尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

モロッコ映画『青いカフタンの仕立て屋』

2023年06月26日 22時16分37秒 |  〃  (新作外国映画)
 モロッコの女性監督マリヤム・トゥザニの『青いカフタンの仕立て屋』という映画が公開された。これは人々をじっくり見つめた静かな映画だが、非常に勇気ある映画で感銘深い。2022年カンヌ映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞した。監督は昨年日本公開された前作『モロッコ、彼女たちの朝』でデビューしたが、イスラム社会で「未婚で妊娠した女性」を描くという勇気ある映画だった。ただ貴重なテーマだが、完成度には不満もあって、ここには書かなかった。

 今回は「伝統に生きる職人」を扱いながら、同性愛的志向をテーマとするという驚くべき作品である。主人公はハリムミナという夫婦で、古都サレの旧市街でカフタンの仕立て屋をやっている。カフタンというのはアラブ社会の伝統服で、美しい刺繍を施している。特に結婚式などで使われ、母から娘へ受け継がれるという。長袖・前開きのガウンのようなもので、色は様々。今は頼まれた青いカフタンに刺繍しているが、もちろん各色の布を用意してある。題名だけでは、「青いカフタン専門店」みたいだけど、そういうことではない。
(カフタンの刺繍)(カフタン)
 夫婦で協力して店をやっていて、伝統的な手作業を重視している。客からはミシンを使って早くやってくれと言われているが、ミナは「夫は機械ではない」と言い返す。心配なのは、最近ミナの体調がすぐれないことで、時々倒れたりする。お金が掛かるだけだから、もう医者には行かないと言っている。最近ユーセフという若者を雇ったが、日本と同じく職人仕事は若者に嫌われるらしく、どうせまたすぐ辞めるだろうとミナは言っている。しかし、ユーセフは刺繍が上手で、案外職人仕事を苦にしないようである。
(ハリムとミナ)
 舞台となっているのはサレという町で、特に陶工が多いらしいが手工業が盛んな町なのだという。首都ラバトと川を隔てた隣町で、一体になって発展してきた町であ。前作はカサブランカ旧市街のパン屋が舞台だったが、今回も迷路のような旧市街が映し出されている。市場にはミカンが山積みになっていて、ミナは食欲もなくなっているがよく買ってくる。そのような日常をエキゾチックにではなく、庶民目線で描いていて興味深い。
(サレの位置)
 だけど、やっぱり一番重要なのは主人公ハリムのセクシャリティである。彼はミナと巡り会い支え合って生きてきたが、自分は正直じゃなかったと告白する。彼は時々公衆浴場に行って、個室を借りている。それが意味することを察するとき、彼がいかにイスラム社会で危険な生き方をしているかが見えてくる。そして、職人肌のハリムに憧れるユーセフが現れて、ハリムとミナの関係にもさざ波が立つようになる。その当たりの心理を繊細に描いていく手際が前作より遙かに上手だし、心に触れる。ここまで描いてモロッコで公開出来るのか心配になるが、実際に何度か延期された後に最近ようやく上映されたということである。
(左からユーセフ、ミナ、ハリム)
 マリヤム・トゥザニ(1980~)はモロッコに止まらず、世界の若い女性監督として注目すべき存在だ。この勇気ある映画を作るに当たって、今回日本公開に寄せたインタビューで「表現しなくてはいけないこと、語るべきことがあるなら、勇気は関係ありません。欲望や愛は、タブーやスキャンダルの対象ではないのです。他の国々と同じように、モロッコも同性愛を禁ずる法律を廃止するために立ち上がらなくては。」と語っている。
(マリヤム・トゥザニ監督)
 ミナ役のルブナ・アザバル(1973)はイスラム世界を代表する女優で、『パラダイス・ナウ』『灼熱の魂』『テルアビブ・オン・ファイア』などに出ている。監督の前作『モロッコ、彼女たちの朝』でも主演している。ハリム役のサーレフ・バクリは『迷子の警察音楽隊』に出演した人で、アラブ人俳優はアラブ世界でどこでもキャスティング出来るのだろう。ユーセフ役のアイユーブ・ミシウィという人は、モロッコの俳優で映画デビュー作だという。
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映画『ウーマン・トーキング 私たちの選択』、驚きの実話

2023年06月12日 22時30分01秒 |  〃  (新作外国映画)
 2023年米国アカデミー賞の脚色賞を受賞した(作品賞にもノミネート)、『ウーマン・トーキング 私たちの選択』が公開された。2週目にして上映時間が少なくなったので、早めに見に行ったのだが…。いや、なかなか難しかったのである。方法的に難解だというのではない。設定を理解するのが難しく、自分との接点が見つけにくい。しかし、その設定のぶっ飛びぶりを紹介しておく意味もあるかと思って書くことにした。題名だけ見ると、セクハラ企業の話かなんかと思うかと思うが、そうではない。

 そのことは事前に知ってはいたんだけど…。一般論として、事前にどこまで調べてから行くか。旅行だと一応調べて行くことにしているが、現地に行くとまた知られざる名所がある。映画や演劇の場合、何か情報があって見に行くんだけど、あまり細かな筋書きを調べていくとつまらない。展開に驚きたい気持ちもある。原作ものは別である。原作をいかに生かしているか、または変更しているかを見たい時もあって、原作を読み直して行く時もある。今回はあまり細かな筋は読んでなかったけど、現代の会社の話なんかではなく、昔ながらの暮らしをしているキリスト教系教団のコミュニティで起こった出来事だという程度の情報で見たのである。
(話し合う女たち)
 そのため、時代や場所をよく知らないまま、何か古い時代っぱいから、19世紀か20世紀初頭頃のアメリカの田舎で起きた事件かと思ってしまった。ところが途中で、これは現代の話かと気付く出来事がある。そして登場人物が「南十字星」って言葉が出て来る。家に帰ってから調べてみると、こんなことだった。カナダの女性作家ミリアム・トウズが2018年に出した『Women Talking』という小説があり、その映画化権を3度アカデミー主演女優賞を受賞したフランシス・マクドーマンドが獲得し、ブラッド・ピット率いる映画会社PLAN Bに企画を持ち込み、自ら製作にも加わった。そして、『アウェイ・フロム・ハー君を想う』などを作ったサラ・ポーリーが脚色、監督を担当したわけである。
(サラ・ポーリー監督)
 農場で奇怪な事件が相次ぐ。少女たちが朝起きてみると、記憶にない傷が付いている。中にはレイプされた大人の女性もいる。前からあったらしいが、キリスト教団体なので、悪魔の仕業などと決めつけられてきた。ところが少女が犯人を見ていて、ついに捕まることになった。地元警察が乗り出し、自供に基づき男たちが軒並み拘束されたのである。その男たちが保釈されて戻って来るらしい。そこで農場の女たちは、決断を迫られる。「許すか」「残って闘うか」「出ていくか」である。出ていくと、破門され天国に行けないという意見もあるが、最初の「許す」はあり得ないとなる。では残った二つのどちらを選ぶか。

 それを納屋に集まって延々と論じるのが、この映画である。女だけのところに、読み書きが出来る男性オーガスト(ベン・ウィショー)だけが書記として話合いを聞いている。彼は一度教団を出た経験があり、特別な位置を占めていた。彼が思いを寄せているオーナ(ルーニー・マーラ)初め、彼女たちはどのような選択をするのか。非常に緊迫したセリフと映像で進んで行くが、どうにも話に現実感がない。セクハラ企業で「労働組合を作って闘うか」「全員で退社するか」という論争なら、身近に引きつけて考えることも出来るだろうけど…。

 これは実話だというし、原作もベストセラーになったらしい。だからアメリカではおおよそ事前に情報を知って見ているのかもしれない。2009年から2年間に48人の女性が睡眠中にレイプされた事件が起こった。動物麻酔剤を使用して眠らせていたらしい。場所はボリビア東部にあったキリスト教系コロニーである。「メノナイト」という一派で、中にはいろいろ違いがあるようだが、現代的な生活を拒否して昔ながらの農業共同体を海外にいくつも作っているらしい。外国へ行って、閉鎖的な「植民地」を築くということ自体に問題があっただろう。そのような実話があって、それが小説になり、映画になった。

 映画の完成度は立派なものだが、まさか21世紀に起きた出来事とは思えず、どうも自分の身に迫って来ない恨みがある。テーマは重要なものだが、いくら何でも、こんなことがずっと続いたということが理解出来ないのである。ところで、女たちが話し合うわけだから、原題は『Women Talking』である。独り言じゃないんだから、当然複数形である。それを「ウーマン・トーキング」と単数形の邦題にするのはどうなんだろうか。日本で公開するんだから、日本風で良いとも言える。でも「ウィメン」でも、みんな判るのではないか。また(モンキーズが歌った)「デイドリーム・ビリーバー」が思わぬ形で映画に出て来たので驚いた。
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映画『TAR/ター』、ケイト・ブランシェット最高の演技

