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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

藤田敏八監督『十八歳、海へ』(1979)について

2023年08月03日 23時22分54秒 |  〃  (旧作日本映画)
 今日は読んだ本について書く心づもりだったが、最後の方が読み終わってないので次回回し。で、まあ休んでもいんだけど、昨日見た昔の映画について書いておきたい。上野でマティス展を見た後、地下鉄銀座線上野広小路駅まで歩いて京橋まで行った。国立映画アーカイブで藤田敏八監督『十八歳、海へ』という1979年の映画を見るためで、これが3時からだからその前に展覧会に行ったわけ。勘違いされないように最初に書いて置くけど、別にこの映画が傑作だというわけじゃない。むしろガッカリ感が強い。だが、キャストやスタッフのその後、映画の時代背景、原作の中上健次など、映画以外が面白かったのである。

 今回は「逝ける映画人を偲んで 2021-2022」という特集で、追悼対象は製作の結城良煕と脚本の渡辺千明という人である。どちらも知らなかったが、渡辺はこれがデビュー作という。ウィキペディアを見ると、その後の映画脚本は少なく、むしろ日本映画学校で教えたり、小津安二郎の共同脚本家として知られる野田高梧の別荘にあった『蓼科日記』を刊行した業績がある人らしい。この映画は大島渚映画の脚本家だった田村孟と渡辺千明が脚本にクレジットされている。
(主演の3人)
 冒頭は予備校の夏季講習の結果発表で、全員の順位が張り出されている。当時はそんなこともあったか。僕はよく覚えてないけれど、そうだったかもしれない。中学なんかでも成績を張り出すことは普通にあった時代だ。そこで1位になったのが、釧路から来ている有島佳(ありしま・けい)という女子。男どもは「おお、女が1位か」とか言ってる、そんな時代である。ビリになったのが、桑田敦天(くわた・あつお)で、桑田は有島を探して、一緒に出掛けないかという。ビリとトップなら面白いとか言って。桑田を演じているのは永島敏行で、『サード』『遠雷』など70年代後半の日本映画で輝いていた。
(近年の永島敏行)
 で、肝心の有島佳は誰だ? うーん、誰だっけとちょっと考えて、パッと名前を思い出した。森下愛子じゃないか。永島、森下は『サード』のコンビである。その後も東映映画などに出ていたが、むしろ80年代にはテレビで活躍していた。そして、1986年に吉田拓郎の「第三夫人」になっちゃった。いや、イスラム教じゃないんだから、3人目という意味だけど。まあ、今度は添い遂げるみたいだから、傍の者があれこれ言うこともないだろう。ウィキペディアを見ると、拓郎のオールナイトニッポンに呼ばれたとき、森下愛子も警戒して竹田かほりと一緒にやってきたと出ている。竹田かほりは『桃尻娘』の主役で、甲斐バンドの甲斐よしひろと結婚して引退した人。森下は根岸吉太郎監督と噂されていたが、結局吉田拓郎と結婚したと出ていた。
(近年の森下愛子)
 先の二人は鎌倉の海へ行って、男は女にモーションをかけている。そこへバイクがやってきて、バイク集団とのケンカになる。因縁を付けられているのは、同じ予備校生の森本英介。これは小林薫で、状況劇場のメンバーだったが映画に出始めた頃。クレジットに新人とあって、感慨深い。森本はケンカではなく、懐に石を詰め込んで海に入る競争をしようという。そのエピソードが終わって、もう明け方も近い頃、今度は森下愛子が永島敏行に同じように「自殺ごっこ」をしようと持ち掛ける。これが全く判らないのである。そこまでヒリヒリした追いつめられた青春という描写がない。それでいて、この二人は「心中ごっこ」を繰り返すのである。

 そこが伝わらないと、単なる風俗映画になってしまう。そして、実際にこの映画は時代を象徴するような青春映画にはなれなかった。一応キネ旬ベストテン18位になってるけど、あまり面白くない。監督の藤田敏八は70年代前半には忘れがたい青春映画を作っていた。『八月の濡れた砂』(1971)、『赤い鳥逃げた?』(1973)、『赤ちょうちん』『』(1974)などだが、1978年の『帰らざる日々』を最後に、どうもパッとしなくなった。角川映画の『スローなブギにしてくれ』(1981)など、どこが悪いとも言いがたいがズレてる感が強い。これは70年代前半を代表する神代辰巳、深作欣二などにも言えることで、それぞれ作風を変えたり低迷したりした。これは時代の方が変わったからだと思う。とらえどころがない時代が来たのである。
(藤田敏八監督)
 この映画の主人公たちは全く理解出来ない。「自殺」をこれほど遊びのようにとらえても良いのか。永島も森下も健康的な身体をしていて、「心中ごっご」が腑に落ちない。そんなに人生がイヤで、模試で全国トップになれるのか。腑に落ちないと言えば、有島佳の姉、有島悠が小林薫と付き合ってしまう。悠を演じているのが誰か判らなかったが、島村佳江という人だった。『竹山ひとり旅』などに出ていて当時は知っていたかもしれない。調べてみると、この人は藤間紫の息子文彦と結婚して、息子が藤間翔、娘が三代目藤間紫なのである。藤間紫は先代猿之助の二番目の妻だが、いろいろな映画にも出ていた。実に色っぽくて、どうも「好きにならずにいられない」といったタイプなのである。
(島村佳江)
 森本英介はホテルサンルート東京で働いていて、ロケで使われている。ただし、今はサンルート東京というホテルはなくて、どこだったかは判らない。上京した医者の父がこんなところで働くのは辞めろといって、ホテルがクビにしてしまうのもすごい。ワケあり家庭だったようだが、細かい説明はなく、箱根のホテル(小涌園)を取ったから来なさいと父が英介に言う。英介はそれを有島と桑田に譲ってしまう。そこら辺の展開は強引そのもので、映画なら許される「偶然性」を遙かに超えている。まあ、全部書いても仕方ないけど、中上健次の原作はどうなってるんだろう。紀州ものは大体読んでたけど、他の小説は読み落としが多い。この原作も読んでない。中上健次原作の映画は『火まつり』『赫い髪の女』など傑作が多いが、これは中で一番下の失敗作。だけど、自分の若い時代がロケの中に残されてるから懐かしい。
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映画『恋する女たち』(大森一樹監督、1986年)の面白さ

2023年03月05日 22時43分36秒 |  〃  (旧作日本映画)
 氷室冴子原作、大森一樹監督の『恋する女たち』(1986)という映画が好きで、その面白さの理由を自分でもよく表現できないので、書いてみることにした。現在、神保町シアターで「アイドル映画と作家主義ー80年代アイドル映画白書」という特集上映で大林宣彦監督の『時をかける少女』『さびしんぼう』などとともにこの映画も上映されている。80年代は仕事が忙しくて公開時は見逃したのだが、10年ぐらい前に初めて見たらとても面白かった。今回が3回目で、何回見ても面白い。

 主演は当時歌やコマーシャルで人気だった斉藤由貴で、前年の1985年末に相米慎二監督『雪の断章ー情熱ー』に主演していて、この『恋する女たち』が2度目の主演になる。斉藤由貴は日本映画アカデミー賞主演女優賞を受賞するなど好評で、続いて『トットチャンネル』『「さよなら」の女たち』と大森監督の斉藤由貴三部作が作られた。1986年のキネマ旬報ベストテン7位に入っていて、これは大森監督にとって代表作『ヒポクラテスたち』とともにただ2作だけの入選になっている。

 原作は当時集英社コバルトシリーズで、絶大な人気を誇っていた氷室冴子。80年代に「ラノベ」の「少女小説」を確立させた作家で、当時女子中高生などに人気があった。その後、平安時代を舞台にした「なんて素敵にジャパネスク」で知られたが、2008年に51歳で亡くなっている。原作の舞台は北海道だというが、映画はそれを金沢に移して魅力的なロケをしている。兼六園などの名所ではなく、何気ない川沿いの道や野球場、美術館なんかが素晴らしい。金沢を舞台にした映画の中でも一番魅力的だと思う。

 この金沢の魅力も成功の大きな理由になっているが、それより出て来る高校生役の俳優が生き生きと演じているのが一番だろう。原作と主演女優が決まっていた「アイドル映画」だが、監督の人選が難航していたという。大森監督は当時『ゴジラvsビオランテ』(1989)の脚本が行き詰まっていて、こっちを先に受けることになった。大森監督は直前に吉川晃司三部作(『すかんぴんウォーク』『ユー・ガッタ・チャンス』『テイク・イット・イージー』)を撮り終わったところで、男優と女優は違ってもアイドル映画の作法は熟知していだろう。実際、流れるように物語が進行する見事な語り口に乗せられて見終わる。

