福となり、貧しい白人労働者が働くという全米的に見れば逆転した状況になっていたのである。
(ウィリアムとアーネスト)
 おじは自らを「キング」と呼ばせ、この地区の有力者になっていた。急速に金持ちになった先住民の中には、酒に溺れたり糖尿病など「生活習慣病」になる人が多かった。そこで白人たちが「後見人」となって、お金を管理していた。裕福な先住民の女性と結婚する白人もいて、アーネストも運転手として知り合った先住民のモーリーリリー・グラッドストーン)と親しくなっていく。リリー・グラッドストーンは先住民の血を引く女優だが、19世紀のイギリス首相グラッドストーンの遠い親戚でもあるという。ケリー・ライカート監督『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』で知られたというが、鮮烈な存在感を発揮している。
(アーネストとリリー)
 二人は結婚し子どもも生まれるが、その頃からリリーの周辺で不可解な事件が起きてくる。リリーの妹はすでに亡くなり、その次に姉が殺される。それらの事件は地元警察には手が余り解決の兆しがない。このような事件は現実に起こったもので、「オーセージ族連続怪死事件」の犠牲者は60人にもなるという。リリーの糖尿病も悪化し、世界で5人しか使えないというインスリンを取り寄せていた。だが、ちっとも効果が出ないことに、苛立ちを強めていく。疑心暗鬼が渦巻く中で爆発事件がおき、部族協議会はワシントンに使節を送ることを決める。そして後のFBIにあたる司法省捜査局がやって来たのである。
(アーネストとリリー)
 その後は法廷ミステリー的な展開になるので、書かないことにする。この事件を日本で知る人は少ないだろう。デヴィッド・クラン『花殺し月の殺人 インディアン連続怪死事件とFBIの誕生』というノンフィクション作品が原作である。日本でも早川書房から翻訳が出ている。原書は2017年に出てベストセラーになったという。邦訳は翌年に出ているが、読むどころか知っている人も珍しいと思う。自分も全く知らなかった。そもそもオクラホマ州は本来先住民のための地区だった歴史があり、オーセージ族以外にも多くの居留地がある。現在は先住民に特別に認可されているカジノが多い地域になっているようだ。「花殺し月」というのは先住民の暦で5月を指す言葉だという。4月にお花畑が咲き誇り、5月に枯れるからという。
(監督と主演者)
 この映画はスコセッシ作品の『グッド・フェローズ』や『アイリッシュマン』と構図が同じ。自分を守るために法廷で司法取引に応じるかどうかというテーマである。それは遠藤周作原作の『沈黙』を映画化したことでも判るように、「裏切りとは何か」が終生のテーマなのだろう。しかし、それにしても長すぎると思う。製作会社側は休憩を取らずに上映することを求めていて、ヨーロッパでは休憩を入れたために契約違反に問われたという。だけど、3時間半近く拘束するなら、もっとキビキビした展開が必要だ。力作ではあるが、賞レースではノミネート止まりになる気がする。ラストで後日譚がラジオドラマの公開放送で示されるのは新工夫。なお、2023年8月に亡くなった音楽担当のロビー・ロバートソンに捧げられている。
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映画『マエストロ』、レナード・バーンスタインを描く傑作

2023年12月15日 22時18分30秒 |  〃  (新作外国映画)
 『マエストロ: その音楽と愛と』という映画を一部映画館で上映しているけど、知らない人が多いと思う。これはブラッドリー・クーパー監督がアメリカの大音楽家レナード・バーンスタインの生涯を見事に描き上げた傑作映画だ。だけどNetflix製作で、配信前の特別上映なので、そういう場合はほとんど宣伝しないのである。最近発表されたゴールデングローブ賞の候補発表では、作品(ドラマ部門)、主演女優、主演男優、監督賞の各部門にノミネートされている。劇場で見られる機会を逃すのは惜しい名作。

 レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein、1918~1990)はアメリカの音楽界に現れた初の巨匠(マエストロ)である。指揮者、作曲家、ピアニストであり、特にクラシックの作曲や指揮を中心に活躍したが、ミュージカル『ウエストサイド物語』や映画『波止場』の作曲なども彼である。単なる「指揮者」や「作曲家」ではなく、自ら「音楽家」と称した人だった。僕ももちろん名前はずっと前から知っていたが、何度も来日公演しているのに行かなかった。若い頃はけっこうクラシックのコンサートに行ってたが、やっぱりカラヤンやベームに行ったのである。ニューヨーク・フィルじゃなくてウィーン・フィルなどに。
(レナード・バーンスタイン本人)
 バーンスタインはアメリカ生まれのユダヤ人で、映画の中でも「バーンズ」に変えるべきだとか言われている。1943年にニューヨーク・フィルの副指揮者になり、11月にたまたま病気になったブルーノ・ワルターの代演を行い、ラジオ放送でセンセーションを呼んだという。その有名なエピソードも描かれるが、その頃の話はモノクロ映像。脚本、監督とともに自ら主演しているブラッドリー・クーパーが本人かと見紛う大熱演である。それはアカデミー賞2度受賞のカズ・ヒロ(辻 一弘)の特殊メイクの素晴らしさでもある。もともと大熱演型の指揮者だったというが、若い頃から晩年までまで見事に演じているのに驚嘆。
(指揮するバーンスタイン=映画)
 しかし、ブラッドリー・クーパー以上に印象的だったのは、妻フェリシアを演じたキャリー・マリガンである。チリ出身の舞台女優だったフェリシアと出会った時、すでにバーンスタインは結婚していた。(詳しくは描かれないが、すでに関係は破綻していたらしい。)すぐに2人は恋に落ち、3人の子どもが生まれる。しかし、フェリシアが常に悩んでいたのは夫レニーの同性愛だった。夫は身近なところに常に「友人以上の」男性がいて、イチャイチャしていたのである。まだバイセクシャルが容認される時代じゃなく、周囲や子どものためにフェリシアはずっと隠し通す。しかし、次第に二人の関係は悪化していくのである。
(知り合った頃の二人)
 その有様を美しい風景(バーンスタインの住む家がすごい)の中で描き出す。歓喜と苦悩を見事に演じたキャリー・マリガンは有力な演技賞候補だと思う。今まで『17歳のカルテ』『プロミシング・ヤング・ウーマン』で2度アカデミー賞主演女優賞にノミネートされたが、今度は受賞するかもしれない。バーンスタイン役のブラッドリー・クーパーも、『世界にひとつのプレイブック』『アメリカン・ハッスル』『アメリカン・スナイパー』『アリー/スター誕生』と今まで4度もアカデミー賞主演男優賞にノミネートされている。この2人の演技合戦が実に素晴らしいのである。
(フェリシア本人)
 フェリシアは子どもが大きくなり、再び舞台への情熱を取り戻す。そのフェリシアが先に病魔に倒れるのである。レニーはものすごいヘヴィー・スモーカーでフェリシアも喫煙者だったらしい。肺がんになったのでタバコの影響を否定出来ないと思う。しかし、それでも妻のそばでタバコを吸っている。それは当時の事実に基づいているんだろうし、そんなものだったんだろうけど、ひどい時代だったなあと思った。フェリシアが倒れる前、心血を注いでいた「荘厳ミサ曲」が完成して初公演を迎える。再現されたものだと知ってるわけだが凄い迫力で、フェリシアも訪れ何度も抱き合った成功を喜ぶ。感動的な名シーンだ。
(レニーとフェリシア)
 二人が背中をもたれあう場面が2回ある。それがとても心に沁みる。そして映画ではずっとバーンスタインの音楽が使われる。同じユダヤ系ということで本人も愛好していたというマーラーが流れると、見ている側にも幸福な感情があふれてくる。マーティン・スコセッシスティーヴン・スピルバーグが製作に加わっている。『アリー/スター誕生』でも組んだマシュー・リバティークの撮影も見事だった。12月20日に配信予定。
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ルーマニア映画『ヨーロッパ新世紀』、すさまじき偏見の恐ろしさ