2023年05月24日 22時59分17秒 |  〃  (新作外国映画)
 『TAR/ター』という映画が公開された。これはベルリン・フィル初の女性常任指揮者になったリディア・ターの栄光と失墜の日々を描いている。ターはもちろん架空の存在だが、ケイト・ブランシェットがあまりにも素晴らしいので実在人物と信じる人がいたという。ヴェネツィア映画祭女優賞(2度目)、ゴールデングローブ賞主演女優賞(ドラマ部門、3度目)を獲得し、アカデミー賞最有力と言われたが結局ミシェル・ヨーが受賞した。すでに主演、助演と2度アカデミー賞を受賞したケイトより、「多様性」アピールの選出だったかなと思う。しかし、演技そのものではケイト・ブランシェットの圧勝だと思う。

 リディア・ターは単に指揮者のみならず、作曲家としても知られている。請われてジュリアード音楽院でも教えるようになり、今やキャリアの絶頂にいる。その存在感は圧倒的で、教わる側は圧迫感を覚えるかもしれない。ジュリアードではある男子学生がJ・S・バッハは女性の扱いに納得出来ずに弾かないと主張する。それに対してターはそれは間違っていると厳しく批判する。自分は完全なレズビアンだが、性的指向のみで音楽を見るべきではない。それにバッハは(2人の妻との間に)20人の子がいたが、「活発な夫婦生活」を非難するのかと。その後、空港でクリスタという若い女性がターにいろいろ質問していて時間が掛かっている。

 その時に後ろにいて時間管理をしているのがフランチェスカ。アシスタントをしながら、副指揮者を目指している。演じているノエル・メルランは、『燃える女の肖像』で画家をやってた人。ベルリンへ戻ると、ベルリン・フィルのヴァイオリン奏者シャロン(ニーナ・ホス)の家に行く。彼女が今のパートナーで、養女ペトラを一緒に育てている。客演指揮者に招かれた時に知り合い、二人で常任になるための策略をベッドで練ったんだと言う。ベルリン・フィルではマーラーを録音して評価が高いが、全交響曲制覇を目指しながらコロナ禍で5番だけが残っている。そして今ようやく5番の練習が始まったのである。

 このように最初は絶頂時代なのだが、次第に綻びが生じてくる。ベルリン・フィルでの副指揮者の交代、それに伴うフランチェスカの離反、新しいチェリスト選び、そして若い女性チェリストのオルガソフィー・カウアー)の登場。マーラー5番とともに公演するもう一曲として、オルガの得意なエルガーのチェロ協奏曲を選び、独奏者はオーディションで選ぶと決める。寵がオルガに移ったのかと思う展開の中で、ターの周囲では不穏な出来事が多発するのである。個人的にも、また社会的にも追いつめられていくター。そこでの多面的かつ鬼気迫るケイト・ブランシェットの演技が素晴らしいというか、とにかく怖いほどに凄い。
 
 リディア・ターはパワハラ、セクハラを行っていたのか。そのようにとらえる論評もあるが、僕は真実の判定は難しいと思った。スマホ持ち込み禁止のはずのジュリアードでの動画がネット上に流出する。誰かの意図的な悪意、陰謀が存在したのである。だがターは栄光の絶頂にいて、自らのパワーを恣意的にもてあそんでしまったのも確かだ。そして「性的マイノリティの女性指揮者」として生きていくには、万全の注意が必要なはずだった。ターはその点抜かったことで、大きな代償を払うことになる。

 全編を通してケイト・ブランシェットの演技は圧倒的で、特に指揮やドイツ語を学んでベルリン・フィルを自在に動かすのは凄い迫力。もちろん現実のベルリン・フィルじゃないけど。撮影はドレスデン・フィルの本拠地を使えたということで、臨場感が素晴らしい。もともと『エリザベス』女王役で知られたように、権力的な振る舞いが上手。アカデミー賞を獲得した『ブルー・ジャスミン』の勘違い女も見事だったけれど、今回のリディア・ターこそキャリアベストだと思う。トッド・フィールズ監督がケイト・ブランシェットに充て書きした脚本の映画化である。トッド・フィールズって誰だっけという感じだが、『イン・ザ・ベッドルーム』(2001)、『リトル・チルドレン』(2006)という映画を作って好評だった人だった。

 ベルリン・フィルハーモニー交響楽団にはもちろん常任女性指揮者など存在しない。フルトヴェングラーカラヤンが君臨した「伝説」の楽団だが、89年4月のカラヤン辞任後はクラウディオ・アバド(90~2002)、サイモン・ラトル(~2018)が務めた。現在はロシア出身のキリル・ペトレンコで、ウクライナ侵攻を非難している。僕は女性指揮者と言われても一人も名前が挙らない。何人もいるということは知ってるけど、指揮者の世界はもっとも女性を遠ざけてきた芸術部門かもしれない。いろいろと現代社会の問題に広がるが、とにかく圧巻の演技を楽しむ映画だろう。
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映画『EO イーオー』、ロバから見た人間世界

2023年05月19日 21時56分52秒 |  〃  (新作外国映画)
 ポーランドの巨匠、イエジー・スコリモフスキ監督の『EO』はとても不思議な映画だ。何しろ主人公がロバという映画なのである。同じくロバを見つめた映画としてロベール・ブレッソン監督『バルタザールどこへいく』(1966)という映画があった。(2020年にリバイバル公開されたので、その時に紹介した。)やはりその映画にインスパイアされて、今回の『EO』を作ったという。(題名の「EO」「バルタザール」というのがロバの名前。)『EO』はカンヌ映画祭審査員賞を受賞するなど、世界各地で高く評価された。映像は素晴らしく美しいが、本当に「ロバから人間世界を見る」ので、なかなか判りにくいとも言える。

 この映画からすると、研ぎ澄まされた映像で知られるブレッソン監督もずいぶん人間側の事情を描いていた。ましてや日本の『南極物語』とか『ハチ公物語』などは、動物映画というより動物を擬人化して描く人間ドラマにしか過ぎなかった。そのぐらい『EO』は徹底して動物からしか描かない。ほとんどセリフもないし、完全にロバ目線。動物は言葉をしゃべれないから、そこで何を感じているのか、一体どんな場所なのか、一切ナレーションしてくれないのである。だから、やっぱりこの映画は判りにくい部分がある。いやあ、ビックリという感じである。

 ロバのEOはサーカスにいた。カサンドラという女性と組んで、芸を披露している。カサンドラはEOを愛していて、お互いに上手く行ってる感じが伝わってくる。ところがポーランドの町で動物解放運動のデモにぶつかった。サーカスは動物虐待だとしてEOは無理やり「解放」されてしまった。そこからEOの放浪が始まっていく。こういう「過激」な動物解放運動がヨーロッパにはあるらしいが、しかし勝手にサーカスの私有財産を「解放」するのは行き過ぎだろう。それはポーランドではありうることなのか、それとも設定として作ったことなのか。そういう説明が全くないから、見ていて困るわけである。
(ロバのEO)
 その後、牧場へ行って人間にも馬にも相手にされたり、サッカーチームに勝利の女神扱いされたり(相手チームからは恨まれたり)、競走馬の食肉処理場に連れて行かれたりする。こいつはロバだぞと言うけど、ロバもサラミになると言われる。その間、逃げ出しては大自然を放浪し、素晴らしいロードムーヴィーみたいなんだけど、肝心の主人公が何も言ってくれない。まあ悲しそうな目が忘れられないけれど、勝手に擬人化して良いのか判らない。そして貴族の館に連れて行かれ、人間界の愚かな闇を見るのである。
(ダム湖を行く)
 これは上映時間88分の美しき寓話であり、本格的なドラマとは言えない。淡々とロバの行く末を追い続ける映画で、判らんともつまらんとも思えるが、ロバの賢そうな目を見るとすべてを見抜いているとも思える。まあ変わった映画には違いない。監督のスコリモフスキは1938年生まれの85歳。1962年にロマン・ポランスキー監督の傑作『水の中のナイフ』の脚本を共同で執筆して知られた。その後、共産主義時代のポーランドを離れて西欧諸国で映画を作った時期もある。一時は監督を離れて俳優に専念した時期もあり、『イースタン・プロミス』『アベンジャーズ』など世界的に知られた映画にも出ている。
(スコリモフスキ監督)
 2008年に監督に復帰、ポーランドで『アンナと過ごした四日間』を作って東京国際映画祭で審査員賞を受けた。これも暗く変テコな一種のストーカー映画。『エッセンシャル・キリング』『イレブン・ミニッツ』とその後作った映画も変である。日本で最初に公開された『早春』(1970)はイギリスで撮影した青春映画だが、僕は大好きだったけどやはり変で怖い。今までの全作品が同じような感じで、世界各地の映画祭でずいぶん受賞歴があるけど、文芸大作とか感動映画とかは作らずに個人的なワン・アイディア映画が多い。そういう意味で、この映画こそ典型的なスコリモフスキ映画という感じ。
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映画『帰れない山』、人生を深く描く感動の文芸大作