 冒頭で黒服を着た女子高生3人が葬式写真を持っているから、何だろうと思う。しかし、それは江波緑子高井麻巳子)がなんかショックなことがあると、自分の死亡通知を他の二人に送ってよこし、皆で「葬儀」を執り行うものだった。すでに3回目で、白い十字架を地面に差している。このアホらしい自意識過剰の少女趣味に付き合っているのが、吉岡多佳子斉藤由貴)と志摩汀子相楽ハル子)で、映画はこの3人の恋模様の推移を描いていく。高校生なんだから勉強もあるわけだし、部活や進路はどうしたと思う。でも親や教師はほぼ出て来なくて、一般のクラスメートも出てこない。このおとぎ話的設定こそ成功の最大要因だ。
(ラストシーン。左から高井、相楽、斉藤)
 ちなみに、高井麻巳子は「おニャン子クラブ」のアイドルで、その後秋元康と結婚して芸能界は引退している。相楽ハル(晴)子はテレビドラマに出ていて、これが映画初出演。後に阪本順治監督デビューの『どついたるねん』で高く評価されキネ旬助演女優賞を受けた。現在はアメリカ人と結婚してハワイ在住だという。3人とも超絶的美少女ではなく、斉藤由貴もふて腐れ顔なども多くてコメディエンヌとして評価された。この絶妙なアンサンブルが魅力的なのである。

 たかが女子高生が「恋する女たち」なんておかしいけど、緑子、汀子のお相手は年上の設定になっている。普通に同級生に憧れているのは多佳子だけで、若き日の柳葉敏郎演じる野球部員沓掛勝にお熱。柳葉はすでに25歳で高校生役は少しキツいが、一生懸命野球をしていて、いかにも若い。しかし、彼には中学時代からの恋人がいて、他校生ながら試合に応援に来ている。美術館や映画館前でなぜか沓掛と出会ってしまうのに、多佳子の気持ちは全然気付いて貰えない。逆に下級生の神崎基志菅原薫)に見つめられ告白されてしまう。中学時代に姉の比呂子原田喜和子)が家庭教師をしていて、姉への憧れが妹を発見させたらしい。菅原薫は菅原文太の長男だが、小田急線電車にはねられて31歳で亡くなった。
(柳葉敏郎と斉藤由貴)
 傑作なのは美術部の大江絹子で、勉強をサボったため留年した設定。演じているのは小林聡美で、例によって怪演している。斉藤由貴はまだセリフ回しがキツい感じがあるが、比べると小林聡美の演技は圧倒的にうまいと思う。でも多佳子が絹子に圧倒されるという設定のシーンだから気にならない。お互い授業をサボったり、好き勝手にやってるところが面白い。絹子は絵ばかり描いている生徒だが、多佳子がお気に入りで今度ヌードを描かせろなんて迫っている。この小林聡美が出ていることで、映画はピリッとしまっている。やはり脇役こそ重要だと思う。
(小林聡美と斉藤由貴)
 多佳子、比呂子姉妹は温泉宿の娘で、親が観光協会長をしているから観光協会の2階に住めるという。学校に行くために二人暮らしをしているという都合のいい設定である。二人の親がやってるという「辰口温泉まつさき」は実在の宿で、映画では斉藤由貴が掛け流しの風呂に入っている。比呂子は大学卒業後は家に帰って女将を継ぐという約束を守って、見合いをするという。しかし、実は…という展開がある。年上には年上の事情があり、やはり高校生は高校生同士で海辺で野点をするというラスト。このラストが実に美しくて魅惑的。ドローンを使ったかのような空中撮影が見事だ。

 結局何が面白いのかなと思うと、巧みな脚本と演出でジャンル映画としての高い完成度を見せていることだなと思った。野村孝監督『拳銃(コルト)は俺のパスポート』や加藤泰監督『明治侠客伝 三代目襲名』などを何度見ても面白く見られるのと同じではないか。どういうジャンルかと言えば、『少女アイドル映画』ということだが、全体にあるガーリーな趣味がうまく生きている。自分と違う世界であっても、ジャンル映画は完成度次第で面白く楽しめるわけである。
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清水宏監督「明日は日本晴れ」、敗戦3年目のバス映画

2022年05月05日 22時36分20秒 |  〃  (旧作日本映画)
 国立映画アーカイブで「発掘された映画たち2022」という特集上映を行っている。非常に貴重な映画が「発掘」されているが、このレベルの映画まで全部見ていると他のことが出来ない。しかし、清水宏監督の戦後第2作「明日は日本晴れ」(1948)は是非見ておきたいと思った。公開以来、ほとんど知られることなく、74年ぶりの上映である。独立プロ「えくらん社」の第1回作品で、東宝で配給された。しかし、何故か松竹から16ミリフィルムが発見されたという。戦前に所属して関係の深かった松竹だからだろうか。松竹作品でもないのに、松竹のホームページの「作品データベース」に記載があるのも不思議。

 清水監督には「有りがたうさん」(1936)という映画がある。伊豆を走るバスの運転手(上原謙)は乗客に「ありがとう」と声を掛けることから「ありがとうさん」と呼ばれている。ただその様子を淡々と映すだけのロード・ムーヴィーなんだけど、乗客には身売りされていく娘もいるし、街道を日本に働きに来た朝鮮人労働者たちも歩いている。ほのぼのとしたムードの中に、日本のさまざまな状況が写し取られている。「明日は日本晴れ」は清水監督が再び描いたバスと運転手の映画である。
(「明日は日本晴れ」)
 たった65分の映画で、特に深いドラマも起こらない。それは清水監督の多くの映画と同様だけど、この映画が特徴的なのは、バスが2回故障して立ち止まることである。恐らく敗戦後の日本では、実際にボロバスが多くて故障が多かったんだろう。1回目は何とか動き出すが、2度目はついに立往生。峠まで皆で押してゆき、そこで救助を待つことになる。町は遠くて救援を呼ぶことが出来ない。向こう側からもバスが来るので、そのバスに救援車を送ってくれるように頼むしかない。あるいはもう歩いてしまうか、通りかかったトラックの木材の上に乗せて貰うか。それとも逆のバスに乗って出発地に戻るか。その間の様子を描くだけだが、そこから戦後3年目の日本が見えてくる。

 客の中には闇屋もいれば、戦傷者もいる。目が見えない按摩(日守新一)もいる。按摩は目が見えないのに、乗客の人数、性別などを当てる。後で判るが、失明したのは満州事変の戦傷だった。実際に戦争で片足を失った御庄正一(清水監督の前作「蜂の巣の子供たち」で浮浪児の元締め役で出演していた)も出ている。バスには戦死した部下の墓参を続けている元将官もいる。その事を知って、戦傷者の御庄が怒り出す。それも当然だろうが、運転手は何とか止めようとする。乗客同士のケンカを止める立場だが、それだけではなく運転手(水島道太郎)は「もう戦争のことは忘れよう」と思って生きているのである。

 若い女性車掌(三谷幸子)は運転手の「清(せい)さん」に気があるようだ。しかし、乗客に若い女性がいて、都会帰りの様子が皆の気になっている。実はその女性は清さんのなじみだったらしい。どうやら事情があったようだが、戦時中に「徴用」されたら、病気の家族を養えないために、「徴用逃れ」で都会に出て働き始めたらしい。子どもを産んだが、死んでしまって墓にいれるために帰郷したのである。清さんには東京に出てきて欲しい、何とか自分が面倒を見るという。清さんは「五体満足」で復員出来たが、やはり戦争の哀しみを抱えている。

 皆が「あのバカげた戦争」「いまいましい戦争」と呼んで、戦争を呪っている。戦争に人生を狂わせられた悲しみと怒りを抱えている。普段は隠しているが、バスが故障して待っているだけというような時に、そんな思いも出て来る。しかし、題名は「明日は日本晴れ」だ。若い世代には人生への希望も芽生えている。峠から見る風景は絶景である。新しい時代への希望を託すような題名。監督がよく撮影した伊豆かと思うと、松竹データベースには京都で撮影したと出ている。名手杉山公平によるオール・ロケである。杉山は前衛無声映画の傑作、衣笠貞之助「狂った一頁」「十字路」以来の長いキャリアがあり、戦後に衣笠監督の「地獄門」でカンヌ映画祭グランプリを受賞した。

 主演の水島道太郎は日活や東映でギャングのボスやヤクザを何作も演じていた。日活の「丹下左膳」が代表作とウィキペディアに出ている。按摩役の日守新一は戦前の松竹映画で多くの映画で名脇役を演じた。中でも小津安二郎「一人息子」の息子役で知られる。戦後では先に見た黒澤明監督「生きる」で、のらりくらりしている同僚たちの中で課長を評価する正論を葬儀の場でぶつ部下役で知られる。他の俳優は知らないんだけど、シロウトも多くキャスティングしているという。
(清水宏監督)
 清水宏(1903~1966)は戦前の松竹で小津安二郎と並ぶ巨匠とされていた。しかし、次第にスタジオ撮影に飽き足らなくなって、子どもたちの情景をロケで撮るような映画を作って評価された。戦後になると、自ら戦災孤児を多数引き取って暮らし、その様子をもとに「蜂の巣の子供たち」シリーズを3作作った。一時は忘れられていた感じだが、その自由で既成の映画文法に捕われない作風が近年再評価されている。ある意味、「ヌーヴェルヴァーグ」以前に「映画=万年筆論」を日本で実践していたような監督だ。「明日は日本晴れ」は「有りがたうさん」に及ばないとは思ったが、敗戦後の人々の心情を今に残す貴重なフィルムだった。