2023年10月23日 20時56分18秒 |  〃  (新作外国映画)
 ルーマニアクリスティアン・ムンジウ監督(1968~)の新作『ヨーロッパ新世紀』(2022)を渋谷のユーロスペースで見た。これが希望を感じさせる題名と反して、ヨーロッパ辺境のすさまじき差別感情の噴出を見つめる傑作だった。2022年カンヌ映画祭のコンペティションに選ばれたが、無冠に終わった。全く理解出来ない結果で、僕からすればパルムドールの『逆転のトライアングル』や75周年記念賞の『トリとロキタ』より、明らかに衝撃的である。もっと大きな公開が望ましいが、内容の暗さ、重さから難しいだろう。貴重な機会を逃さず、是非チャレンジして貰いたい映画だ。

 冒頭で字幕が3色になると出る。ルーマニア語、ハンガリー語、その他(ドイツ語や英語)が映画の中で飛び交い、それを色分けするというのである。さらに字幕なしのせリフもあるが、それは監督の意図なので字幕は付けないという。何故そうなるかというと、ルーマニア西北部のトランシルヴァニア地方で撮影されたからである。そこはルーマニア人の他に少数民族のハンガリー人が多く住んでいる。また昔から移住していたドイツ系の人も残っているようだ。「吸血鬼ドラキュラ」の舞台で知られ、1989年の東欧革命では反チャウシェスク蜂起が始まった地方である。だけど映画の舞台になるのは、山の中の因習の村である。
(緑=トランシルヴァニア)
 男たちはドイツなどに出稼ぎに行って家族を養っている。クリスマスを前にマティアスは暴力事件を起こして、国に帰って来た。夫婦関係は破綻していて、小学生の息子ルディは山の中で怖いものを見て口を聞かなくなっている。羊を飼っている父親は高齢で衰え、その世話もしなくてはいけない。村に居場所がない彼は昔の恋人シーラに安らぎを求めようとするが…。シーラは村のパン工場の責任者をしているが、そこの悩みは労働者が集まらないこと。何度求人を出しても、全然集まらない。最低賃金しか払えないからである。そこでEUの補助金を活用して、外国人労働者を雇うことにした。その結果、スリランカ人が3人やって来る。
(マティアスと息子)
 村にあった鉱山が閉山して、人々は失業したが、最低賃金で働くより生活保護の方が有利なので働かない。貧困地域だから生活必需品のパンを値上げすることも出来ず、やむを得ず会社は外国人に頼ることにした。村の壮年層はドイツなどに働きに行き、そこで見下げられて苦労している。それを知っているのに、高齢の人々はアジア人を受け入れることが出来ない。教会で不満が爆発し、村人を集めて集会が行われる。村人は彼らは未知のウイルスを持ち込む、ムスリムはお断りだと決めつける。シーラたちが会社はちゃんと衛生管理をしている、スリランカ人はムスリムじゃない、彼らはカトリックだと何度言っても聞く耳を持たない。昔ロマ人(ジプシー)を追放した村に、今度はアジア人を入れるな、解雇するまでパンは買わないと宣言する。
(村人の集会)
 マティアスをめぐる女性、子ども、父親などの悩みがそれに関わってくる。冬の村はいつも薄暗い。そんな中でスリランカ人たちはきちんと働くし、自分たちで料理を作って暮らしている。彼らにはルーマニアの最低賃金でも、働く意味があるんだろう。そんな様子もきちんと描いている。それなのに人々は現実のスリランカ人労働者と会うこともなく、偏見を持って見ている。「ヨーロッパ新世紀」とは、このような偏見だらけの世界を意味するのか。村には隠微なルーマニア人とハンガリー人の対立がある。しかし、彼らは「反アジア人」では一致できる。村の自然をとらえる映像は壮大で、そんな中に偏見に囚われた人々が暮らす。
(ムンジウ監督)
 実にすさまじき展開の連続で、全く驚いてしまった。この驚くべき作品が様々な映画祭で受賞していない。カンヌでも審査員は大体ヨーロッパ系だから、ここまでヨーロッパの偏見を見つめた映画を評価したくなかったのか。そうとでも思いたくなる傑作だ。クリスティアン・ムンジウ監督は、『4ヶ月、3週と2日』(2007)でパルムドール、『汚れなき祈り』(2012)で女優賞、『エリザのために』(2016)で監督賞とカンヌの常連となっている。すでに受賞しているから外された面もあるだろう。自国の闇を見つめる作品を作っている監督である。

 原題は『R.M.N.』というが、これは核磁気共鳴画像法(MRI)のルーマニア語の頭文字だと英語のWikipediaに出ていた。そう言えば、父親が病院でMRI検査を受ける場面があった。ルーマニア社会を「スキャンする映画」という意味らしい。そう考えると、これは的確な題かもしれない。邦題の方が理解不能である。シーラが劇中で何度かチェロで弾いているブラームスのハンガリー舞曲(第5番)も印象的。
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映画『ロスト・キング』、リチャード3世の遺骨を見つけた女性

2023年10月21日 21時50分51秒 |  〃  (新作外国映画)
 『ロスト・キング 500年越しの運命』 という映画をやっている。映画的にはあまり評判になってなくて、きっとそう大した映画じゃないんだろうなと思ったけど、題材が興味深くて見に行った。案の定、映画の出来は普通の佳作だったが、内容的にはこんなことがあったんだと驚いた。歴史好きには興味深いと思う。冒頭に「実話に基づく」と出るが、一介の歴史マニアの女性が英国史の謎である「リチャード3世の遺骨」を見つけてしまった話である。2012年の話だが、僕は全く知らなかった。