2023年05月18日 22時19分05秒 |  〃  (新作外国映画)
 『帰れない山』と『EO』という2本のヨーロッパ映画が公開されている。どちらも2022年のカンヌ映画祭審査員賞を受賞したという共通点がある。カンヌ映画祭は最高賞がパルムドール、次賞がグランプリだが、毎年変わる審査員の好みによる偏りが大きい。昨年の場合もヨーロッパで大受けしたブラックユーモアの『逆転のトライアングル』よりも、審査員賞の2本の方がずっと感動的な映画だった。特に『帰れない山』は圧倒的な感銘を与える名作だと思う。(『EO』は次回回し。)

 『帰れない山』の監督・脚本はベルギーのフェリックス・ヴァン・ヒュルーニンゲンシャルロッテ・ファンデルメールシュという人で、『オーバー・ザ・ブルースカイ』というベルギー映画を作った人だった。しかし、今回はイタリアを舞台にした映画で、パオロ・コニェッティ(1978~)という作家の原作を映画化したものだった。原作はイタリア最高とされるストレーガ賞を受賞して、日本でも翻訳されている。自分が知らなかっただけで、世界的名作の映画化だったのである。そして映画でもイタリア最高のダヴィッド・デ・ドナテッロ賞の作品賞や撮影賞など4つを獲得した。

 思った以上に本格的な大河ドラマで、147分もあるが全く時間を感じなかった。イタリア北部トリノの北方、アルプス山脈の麓が主な舞台である。11歳のピエトロはトリノに住んでいて、夏は山の村へ避暑に行く。村は過疎化が進んで、同世代の男の子はブルーノしかいない。すぐに一緒に遊ぶようになり、二人は大自然の中を駆け回り友情を育んだ。映画はこの二人の何十年にも及ぶ人生を描いていく。ブルーノの父は出稼ぎに行っていて、村では伯父さんの牧場を手伝っている。ある日ピエトロの父がやってきて、二人を本格的な登山に連れ出す。子どもには危険だと言われながら、氷河を目指す場面はすごい迫力だ。
(父とともに氷河を登る)
 ブルーノは成績が振るわず退学を迫られるが、ピエトロの父がトリノに引き取って学校に通わせようと考えた。しかし、ブルーノの伯父は突然彼を建築現場の見習いに送ってしまう。こうして二人の友情は一端途切れる。青年期になって再会するが、二人に共通の話題はなかった。冒頭の少年時代の場面に1984年と出る。その時11歳だから、ピエトロは1973年生まれである。今年50歳になる世代の現代の青春物語である。ピエトロは何になるべきか迷いながら、なかなか定職にも就かない。そんな時父親が急死して、初めて父がブルーノと会い続けていたことを知る。山に土地を求めて、そこに小屋を建てようと夢見ていたのである。
(ピエトロとブルーノ)
 ブルーノは約束だから一人でも小屋を建てるという。ピエトロも放っておけず、一緒に小屋を作り始める。これがまた素晴らしい場所にあって、見応え十分の風景に魅せられる。こうして友情が復活し、ピエトロが山小屋に連れて行ったラーラとブルーノは結ばれる。二人は牧場を再建し、昔ながらのチーズ造りを始めた。ブルーノは一足先に大人の世界を歩み出したと思ったのだが…。一方、ピエトロは居場所を求めて世界を放浪し、ネパールでヒマラヤ山脈を見る。その体験を本に書いて、評判になった。
(一緒に山小屋を作る)
 こうして長い友情の物語は大団円を迎えるのかと思う時に、世界は暗転してしまう。ブルーノの牧場は破産して銀行に差し押さえられ、というラストは書かない。このようにストーリーを追い続けても、この映画の真の魅力は伝わらない。圧倒的な山岳風景を見ながら、見るものも自分の人生の数十年を振り返る。原題の「Le otto montagne」は「8つの山」という意味。ピエトロがネパールで聞いた「世界の中心には最も高い山、須弥山(スメール山、しゅみせん)があり、その周りを海、そして 8 つの山に囲まれている。8つの山すべてに登った者と、須弥山に登った者、どちらがより多くのことを学んだのでしょうか」から来る。

 これは「根を持つこと」と「翼を持つこと」の例えだろう。ブルーノは地方に育ち、酪農や建築の技術を持っている。確かに大地に根を張って生きているように思える。一方のピエトロはなかなか居場所を見つけられず、世界を放浪していく。どちらの生き方が良いとか悪いとか言えない。自分でも、また自分の周りでも、青春彷徨のさなかに「根」と「翼」の双方に引き裂かれながら生きてきたのである。いつの時代、世界のどこでも同じだろう。青春の悩みと友情をかつてない規模で描き出した一大叙事詩だった。

 ピエトロを演じるルカ・マリネッリは、『マーティン・エデン』でヴェネツィア映画祭男優賞を獲得した人である。ブルーノはアレッサンドロ・ボルギという人で、僕は知らなかったけど実に見事。撮影のルーベン・インペンスはカンヌ映画祭パルムドールの『チタン』などを担当した人。大自然の映像美に圧倒された。そのような山岳風景の素晴らしさは見事なものだが、それ以上に「人生を深く考える」ところにこそ深い感銘があった。
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映画『聖地には蜘蛛が巣を張る』、イランの恐るべき連続殺人を追う

2023年05月05日 22時10分44秒 |  〃  (新作外国映画)
 連休期間はどこも混雑で、人が多そうな映画に行く気がしない。そんな中で多分満員じゃないだろう映画を見に行った。思ったより入っていたけど、『聖地には蜘蛛が巣を張る』は最近見た中で一番恐ろしい映画だった。連続殺人を扱うが、ミステリーでもホラーでもない。そういう要素もあるが、基本は現代イランの恐るべき闇を暴き出す映画である。真相を追究する女性ジャーナリストを演じたザーラ・アミール・エブラヒミの身を張った活躍が素晴らしく、2022年カンヌ映画祭女優賞を受けた。

 イラン北東部マシュハドは人口300万もあり、首都テヘランに次ぐイラン第2の大都市である。ここはシーア派(12イマーム派)の第8代イマーム、アリー・アッ・リダーが殉教した地で、大きな墓廟に巡礼する人が絶えない。宗教的聖地としてイラン国内でも保守派が多い町として知られているという。そんな町で、2001年に娼婦ばかり16人が続けて殺される事件が起こった。犯人は「蜘蛛(くも)」を名乗って新聞社に電話して犯行を知らせていた。事件は「町を浄化する」ためだというのである。この実際の事件をモデルにした映画だが、イラン当局に認められずマシュハドでの撮影が出来ず、ヨルダンで撮影とクレジットされていた。
(マシュハドの位置)
 事件がなかなか解決しないことを疑問に思って、テヘランから女性記者ラヒミザーラ・アミール・エブラヒミ)がやってくる。予約してあったにも関わらず、ホテルでは女性一人の宿泊に難色を示す。ジャーナリストの身分証を示して、ようやく部屋に案内された。テヘランではセクハラ、パワハラを受け、逃れるようにこの事件の取材にやってきたのである。警察当局や聖職者に会いに行き、何故犯人が捕まらないのか、当局はちゃんと捜査しているのかと追求する。ラヒミが時と所によって、スカーフの被り方を微妙に変えるのも見どころだ。「道徳警察」がある国だから注意がいるのである。
(ラヒミ)
 「犯人当て」的な意味では、途中で犯人側の描写に変わるので「コイツだったか」という感じで観客には判ることになる。彼はバイクで娼婦を拾い、自分の家まで連れてきてすぐに殺害していた。妻子があるのだが、時々実家に帰ることがあるらしく、一人になった時に犯行に及んでいる。ラヒミは取材を重ねて、広場の清掃員がバイクに乗る犯人を遠くから見たことがあると突きとめる。警察は彼に聞き込みしておらず、やはり徹底捜査はなされていないのだ。そこでラヒミは地元の記者と協力して、自らオトリになって犯人をあぶり出すことを決意する。厚化粧して広場に立つと、案の定バイクに乗って誘う男が現れた…。
(警察で取材するラヒミ)
 そこから相当恐ろしい展開になっていくが、先は書かないことにする。監督、脚本はイラン出身ながら北欧で活躍しているアリ・アッバシ(1981~)で、『ボーダー 二つの世界』(2018)がカンヌ映画祭「ある視点」部門グランプリを受賞した。日本でも公開され好評だったけど、僕はなんか気持ち悪い設定が好きになれず、ここでは書かなかった。今作はデンマーク、ドイツ、スウェーデン、フランスの合作映画で、デンマークから米国アカデミー賞の候補作に推薦された。監督は連続殺人の映画を作りたいわけではなく、「連続殺人が起きる社会」、その女性嫌悪(ミソジニー)を描くのが目的だったと言っている。
(アリ・アッバシ監督)
 殺人も恐ろしいが、その殺人犯を英雄と讃える社会はもっと恐ろしい。この映画はまさにその恐ろしさを実感させる映画で、犯人の若い息子には父を継げと言う人までたくさんいるのである。最近読んだ『記者襲撃』で、殺人を何とも思わない「正義感」あふれる右翼を読んだばかりである。この映画の犯人も「麻薬中毒の売春婦」を神に命じられて排除しているという意識なのである。主人公を演じたザーラ・アミール・エブラヒミは、元婚約者から性的な映像をネットに流される事件があってイラン芸能界から事実上追放されたという。現在はフランスを中心に活動していて、今回の演技は自身の経験から来る鬱憤を晴らすかのような熱演である。イラン映画では見ることが出来ないイランの闇を追求した勇気ある映画で、見応えがあった。
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映画『アダマン号に乗って』、セーヌ河岸のデイケア・センター