 「バス映画」は結構多く、ちょっと小論を書こうかと思ったが、長くなったので名前だけ。戦前には同じ清水監督の「暁の合唱」(1941)、「秀子の車掌さん」(成瀬巳喜男、1941)があった。戦後では鈴木清順「8時間の恐怖」は、雪で列車が不通となりギャングがバスに乗ってくる。五所平之助が田宮虎彦原作を映画化した「雲がちぎれる時」(1961)、中島貞夫監督の超絶アクション「狂った野獣」(1976、渡瀬恒彦がバスを暴走させ、本人がノー・スタントで転倒させている)、青山真治監督「EUREKA」(2001)などが思い浮かぶが、まだあるかもしれない。外国映画では、最近のジム・ジャームッシュ「パターソン」が良かったな。もちろん、ヤン・デ・ボン「スピード」も凄かった。
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「七人の侍」、「!」と「?」の超大作ー黒澤明を見る④

2022年04月25日 23時05分20秒 |  〃  (旧作日本映画)
 黒澤明を見るシリーズ4回目(最後)は、いよいよ最長の「問題作」、「七人の侍」(1954)である。見るのは多分4回目だと思う。つい2年前に国立映画アーカイブの三船敏郎生誕100年特集で見たんだけど、その時はコロナ禍でチケットが事前発売の指定席制になっていた。パソコンなら席を選べることをよく知らず、適当に買ったら前の方の席だった。3時間以上ずっと上を向いて首が疲れた記憶しかなくて、もう一度4K版で見たかった。「生きる」と「七人の侍」は僕の若い頃はなかなか上映されなくて、どっちも名画座ではなくロードショーで見た記憶がある。京橋にあったテアトル東京という巨大映画館で見たのが最初だと思う。

 今は日本で「日本映画ベストテン」投票などをすると、「七人の侍」が1位になることが多い。しかし、1954年当時のキネ旬1位は木下恵介監督の「二十四の瞳」だった。2位も木下の「女の園」で、「七人の侍」は3位だった。これはまあ、歴史的な意味合いからいって、僕もこの年の1位は「二十四の瞳」なんじゃないかと思う。ところで、自分は歴史専攻だったから、「七人の侍」には最初から違和感が強かった。この映画は凄いなあと思えるようになったのは割と最近のことで、やっぱり非常に優れていて、面白いのは間違いない。違和感の方は後回しにして、面白さ、凄さの部分から考えたい。
(七人の侍)
 野武士たちに襲われる村があって、村人が「サムライ」を雇って野武士を撃退しようと考える。要するにそれだけの物語だが、襲撃と撃退のシーンが圧倒的である。それは黒澤監督が時間を掛けて撮影したということであり、伝説的なエピソードが多々語り継がれている。まるでどこか実際にある村でロケしたような感じに見えるが、そんな都合の良い村はロケハンで発見出来なかった。全景を見せるシーンもあって、それは伊豆北部の丹那あたりで撮ったというが、後は各地で撮影して一つの村のようにつなげたのである。俳優たちもほとんどが軍隊体験のある世代だけに、「サムライ」の身体性を身にまとっている。今の若い世代が戦争映画や時代劇に出て来るときの身体的違和感を感じないのである。

 「七人の侍」というんだから、もちろん7人いるわけである。7人の主要人物を描き分けるのは大変なはずだが、この映画では実に上手に性格や年齢などが設定されている。若い人だと名前は知らないかもしれないが、知らなくても顔で見分けられるだろう。7人をリクルートする場面が全体の3分の1ぐらいあって、そこが長いという人が時々いる。でも大人になるに連れ、このリクルートしていくところが面白くなってきた。本当はもっともっと見たいぐらいである。最初にリーダーになる勘兵衛志村喬)を口説き落とす。要するに「義を見てせざるは勇なきなり」ということだろう。参謀役、孤高の剣客、陽気な男、昔の部下と集めて、後は慕ってくる若者と、何だかよく判らない「菊千代」(三船敏郎)で7人。この絶妙な組み合わせは、同種の物語の原型となったと言えるだろう。それにしても前作「生きる」に続く、志村喬の存在感の深さ。(澤地久枝による評伝「男ありて」がある。)
(志村喬の勘兵衛)
 ところで中でも非常に重大なのか、三船敏郎演じる「菊千代」である。カギを付けたのは、本名じゃないからで、偽系図を見せて武士だと名乗るが、実は農民出身なのである。それも親を早く戦乱で失った「戦災孤児」だったことが示唆される。言うまでもなく、製作時点では大空襲による戦災孤児を誰もが思い浮かべただろう。その後自力で生き抜いてきて、村へ行ったら(映画内の表現で言えば)、「百姓に対しては侍」「侍に対しては百姓」という「両義的」存在として振る舞う。谷川雁的に言えば「工作者」であり、山口昌男的に言えば「トリックスター」でもある。子どもたちにも懐かれ、村人の物真似をして笑わせる。単に農民と武士の両義性だけでなく、大人と子どもの両義性をも生きている。

 三船敏郎は東宝ニューフェースとして俳優となって人気を得た。世界に知られた大スターだったけど、今では知らない人が結構いる。「酔いどれ天使」「野良犬」では志村喬の下に立っている。「七人の侍」でも志村喬がリーダーだから、その下には違いないが、かなり独自性が強くなっている。次の「生きものの記録」「蜘蛛巣城」では三船がはっきりとした主演で、志村喬が助演。次の「どん底」になると、三船は出ているが志村喬は出ていない。三船敏郎を知った時にはすでに大スターで、「男は黙ってサッポロビール」というコマーシャルをやっていた。寡黙で近づきがたい大スターで、僕も敬遠していた。しかし、後に「東京の恋人」などのコミカルな演技も素晴らしいと知った。晩年に演じた熊井啓監督の「千利休」や「深い河」は素晴らしかった。
(三船敏郎と志村喬)
 「」(素晴らしい)を書いてると終わらないから、そろそろ「」(おかしいな)の方を。今見ると、このような村は中世史の研究の進展により、あり得ないだろう。そもそもこの物語は1587年に設定されているという。これは四方田犬彦『七人の侍』と現代」(岩波新書、2010)に出ているが、今回再読してみた。三船演じる「菊千代」の偽系図を見て、じゃあ菊千代は今13歳なのかとからかわれるシーンがある。「菊千代」は文字が読めないことが示唆されている。この生年から計算すると、1587年になる。すでに豊臣秀吉の関白就任は2年前、全国統一目前だった。それを考えると、野武士たち(映画内では「野伏せ」)も、一方の七人側も、信長・秀吉の統一戦争に敗れた側の武士だったため、志を得ないまま日を送っていたと想定出来る。

 四方田犬彦前掲書では、中世史研究として藤木久志先生の「刀狩」「雑兵たちの戦場」の2冊が挙げられている。わずか2冊だったのか。僕は大学時代に藤木先生の講義を聞いているから、「七人の侍」に違和感があったのである。中世史研究の進展によって新たに得られた知見をもとに、「七人の侍」の武士や農民の描き方をあれこれ批判するのは「ヤボ」だと言われるかもしれない。僕もそう思うが、若い頃はどうしてもそう見えたということである。この映画に出て来る村のあり方は、惣村の実態から相当にかけ離れている。それはまあ良いのだが、全体に「近代から見た近世的な意識」を感じてしまうのである。

 兵農分離以前なのに、農民と武士の身分差を強調するのはその代表。娘しかいない万蔵という農民が、娘が若い侍と恋仲になると、「傷物にされた」と怒る。そんな処女性に拘る中世農民がいるのか。婿を取らなければ祖先祭祀が出来ないんだから、むしろ良い婿を捕まえたと勝四郎木村功)に土着することを迫るのが本当だろう。それより何より、一番大きな問題は「宗教の不在」である。いや、ラストに亡くなった侍の墓所が出て来るわけだが、村の葬送はどうなっているのか。村に神社があるはずだが、どこにあるんだろうか。決戦前にはそこに集まって「一揆を結ぶ」はずだが、そんな様子は全くない。そもそも侍を雇うかどうかも、神に伺いを立てるはずである。何しろ足利6代将軍がくじ引きで選ばれた時代である。くじは神慮ということである。重大事なんだから、村の神社で長老がくじを引くはずだ。要するに近世以後の「世俗的な村」に近いということに違和感を持つわけだ。

 まあ、そんなことは問題にせず、メキシコやブラジルのことだと思って楽しめば良いとも言える。実際黒澤の目論見は「西部劇を越える時代劇を作る」ことにあった。実際に、リメイクは西部劇になった。ただし、「七人の侍」を初めて見た頃には、ハリウッド製の特撮を駆使したアクション大作がいっぱい作られていた。比べて見るとカラーで作られたSFやホラー大作の方が面白かったのである。「七人の侍」を楽しむためには、今では映画史的な知識が多少なりとも必要なんじゃないだろうか。七人を演じた俳優たちはどんな人かなどは知っていた方が断然面白い。四方田書で指摘するように、志村喬は死んだと思っていた加東大介と再会したが、小津「秋刀魚の味」でも笠智衆の上官と戦後になって再会する。木村功は大人気スターだったが早く亡くなって、妻が書いた回想記がベストセラーになった。中でも素晴らしいのが寡黙な剣士を演じた宮口精二である。
(宮口精二)
 宮口精二(1913~1985)は戦前から文学座に所属した俳優だが、今では「七人の侍」で一番記憶されるだろう。他にも映画出演は数多く、他の映画では寡黙な剣士ではなくコミカルな役柄も上手である。「あいつと私」では有名美容家の頼りない夫を演じて笑える。「張り込み」では東京から佐賀まで張り込みに行くし、「古都」では京都の呉服問屋の主人で岩下志麻の育て親。「日本のいちばん長い日」では東郷茂徳外相…、などなど50年代、60年代の古い映画を見るとき、宮口精二の名前を楽しみに見るようになった。「七人の侍」を見るまで全然知らなかったが、こういう「助演」で映画を見る楽しみを教えてくれた人でもある。
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「生きる」、今も深き感動を与える傑作ー黒澤明を見る③