 リチャード3世(1452~1485、在位1483~1485)と言われても、多くの日本人はよく判らないだろう。僕も同じで、なんかシェークスピアの戯曲にあったなあ程度のイメージしかない。それも読んだことも見たこともない。5百年以上前の国王で、戦死した最後のイングランド王だという。プランタジネット朝最後の王で、シェークスピアの戯曲では悪逆非道な「せむし男」に描かれているという。1485年のボスワースの戦いで戦死し、死体は川に流されたなどと言われてきた。しかし、悪評は次のチューダー王朝が流したもので、リチャード3世は立派な人物だったと考える「リカーディアン」と呼ばれる人々が活動を続けてきたという。日本で言えば室町時代で、応仁の乱が終結したあと、山城の国一揆(1585年)とか加賀一向一揆(1588年)があった頃になる。
(リチャード3世)
 仕事も家庭も問題を抱えるフィリッパ・ラングレーサリー・ホーキンス)という女性が、たまたま子どもと一緒にシェークスピア『リチャード3世』を見に行った。それをきっかけに、フィリッパはリチャード3世に取り憑かれてしまったのである。映画では劇で演じたリチャード3世が、現実となって常に現れて助言したりする。そこがリアリズムを越えた描写になっている。主役のサリー・ホーキンスは『ブルー・ジャスミン』(助演)や『シェイプ・オブ・ウォーター』(主演)でアカデミー賞にノミネートされたが、どっちも自分の思い通りに生きるタイプを演じていた。今回も完全にリチャード探しにのめり込む危ない女性である。
(フィリッパとリチャード3世)
 リチャード3世の遺骨は教会に葬られたという説もあったが、その教会が今どこにあるか不明である。いろんな事を言う人がいるが、そういう場所はその後も空き地になっていることが多いと言われる。今は福祉会館の駐車場になっている場所を見に行くと、何となく気になる。問題は現実に発掘出来る体制を整えることで、イングランド中部のレスターの市当局や大学などに掛け合うが、なかなかうまく行かない。それもある意味当然で、単なる主婦の思い込みだと皆思っているのである。いろんな幸運が重なり、クラウドファンディングも行って、ようやく駐車場を発掘出来るようになったが…。
(発掘の様子)
 実話の映画化なので、いずれ遺骨が出ることは予測出来て、その意味でのサスペンスはない。発掘に成功すると、推進者のフィリッパは除け者にされ、レスター大学の手柄になっていくが、それもありがちのことだろう。兄弟姉妹の子孫が突きとめられ、ミトコンドリアのDNA鑑定などを経て、遺骨はリチャード3世のものと確認された。そこから再埋葬されるまでの経過については、ウィキペディアに「リチャード3世の発掘と再埋葬」に詳細な記述がある。僕は全く知らなかったが、日本では報道されたんだろうか。
(実際のフィリッパ・ラングレー)
 監督のスティーヴン・フリアーズ(1941~)も、もう80代になっている。80年代から近年までコンスタントに活躍してきた監督で、特にヘレン・ミレンがエリザベス女王役でアカデミー主演女優賞を得た『クイーン』(2006)で知られている。『マイ・ビューティフル・ランドレット』(1985)、『危険な関係』(1985)、『グリフターズ/詐欺師たち』(1990)の頃が一番面白かっただろうか。最近では『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』(2016)、『ヴィクトリア女王 最期の秘密』(2017)などがあるが見ていない。こうしてみると安心して見られる英国秘史を任せられる監督なのかもしれない。
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『熊は、いない』と『君は行き先を知らない』、イランのパナヒ親子監督作品

2023年10月09日 20時42分26秒 |  〃  (新作外国映画)
 イランの映画が2本公開されている。それが親子監督のそれぞれの作品なのである。まずは2022年のヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を受賞した『熊は、いない』。監督のジャファル・パナヒ(1960~)は、20年間の映画製作と海外渡航の禁止を宣告されながら、それでも映画を作り続ける不屈の映画監督である。それらの映画『これは映画ではない』(2011)、『人生タクシー』(2015)、『ある女優の不在』(2018)もここで紹介してきたが、今回の作品も覚悟を持って作られた問題作だ。もちろん本国では上映出来ない。さらに今作完成後には当局に拘束されてしまったと伝えられている。

 と言っても、今作も抵抗をテーマにしているわけではない。厳しい環境の中で作らざるを得ないから、本格的な作品は作れずエッセイ的な映画が多い。今回は辺境の村に住み着いて、国境の向こうのトルコで映画を作っているという設定。宣伝をコピーすると、「国境付近にある小さな村からリモートで助監督レザに指示を出すパナヒ監督。偽造パスポートを使って国外逃亡しようとしている男女の姿をドキュメンタリードラマ映画として撮影していたのだ。さらに滞在先の村では、古いしきたりにより愛し合うことが許されない恋人たちのトラブルに監督自身が巻き込まれていく。2組の愛し合う男女が迎える、想像を絶する運命とは......。」
(映画の中のジャファル・パナヒ監督)
 このように最近の映画には監督本人が登場する。シネマ・エッセイ的作風にもよるが、何が現実で何が創作か見ている方も判らなくなる効果が生まれる。監督が滞在するトルコ国境の村の住民は「トルコ語」を話す人が多い。(「クルド語」かもしれないが、映画ではトルコ語とされる。)その村から映画の指示を出そうとするが、電波状況が悪くてうまく行かない。そのうちに、今度は村人が監督のもとへ押しかけてきて、「あるカップル」を撮影したかどうかと追求される。村には古い習俗があり、生まれた時に許婚を決めてしまう。ところが女が別の男と駆け落ちしようとしているというのだ。
(村人と語る)
 何なんだこの村はと思うが、監督が作っている映画でもトルコから外国へ行こうとする男女を撮影している。監督の村でもカップルは駆け落ちしようとしているらしい。監督は国境の向こうには関われず、村人の問題にも入れない。そんな中で監督は何故この村へ来たのか。監督も隣国へ逃げるのか。最初は歓迎されていた監督だが、村人の警戒も強まる。悲劇を目にしても監督は何も出来ないまま去るしかない。その無念、屈辱などが映画を深くしている。

 『熊は、いない』に先立って、『君は行き先を知らない』が公開された。監督のパナー・パナヒ(1984~)はアッバス・キアロスタミや父ジャファルの助監督をしてきたというが、満を持しての監督デビューである。いかにも初々しいロード・ムーヴィーの佳作で、出来映えは見事。冒頭で一家がドライブしているが、次男は父から携帯電話は絶対持ってくるなと言われていたのに、幼なじみの女の子と話したいから持ってきている。音がしてバレたため、車を止めて父が携帯電話をどこかに隠してくる。一体、このドライブはなんだろうと思うと、次第次第に判ってくるが、まだ幼い(撮影当時6歳)次男には旅の目的が理解出来ていない。