2023年05月03日 20時47分44秒 |  〃  (新作外国映画)
 2023年のベルリン映画祭で金熊賞(最高賞)を受けたニコラ・フィリベール(Nicolas Philibert、1951~)監督の新作『アダマン号に乗って』(Sur l'Adamant)が公開された。日本の映画配給会社ロングライドが出資していて、そのことは大きく報道された。そのため公開が早まって、ゴールデンウィーク公開になった。僕はテーマ的に是非見たいと思っていたが、公開早々に見たのは、他の映画が満員で入れなかったから。この映画は面白かったけれど、同時に「観客を選ぶ映画」だなと思った。ドキュメンタリー映画でストーリーがないので、寝てる人もいるようだった。

 ニコラ・フィリベールという人は、一貫して「ただ見つめる」ようなドキュメンタリー映画を作ってきた人である。日本では『音のない世界で』(1992)、『ぼくの好きな先生』(2002)などが公開されてきた。近作は看護学校の学生たちを描く『人生、ただいま修行中』(2018)で、自分が救急外来で集中治療室に入ることになり看護師の映画を作ろうと思ったという。その映画は見逃したが、『ぼくの好きな先生』は見たと思う。地方の小学校を舞台にした映画だった。
(ニコラ・フィリベール監督)
 今回はパリのど真ん中である。でもエッフェル塔とかルーブル美術館などは全く出て来ない。ひたすらセーヌ川に浮かぶ船のような建物だけで進行する。毎朝鍵を開ける女性がいて、窓を開けていく。そこにいろんな人が出入りするが、映画は全く説明しない。普通のドキュメンタリーだと、ナレーションや字幕で「ここはどんな場所か」を示すものだろう。チラシ等を見て行ってるから、ある程度のことは事前に知っている。「精神科のデイケア・センター」なのである。だけど運営主体などの説明は最後になってようやく出て来るだけ。見る者もひたすら映された人々に寄り添って、彼らの言うことを聞くのである。
(アダマン号)
 このように映画撮影そのものが一種のカウンセリングみたいな作品だ。通う人の中には、ギターを持って歌う人あり、絵を描く人あり。それがなかなかの出来で、つい見入ってしまう。自分の病気を語る人もいるが、何が真実かは判らない。自分たち兄弟がヴィム・ヴェンダース監督『パリ・テキサス』のモデルだと言う人もいる。その人は親が彼を画家にしようとしたという。それはヴァン・ゴッホと似ていたからだと言うのだが、まあ確かに似ている気もする。そういう現実なのか妄想なのか判別できない話も、突き詰めずにただじっくり聞いている。どうやらここでは絵や音楽などのアート活動が盛んなようだ。
(絵を描く女性)
 もう一つここで重視しているのは「カフェ」らしい。コーヒーを美味しそうに入れている。ジャムを作ったりして売ってもいる。ただ外部から一般の客が来ているかというと、そこはどうもよく判らない。川の上ということもあって、フリの客が入るような場所じゃない気がする。むしろ患者同士がフラッときていろいろできる居場所という感じでやってる気がした。しかし、運営は通所者がやってるので、お金の管理などは大変だ。現金のみでやっていて、何度も数えている。出て来る人は皆病気と長く付き合っている。薬の話なども出て来る。監督は話をさえぎらずに自由に語らせているが、逆に向こうから聞いてくることもある。
(ミーティングの様子)
 今彼らが取り組んでいるのは「シネクラブ」10周年を迎えて開く映画祭の企画である。この時は夕方から臨時にカフェを開き、7時から映画をやるという。上映する映画のポスターを見ると、『81/2』(フェリーニ)、『アメリカの夜』(トリュフォー)、『オリーブの林を抜けて』(キアロスタミ)などだから、相当映画に詳しいアート路線である。これを皆で見るんだから、大したものである。多分大変だろうと思うけど、その様子を映す前に映画は終わってしまう。最後になってようやく判るけど、どうやら船ではなく川に付きだして作られた船型の建物なのだった。

 監督の話によると、フランスでも精神科医療の予算削減などが起こっているという。この「アダマン号」はフランス精神医療の標準ではなく、むしろ珍し場所だという。医者も来ているから相談なども出来るし、かなり恵まれている。病気の内容は説明されないから判らないけど、統合失調症が多いのではないか。薬物療法で症状はかなり押えられるようになってきたが、社会復帰はなかなか難しい難病である。精神科医療に詳しい人が見れば、やっぱりフランス人でも病態は似た感じだと思うだろう。縁のない人からすると退屈かもしれない。でも余裕を持ってじっくり聞くと、味わいが伝わってくると思う。
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映画『AIR/エア』、ナイキがジョーダンを獲得するまで

2023年04月24日 22時21分49秒 |  〃  (新作外国映画)
 アメリカ映画『AIR/エア』が面白かった。マット・デイモン主演、ベン・アフレック監督、出演の実録再現映画。「ナイキ」のバスケットボール用シューズ「エア・ジョーダン」販売までのエピソードを映画化したものである。僕はバスケに詳しくなく、マイケル・ジョーダンの名前ぐらいは知ってるけど、ナイキから出ているこのシューズのことも知らなかった。でもバスケを知らないぐらいの人の方が楽しめる映画かもしれない。ベースは「冴えない男たちの一発逆転」物語なのだから。

 1984年、ロス五輪のあった年。陸上競技ではナイキのシューズで金メダルを取った選手が何人もいた。でもアメリカじゃ五輪よりバスケが人気。だがバスケットボール部門は危機にあった。CEOのフィル・ナイトベン・アフレック)は、ソニー・ヴァッカロマット・デイモン)に立て直しを命じるが…。ソニーはかつて高校生のオールスター戦を初めて企画したんだと言ってるけど、今は他のメーカーも乗り出してきて、ナイキは危機にあった。
(マット・デイモン)
 これで想像出来ると思うけど、どうにもパッとしない追い込まれた男たちの逆転はあるかというストーリーである。今までに何度も見た感じがする。ただ有名な俳優もキャスティングしたハリウッド映画だから、やってみました、出来ませんでしたの結末になるはずがない。「エア・ジョーダン」を知っていて見る人は、要するに成功すると判って見るわけである。そこが脚本と監督の手腕で、大会社の内情をじっくり描きこんでいる。ナイキを立ち上げた時の初心を忘れ、株主に追求されないことを優先してるんじゃないか。こう言えば、これが日本の企業、あるいは社会にも通じる話と理解出来るだろう。
(ベン・アフレック)
 ソニーはいっぱいビデオを見る。要するにスター選手に履いて貰えれば良いのである。では次のスターって誰だ? そしてあるとき、高校生のマイケル・ジョーダンだと気付く。だけど、マイケル・ジョーダンが好きなのはアディダス。ベンツをくれるという約束もあるらしい。電話もするなと言われている。ナイキは論外で検討の対象にもならず、電話もするなと言われている。電話がダメなら会いに行こうと、ノースカロライナ州まで飛んでレンタカーを借りて直接家まで行く。まず父親を見つけるが、母親が鍵を握る。

 このジョーダンの母親を演じるヴィオラ・デイヴィスが素晴らしい。ベン・アフレックマット・デイモンは、二人で書いた『グッド・ウィル・ハンティング』(1997)でアカデミー賞脚本賞を獲得している。またベン・アフレックが監督した『アルゴ』(2012)は作品賞を受賞している。でも二人は演技部門では受賞していない。それに対し、ヴィオラ・デイヴィスは『フェンス』(2016)でアカデミー助演女優賞を受賞したのである。そんな映画は見てないという人が多いだろう。デンゼル・ワシントンが有名戯曲を映画化した作品だが、日本では正式公開されなかった。ソニーは母親を説得できるか。
(ジョーダンの母に会いに行く)
 何とか食い込んで、プレゼンの機会が与えられるところまでは行った。ジョーダン親子はドイツまでアディダスの条件を聞きに行く。さすがマイケル・ジョーダンとはいえ、高校生がそこまでするのか。我々はマイケル・ジョーダンがバスケ界を越えた大スターになったことを知っている。しかし、実際にプロに入って活躍出来るとは決まってない。ケガで活躍出来ない選手など山のようにいる。日本のプロ野球ドラフト1位指名の選手でも、名を残すのは一握りである。だから、最後は「確信」と「決断」なのである。スポーツシューズだけの話ではない。ソニーの雄弁に学ぶものは多い。
(エア・ジョーダン)
 ベン・アフレックとマット・デイモンは自ら製作も兼ねている。このような企業をめぐる人間ドラマは日本にもいっぱいあるはずだ。是非世界に通じる映画化を企画したらどうだろう。経済戦略としても有意義じゃないかと思うけど。俳優も自らリスクを負って、自分が納得できる企画に投資する人が増えてくるといいなと思う。