2022年04月24日 22時43分55秒 |  〃  (旧作日本映画)
 黒澤明を見るシリーズ3回目は「生きる」である。この順番は今回見直した順で書いてるだけ、単に番組編成の問題。「生きる」は1952年に公開され、キネマ旬報ベストテンで1位になった。キネ旬ベストワンは「酔いどれ天使」「生きる」「赤ひげ」だけである。僕は昔から「生きる」が黒澤映画の中では一番好きで、何回か見ている。今回久しぶりに見直しても、圧倒的な感動に心揺さぶられる名作だと思った。公園のブランコで志村喬が「ゴンドラの唄」を歌うラストは世界映画史上屈指の感動シーンだ。

 黒澤映画にはあまり複雑な筋書きはなくて、ある意味「図式的」に進行するものが多い。だからかつては黒澤には「思想がない」などと批判されていた。「生きる」もストーリーを一言で表せる映画と言えるが、その構成が素晴らしい。黒澤作品はシナリオを共同製作するのが慣例で、この映画は黒澤明橋本忍小國英雄の脚本である。ある役所の小役人がガンになって、自分の人生を振り返る。生きる楽しみが全くなく、ただ「ミイラ」のように生きてきた30年。死を意識して初めて、「何か」を求め始めるのである。そしてクリスマスの東京を巡り歩く。そして最後に「何かを作ること」が大切なんだと気付く。

 そこから映画は主人公渡邊勘治志村喬)の葬儀になる。後半が列席した役所の吏員による回想という構成が独創的なのである。これがすべて時間通りに進行していたら、感動がここまで深くはなっていないと思う。この映画は主人公の市民課長志村喬の鬼気迫る演技に負うところが大きい。だが改めて4K画面で見てみると、演技を支える撮影中井朝一)、美術松山崇)、照明森茂)などの素晴らしい技量に感服した。冒頭に「東宝設立20年記念作品」と出る。東宝争議以後、黒澤は「静かなる決闘」から5本を大映、新東宝、松竹で製作した。久しぶりの東宝映画で、黒澤作品を多く担当するスタッフがそろったのである。

 主人公はガンを宣告されたわけではない。当時は本人に告知しなかった。それでも家族も呼ばないのは当時としてもおかしいのではないか。待合室で同席した患者(渡辺篤)が「軽い胃潰瘍と言われたら胃ガンだよ」などと脅かしていて、診断の場面で「軽い胃潰瘍です」と言われる。脚本の妙だが、これで本人がガンと思い込む。今と違って当時は自覚症状を覚えて診察した段階では、「死刑宣告」に近かったのだろう。そのまま放っておかれるんだから、いくら何でもおかしいけど。しかし、この映画ではナレーションが多用され、観客が「神」の位置にいる。実際に胃がんであることを観客は先に知らされるから、違和感がないのである。観客が何でも知っていて人物の動きを見ているのは、普通は興をそぐと思うが「生きる」ではそれが感動を呼ぶ。

 それは何でだろうか。「人生いかに生きるべきか」という普遍的な問いをとことん問い詰めているからだろう。住民の要望をたらい回しにするお役所仕事、ガンの発病に怯えきった主人公、主人公が苦悩を素直に打ち明けられない親子関係、すべて戯画化が過ぎるように描かれる。だから主人公は30年間無遅刻無欠勤の職場を突然休んで、毎日「どこか」へ出掛ける。たまたま知り合った「無頼派作家」(伊藤雄之助)に連れ回されて夜の町を彷徨う。そして辞表にサインを貰うために自宅まで来た女職員、小田切とよ小田切みき)を連れ回すようになる。この小田切みき(1930~2006)が圧倒的に素晴らしいわけである。戦前から子役だったと言うが、この時は俳優座養成所の一年生で、渡辺美佐子が同期だったとトークで言っていた。安井昌二(「ビルマの竪琴」に主演し、その後新派で活躍)と結婚し、娘が四方晴美だったとは今回調べて知った。
(小田切みきと志村喬)
 この小田切みきから、主人公は「何かを作ること」の大切さに気付かされる。しかし、息子夫婦はそれを若い愛人が出来たのかと思い込む。主人公は市民課長として、揉めている児童公園を作ることを人生最後の仕事にしようと決意する。しかし、それらの経緯はすべてが葬儀の場の回想から、主人公がガンだったことを知っている観客が心の中で作り上げるストーリーである。主人公の決意表明などはどこにも描かれず、回想によっていかに課長が一生懸命だったことが語られるだけである。その語り口が上手いのである。だから観客が自分で「誰にも死期を悟られないようにしながら、ひたすら公園作りを進めた」心の内を察するのである。

 そこで思う。我々は自分の人生で何か「公園を作ったか」ということを。何か「公園を作る」ような人生を自分も送らなければならないと深く思い知らされる。自分の人生の中で自分なりの公園作りを始めるのに遅すぎることはない。ガン治療や公務員のあり方などが全然違ってしまった現在にあっても、なお「人生には何の意味があるのか」という問いは永遠である。この映画では「ゴンドラの唄」が3回ほど流れる。当時のこととして歌の名前も紹介されないが、吉井勇作詞、中山晋平作曲の1915年の歌である。「いのち短し 恋せよ乙女」で始まる歌は、今では「生きる」で使われたことで知られているだろう。心の底から絞り出すような志村喬の歌声を聞くとき、人は自分の人生を思い返して涙なしでは見られない。
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「赤ひげ」、素晴らしき助演女優たちー黒澤明を見る②

2022年04月23日 23時02分46秒 |  〃  (旧作日本映画)
 「隠し砦の三悪人」と一緒に「赤ひげ」も書くつもりだったけど、ちょっと疲れてしまった。こうやって書いてると、事前の予定と違って4回も黒澤明を書くことになってしまうが、まあいいか。「赤ひげ」(1965)は30本になる全黒澤作品のうちで、23作目の作品になる。ここまで順調に作り続けていた黒澤明だが、次は1970年の「どですかでん」、その次はソ連で作った「デルス・ウザーラ」(1975)、さらに「影武者」(1985)、「」(1990)と5年ごとにしか作れない時代になる。

 「赤ひげ」は山本周五郎の「赤ひげ診療譚」を原作にしたヒューマン・ドラマで、1965年に大ヒットした。ヴェネツィア映画祭男優賞(三船敏郎)を獲得し、キネマ旬報ベストワンになった。(ちなみにベストテン2位は市川崑監督の「東京オリンピック」だった。)上映時間が185分もある大作で、これは「七人の侍」の207分に次ぐ長さである。(「影武者」も180分あって、3時間になるのはこの3作。)昔見ているけれど、それ以来だから何十年ぶりにある。時々黒澤特集でやっているけれど、長いから時間が取れなかった。それと僕はこの映画が好きじゃなかったので、あまり見直したいと思わなかった。
(三船敏郎演じる「赤ひげ」先生)
 僕が昔見て好きになれなかったのは、三船敏郎演じる「赤ひげ」があまりにも偉そうで、高圧的に加山雄三に接する威圧感が半端なく、見ている自分まで「」を感じて嫌だったのである。翌1966年のベストワン作品、山本薩夫監督「白い巨塔」も嫌いだった。病院内で医師たちのドロドロした思惑がぶつかり合い、この映画イヤだなあ、何が面白いのと若い時分には思ったのである。しかし、「白い巨塔」を10年ぐらい前に見直したら、やっぱりこれは面白いし優れた映画だなと思った。同じように、「赤ひげ」も今見れば面白いし感動的な映画だった。でも、やはり好きじゃないなと思う。

 三船敏郎は1920年生まれだから(1997年死去)、公開時点で45歳である。えっ、そんな若かったのか。今じゃ40代半ばにこれほど重厚感を与える俳優はいないだろう。見ている自分の方も年を取ってしまい、とっくに赤ひげ先生より年上になっている。ああいう高圧的な先生にも人生で出会ったこともあるが、何とか付き合い方も判ってきた。そして「偉そう」には違いないが、「実際に偉いんだから仕方ない」とも思えるようになった。「偉そう感」には有難みがあって、貧しい病人なら赤ひげが大丈夫と言うだけで安心できるだろう。上に立つ人、例えば教師には時には偉そうにしてみせる演技が必要だというぐらいの知恵も付いた。