 そんな一家の旅は次第に国境地帯に近づき、荒涼たる風景が広がってくる。どうやら運転している長男は、「何か」があって逃げなくてはならない。それはデモ参加のような政治的な事情らしいが、語られない。国境近くでは海外逃亡を助ける組織があるようだが、相当の金が必要になる。一家は何とか工面して、国境近くまでやってきたのである。母は感傷的になり、父はケガもあり苛立っているが、何も判らない次男は無邪気である。そんな家族の描きわけが観客に伝わってきたとき、これで二度と会えないかもしれない一家の運命を思って見る者も粛然とせざるを得ない。

 パナー・パナヒは監督になるチャンスを長いこと待っていたらしい。ようやくこれならと思う題材を得て作った映画は、非常に立派な作品になっている。家族で飼ってる犬が存在感を示すが、家族それぞれは名前も出て来ない。直接説明するセリフが少ないからよく判らないから、見る者は想像してしまうわけである。そういう作り方はアッバス・キアロスタミや父ジャファル・パナヒの映画に影響されたとも言えるだろう。その意味ではまだまだ独自の映像世界とは言えないかもしれないが、やはりイラン映画に現れた注目すべき才能だと思う。
(パナー・パナヒ監督)
 どちらの映画もイラン国内の閉塞状況を示している。多くの人が国を捨て外国へ向かっている。監督父子の周囲でも同じらしいが、あえて不自由な国内に留まって映画を作り続けるのがパナヒ親子だ。その心意気に感じて、これからも見続けたい。
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韓国映画『あしたの少女』、女子高生の悲劇と現代社会

2023年09月25日 22時03分23秒 |  〃  (新作外国映画)
 韓国映画『あしたの少女』が公開されているけど、小さな上映なので知らない人も多いだろう。韓国映画をよくやってるシネマート新宿の上映はすぐに少なくなってしまった。そんな時に柏のキネマ旬報シアターで始まったので、そこで見ることにした。2015年に公開された『私の少女』で注目された女性監督チョン・ジュリの8年ぶり2作目の長編映画である。その映画は女優ペ・ドゥナが警察官をやっていたが、今回もまた警察官役で出ている。しかし、ペ・ドゥナは主役ではない。(彼女は是枝裕和監督『ベイビー・ブローカー』でも警察官だったが、すべて組織の外れ者である。)

 冒頭でダンスする少女を長々と映し出す。まるで日本の青春映画のような出だしだが、そこは韓国南西部の全州(チョンジュ、全羅北道の道庁所在地)である。冒頭の少女キム・ソヒキム・シウン)が友人と食堂に行き、友だちは全州グルメを紹介する配信を始める。もうスマホで全世界とつながっている世界にわれわれは生きている。その後ソヒは高校の担任教師から、大手携帯電話会社の(系列の)コールセンターの「実習」を勧められる。「大手」の会社が来て良かったなと担任は大喜びで勧める。僕も最初は「インターンシップ」かなと思ったが、実は違ったのである。
(書類を見るキム・ソヒ)
 コールセンターの役割は解約を求める客を何とか引き留めることで、若い女性たちがそれぞれに成績を競わされている。客はそこにたどり着くまで、あちこちたらい回しされていて、電話口では散々に罵倒する。その毒を浴びながら、客の求める解約を止めるためマニュアルに沿って対応せざるを得ない。その競争に勝ち抜いたとしても、「成果給」は実習生には支給されない。会社のやり口に疲れたチーム長は、ある日車の中で遺書を残して自殺する。その遺書を口外しないという書類にサインしないとボーナスは出ないと言われる。最後までサインしなかったソヒも、直接上司が何人も来て迫られればサインするしかない。
(ソヒは湖で自殺する)
 仲間どうしで競わされ精神的に追いつめられたソヒは、ついに自殺にまで至る。これはフィクションではなく、2017年に実際に起きた事件を基にしているという。映画は内容的に2部に分かれていて、ソヒの苦悩を描く前半が終わると、その事件をペ・ドゥナが警官として担当する後半が始まる。捜査を止めるように上司から求められながら、事件の真相を求めて家族や友人、さらには会社や学校まで訪ね回る。その結果判明するのは、事件は明白な「犯罪」とは言えないが、関係者は皆競争させられていて、自分たちは仕方なく「上」の求めでやっていたと言い張る姿である。

 学校は「就職率」で予算が増減されると言い、もっと上の教育庁に行くとやはり各地の教育庁ごとに競わされているんだと言う。ソヒの高校は全州でも中の下ぐらいの成績らしい。生徒はほとんど高卒で就職し、その行き先で学校も評価される。大手系列のコールセンターは中では良い方だというが、実は約束された給与は成績率に左右される部分が多く、実際は大きく引かれてしまう。「離職率の高さ」も異常で、700人以上新規で入って、700人以上辞めているらしい。求人票には「離職人数」が明記されているので、それをきちんと理解する指導を行っていないのだろうか。
(チョン・ジュリ監督)
 映画の内容がどうのという前に、この映画は他人事には思えなかった。高卒で勤め始めてすぐに遅くまで残業を強いられることは日本でも多いと思う。それでもまだ日本は、生徒の就職率で学校予算が増減され、それによって教員給与も変わっていくなんてことにはなってない。だが日本の学校や会社でも同じように「競争」させられることは変わらない。

 それに何でもウェブ上で出来そうに見えて、実は解約みたいなことは電話しないとダメなことも多い。その電話番号もなかなか判らない。ネットで調べると、どこかに小さく書いてある。そこに掛けても、なかなかつながらない。そういうことは僕もこの間何回も経験した。(母親の携帯電話やカードの解約が難しいのである。)多分全世界共通の事態ではないかと思うが、この韓国で起きた悲劇は止められたはずなのである。われわれが住む世界はどこで間違ってしまったのか。沈鬱なトーンが全編を覆うが、考えさせられることが多い映画だ。
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映画『バービー』、グレタ・ガーウィグの才気横溢だが…

2023年09月20日 22時32分42秒 |  〃  (新作外国映画)
 映画『バービー』(Barbie)は日本ではそれほどヒットせず上映も終わりつつあるが、今年公開された映画の中でも極めつけの「問題作」に違いない。すでにワーナー映画史上最高のヒット作になり、女性監督作品として史上最高のヒットになった。確かにグレタ・ガーウィグの脚本、監督には才気がみなぎっている。この映画は8月に見たけど、今ひとつ見極めが難しかった。暑い日々が続き、疲れて途中でウトウトしてしまったこともある。ヴェトナムやフィリピンで問題になった「九段線」(中国が主張する領海を示す地図)がどこに出ていたか判らなくてもう一回見ようと思った。また見ても今度も判らなかったけど。