 なお、僕は知らなかったのだがナイキ(Nike)は日本と深い縁があった。ナイキを立ち上げたフィル・ナイトは、スタンフォード大経営大学院で「日本の運動靴は、日本のカメラがドイツのカメラにしたことをドイツの運動靴に対しても成し遂げ得るか」という論文を書いた。そして神戸でオニヅカ・タイガーを見つけ、1962年に彼の心意気に感じた鬼塚社長からアメリカの独占販売権を得た。このオニヅカ・タイガーが今のアシックス。やがて商品開発にも加わるが、輸送や発注トラブルが絶えず独立を考えるようになった。そして1971年にオニヅカとの関係を解消し、1972年から独自製品を発売するようになったという。きっと有名な話なんだろうけど、僕は今回Wikipediaを見て初めて知った。
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映画『生きる LIVING』、カズオ・イシグロの脚色は?

2023年04月16日 22時35分19秒 |  〃  (新作外国映画)
 黒澤明監督の名作『生きる』(1952)がイギリスでリメイクされた。それもノーベル賞作家カズオ・イシグロが脚色して、米アカデミー賞脚色賞ノミネートというのである。それは一体どんな映画になっているのだろうか。3月31日公開だったが、予想通りあまりヒットしていないようだ。上映時間がどんどん減らされているから、関心のある人は早めに見ておくべきだろう。

 僕には見応えがあったが、もともと原作映画が好きなのである。今じゃ日本でも黒澤映画を見てない人が多いだろう。カズオ・イシグロはもともと黒澤映画が好きだったが、もし主人公を志村喬ではなく笠智衆が演じていたらどうだったろうと思ったらしい。そういうことは日本の映画ファンは考えない。東宝映画に松竹の俳優が出るはずがないからだ。(もちろん小津映画のように、多少の貸し借りは行われたが。)そして、イギリスにはビル・ナイがいるじゃないかと思いついたという。主人公を演じたビル・ナイも米アカデミー賞主演男優賞ノミネートの名演を見せている。

 ストーリーは基本的に同一で、黒澤明橋本忍小国英雄によるもともとの脚本がいかに優れていたかが判る。時代は1953年のロンドンである。(原作公開の翌年だけど、一年違う理由は不明。)同じように公園建設を求める住民たちが、市役所でたらい回しされている。ビル・ナイ演じるウィリアムズは、ただ役人の仕事を無難に務め一生を送ってきた。そして検査を受けてガンを宣告された。(原作と違って、今度の映画でははっきりと宣告される。そこに日英の違いがある。)そして、退職を考えている女性職員に刺激を受けて、人生を考え直す。基本的なテーマ設定は、国と時代を超えて今も通じるものだった。
(ラストシーン)
 黒澤映画ではラストで志村喬がブランコに乗りながら「ゴンドラの唄」を歌う。映画史上屈指の感動シーンである。今度の映画ではどうなってるんだろう。期待と不安があるけれど、途中でビル・ナイがスコットランド民謡「ナナカマドの木」を歌い上げるシーンがあって、これかと思った。そして、ラストでその歌をブランコに乗って歌うのである。イシグロは元の映画の歌詞「命短し」があまりにピッタリすぎると思っていたらしい。そこで妻がスコットランド人という設定で、その歌にしたという。カズオ・イシグロがその歌を知ったのも、スコットランド出身の妻経由だった。懐かしく、美しいメロディは一度聞いたら忘れられない。
(マーガレットに会うウィリアムズ)
 退職を考えている女性職員マーガレットはエイミー・ルー・ウッドという人がやっている。舞台で認められ、テレビや映画に出ているというが、外国ではほぼ無名。2020年に「ワーニャ叔父さん」のソーニャ役で大きく評価されたと出ていた。実に自然で、黒澤映画の小田切みきに劣らぬ名演だ。マーガレットは皆にあだ名を付けているが、ウィリアムズは「ミスター・ゾンビ」である。原作では「ミイラ」だった。ゾンビ映画って50年代にあったのかと思って調べたら、30~40年代に作られ始めていた。なるほどそっちの方が合ってるか。原作と違うのは、ラストで彼女が若手吏員と恋するようになる設定。
(イシグロとビル・ナイ)
 二つの映画がどう違うかという「比較映画社会学」的観点から見ると、冒頭が汽車の場面である。官僚は皆ちょっと郊外に住んで、朝鉄道でロンドンに通っている。山高帽を被った紳士たちが駅に集まる。黒澤映画はもちろん白黒だから、駅や風景の美しいシーンは見事に感じる。原作と同じく、主人公は途中で死んで皆が彼は死期を知っていたのかと議論する。葬式後に飲んでくだを巻くのは、確かに英国風ではないだろう。今回の映画では、汽車の中で皆が論議することになる。だが、原作にあった助役(中村伸郎)とヤクザをめぐる政治的動き、新聞記者の取材などがバッサリ切られた。それも一つのやり方で、美しい映画になってる。だが俗なる視点も含みこんだ元の映画の方が深いような気がする。

 監督のオリヴァー・ハーマナスは1983年に南アフリカで生まれた。今までにカンヌ映画祭やヴェネツィア映画祭で上映された作品を作っているが、日本公開は初めて。『生きる LIVING』が5作目のようだ。日本映画をイギリスに変えて映画化するわけだから、イギリス以外の視点を持つ監督に任せた方が良いという判断だという。なかなか健闘していると思うが、この作品だけでは評価は難しい。50年代を再現した映画だから、全体的に古風な趣がある。若い人向けじゃないかもしれない。でもじっくり人生を考える映画は気持ちがいい。まあ黒澤映画を先に見て欲しいと思うけど。
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映画『トリとロキタ』、ダルデンヌ兄弟の新作映画

2023年04月07日 23時15分00秒 |  〃  (新作外国映画)
 ベルギーのダルデンヌ兄弟の新作映画『トリとロキタ』。僕はよく外国映画を見ているが、まあ大体三つの理由がある。「世界への関心」「聴力低下で字幕の方が安心」、そして「株主優待の使い切り」である。2つ目の理由は最近結構大変で、演劇、寄席などばかりでなく静かな日本映画でもよく理解出来ない箇所がある。今回は3つ目の理由が大きいが、社会派という点でイギリスのケン・ローチと並ぶダルデンヌ兄弟の映画は見逃せない。

 このブログで何回書いているか探してみたら、『サンドラの週末』(2014)、『その手に触れるまで』(2019)を書いていた。ダルデンヌ兄弟は『ロゼッタ』(1999)、『ある子供』で2回カンヌ映画祭パルムドールを受賞した他、グランプリ(『少年と自転車』)、監督賞(『その手に触れるまで』)、脚本賞(『ロルナの祈り』)、男優賞(『息子のまなざし』)とカンヌ映画祭の各賞を軒並み受賞している。今度の『トリとロキタ』も第75回記念賞という特別賞を受けている。
(ダルデンヌ兄弟)
 今まで「こども」を描く作品がほとんどで、それも犯罪少年(『息子のまなざし』)とかネグレクト(『少年と自転車』)、イスラム過激派(『その手に触れるまで』)など深刻なケースを扱うものばかり。見ても解決につながる明るい結末はほとんどなく、過酷な現実を突きつけて終わるような映画ばかり。だから一般的な人気は得にくい。カンヌ映画祭でこれほどたくさん受賞していても、見たことがない人が多いだろう。今回もアフリカから来た「姉」と「弟」をめぐる物語である。「弟」の方がトリ、「姉」の方がロキタである。「弟」はビザを持っているが、「姉」は申請中のビザがなかなか出ない。
(夜道を歩く二人)
 この「ビザ」というのは、難民認定というか定住権のようなものだろう。姉弟なのに、何で片方しか認められないのか。それは姉弟であることを証明出来ないからである。というか、段々判ってくるけれど、実はホントは姉と弟ではない。だから先ほどはカッコを付けておいたのである。どうやらボートで出会って以来、二人で助け合って生きることにしたらしい。トリが何で認められたかというと、「呪い」の印かなんかがあって故郷では迫害されているというのである。この理由には驚き。二人で何とか認められるように話し合っているが、なかなか難しい。