 しかし、偉大な師匠と成長する弟子という基本的な物語の構造は、やはり僕は好きではない。加山雄三演じる若き医師、保本登は長崎に遊学して帰ってみたら、御殿医の娘だった婚約者は他の男に嫁いでいた。気がふさいでやる気もないのを見て、小石川養生所を訪ねて見ろと言われる。来てみたら、責任者の新出去定(赤ひげ)からここで働くことように申し渡され、全く不服である。お目見え医になれるつもりで江戸に戻ったら、貧民の相手とは話が違いすぎる。という始まりだが、展開は見なくても予想できる。それにこの決め方はやはり良くない。「自己決定権」を全く無視している。保本だって、すぐに将軍や大名を見る前に「初任者研修」がいるんだと説明されれば納得出来ただろう。
(加山雄三と二木てるみ)
 しかし、保本をめぐる何人もの助演女優陣が素晴らしいのである。まず「狂女」の香川京子がすごくて、そのお付き女中の団令子もなかなか良い。松竹から桑野みゆきが悲しい運命の女を演じ、娼家の主人杉村春子はいつものように強烈。極めつけがそこで病気になったところを赤ひげと保本に助けられた「おとよ」(二木てるみ)である。この悲しい運命の少女を凄い目をして演じている。子役として「警察日記」などで活躍し、16歳で出演した「赤ひげ」でブルーリボン賞助演女優賞を獲得した。1949年生まれで、テレビで活躍していたのも知らない世代が多くなっただろう。もう70歳を越えているが、永遠に「赤ひげ」で語られるだろう。
(内藤洋子の「まさえ」)
 婚約者の裏切りにあって、女性を信じられなくなった保本だが、次第次第に多くの不幸な人々と魂の接触をしていくうちに、心も開かれてくる。そして何度も訪れて協力してくれる、かつての婚約者の妹である「まさえ」との縁談を受け入れることになった。その内祝言の席で、保本は自分と一緒になると、貧しい生涯を送ることになるがそれでも良いかと問う。もはや御殿医ではなく、小石川で働き続ける気持ちになっている。そのまさえを清楚に演じているのが内藤洋子。1970年に二十歳で結婚して芸能界を引退したので、今では知らない人も多いだろう。喜多嶋舞の母である。テレビの「氷点」の陽子で人気を得た他、60年代後半の東宝青春映画を支えた女優の一人だった。この前恩地日出夫監督「あこがれ」を再見したが、とても良かった。
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「隠し砦の三悪人」、三船敏郎のアクションの凄さー黒澤明を見る①

2022年04月22日 22時55分59秒 |  〃  (旧作日本映画)
 池袋の新文芸坐が2ヶ月半の休館を経て、先週からリニューアルオープンした。4Kレーザー上映可能な設備を名画座として初めて導入したという。よく「4Kデジタル修復版 当館は2K上映になります」なんて、ロードショー館でも書いてある。それを考えると、新文芸坐はすごい。前の文芸坐(地下にあった文芸地下)から合わせて数えれば、多分一番行ってる映画館だろう。そしてオープン記念に「4Kで蘇る黒澤明」というと特集上映をやっている。全部じゃないけど、少し見に行ってみよう。
(黒澤明監督)
 黒澤明(1910~1998)はもちろん全部の映画を見ている。何本かは2回、3回と見ているのだが、それはずいぶん昔のことだ。デジタル修復版を見てるのは、大映で作った「羅生門」ぐらいである。主に黒澤作品を製作した東宝は、なかなかデジタル版を作らなかった。最近TOHOシネマズの「午前10時の映画祭」の上映作品に黒澤映画が入るようになったが、まだ見てなかった。

 僕の若い頃は黒澤明は日本で一番有名で優れた映画監督だと思われていた。今は小津安二郎の方が上という評価ではないかと思う。黒澤明は何しろ「羅生門」で初めてヴェネツィア映画祭グランプリを獲得して、世界に日本映画を知らしめた。「荒野の七人」や「荒野の用心棒」など外国でリメイクされることもあった。そんな日本映画は当時は他になかった。一方の小津は70年代になるまで外国には紹介されず、外国人には理解されない(だろう)日本ローカルの巨匠という扱いだったのである。

 黒澤明は時代劇も多く、戦時中のデビュー作「姿三四郎」以来、アクション映画が多かった。だから外国でも理解されやすかったという面はあるだろう。しかし、今になっては代表作の多くが「モノクロ映画の時代劇」というのは、若い人にはつらいかもしれない。今では特撮を駆使した大々的なアクション映画がいっぱいあって、昔っぽい感じがしてしまう。僕もしばらく見てない映画が多いが、今4Kで見直すとどんな感想を持つだろうか。実は僕は黒澤明は確かに凄いとは思うけれど、あまり好きな映画監督ではない。その理由はおいおい書いていくけど、まずは1958年の「隠し砦の三悪人」から。

 「隠し砦の三悪人」は初めてシネマスコープで製作された大作時代劇で、そのワイドスクリーンの使い方の素晴らしさは見事だ。ベルリン映画祭監督賞、国際映画批評家連盟賞を獲得し、キネマ旬報ベストテンで2位になった。メッセージ性、社会性を訴える映画ではなく、純然たる娯楽大作。その意味で「用心棒」「椿三十郎」に続く映画だけど、僕はこの映画が一番面白いと昔見た時に思ったものだ。ジョージ・ルーカスの「スターウォーズ」に大きな影響を与えたことでも非常に有名だ。

 見るのは多分3回目だが、2回目に見た時は疲れていて集中できなかった。記憶にあったほど、面白くないように感じたのである。今回見ても、冒頭部分、敗残の農民千秋実藤原鎌足が戦地を彷徨うシーンが長すぎると思った。話を知っていれば、早く姫を連れて「敵中突破」してくれと思う。もう正体を知っているので、先が見たいと思う。「三悪人」という題名もどうかと思う。全然悪人じゃないので。それより当時の時代劇にありがちなことだが、戦国時代としてどうなのよという突っ込みどころが多い。結局、この映画はあえて敵国に紛れ込んで、味方のいる隣国に逃げ込もうというアイディアに尽きるのである。

 そこで敵中に入ると、凄いシーンがいっぱいある。特に有名なのが、三船敏郎が馬に乗ったまま敵を切り伏せる場面。一気に撮影したアクションの素晴らしさに驚く。また敵側の知人、藤田進と槍で一騎打ちする場面の壮絶なアクションもうならされる。「山名の火祭り」のシーンも素晴らしい。三船敏郎と姫が「秋月」で、敵が「山名」である。秋月は敗れるが、重臣と姫が隠し砦に潜んでいる。軍資金は金を薪の中に仕込んである。いかに敵の領地を突破していくか。この素晴らしいアイディアの脚本は、菊島隆三小国英雄橋本忍黒澤明がクレジットされている。

 娯楽アクション大作だから、特に気にせず見てしまうが、戦国時代史としてみるならば、納得できない点も多い。一番問題なのは、秋月には一人娘しかいなくて、先代が男のように育てたというところ。姫は新人の上原美佐が演じたが、まあそんなに上手くなくても良い役だから、セリフなどは良いとする。しかし、上原美佐本人は1937年生まれで、すでに20歳を超えている。戦国時代とすれば、もう政略結婚の婚期を逃しつつある。味方の陣営もあるんだから、そこから養子を取って早く結婚させて若君をもうけて貰わないと跡継ぎがなくなるではないか。まあ妙齢の姫君を連れて逃げるというのが、面白いということだろう。

 金塊に「秋月」の三日月マークがついているのも変だけど、こんなに資金があるなら何故もっと鉄砲などを整備しなかったのかも謎。今頃持って逃げているが、不思議である。その他、筋書きではいろいろ不思議があるが、それもこれも細かいことを言わなければ、話を面白くするために作られているわけである。戦国時代を舞台にした黒澤映画は「七人の侍」「蜘蛛巣城」や「影武者」「」がある。いずれも戦国時代は「舞台」として選ばれただけで、あまり歴史的に合っているかは気にしないのがいい。

 今になると、その壮大なアクションによって記憶される伝説的映画ということになる。4K修復版は、もしかしたら公開当時より綺麗なんじゃないかと思うようなクリアーな画面だった。
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映画「青幻記」と高橋アキトークショー

2022年04月03日 22時51分10秒 |  〃  (旧作日本映画)
 シネマヴェーラ渋谷でやってる「日本の映画音楽家Ⅰ 武満徹」特集で、成島東一郎監督の「青幻記 遠い日の母は美しく」(1973)の上映とピアニスト高橋アキさんのトークショーがあった。僕はこの映画が公開時から大好きで、最近上映機会がほとんどないけど、是非もう一回見たいと思ってきた。また高橋アキさんも昔からファンなので楽しみ。どこにあったフィルムか判らないけど、ものすごく美しい状態で完全に映像世界に魅了された。今も心の奥深くに届く「母恋い」映画の名作だ。