 グレタ・ガーウィグ(Greta Celeste Gerwig、1943~)は『フランシス・ハ』以来僕のお気に入りで、監督作『レディ・バード』も『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』も素晴らしく面白かった。今回の作品も自ら脚本を書いていて、冒頭の『2001年宇宙の旅』のパロディからノリにノっている。画面はピンク一色で、映画史上最もピンク色が氾濫した映画だ。そこは「バービーランド」で、女性は皆「バービー」、男性は皆「ケン」と呼ばれる「バービー人形」の国なのである。その国ではバービーが大統領も務めているし、最高裁判事も皆バービー。ケンは単なる「浜辺の人」である。
(バービーランドを一望)
 「定番バービー」(マーゴット・ロビー)は、考えること苦手系のカワイイだけの人形で、毎日毎日パーティに明け暮れるハッピーな日々を送っていた。しかし、何だか最近どうも変なことが起きている。「死」を意識するとか、足がフラットになっちゃうとか、困ることが多い。町外れに住む「変テコバービー」を訪ねると、持ち主の悩みが人形に移っているんだと言われる。それを直すには「リアル・ワールド」に行って、持ち主を見つけるしかないと言う。ここまでの進行が実にゴキゲンである。
(現実世界を目指すバービーとケン)
 バービーに気があるケン(ライアン・ゴズリング)も隠れて付いて来てしまい、二人はバービーランドから現実世界のカリフォルニアにやって来る。そこはバービーランドは全然違っていて、何やら判らぬがバービーは嫌らしい視線を浴びる。工事現場なら女性だけだと思うと、男ばかり。どうもおかしい。何とか学校で持ち主のサーシャを探し当てるが、彼女からはバービー人形は時代遅れで、女性の地位向上を50年遅らせた「ファシスト」だと罵倒される。しかし、彼女を迎えに来た母親のグロリアこそが子どもの人形で遊んでいた人間で、彼女の不安がバービーに伝染していたと判る。

 この間、ケンは現実社会は男性優位社会であることを知り、今までのバービーランドはおかしかったと思う。一方、マテル社(バービー人形の発売元)ではFBIからバービー人形が人間界に紛れ込んでいるから捕まえろと連絡が来て大騒ぎ。バービーとケンにマテル社幹部もバービーランドに集結して大混乱。ケンに洗脳されてバービーランドは男優位に変えられそうになるが、バービーたちは策をめぐらして男たちを分裂させようとする。そして最後は「個」を大事にする社会をともに作ろうという大団円。だけど、バービーはケンと結ばれるのは何かおかしいと思う。そして驚くべき決断をして、新しく生き直そうとするのである。
(演出中のガーウィグ監督)
 この後半の展開が図式的で今ひとつ面白くないと思う。バービーの「大演説」は、人形世界の出来事をミュージカル・コメディの形で訴える。しかし、内容的には「先進国」のフェミニズムそのもので、日本では特に新味がない。しかし、これが非常に刺激的な社会もあると思う。中国などで好調なのは普段は言いにくい主張を代弁しているからだろう。それに対して、中東世界で禁忌とされる「同性愛」が出て来ないのに上映禁止国が多い。いろいろ理由を付けているが、このような「多様性擁護」に危険な匂いを感じるのだと思う。いろいろと世界各国の状況をうかがえる映画でもある。

 では、日本では何故あまり話題にならないのだろうか。バービー人形に思い入れがないことが一番。楽しいフリして完全なフェミニズム映画だから、カップルで見てただ楽しめる映画じゃない。日本で受けにくいタイプの映画だろう。僕は完成度的に今ひとつと判断するが、この映画を見逃してはいけない。グレタ・ガーウィグの才気を十分楽しめる。今年の最も重要な映画の一つとして、いろいろと議論されるだろう。賞レースでも、いくつもノミネートされるに違いない。(なお、2019年にノア・バームバック監督との子を出産したグレタ・ガーウィグが重要作を任されるアメリカと比べて、呉美保監督が長編作品から遠ざかっている日本映画界には改善すべき点が多い。)
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映画『アステロイド・シティ』、ウェス・アンダーソン監督の怪作

2023年09月18日 20時26分48秒 |  〃  (新作外国映画)
 コンスタントに映画を作っているが、ここではあまり書いてない監督が何人かいる。アメリカのウェス・アンダーソン(Wes Anderson、1969~)もその一人で、嫌いじゃないが不思議な設定に戸惑う映画が多い。「日本」が舞台のSFアニメ『犬ケ島』(2018)など変すぎて困った。いま思えば『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014)を見るのが遅れて、書く時期を逸したのが残念だった。ベルリン映画祭金熊賞、アカデミー賞4部門受賞の波瀾万丈の傑作である。

 前作『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』(2021)も魅力的ながら、とても変な映画だった。「新聞」作りがモチーフで、アメリカの新聞がフランスの架空都市で出す別冊の最終号という設定。いろんなエピソードが面白いが、ちょっとまとまりがないと思って書かなかった。今回の『アステロイド・シティ』(2023)は「演劇」作りがモチーフで、お芝居を作っていく過程を見せるという体裁で、描き割りのセットの中で奇妙な物語が進行する。