 いつもはイタリア料理店でカラオケを歌って少し稼いでいるが、それは表向きでホントはシェフがドラッグの売人で売り歩いているのである。ロキタは「弟」をなんとか学校へ行かせたいし、自分も故国の母に仕送りをしなければならない。だが、仲介業者にカネを取られてしまうし、ビザも下りず八方ふさがりになる。何とかしたいともっと危険な仕事に就くと、スマホも使えずトリの声を聞けなくなる。ロキタは時々パニック障害になり、薬も飲んでいる。トリは何とかロキタに会いたいと無理して探すけれど…。追い込まれるトリとロキタはどうなるのか。 
(新しい仕事で)
 この映画をどう見ればよいのだろうか。ロキタは故国に小さな兄弟がいて、稼ぐために働きに来たらしい。迫害されていたわけではなく、難民認定は難しい。こういう人まで受け入れるわけにはいかないというのが多くの国の立場だろう。だけど、フランス語は話せるし、許可が出ればきちんと働けるはずだ。認められないから、怪しい犯罪系の仕事に就かざるを得ない。世界中でそういう仕組みになっている。それを大声で告発する映画ではなく、世界の狭間に落ち込んでしまった二人をじっくり見つめる。「これで終わり?」みたいな気持ちになるが、世界を提示するだけなのだ。
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韓国映画『パーフェクト・ドライバー』と『オマージュ』

2023年03月29日 22時20分26秒 |  〃  (新作外国映画)
 韓国映画の新作を続けて見たので、その感想。一本目は『パーフェクト・ドライバー/成功確率100%の女』である。シネコンで見逃したが、柏のキネマ旬報シアターでやっていたので見に行った。『パラサイト』で一家四人の長女(美術の家庭教師)役をやっていたパク・ソダムが、超絶ドライバー役で主演している。女性が主人公の犯罪アクション映画は珍しい。

 もちろん裏社会でワケありの「荷物」を運ぶのである。そして敵と時間に追われる中、超絶的テクニックで運転していく。そのアクションが見どころ。カーアクション映画は多いけど、最近ではアメリカの『ドライブ』や『ベイビー・ドライバー』が思い浮かぶ。その韓国版、女性版と言える映画だが、アメリカの2作とは途中からかなり違ってくる。そもそもアメリカの2作は、犯罪者御用達のドライバーだった。『パーフェクト・ドライバー』も当然裏社会の要望に応えるわけだが、誰かと事前に組んでいるのではなく、一回ごとに依頼されて運転するタクシーみたいな仕事である。

 パク・ソダム演じるチャン・ウナは「脱北者」という設定で、脱出の過程で壮絶な体験をしている。韓国社会で生きるために、プサンで「特殊配送」をしている。多くの場合、「なんだ女か」と言われるが抜群のテクニックで「成功確率100%」を誇っている。だが、ある時請け負ったソウルの仕事は厄介だった。野球賭博に関わった選手とその息子を逃がすというミッション。ところが、その選手は事前に殺されてしまい、子どもだけが残る。仕方なく子どもだけ連れて逃げざるを得ない。その子をやってるチョン・ヒョンジョンも『パラサイト』で社長一家の子どもだった子役。

 こうなると、映画に詳しい人ならもう一本の映画を思い出すだろう。ジョン・カサヴェテス監督の『グロリア』(1980)である。子どもを連れて組織から逃れるジーナ・ローランズの壮絶な逃避行。ウナも同じように必死に逃げながら、子どもへの愛情が芽生えてくる。そして追ってくる敵の正体は? ウナが脱北者だということから、国家情報院まで絡んできて、ついにプサン港にある会社で壮絶な闘いが始まる。この展開は韓国的かもしれないが、ちょっと不満。車の逃亡が中途半端になっているからだ。ソウルからプサンだとすぐ着いちゃうのである。でも一貫して不機嫌そうなパク・ソダムがカッコよくて見映えする。パク・デミン監督。広大なアメリカ大陸と違う狭い道ばかりの韓国で上手にロケして盛り上げている。

 アクション娯楽作の『パーフェクト・ドライバー』と違って、もう一本の『オマージュ』は歴史を越えて女性映画監督の世界を描く作品である。女性ドライバー映画も珍しいが、女性映画監督を主人公にした映画というのも興味深い。女性のシン・スウォン監督の3作目。売れない女性監督ジワンイ・ジョンウン)は新作ホラー映画も大コケして映画製作のピンチにある。夫婦関係も上手く行かず、一人息子も頼りない。そんな時文化センターの仕事として、60年代に活動した女性監督ホン・ジェウォン女判事』の修復を頼まれる。映画は途中から音声が失われているので、それを再現する仕事である。

 セリフを確認するために監督の娘のもとを訪ねるが脚本は見つからない。代わりに若い頃に撮った写真を貰う。その写真には3人の女性が写っていた。そしてデジタル映像を確認していてラストの展開がおかしいと気付く。そこで探索を始め、写真を撮った場所である「明洞茶房」が奇跡的に残っていた。そして編集者だった女性の住所を教えて貰い、忠清道まで会いに行く。その田舎暮らしのシーンが心に残る。昔行ったことがある辺りで、何となく風景になじみがある。そこで教えられたのは、展開がおかしいのは検閲で切られたということだった。

 その「女判事」という映画は当然フィクションだと思うし、60年代初期に女性映画監督がいたかどうかも知らない。ただ、韓国映画に「紅一点」の女性監督がいて、1962年に韓国初の女性裁判官の実話映画を作ったという設定は刺激的だ。時代的には朴正熙大統領の軍事政権が始まったばかりの頃である。女性に対する偏見は今よりずっと大きかったことが判る。修復する映画も、映画内の女性監督も、特にフェミニズム的な社会映画を作っているわけではない。だけど、時間を越えて「女性映画監督」という連帯感がある。完成度的に多少甘いと思ったけど、興味深い映画だった。主演のイ・ジョンウンも、『パラサイト』でワケあり夫を抱えた前の家政婦をやってた人で、『パラサイト』にはさすがに才能が集結していた。
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傑作『フェイブルマンズ』、スピルバーグの自伝的映画

2023年03月12日 23時05分21秒 |  〃  (新作外国映画)
 映画『フェイブルマンズ』(The Fabelmans)はスティーヴン・スピルバーグ監督が作った「自伝的映画」で、素晴らしい傑作だった。151分もあって長いから、時間が合う時に早めに見ることにした。決して楽しいことばかりじゃない映画だが、非常に満足度が高い。スピルバーグの数多い映画の中でも、『E.T.』や『シンドラーのリスト』などを見た時に匹敵するような気がする。スピルバーグ作品として13回目のアカデミー作品賞、監督部門では9回目になるノミネートを受けている。
 
 題名だけでは意味不明だが、これは登場人物の名前である。監督自身に当たるサム(サミー)・フェイブルマンのラストネーム。Theを付けて複数にすると、「○○一家」になると習ったはず。つまりフェイブルマン一家である。僕には全く判別できないが、この名前を言っただけで高校では「ユダヤ系だな」といじめられる。だから、判る人には判る意味が込められた題名なのである。

 この映画を見ると、映画はやっぱり「編集」だなあと思った。次にはこういう場面を見たいなあと思うシーンに素早く切り替わる。登場人物をカットバックで見せたり、自由自在に編集されたリズムの素晴らしさ。映画の中のサミーも編集機を買ってと頼み、家族や友人たちで撮影した映像を切ってはつなぎ直している。さすがに今ではスピルバーグが自分でやってるわけじゃない。
(撮影しているサミー)
 編集は『未知との遭遇』以後ずっと組んでるマイケル・カーンで、この人は『レイダース/失われたアーク』『シンドラーのリスト』『プライベート・ライアン』とスピルバーグ作品で3回アカデミー編集賞を受賞している。今でもスピルバーグ作品に限ってはフィルムで編集してるんだという。撮影は『シンドラーのリスト』以後ずっと組んでるヤヌス・カミンスキーで、もう見たい映像の撮り方、つなぎ方が了解されている感じ。観客のツボにハマるような映像リズムが心地よいのである。