 鹿児島県奄美諸島の沖永良部島(おきのえらぶじま)が舞台になっている。そこで生まれた作家一色次郎(1916~1988)の太宰治賞受賞作「青幻記」(1967)の映画化。冒頭に船で島に着いたところから、海の青さが素晴らしい。映像美がハンパないのは、名カメラマン成島東一郎が自ら製作、脚本、監督、撮影を担当しているから当然だ。原作に惚れ込んだ成島が、公開の当てもなく製作プロを作って自主製作した映画なのである。1973年に公開されて、キネ旬ベストテン3位となった。
(沖永良部島の地図)
 成島東一郎は松竹で60年代の名作を多く撮影した人で、吉田喜重監督「秋津温泉」、中村登監督「古都」「夜の片鱗」「紀ノ川」などを撮った。その後、ATGで篠田正浩「心中天網島」、大島渚「儀式」とベストワン映画を撮影して高く評価された。その成島東一郎の生涯ただ一本の監督作品が「青幻記」で、それだけに渾身の思いの詰まった名作になっている。この映画の後では大島渚監督「戦場のメリークリスマス」の撮影監督をしている。
(冒頭の島への帰郷場面)
 大山稔田村高廣)は36年ぶりに鹿児島市に戻ってきた。幼い頃に住んでいたが、その後苦労を重ねて生きてきた。その日は思い出の土地をめぐり、次に母の生まれ故郷、沖永良部島に向かう。その間に昔の場面が交互に挟み込まれるが、母さわ賀来敦子)は苦難の人生を送った人だった。美貌を見そめられ島から鹿児島に嫁いだが、子を産んだ後で夫が病死して実家に戻された。しかし、その時子どもの稔は跡取りとして祖父(伊藤雄之助)の下に残され、妾のたか(山岡久乃)に疎まれている。さわは何とかもう一回子どものそばで暮らしたいと意に染まぬ再婚をして町に戻って来た。

 この物語は昭和の初め頃を舞台にしているが、当時は結核などで早くなくなる人が多かった。家制度があって、親権を争うまでもなく、子どもは家長のもとで暮らすものだった。だから、この映画のように母と子が別れ別れになることも多く、当時の大衆文化には「母もの」と呼ばれるジャンルがあったぐらいである。悲しく別れた親子が巡り会うが、子(あるいは母)は身分違いとなっていて、素直に感情を表わすことも許されない。親子は心で泣きながら別れていくが、その時母はもう二度と生きては会えぬ重い病にかかっていた…。と言ったような話が戦後10年近くまで量産されてきた。
(満月の夜に舞う母)
 母は二度目の夫に捨てられ島に戻るが、その時すでに病にかかっていた。最後の別れに港に連れてこられた稔は、そのまま母と共に島に付いて行ってしまった。船の中でも一人隔離されている母と逢うこともままならない。やっと帰った島でも遠い実家まで、助けられながら何とか親子でたどり着く。そこでは祖母(原泉)が一人で住んでいた。大人になって島に戻った稔は当時を知る鶴禎(かくてい=藤原鎌足)に出会って、母の思い出を聞く。島に戻ってから、満月の夜に舞う母の何と美しかったことか。それは少年の稔も良く覚えているのだった。このシーン(上記画像)は本当に美しく、夢幻的世界を奇跡的に描き出している。
(漁に行く母と子)
 そしてある日、母と魚取りに行って悲劇が起きる。しかし、死をまだ理解出来ない稔は泣くこともなく、人はそれを気丈と呼ぶが、実は二度と母に会えないことも判っていなかったのである。その後、祖父も死に稔は苦労を重ねて育ったらしいが、そこは描かれない。ともかく戦争が終わって何年も経ち、ようやく母の墓に戻って来ることが叶ったのである。早く両親に死に別れた稔の「母恋い」の慟哭に見るものの心も揺さぶられる。戦争と貧困の時代には多かった悲劇だが、あまりにも美しい海と空を背景にして幻想的に描かれる。沖縄や奄美を舞台にした映画は多いが、中でもこの映画は美しく感動的だ。
(高橋アキトーク。聞き手=高橋俊夫) 
 映画音楽の武満徹は一般的には「現代音楽家」と思われているだろう。ものすごく多数の映画音楽を手掛けているが、そこでも随分実験している。昨年勅使河原宏監督特集で「おとし穴」を上映した時に、高橋アキさんの兄、作曲家の高橋悠治のトークがあったが、そっちはかなり実験的、前衛的音楽である。一方で武満には稀代のメロディメーカーという側面もあって、幾つもの映画で美しいテーマソングを作っている。「青幻記」でも美しい抒情的なメロディが印象的で、毎日映画コンクール音楽賞を受けた。

 高橋アキさんも「青幻記」を再見したかったと言っていた。若い頃からの武満との関わり、映画音楽の研究もしていた音楽研究者の夫秋山邦晴さんのことなど、いろいろな話が出て来た。僕は秋山さんが主宰したエリック・サティの連続演奏会に何回か行っている。そこで弾く高橋アキさんのサティが大好きで、今もCDをよく聞いている。サティのCDを何枚か持っているが、一番しっくりくる。僕は特に音楽に詳しいわけでもなく、出て来た人名もよく判らないものもあったが、とても充実したトークショーだった。

 原作者の一色次郎は今ではほとんど忘れられているが、戦前から作家活動をしていて、戦後に2回直木賞候補になった。「青幻記」で太宰賞を受けたときは、すでに50歳を越えていた。父親が冤罪で獄死していて、そのことを訴える本もある。死刑廃止運動にも関わっていた。また映画で母を熱演した賀来敦子(かく・あつこ)は大島渚監督「儀式」のヒロインで、従兄弟同士の中村敦夫と河原崎健三に運命的に関わる律子役が印象的だった。重要な役で出た映画はこの2本しかなく、どのような事情か知らないけれど、「青幻記」一本で永遠に美しき面影が残された。
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映画「細雪」、3本の映画を比べて見る

2022年03月31日 23時00分18秒 |  〃  (旧作日本映画)
 谷崎潤一郎原作「細雪」は今までに3回映画化されている。以下の3つの作品である。
1950年 新東宝 阿部豊監督 145分 キネマ旬報ベストテン第9位
1959年 大映 島耕二監督 105分 
1983年 東宝 市川崑監督 140分 キネマ旬報ベストテン第2位 アジア太平洋映画祭作品賞、監督賞

 この3本を神保町シアターで見たので、それも一週間以上前のことになるけど、何とか3月中にまとめ。もう上映もしてないし、誰にも無関係ながら自分の備忘という意味である。3本全部前に見ていて、随分しばらくぶりに見直したことになる。今までは原作を読んでなかったので、今度原作を読んでみたところ、なるほどなあと思うことが多かった。長大な原作をたった2時間ほどの映画にまとめなければならない。映画製作にはお金も時間も掛かるから、ある程度は女優中心に「商業映画」として成立させなくてはならない。そこでどこをどう切り取り、どう入れ替えるか。シナリオの勉強になる。

 では、どのように女優中心になっているか。蒔岡家の四人姉妹を上からキャストを紹介すると、以下の通り。
花井蘭子・轟由起子・山根寿子・高峰秀子
轟由起子・京マチ子・山本富士子・叶順子
岸恵子・佐久間良子・吉永小百合・古手川祐子

 第一作のキャストは今ではもう判らないかもしれない。当時としても山根寿子より、4女の高峰秀子の方が大スターである。一方、②③の山本富士子吉永小百合は、誰もが認める大女優。だから①は「こいさん」(妙子)が中心になり、②③は三女雪子が中心になる感じがする。原作は雪子の方が重要だと思うが、最初の映画化で四女妙子の奔放な恋愛が強調されたのは、時代の影響が大きいと思う。高峰秀子だからという以上に、敗戦と占領という時代相が反映されていると考えられる。
(1950年の「細雪」、左から高峰・山根・轟・花井)
 簡単に各作品に触れていきたい。①は原作完結後すぐの映画化で、これだけがモノクロ映画になっている。それだけに今見ると、ロケなどにまだ敗戦直後の貧しさが見える。しかし、驚くべきことに原作のクライマックスとも言える「阪神間大水害」が描かれるのは①だけなのである。映画では特撮を駆使しているが、今となってはちょっとしんどい。それでも「完全映画化」に一番近いのは①なのである。ただ和服や花見シーンがカラーじゃないのは、やはり寂しい。雪子の山根寿子は戦前から活躍した女優で、50年代末日活の石坂洋次郎作品によく出ていた。電話にも出られずモジモジして縁談を断られる感じは一番出ているかな。
(阿部豊監督)
 ①の監督阿部豊(1895~1977)は無声映画時代から長く活躍した監督で、1926年の「足にさはつた女」がキネマ旬報の日本映画ベストテンの最初の1位になった。その前にハリウッドに行って俳優として活躍し、映画技術を学んで日本に戻った。最初の頃は「ジャック」名で活動していて昔の文献には「ジアツキ阿部」なんて出ている。戦時中には「燃える大空」「あの旗を撃て」などの戦争映画を作った。ものすごく作品数が多いが、戦後は東宝、新東宝、日活で娯楽映画を量産している。「細雪」は戦後唯一のベストテン入選。特に悪くもないのだが、まあ全体的に評価すれば9位は妥当なところか。
(1959年の「細雪」)
 1959年の②は大映製作で、驚くべきことに原作を製作当時の1959年に変えている。その結果、当時の町並みなどをロケ撮影することが出来るので、貴重ではある。冒頭では啓ぼんがこいさんを車で送ってくるし、次女の幸子は自らカレーライスを作ると腕を振るっている。次女京マチ子と三女山本富士子は、大映を支えた看板女優で、「夜の蝶」ではバーのマダムの壮絶な争いを演じた。当然「細雪」でも山本富士子の縁談が話の中心になる。しかし、山本富士子が結婚出来ないなんておかしいので、かつてまとまった縁談があったのだが、デートするその日に交通事故死した過去がトラウマかになって、30を過ぎたとされる。そんなバカなという感じだが、山本富士子との縁談を断る男がいるはずがないので、そんな設定を作ったのである。
(島耕二監督)
 島耕二監督(1901~1986)は戦前の日活映画を支えた俳優だったが、39年から監督に転身した。「風の又三郎」(1940)、「次郎物語」(1941)が高く評価された。映画史的に残るのもこの2本。戦後は「幻の馬」(1955)が一番かと思うが、「銀座カンカン娘」「有楽町で逢いましょう」「情熱の詩人啄木」など多くの作品がある。「細雪」は可もなし不可もなしか。
(1983年の「細雪」)
 1983年の③は明らかに一番優れている。映画的には脚本と撮影、照明などの技術が洗練の極みに達していて、四人姉妹に配する長女の夫が伊丹十三、次女の夫が石坂浩二と安定感がある。ただし、原作を読んでいると、実に驚くべき改変をしていてビックリ。②は時代そのものを変えたから他は気にならないが、③は本家の東京移転を最後に持って行っている。だから途中までの映画化かというと、三女雪子の縁談は最後まで描いているのである。原作では本家と一緒に雪子も上京するのに対し、③では縁談が決まった雪子は本家を見送る側である。しかも、そのお相手の華族の次男(原作は庶子なのだが、映画はただ次男とする)が、元阪神タイガースの江本なので唖然とする。そして驚くべきことに、次女幸子の夫(石坂浩二)が雪子(吉永小百合)に思いを寄せているという設定である。いや、これは面白いけど無茶でしょう。