 どんな変な物語かは、映画の紹介をコピーした方が早いだろう。「時は1955年、アメリカ南西部に位置する砂漠の街、アステロイド・シティ。隕石が落下してできた巨大なクレーターが最大の観光名所であるこの街に、科学賞の栄誉に輝いた5人の天才的な子供たちとその家族が招待される。子供たちに母親が亡くなったことを伝えられない父親、マリリン・モンローを彷彿とさせるグラマラスな映画スターのシングルマザー――それぞれが複雑な想いを抱えつつ授賞式は幕を開けるが、祭典の真最中にまさかの宇宙人到来!?この予想もしなかった大事件により人々は大混乱!街は封鎖され、軍は宇宙人出現の事実を隠蔽しようとし、子供たちは外部へ情報を伝えようと企てる。」
(アステロイド・シティ風景)
 アステロイド(asteroid)は「小惑星」の意味。ネヴァダ州にある人口87人の小さな町とされる。1955年当時はまだ行われていた大気圏内核実験が時々見える。その小さな町で「ジュニアスターゲイザー賞」という天文分野で業績を挙げた若者に与えられる賞の授与式が行われる。そこに妻が亡くなったばかりの戦場カメラマン(ジェイソン・シュワルツマン)や有名女優ミッジ・キャンベル(スカーレット・ヨハンソン)らが集まってくる。いずれも子どもが「超秀才」で、受賞者なのである。
(ミッジとオーギーは隣同士)
 子どもたちは歴史人名を順に挙げていくゲームをするが、その際今までに言われた人名もすべて最初から言うルールにする。オーギーの息子は「北条時行」と言うが日本人だって知らないだろう。鎌倉幕府最後の執権北条高時の子で、「中先代の乱」を起こした。そんな超秀才たちが授賞式のためだけに来たつもりが、トンデモ事件に巻き込まれて町が閉鎖されてしまう。そんなこんなの大混乱に、大人たちと子どもたちは様々な行動を取るのだが…。人口的なセットや色彩設計の中で物語が進行して、カメラは移動やパンなどを繰り返す。まるで舞台上を撮影したような映画だが、では実際の砂漠でロケをすれば良かったのかと言えば違うだろう。
(オーギーと義父)
 それは人口的な設定にして現実性を削ぐことで成立した「痛みの記憶」が真のテーマだからだ。核実験を背景にして、天才児を持った親たちの現実が語られる。戦場カメラマンは義父(トム・ハンクス)と不仲で、子どもたちはこの小さな町に母親の骨を埋めようとしている。ミッジにはアザがあるが、それはメイクだと言い張り、ここでもセリフのレッスンをしている。まるで現実感がない世界で起きていることが、でもわれわれにも通じる。それは「物語」的な進行はせず、エピソードの連鎖として、われわれの人生そのものように描かれる。評価しない人もいると思うが、こういう映画もあって良い。
(ウェス・アンダーソン監督)
 いつものようにオールスターキャストである。トム・ハンクスやスカーレット・ヨハンソンだけでなく、エイドリアン・ブロディ(『戦場のピアニスト』)やティルダ・スウィントンウィレム・デフォーエドワード・ノートンマーゴット・ロビーなども出ているが、見ている時はほとんど気付かなかった。ウェス・アンダーソンの映画は監督の美学と世界観に浸るためにあり、僕はこの監督の映画としてはかなり満足出来た。好き嫌いがあるから、無理に勧めないけれど。
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映画『クロース』、心震える少年時代の悲劇

2023年08月01日 22時35分13秒 |  〃  (新作外国映画)
 関東地方は7月いっぱい猛暑日が連続していた。今日(8月1日)、ようやく「夕立」(夕方じゃなかったけど)があって、一気に10度ぐらい気温が下がった。しかし、明日はまた猛暑だとか。最近更新が一日おきになってる。母親関係の様々な事務手続きに忙しいが、それ以上に猛暑で脳が働かない。いくら何でも体温越えの気温が一週間以上も続くと堪える。

 見田宗介著作集を読んで考えたことはもっともっとあるのだが、暑すぎて気持ちが切れてしまったので2回で一端中断する。そこで最近見た中で一番心に触れた映画、ベルギーのルーカス・ドン監督『CLOSE/クロース』について書きたい。これは2022年のカンヌ映画祭グランプリを獲得している。グランプリと言うけど、実際は第2席である。クレール・ドゥニ監督『Stars at Noon』(未公開)と共同受賞だった。最高賞(パルムドール)の『逆転のトライアングル』と比べて、感動するのは明らかにこっち。

 この映画は多くの人から是枝裕和監督の『怪物』と比較されて論じられている。確かに似た部分もあるのだが、映画の方向性はむしろ逆と言っても良い。(製作経緯から両者に直接の影響関係はない。)『怪物』は子どもたちの世界を中心にしながらも、大人たちの様々な状況も見つめて、複合的な世界を探る映画である。一方、『CLOSE/クロース』は親や教師も出て来るけれど、ほとんど2人の子どもたちに密着している。フランスの花農家の次男レオは、幼なじみのレミと夏休み中いつも一緒に遊んでいた。この二人の関係性が「学校」が始まって子どもたちの世界の残酷さに触れることで崩壊していく。
(レオ=右、レミ=左)
 秋になって、中学校に行くようになる。二人がずっと仲良くしているのを見て、周りの女子が「二人は付き合ってるの」と聞いてくる。レオはそんなことはないと答えて、新しい友だちに誘われアイスホッケーのチームに入ったりする。スケートは出来たので、何とかついていけて上手だと誉められる。レミとの「幼かった時期」を抜けて、スポーツでつながれた「男の世界」に入りつつあるのか。しかし、レミは急に邪険にされた思いで、寂しいし不満もあるらしい。そして、悲劇がやってくるのである。
(農園でのレオとレミ)
 これは「セクシャル・マイノリティの物語」なのだろうか。そうも言えるし、そうじゃないのかもしれないと思う。監督のルーカス・ドンは1991年生まれの若い監督で、前作『Girl/ガール』(2018)に続く第2作である。前作はカンヌ映画祭「ある視点」部門で新人監督賞を受けたが、同時にクィアパルム賞も受けた。バレエをしているトランスジェンダーの少女が主人公で、こっちは紛れもなくセクシャル・マイノリティの映画だったのだろう。(見逃しているので、内容の評価は出来ない。)
(来日したルーカス・ドン監督)
 だけど、今回の『CLOSE/クロース』は、むしろ思春期の心の揺れに密着した映画とも思える。二人は仲良しだが、それが同性愛的なものなのかは本人にも判らないかもしれない。まだ性的自認が確立されていない時期では、異性にも同性にも強いつながりを感じることがあると思う。そういう感情を自分も持っていたという人も少なくないのではないか。ただ彼らを追いつめたのは、明らかに「クラスの中のまなざし」だった。そしてレオは「少年だけの世界」に所属したいと望んだ。二人の気持ちが良く判りすぎて、見ていてドキドキして心が痛い。カメラはずっとレオを中心に密着している。僕はこの映画は傑作だと思ったが、かなり見るのがつらい映画でもある。でも是非見て欲しい映画。
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映画『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』

2023年07月26日 23時11分39秒 |  〃  (新作外国映画)
 かつてない猛暑が続いていて、とても出掛けたくないような日々なんだけど、葬儀後の雑用が絶えることなく何かある。ついでにちょっと遠出して『インディ・ジョーンズ』シリーズの新作を見てきた。電車に乗って駅直結の映画館に行けば、涼しいことこの上ない。TOHOシネマズの座席は心地よすぎて、快適な眠りに襲われることも…。まあ、それも良しとする映画体験である。
『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』
 僕は最近のハリウッド製アクション映画をほとんど見てない。若い頃はよく見てたが、それは名画座2本立てでいろいろ見られたのである。ロードショーは学生には高くて行けない。若いうちは鬱屈があって、「スカッと出来る映画」は魅力だった。当時は時間は永遠にあるように思っていたのである。高齢になっても「鬱屈」はあるが、別にスカッとする必要がない。人生の持ち時間が少なくなる一方なんだから、見たらすぐに忘れてしまうような映画に時間を使いたくない。