 ある日両親が5歳のサミーを映画『地上最大のショウ』を見に連れて行った。1952年のアカデミー作品賞を受賞したセシル・B・デミル監督のオールスター映画である。怖いんじゃないかとグズる少年に対し、父は映画は1秒間に24コマの映像を映し出し残像現象がどうのこうのと説明し始める。子どもが理解不能になってるときに、母が優しく説得してようやく映画館に入った。そして列車が衝突脱線するシーンに激しく魅せられてしまったのである。父親がおもちゃの電車を買ってくると、レール上で衝突させて楽しむようになる。今度は8ミリカメラを買い与え、サミーは家族を撮るようになってアマチュア映画作りに夢中になった。
(客席で映画を初めて見る)
 映画の中の両親の設定はほぼ事実じゃないかと思う。父親はコンピュータ技術者で、GEに引き抜かれ次にIBMに転職する。母はピアニストで優しく情緒的だった。母役のミシェル・ウィリアムズは繊細な演技が高く評価され、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。今までに主演2回、助演2回ノミネートされた。今回は助演賞有力とされながら、会社側の意向で主演賞に回ったという。僕はやはり主演ではなく助演だろうと思うし、それが映画の正しい理解じゃないか。父はポール・ダノで、いかにもそれらしい感じが出ている。映画の終わりに「リアに」「アーノルドに」と出る。両親に捧げられた映画である。
(監督と両親役の二人)
 その後の展開は書かないが、「映像の両義性」とも言うべきものが彼を苦しめると共に、映像の持つ力を感じさせる。「何か」を写したいと思ってカメラを回すが、フィルムには写す目的以外のものも入り込む。だから、昔の映画を見るとロケで残された思いがけぬ昔の風景に感動することがある。人間の場合でも映像で見ると、本人も思ってなかったような「自分」が写っていることがある。そのような映像の力が現実生活を変えてしまうこともある。幸福な少年時代にはただカメラを回すことが楽しい。だが青年期を迎えると、映像の持つ「魔」の力が大きくなる。しかし、高校生活最後の場面は、映画の力への讃歌だろう。
(高校時代の恋人と)
 ところで、この映画は「自伝的」だが、「自伝」ではない。スピルバーグ(1946~)やジョージ・ルーカス(1944~)が70年代初期に登場して、「アメリカン・ニュー・シネマ」の時代は終わることになる。この二人は「ヴェトナム戦争世代」なのに、なぜ「社会派」じゃなかったんだろうか。当時は世界中で新しい文化運動が起こり、映画、演劇、文学などが革新された。しかし、スピルバーグは自分では演じず、友人たちに西部劇や戦争映画を演じさせて、その映像を編集してプロ並みの映画を作る。

 世界の映画青年たちがフランスの「ヌーヴェル・ヴァーグ」だの、アントニオーニの「愛の不毛」ベルイマンの「神の沈黙」などを熱く語っていた時代に、彼は何をやってるんだろう? しかし、彼は上手に編集して特殊効果を出すような事が好きだった。やはり父親の技術者的資質を受け継いでいるのだ。さらに実は彼は学習障害の一種「ディスレクシア」(識字障害)だったから、難しい議論をやり取りするような政治的、文学的青年には成れなかった。そこが隠された点なんだと思われる。

 日本で言えば時代劇や怪獣映画が大好きで、親が金持ちでカメラを買ってくれたから、友だち集めてチャンバラや特撮映画を作ってたような少年だったのである。だから、最初はただ楽しい映画、見てワクワクするような映画をたくさん作った。ユダヤ系として差別経験もあって、社会に発言したいことももちろんあったけど、それを自ら語れるようになったのは映画界で成功して自信を付けてからだった。娯楽映画専門かと思われ、アカデミー監督賞をなかなか受賞できない悔しさもあっただろう。だが、スピルバーグが作る社会派的テーマの映画は、映画としては皆判りやすい作り方になっている。それが彼の特徴であり、長所でもあり短所でもある。
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映画『逆転のトライアングル』、カンヌ映画祭最高賞の出来は?

2023年03月11日 22時48分15秒 |  〃  (新作外国映画)
 『逆転のトライアングル』(Triangle of Sadness)という映画を見て、実に嫌な気分になった。ほめてるのである。見る人をして嫌な感じにさせるように作ってあって、見事に嫌な気分になる。成功しているわけだ。その証拠に、この映画は2022年のカンヌ映画祭パルムドール受賞作で、かつ今年の米国アカデミー賞でも作品賞と監督賞(リューベン・オストルンド)のノミネートされている。(オストルンドはスウェーデンの監督だが、英語映画なので国際長編映画賞にはノミネートされていない。)

 カンヌ映画祭の直近5回のパルムドールを振り返ってみると、2017年『ザ・スクエア 思いやりの聖域』(リューベン・オストルンド)、18年『万引き家族』(是枝裕和)、19年『パラサイト 半地下の家族』(ポン・ジュノ)、20年はコロナで中止、21年『TITANE/チタン』(ジュリア・デュクルノー)、22年が『逆転のトライアングル』ということになる。つまり、ここ5回のうち2回がスウェーデンのリューベン・オストルンド監督なのである。じゃあ、その人を知ってるか?
(カンヌ映画祭のオストルンド監督)
 まあカンヌ最高賞だからと言って、いつも名作とは限らない。毎回審査員が違うから、その時々の審査員によるブレが大きいのである。一応カンヌ最高賞なんだからと、去年公開の『TITANE/チタン』も見たけど、ここでは感想を書かなかった。フランス女性監督版『鉄男』(塚本晋也)みたいな映画で、とても付いていけなかった。今度の映画も多分付いていけない人がいっぱいいると思う。全体で3つのパートに分かれているが、特に2番目の豪華クルーズ船のシーンはやり過ぎというかトンデモ度が濃厚。最後の孤島シーンも異様なんだけど、クルーズ船で観客も船酔いする感じで、ほとんど驚かないぐらいだ。

 主人公と言えるのは、ヤヤ(チャールビ・ディーン)という女性モデル。カール(ハリス・ディキンソン)という男性モデルと付き合っている。でもファッションモデル業界では女性の方が需要が多く、お金も社会的影響力もヤヤの方が上。最初のシーンはモデル業界あれこれで、この二人はレストランの支払いをどっちがするか揉めている。次のパートでは、シーンインフルエンサーのヤヤが豪華クルーズ船に招待されている。夢のような豪華客船で、そこには世界的セレブがずらり。もっともロシアのオリガルヒ(新興成金)やイギリスの「平和を守る産業」(兵器産業)をやってる夫婦とか、ロクなもんじゃない。
(豪華客船の中)
 船内の金持ちたちは下品で横暴で嫌なヤツばかりだが、そういう船を下層労働者が支えている。そして船長招待のディナーになるが、ヨッパライ船長が決めた日は低気圧で嵐がやって来て、船が揺れ始めると画面も揺れて見てる方も気持ち悪い。それなのに変な料理ばかり出て来て、画面ではどんどん気持ち悪い状態になっていく。見たくないけど、豪華クルーズのはずがあっという間に「逆転」である。このドギツイまでの風刺がこの映画の狙いである。そして船は遭難し、海賊が手榴弾を投げ込んで、どうなったのか判らないけど、次のシーンではある島に何人かがたどり着いている。あれま。
(島では階級が逆転)
 島でのサバイバル能力になると金持ちたちはからきしダメで、そこにトイレ掃除担当だったアビゲイル( ドリー・デ・レオン)が登場する。彼女は魚を捕り、火を熾(おこ)す技術があって、あっという間に島での覇権を握ってしまう。この第3のパートこそ風刺喜劇の本領発揮で、笑えるシーンが多いけど、人間性の本質はこんなものかと不快感が募る。それにしても魚獲りぐらい出来ないのか、金持ち男どもは。風刺映画というのは、誇張表現が真骨頂だけど、そこまでやるか的な感想も持つ。

 何だか南洋に流れ着いたのかと思うが、特定はされてないけどロケはギリシャだったようだ。コロナ禍でたびたび撮影が中断し、船内の客の中で島のシーンに出て来ない人が多い。遭難して死んだことにしたんだろうけど、要するに撮影がズレて島シーンに参加出来なかったんじゃないかと思う。この映画を取り上げたのは、出来は良かったからである。出来は良いけど、好きではない。船内シーンが気持ち悪いし、風刺もやり過ぎだなと思う展開が続く。

 この監督の今までの日本公開作(『フレンチアルプスで起きたこと』『ザ・スクエア 思いやりの聖域』)と同様に、日本での評価は高くならないと思う。こういうブラックユーモアが苦手な風土である。だけど、こんな方向で物語を作るというやり方もあるということだ。原題は「悲しみの三角形」で、これは両目と額を結ぶ三角形に怒りや悲しみの表情が現れるということらしい。世界的に評価された映画は見ておきたいというコアなアート映画ファン以外にはオススメしないけど、こんな映画もある。
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映画『コンパートメントNo.6』、快作フィンランド映画

2023年03月04日 22時25分26秒 |  〃  (新作外国映画)
 2021年カンヌ映画祭グランプリのフィンランド映画『コンパートメントNo.6』は、最近一番面白かった。フィンランドのユホ・クオスマネンという監督がロシアで撮った映画で、2月上旬に公開され小さな上映ながらヒットしている。寒そうな町へ向かう夜行列車のコンパートメントで、最悪の同乗者と一緒になってしまった女子学生の思いがけぬ旅路を描いている。小さな世界を描きながら、そこに「人間」に関する発見がある。またロシアという国を考えるヒントも詰まっている。