 そもそも冒頭の豪華な花見シーンだが、原作では本家は加わらない。しかし、映画では長女岸惠子も参加して四人姉妹の豪華絢爛たる花見シーンになる。何だか映画に影響されてしまっていたが、原作を読んだら全然違うので驚き。さらに凄いのは、「こいさん」(四女妙子)が啓ぼんを振ってカメラマンの板倉に思いを寄せるきっかけの「大水害」がない。特撮がないのではなく、セリフにもないのである。これも時代を正確に再現する意味では無茶だろう。自立して生きている板倉の方が、母親頼りの啓ぼんより立派というのは、現代人の感覚だ。階級的にこれほど格差がある相手に好意を寄せるには、生命の危機を助けて貰ったという設定は不可欠のはずである。しかし、こう変えたことで現代映画になったことは間違いない。脚色の手腕である。

 ちなみに啓ぼんと板倉のキャストを比べると。
①啓ぼん=田中春男、板倉=田崎潤 ②啓ぼん=川崎敬三、板倉=根上淳 ③啓ぼん=桂小米朝(現米團治)、板倉=岸部一徳 原作のイメージには①が合っている。
(市川崑監督)
 市川崑(1915~2008)は、さすが巨匠の風格である。長生きしたので、訃報では「犬神家の一族」「細雪」などが代表作などと書かれてしまった。真の代表作は50年代から60年代初期の大映で作った「野火」「おとうと」「破戒」などだろう。50年代初期に東宝で作ったコメディ、1961年の「黒い十人の女」などブラックユーモアも再評価されつつある。角川で横溝作品を映画化して大ヒットしたというのは、おまけというべきだろう。
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「真田風雲録」と渡辺美佐子トークショー

2022年02月20日 21時01分10秒 |  〃  (旧作日本映画)
 18日は新宿末廣亭で落語を聞いて終了が20時38分頃。そこから急いで帰ったのは、カーリング女子準決勝を見るためである。終わったのは12時近く、それから風呂に入って、未だにダラダラ読んでる「ドン・キホーテ続編」を少し読んで(活字を少しでも読まないと寝られない)、寝たのは1時近かった。だから、19日は疲れていたわけだが、それでも土曜にしては早く食べて(土曜は自分でスパゲッティを作る)、早出してシネマヴェーラ渋谷に向かった。この日渡辺美佐子のトークがあるのである。2月5日にもあったが、その日は夕方だったので敬遠した。(7日夜が「ラ・マンチャの男」だから体力温存。)今度も疲れていて、5種目目に挑む高木美帆みたいな気持ちだったが、頑張ったらやはり金メダル級のトークを聞けたから大満足。
(井上淳一監督と渡辺美佐子)
 この日は「真田風雲録」の上映があって、その後に井上淳一監督の司会でトークが始まった。井上淳一は2019年に「誰がために憲法はある」で渡辺美佐子と仕事をした監督である。(上記画像はシネマヴェーラのツイッターから))トークの中で紹介されたが、20日発売のキネマ旬報3月上旬号(表紙が「ウエスト・サイド・ストーリー」になっている)で、渡辺美佐子の長いインタビューが掲載されている。それを聞いて、帰りに早速東急百貨店本店の7階にある本屋に買いに行った。そのインタビューも貴重な話が満載である。(聞き手は濱田研吾氏。)なお、加藤泰監督の「真田風雲録」(1963)に関しては、2016年に「映画「真田風雲録」と加藤泰監督の映画」を書いた。原作の福田善之の戯曲と林光のテーマソングに深い思い出がある映画だ。

 渡辺美佐子といっても主演スターじゃないから、判らない人もいるだろう。活動の主体は舞台だったが、昔の新劇俳優の常として全盛期の映画に出ないと公演が続けられない。俳優座養成所第3期生で、卒業後に小沢昭一らの劇団新人会に入団した。今回シネマヴェーラ渋谷の特集「役を生きる 女優・渡辺美佐子」で21本の映画が上映されている。そのうち18本が日活作品になっているが、小沢昭一とともに日活と一年間5本の契約を結んだからだ。(「真田風雲録」を含めて3本は東映作品。)主演は一本もないが、見れば忘れられない重要な脇役が多い。(特に今村昌平監督「果しなき欲望」ではブルーリボン賞助演女優賞を受けた。)
(シネマヴェーラ渋谷のチラシ)
 舞台では井上ひさしの一人芝居「化粧」で知られるが、もう一つ朗読劇「この子たちの夏」など戦争を語り伝える活動を続けたことも忘れられない。今回のトークでも反戦平和の思いを語っていたが、その原点は養成所時代に出た今井正監督「ひめゆりの塔」にあった。養成所にスカウトに来た今井監督が数人を選んで出演することになった。しかし、ラッシュフィルムの試写を見たら何か違うと感じて泣いてしまった。今井監督は「何が違うかよく考えてみなさい。一週間後に撮り直すから。」と言ったという。そこで振り返ってみたら、自分はポチャッとしているけど、当時のひめゆり学徒がそんな姿のはずがない。そこで一週間絶食して、あるいは醤油を薄めて飲んだりもしてみて一週間後に撮り直した。自分じゃ何も変わってないと思ったが、監督には「眼がギラギラしていた」と言われた。女優は体が資本なんだと思い知ったという。

 渡辺美佐子は1932年生まれで、もう89歳である。それなのに何と元気で生き生きと昔のことを語るのだろう。もう驚くしかない。僕がちょっと驚いたのは、俳優座養成所では演技指導が僅かしかなかったということである。一週間に2時間だけ。後は座学でシェークスピアなどを学ぶ。「教養主義」みたいなものが生きていた時代なんだろう。ところが映画に出るときは劇団出身ということで、監督は演技指導などほとんどしてくれない。午前中に女学生、午後に芸者みたいに掛け持ちで映画撮影に臨んでいた時代である。困った渡辺美佐子は衣装係や小道具係に相談に行ったんだそうだ。普段着たことがない着物の着方、お猪口の上手な持ち方など熱心に指導して貰って演技を覚えたという。だから「映画育ち」なんだという。

 当日上演の「真田風雲録」は、舞台版から「お霧霧隠才蔵)」の役が渡辺美佐子の当たり役だった。評判を呼んであちこちで上演されたが、京都公演に中村錦之助有馬稲子夫妻が見に来た。その辺りから、東映で映画化の話が出て来たわけだが、結構すったもんだあったようだ。(ウィキペディアの「真田風雲録」に出ている。)錦之助が出ることで、猿飛佐助が主演のスター映画になった。それは仕方ないと思うが、もともとこの原作戯曲は「60年安保闘争の総括」である。何よりも「統一と団結」を最優先にする大坂城「実権派」を「既成左翼」とみなすわけである。突撃する真田隊を批判する人々は「統一を乱すものは敵を利する。敵を利するものは、すでに敵である」と言う。こういう物言いは当時の左翼活動家の常套句だった。
(映画「真田風雲録」)
 ところで渡辺美佐子の衣装は網タイツ姿になっている。これは舞台版演出を担当した千田是也のアイディアだそうで、そこから「くノ一」(女忍者)の衣装と言えば網タイツになったんだという。知られざる秘話だろう。撮影では馬が荒れて大変だったという。そもそも乱戦という設定だから、馬も驚いてしまうのだという。ホントは落馬しないはずが、馬が鳴り物に驚いてしまって渡辺美佐子も落馬してしまった。監督はカメラマンを呼んで、ここ撮ってと指示して、終了してから病院へ運べとなったという。網タイツが皮膚に食い込んでしばらく痕が残ったそうである。