 例えば『ミッション・インポッシブル』シリーズでは、本当に不可能なミッションなら帰還出来ないはずだが、それではシリーズ映画にならない。シリーズ映画になってる時点で結末は判るわけで、それで良いのだが見る意味はもう薄れてしまう。それにアメリカ製は内容的に引っ掛かることが多い。『ランボー』シリーズなんか、それこそ乱暴な設定が多かった。2022年に大ヒットした『トップガン マーヴェリック』はさすがに良く出来ていたが、そもそもの根本設定に異議がある。僕なら最初の段階で「それは国際法違反なんじゃないですか」と言いたい。そういう意見具申が出来る軍人が望ましい国家公務員だろう。
『レイダース/失われた聖櫃(アーク)』
 インディ・ジョーンズシリーズ第1作は『レイダース/失われた聖櫃(アーク)』(1981)で、とても面白かった。原案・製作総指揮ジョージ・ルーカス、監督スティーヴン・スピルバーグの黄金コンビによる娯楽超大作で、スピルバーグなら何でも見に行った時代である。続けて、『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(1984)、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』(1989)と作られた。これらはカップルで安心して見るのに適当で、僕も夫婦で見た3作目が一番面白かった記憶がある。4作目は時間が離れて『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』(2008)で、これは見逃したと思う。ここまではすべてスピルバーグ監督。

 そして今度の5作目『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』(2023)では、ルーカス、スピルバーグは製作総指揮にまわり、監督はジェームズ・マンゴールドに代わった。誰だろうと思うと、『17歳のカルテ』『ウォーク・ザ・ライン/君へつづく道』『3時10分、決断のとき』『フォードvsフェラーリ』なんかの監督だった。見てるのに名前が覚えられない年になってる。もちろんすべてハリソン・フォード(1942~)主演である。いや、何ともう80歳なのである。007と違って、主演男優を途中で交代させない。それは有名原作があるシリーズじゃなく、映画独自のキャラクターだからだろう。

 あまり中身を書いても仕方ない映画だけど、例によってインディアナ・ジョーンズナチス軍人マッツ・ミケルセン)との対決である。戦時中に始まって、中心となる対決は1969年に設定されている。インディ・ジョーンズの私的な話も交えながら、アルキメデスの遺した「運命のダイヤル」をめぐってし烈な争奪戦が展開される。モロッコやシチリア島のロケが魅力で、特にモロッコのタンジェのシーンは面白かった。ただラスト近くのSF的な展開はどうなんだろうか。楽しめる娯楽アクションに出来上がってるけれど、アメリカでも期待ほどのヒットになってないと言われる。ちょっと無理がある発想になったか。

 結局、ハリソン・フォードの衰えを知らぬようでいて、やはり年を重ねてきた身体こそ最大の見どころだろう。さすがにトム・クルーズとまでは言えないが、これで80歳とはとても思えぬ肉体を披露している。6月30日公開以後、『君たちはどう生きるか』『ミッション・インポッシブル』『キングダム』と毎週話題作が公開されて、インディ・ジョーンズの上映も金曜日から減ってしまう。だから他の作品をおいて見に行ったのだが、満足は満足なりに、こんなものかとも思う出来映えか。最近の大作は長すぎて途中でダレるし、涼しいは嬉しいが段々寒くなってトイレも近くなる。この映画は154分もあって、第1作、第2作は2時間以内だったのを思うと、長さと面白さは反比例しているのかなと思う。
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好調ホン・サンス監督『小説家の映画』

2023年07月09日 20時54分36秒 |  〃  (新作外国映画)
 韓国のホン・サンス監督が最近好調である。ベルリン映画祭では、『夜の浜辺でひとり』(2017)が主演女優賞、『逃げた女』(2020)が監督賞、『イントロダクション』(2021)が脚本賞、そして『小説家の映画』(2022)が審査員大賞と、3年連続計4回受賞している。この間、2021年の『あなたの顔の前に』はカンヌ映画祭オフィシャル・セレクションに選ばれ、2022年のキネマ旬報ベストテン10位に入賞した。でも僕はホン・サンスの映画は苦手であまり見て来なかった。

 1996年の『豚が井戸に落ちた日』がデビューだから今年で27年になるが、最新作『小説家の映画』は何と長編映画27作目である。作りすぎで、とても全部見ていられない。短い映画が多く、『逃げた女』は77分、『イントロダクション』は66分、『あなたの顔の前に』は85分、そして今回の『小説家の映画』は92分である。最近ではムダに長い映画が多く、短いのは体力的にありがたい。だが、この時間ではどうしても本格的人間ドラマになるはずもなく、淡彩的人間スケッチが多くなる。それもいいけれど、『それから』『逃げた女』なんか、えっ、これで終わっちゃうの的ラストに驚いてしまった。

 最新作『小説家の映画』公開に合わせ、江東区菊川に出来た小さな映画館「Stranger」で特集上映をやっていたので、『あなたの顔の前に』と近作2本を続けて見てみた。どっちもなかなかゴキゲンな映画で、満足感が高い。ホン・サンス映画と言えば、2015年の『正しい日 間違えた日』以来、キム・ミニが主演を務めることが多かった。いつの間にか、この二人は「公私ともにパートナー関係」と言われるようになって、それはつまり「不倫」なので、韓国映画界から無視されている感じ。だが、2本の最新作にはイ・ヘヨンという大女優が主演していて、それが功を奏している。イ・ヘヨン(1962~)は80年代以後に、数多くの舞台、テレビで活躍してきた人だという。映画にもずいぶん出ていたようだが、あまり意識したことがなかった。

 『小説家の映画』はモノクロ映画だが、ホン・サンス映画では「今どき珍しく」とは言えない。カラー映画だと、あれ今回はカラーなのかと思うぐらいである。イ・ヘヨン扮するジェニは有名小説家らしいが、最近はしばらく書いていない。今日はやはり作家を引退状態の後輩がやっている書店兼カフェを訪ねるところ。ちょっと小耳にはさんで会いに来たという。その後、近くのタワーに寄ると、ちょっとした知り合いの映画監督夫妻に出会う。そのタワーはユニオンタワーと言われている。調べてみると、ソウル東方の河南市にあって漢江を望める。ソウルのベッドタウンだが、ちょっと都心から離れたという感じだろう。
(『小説家の映画』)
 ジェニと監督夫妻はタワーを下りて散歩しようと思うと、そこで女優のギルスキム・ミニ)と出会う。ギルスは人気があったのに、しばらく仕事をしていない。陶芸をやってる夫と静かに暮らしているらしい。監督はそれは良くないと批判したが、ジェニはギルスは大人なんだから自分で決めればいいと反論する。二人は気があって、ジェニはギルス出演の映画を作ってみたいと言い出す。その後、食べに行くことになったが、ギルスに電話が掛かって来る。急に人が少なくなったので詩人との会食に来ないかという。ギルスはジェニも一緒にどうかと誘う。もうこの辺でこの映画の仕掛けが判ってくる。
(『小説家の映画』)
 この映画の中心的な登場人物である、ジェニとギルスは「とても知られている人だが、最近は仕事に行き詰まっている」という共通点がある。それがひょんな出会いから、小説家であるジェニが映画製作を思い立つのである。出会いが出会いを呼ぶ「奇跡の一日」が生み出した映画とは…? 知り合いにばかり偶然出会うのは、普通ならおかしいけど、この映画ではあまり不自然には感じない。そのような「仕掛け」で作られたエッセイのような映画だと判っているからだ。会話だけでドラマらしいドラマも生まれないが、とても気が楽になる映画。ラストに出て来る劇中劇(映画中映画)はカラーでハッとする。