 事前情報で旅するフィンランド女性ラウラは、「恋人にドタキャンされ、急遽一人旅に」ということは知っていた。それだと身勝手男に振り回された感じだが、全然違った。お相手は女性教授イリーナで、つまりレズビアン関係だったのである。そして職にある彼女は仕事が急に入って来られなくなる。彼女は考古学を学んでいて、本で見たムルマンスク近くにあるペトログリフ(岩絵)を見たいと思っている。そんなもの聞いたことないし、世界遺産でもない。検索すると、こんな感じのもの。
(ムルマンスクのペトログリフ)
 それがどこにあるかもよく知らず、ラウラはムルマンスク行きの列車に乗ってしまった。モスクワからサンクトペテルブルクへ、そして途中で一泊しながらムルマンスクへ。モスクワ、ムルマンスク間は2000キロもあるというから、鹿児島・稚内の直線距離1800キロより長いのである。フィンランドの女性作家ロサ・リクソムの2011年の原作をもとにしたと出ている。一体いつの時代だろうと思ったが、90年代という設定だという。誰もスマホなど見てないから現代ではない。サンクトペテルブルクと言ってるからソ連でもない。それにしても女性車掌の官僚的対応などソ連時代と同じような感じ。
(ムルマンスクの位置)
 仕方ないから一人で行くことにしたラウラだが、6号室の同乗者リョーハはどうにも気にくわない。勝手に飲んだくれている彼は、マッチョ的、セクハラ的発言連発で、とても付き合ってられない。というより、こんな男と同室で大丈夫か。ラウラもそう心配して、車掌に部屋を替えてと言いに行くが、相手にされない。そこで食堂車に逃げ込んだり、彼を避けながら過ごす。サンクトペテルブルクではもう帰ろうかと思って、イリーナに電話するも、そっちも相手にされない。列車では居座った客や車両を間違えたらしきフィンランド人などが出て来る。一泊する町では、夜にリョーハに連れられて老女の家に行く。
(同室のリョーハ)
 この同室者は採石会社で働くためにムルマンスクへ行くという。労働者階級だが、それ以上の背景は説明されない。途中で寄った老女も、どういう関係かよく判らない。しかし、次第次第にこの男もそんな悪い奴でもないじゃないかと思うようになっていき、むしろ結びつきが出来てくる。そんな様子が言葉では説明出来ない描写の真実味で描かれている。だから到着しても連絡したいと思うが、彼は何故か拒む。そしてついにムルマンスクに着くわけだ。

 ヤレヤレ、これで風変わりな鉄道旅も終わりかと思うと、実はこの後があった。大体ペトログリフは冬に行くもんじゃない、車は通行止めだしガイドも行かないとホテルで言われる。代わりに第二次大戦時の「英雄都市」ツァーに参加してみたり…、もう真冬にどうしようもなく寂しくなってリョーハを探してみる。そうしたらなんと車に乗って彼が現れ、これからペトログリフに行こうと言う。そのために来たんだろうと。ここから厳寒の旅がもう一回始まるのである。この構成がうまい。どうなるんだろうと思う。
(二人でペトログリフへ)
 ただそれだけの映画である。ほとんどが列車の中で進行する。そういう映画は今までもあるけど、人間関係が変化していくのが魅力。ラウラはフィンランドの女優セイディ・ハーラ、リョーハはロシアの男優ユーリー・ボリソフ。二人とも国際的な知名度はなかったが、この作品でヨーロッパ映画賞の主演賞にノミネートされた。監督のユホ・クオスマネン(1979~)は、2016年の映画『オリ・マキの人生で最も幸せな日』を撮った人で、この映画が2本目。フィンランド映画といえば、アキ・カウリスマキが有名だが、何となく似ている感じもある。でも躍動感はこの監督の方がある気がする。

 人間は決めつけてはいけないもんだと思ったけど、同時に「これがロシア人か」という感じもある。ナチスとの戦争に勝った自分たちは強い国で、エストニアには何があるんだとラウラに聞く。エストニアじゃなくて、フィンランドだって言っても理解されない。小国に対する敬意が全くない。列車の運行などこれでいいんだろうかと思うが、そんなことに不満は持たないんだろう。ムルマンスクは北極圏最大の都市で、人口30万ほど。不凍港なので、独ソ戦最中は米英の支援物資が届けられ、ノルウェー占領中のドイツ軍はムルマンスクを猛爆撃した。その町でロケしているのが貴重。
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映画『別れる決心』と『バビロン』、「一見の価値ある映画」の問題

2023年03月01日 22時18分11秒 |  〃  (新作外国映画)
 正月公開映画が一段落すると、アカデミー賞候補作が続々と公開されてくる。また前年の有名映画祭受賞作も、一年遅れぐらいで日本公開になることが多い。アカデミー賞で受賞が有力視される映画は(今年は3月13日に発表)、3月の発表前後に公開する方が有利である。しかし、「アカデミー賞ノミネート」が売りの映画だと、「アカデミー賞最有力」とか言って1月、2月の公開になるんだろう。今回書くのは、自分的には見逃したくない作品で、「一見の価値あり」というレベルである。つまり、それは「必見の映画」とまでは言わない。映画マニア向けに落とせないという意味で書いておきたい。

 まずは韓国のパク・チャヌク監督の『別れる決心』。2022年のカンヌ映画祭監督賞受賞作である。パク・チャヌクはカンヌに深い縁があって、『オールド・ボーイ』(2003)がグランプリ、『渇き』(2009)が審査員賞を獲得している。この監督の映画は大体変で、その「変さ」を拒否しない人だけが評価することになる。僕もソン・ガンホが吸血鬼の神父という『渇き』は、やりすぎで全然乗れなかった。今回の『別れる決心』も設定が変なうえ、盛り込みすぎで整理されていない印象が残る。

 紹介をコピーすると、「男が山頂から転落死した事件を追う刑事ヘジュン(パク・ヘイル)と、被害者の妻ソレ(タン・ウェイ)は捜査中に出会った。取り調べが進む中で、お互いの視線は交差し、それぞれの胸に言葉にならない感情が湧き上がってくる。いつしか刑事ヘジュンはソレに惹かれ、彼女もまたへジュンに特別な想いを抱き始める。やがて捜査の糸口が見つかり、事件は解決したかに思えた。しかし、それは相手への想いと疑惑が渦巻く“愛の迷路”のはじまりだった……。」

 ソレ容疑者は中国人という設定で、演じているタン・ウェイも中国人。アン・リー監督『ラスト、コーション』の主役だった人だという。ところどころで中国語の方が話しやすいと言って、スマホの翻訳機能を使って答える。「刑事」と「容疑者」の「許されない恋愛」を描く映画なわけだが、刑事は捜査のため張り込み監視を続けていて次第に惹かれていく。その悩ましい感情の揺れ動きが見どころである。ソレは介護士をしていて、介護される女性はスマホに入っているアプリSiriを使いこなしている。そのような現代社会の様々なツールが映画のアクセントになっている。
(カンヌ映画祭のパク・チャヌク監督)
 ストーリーを追って、どうなるんだろうと思いながら見ていると、途中である「展開」がある。そこで終わるかと思った時に、また後半が始まってしまう。そこからラストまで一気呵成に進行するけど、このラストは何? 美しい映像に引き込まれていると、やはり「悲劇」で終わるしかない物語だったかと思う。やっぱり変な映画だったなあと思うけど、パク・チャヌクを好きな人なら不満は感じないだろう。

 もう一本、アメリカ映画『バビロン』も書いておきたい。こっちは2月10日公開で、もう上映時間が限られてきている。『ラ・ラ・ランド』でアカデミー監督賞を(史上最年少の32歳で)受賞したデイミアン・チャゼルの新作である。ハリウッド草創期を大セットで再現した夢のような映画だけど、何しろ185分というのが長すぎる。ゴールデングローブ賞の作品賞には「コメディ・ミュージカル部門」でノミネートされたが、アカデミー賞では技術部門(作曲、美術、衣装デザイン)しかノミネートされていない。経験上、そういう映画は見た後に「イマイチだなあ」と思うことが多い。この映画もまあそのクチだろう。

 しかしながら、その壮大なセット、衣装などで描かれる「悪徳の都」ハリウッドの魅惑は一見の価値がある。すでに無声映画のスターだったジャック・コンラッド(ブラッド・ピット)は、トーキー(発声映画)の登場で危機に陥る。これは全世界の映画界で起こったことだが、後にミュージカル『雨に唄えば』で描かれた。この映画でも『雨に唄えば』が再現されている。一方、富豪のパーティに紛れ込んだネリー・ラロイ(マーゴット・ロビー)は体を張って幸運をつかみ取りスターになる。もうひとりメキシコ青年マニー・トレス(ディエゴ・ガルバ)は映画界で仕事を得たいと走り回っている。
(『バビロン』のスター)
 実在人物(プロデューサーのアーヴィング・タルバーグなど)を交えながら、映画界の裏表が語られる。ただ盛り込みすぎで、壮大ではあるが空疎感もつきまとう。若手二人の結びつきが映画の目玉になるが、結局ネリー・ラロイという新進女優はハリウッドの悪徳に飲みこまれてしまう。その悲しい道行きを語るときに、マーゴット・ロビーの「下品」な感じがうまく生きている。「夢の装置」だったハリウッドの裏を描く映画は、案外多い。『バビロン』はその中でも、セットや衣装の豪華さは有数のもの。だけど、笑えないような下品なエピソードが多いのも確か。
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