 その前の『あなたの顔の前に』はイ・ヘヨン演じるアメリカ帰りの元女優サンオクが突然帰国して始まる。妹のマンションにいるが、かつて突然駆け落ちしてアメリカに行ったため、妹とも疎遠になってきた。今何故帰って来たのかも妹には言わない。時々神様に向かって心の中で語りかけるだけ。ある日は思い立って、姉妹で川沿いのカフェに朝食を取りに行く。なんて言うこともない会話が続き、甥(妹の息子)が始めたというトッポッキ屋に行ってみる。その後会食に向かうが、時間と場所が急に変わったため、幼い頃に住んでいた梨泰院に寄ってみる。そして会食に行くと、そこではサンオクに出演依頼した映画監督がいる。
(『あなたの顔の前に』)
 この映画監督は次作『小説家の映画』でも映画監督をやってる。クォン・ヘヒョという俳優で、近年のホン・サンス映画には出突っ張りで、「この人は一体何なんだろう?」という観客を苛立たせる役柄を巧妙に演じている。『それから』の出版社の社長役が印象的だが、独善性を体現するような役柄をいつも楽しげにやっている。『冬のソナタ』にキム次長役で出演していた人である。この映画も短いながら、人生のエッセンスを巧みに切り取って見事。キム・ミニは出演せず、プロデューサーに回っている。ちょっとした場面で、ハッとしたりホッとしたりする。上手いなあと思った。
(ホン・サンス監督とキム・ミニ)
 ホン・サンス(洪常秀、1960~)の映画は人を選別するかもしれない。好きな人にはハマってしまう魅力があるらしい。僕はそこまで好きじゃないけど、この2作に関してはキャリア・ベスト級かもしれないと思う。韓国映画という範疇で考えると、たくさん作られている犯罪や恋愛の大作映画とは全然違い、イ・チャンドンやパク・チャヌク、ポン・ジュノなどのアート系の世界的巨匠とも違う。というか、世界の誰とも違う独自のタッチの映画を作り続けて来た。その軽いタッチのエッセイ風映画も、次第に手法的に洗練を極めて、人生の深淵に触れる瞬間をサラッと描くのである。
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イタリア映画『遺灰は語る』、劇作家ピランデッロの遺灰

2023年06月27日 22時34分36秒 |  〃  (新作外国映画)
 最近古い映画を見ることが多くて、なかなか新作映画を見てないんだけど、同じ映画館でやってるから『青いカフタンの仕立て屋』に続いて『遺灰は語る』という映画を見た。あまりにも変テコな映画なので、紹介しておこうと思う。イタリアのパオロ・タヴィアーニ監督(1931~)91歳の作品である。というか、クレジット的には「デビュー作」と言うべきか。今までは兄のヴィットリオ・タヴィアーニ(1929~2018)と一緒に映画を作ってきて、「タヴィアーニ兄弟」と呼ばれてきた。兄の死後、高齢になってから一人で映画を作ったという心意気に驚くしかない。

 僕はイタリア映画が大好きで、ずいぶん見てきた。タヴィアーニ兄弟は『父 パードレ・パドローネ』(サルデーニャ島)、『サン・ロレンツォの夜』(トスカーナ)、『グッドモーニング・バビロン』(ハリウッドのイタリア移民)など、イタリア民衆の歴史を地方色豊かに描いてきた。その中に『カオス・シチリア物語』(1984)というオムニバス映画があり、題名通りシチリア島の風土が生かされた秀作だった。これは劇作家ルイジ・ピランデッロの短編小説からいくつか選んで映画化したものだった。
(ピランデッロ)
 ルイジ・ピランデッロ(1867~1936)は『作者を探す六人の登場人物』(1921)という「メタ演劇」のような戯曲で世界的に有名になった。主に劇作家として活動し、1934年にノーベル文学賞を受賞している。映画はその授賞式のニュース映像から始まる。監督は先の映画を作ったときに、今回の映画を構想していたというのだが、そのピランデッロの「遺灰」の行方を追うというのが今回の映画。シチリアの海に撒いて欲しいという遺言だったが、死んだ1936年はファシズム真っ盛り。独裁者ムッソリーニがローマに留め置けと命じて、ローマの壁に中に埋め込まれたのである。
(死ぬ前のピランデッロと子どもたち)
 敗戦後に生まれ故郷のシチリア島アグリジェント市から遺灰引き取りの特使が派遣されてきた。当時のニュース映像をふんだんに交えながら、ずっと白黒映像で当時のゴタゴタを再現していく。壁を打ち抜き遺灰を取り出すのも一苦労、そこから壺を入れ替える。シチリアまでは米軍が飛行機を出してくれることになったが、機内ではそれが遺灰だと気付いた乗客たちが次々と下りてしまう。縁起が悪いということらしく、そのため飛行機も飛ばなくなってしまった。やむなく汽車で向かうが、そこでまたまた御難が続く。敗戦直後のいろんな民衆像を点描しながら、ついにシチリアに着くのだが…。
(シチリアの海に)
 シチリアでもゴタゴタが続くのだが、それはもう書かなくて良いだろう。ようやく最後に白黒映像がカラーになって、これで終わりかと思うときに、これが一番驚いたのだが、もう一つの物語が始まってしまう。ピランデッロは最後にニューヨークのイタリア移民の子どもに起こした事件を描く戯曲を残したという。その『』という話がまた不可思議なもので、空き地で遊んでいたイタリア系少年が釘を拾い、ケンカしていた二人の少女の一人に突き刺す。理由は不明で、警察にはそういう「定め」だったと供述する。
(パオロ・タヴィアーニ監督)
 アメリカが舞台だから、ここは英語劇になっていて、「定め」は「purpose」と表現している。言うまでもなく、この単語は普通は「目的」という意味で使われる。調べてみると、「決意」とか他にもいろいろあるようだが、「定め」というのはちょっと違う気がする。まあ、それはともかく、突然訳の判らない劇が英語で始まるので唖然とする。「人生不可解」という意味かと思うけど、こんな映画を90歳過ぎて作っちゃうトンデモ老人にも驚くしかない。2022年ベルリン映画祭国際映画批評家連盟賞受賞作品
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