 草創期のテレビの話も興味深かった。石井ふく子、橋田壽賀子らと視聴率を気にせずドラマを作ってた時代を生き生きと語った。この時代のテレビ放送はビデオが残っていない。渡辺美佐子はTBSのプロデューサーだった大山勝美と結婚したので、テレビ界の知られざる話ももっとあるに違いない。司会の井上淳一監督の「誰がために憲法はある」という映画で、渡辺美佐子は「憲法くん」という役を演じた。そして「地人会」「夏の会」を通して「この子たちの夏」朗読を続けた。さすがに2019年で終わりになったが、若い人に替わって続けられている。この日3回目の接種を受けてきたといいながら、元気で昔の思い出を語り続ける。そんな渡辺美佐子のトークを聞けたのは、大きな宝物だなあと思って聞いていた。
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映画「勝負は夜つけろ」と作家生島治郎

2021年11月28日 22時21分50秒 |  〃  (旧作日本映画)
 神保町シアターで「夜の映画」特集というのをやっている。題名に「夜」が入っている映画を集めているだけだが、そう言えば「ローマで夜だった」も「夜の映画」である。夜つながりで「勝負は夜つけろ」(1964)を見た感想を書いておきたい。これは原作が生島治郎の作家デビュー作「傷痕の街」だというので見に行くことにした。最近創元推理文庫で「日本ハードボイルド全集」の刊行が始まり、その第一回配本が生島治郎だったので読んでみた。どう映画化されているのか、関心があった。

 原作は横浜港が舞台のはずだから、港が出て来る冒頭を見て横浜かと思ってしまう。しかし、主人公田宮二郎が乗っている車は「」ナンバーになっている。調べてみると、兵庫県のナンバーは今は「神戸」と姫路」だが、昭和30年代には「兵」だったという話。この映画は大映京都作品なので、神戸港で撮影したものか。神戸を舞台にした映画だと、六甲山を印象的に映し出すことが多いが、この映画ではあえて背景に写らないようにしている感じだ。地名は映画内で特定されていない。

 田宮二郎はシップチャンドラー(ship chandler、船舶納入業者)の会社を経営している。チャンドラーなんて、いかにもハードボイルドみたいな名前だけど、元々は英語で「雑貨屋」である。外国航路の船に食品などをまとめて納入する仕事である。もちろん、船の担当者が自分で買いに行っても良いわけだが、どこにどんな店があるのかも知らないし、小売店で買うと高くなる。様々な食材を細かく買い付けるのも大変だから、頼めば何でもまとめて仕入れてくれる業者が港にはいるのである。免税業者の免許を持っていて、外国船には無税になる。僕はまあ先ほどの本を読んでいたから事前に知っていた。

 生島治郎は横浜に住んでいて、学生時代は実際に港でアルバイトしていた。その経験を生かした作品でデビューしたわけである。主人公久須見(田宮二郎)は会社を大きくするために、カネが欲しい。貸してくれるところがなくて困っていると、社員の稲垣川津祐介)があるバーの女性オーナーを紹介してくれる。それが斐那子久保菜穂子)で、彼女を通して高利貸しの井関小沢栄太郎)を紹介される。実は久須見と井関は因縁のある関係だったが、やむを得ず斐那子に回す200万を足して、700万を借りることになった。ところが翌朝、稲垣の妻が誘拐されたと会社に電話がある。
(久須見役の田宮二郎)
 借りたばかりの金を稲垣に一時貸して、稲垣と経理の阿南が車で指定された場所に出掛ける。そのまま行方が判らなくなり、久須見が追跡していくと、顔を硫酸で焼かれた二つの死体を発見する。一人の死体は妻が稲垣だと言うが、もう一人は阿南の妻が違うという。数日後、井関の部下の吉田だと判り、阿南が二人を殺してカネを持ち逃げしたと疑われる。一方、その間に斐那子は久須見と親しくなって行く。実は斐那子は井関の娘だったが再婚した母の連れ子で、井関に今まで虐待されてきて恨みがあったのである。そんな時、稲垣の妻から電話が掛かってきたが、家を訪ねると妻の死体がある。一体真相はどこにあるのか。

 監督の井上昭(1928~)は大映で多くの仕事したが、むしろ70年代、80年代にテレビの時代劇を担った監督だったらしい。映画では「眠狂四郎」や「座頭市」「陸軍中野学校」などの主要シリーズも少し手掛けているが、あまり代表的な作品はない。中では「勝負は夜つけろ」がお気に入りだとウィキペディアに出ている。港のロケを生かして、構図にも凝ったモノクロの映像が魅力的。

 主人公の田宮二郎は足をケガして義足という設定で、いつも片足を引いている役を印象的に演じている。田宮二郎(1935~1978)は映画「白い巨塔」の財前役で知られ、クイズ「タイムショック」の司会者として有名だった。だからこそ散弾銃による自殺というニュースには多くの人が衝撃を受けた。60年代大映映画の「悪名」「黒」「犬」などのシリーズは今見ても非常に面白く、そのアクの強い役柄や風貌とともに忘れがたい俳優だ。市川雷蔵、勝新太郎に並ぶ大映のスターだった。
(生島治郎)
 生島治郎(1933~2003)は、僕の世代だとどうしても「片翼だけの天使」(1984、映画化は1986年)を思い出してしまう。映画では秋野暢子が主演賞を取ったけれど、何だか心配な感じがした。やはり実生活では離婚に終わったようである。先ほどの「ハードボイルド全集」には長編「死者だけが血を流す」(1965)とシップチャンドラー久須見が出て来る「寂しがりやのキング」などの短編が収録されている。「勝負は夜つけろ」(原作「傷痕の街」)にしてもそうなんだけど、「謎」という意味ではちょっと弱い。この手のノワールには本でも映画でもずいぶん接しているので、今さら驚きもなく展開が予想出来てしまうものが多い。
(日本ハードボイルド全集Ⅰ)
 ところでその本の解説で、生島治郎の回顧録的な作品「浪漫疾風録」(1993)が2020年に中公文庫で再刊されていることを知った。刊行時には気付かなかったのだが、この本がめっぽう面白い。もっとも主人公を越路玄一郎と名を変えているのに、自分以外は実名というスタイルはちょっとどうなんだろうかと思うけれど。特に最初の妻、後にミステリー作家となる小泉喜美子に対しては、どうもひどいなあと思う記述が多い。半世紀前は「夫婦」に関する感覚が大きく違ったということだろう。
(「浪漫疾風録」)
 しかし、確かに内容的には「浪漫疾風録」という感じなのである。生島治郎は早稲田を出たものの就職難の時代で、デザイン事務所に職を得たが転職を考えていた。そこに早川書房の募集の話が来て飛びつくのだが、これが恐ろしく古びた商店みたいな会社だった。推理小説や演劇の雑誌を出すオシャレな会社というイメージとは全く異なっていた。そこで先輩の詩人田村隆一の仕事(しなさ)ぶりに驚き、全然素人なのに「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の編集をやらされる。編集長が急に辞めて、何とか後任に都筑道夫がやってくる。しかし、あまりの薄給に勤務中に他社の仕事をしている始末。(ライバル誌「宝石」に書いた連載小説が、ハードボイルド全集都築の巻にある。)もうムチャクチャである。

 そして作家として売れていた都築も退社し、26歳で生島が編集長になる。大家江戸川乱歩や、同世代の結城昌治、三好徹らの記述も興味深い。やがて生島治郎も作家になることを目指して退社した。最初に書いたのが「傷痕の街」で、1967年の「追いつめる」で直木賞を得た。ミステリーがほとんど直木賞を得られない時代で、ハードボイルド系の作品が受賞した意味は大きい。ハードボイルド、冒険小説風の作品を数多く書いたが、今ではほとんど入手できない。そんな中で復刊された「浪漫疾風録」は貴重だ。60年代の出版社を描く自伝的作品には、中央公論社の村松友視夢の始末書」、平凡社の嵐山光三郎口笛の歌が聴こえる」などもあるが、いずれも面白い。今では考えられない自由な時代だったなあと思う。
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映画「100万人の娘たち」、新婚旅行ブームの宮崎

2021年11月21日 22時40分46秒 |  〃  (旧作日本映画)
 国立映画アーカイブの五所平之助監督特集で「100万人の娘たち」(1963)を見た。宮崎交通の全面的協力を得て、新婚旅行ブームに沸く宮崎県を舞台にしている。前半はロケ中心にバスガイドの世界を描くが、次第にセットで撮影された松竹ホームドラマになっていって、何だこれ的な終わり方になる。映画的には特に高く評価されたわけではなく、ウィキペディアを見ても五所監督の作品に載っていないぐらいだ。僕も映像社会史というか、考現学的な関心から見てみたいと思った映画。

 映画アーカイブのチラシに「宮崎における観光業の発展に感銘を受けた松竹の大谷竹次郎会長の発案により始まった企画」と書かれている。五所監督と脚本家の久板栄二郎が各地を回ってシナリオを書いたという。冒頭でバスガイドの岩下志麻堀切峠を案内している。一ノ瀬悠子という名だと後に判るが、彼女は時計を見て時間を気にしている。そこから宮崎空港に画面が移ると、何か大歓迎の準備が進んでいる。それは何と「全国バスガイドコンクール」で宮崎交通の代表が優勝したというのである。それが悠子の姉の一ノ瀬幸子小畠絹子)だったのである。ホントにそんなコンクールがあったのだろうか。検索してみたら画像が出て来たから、確かにあったようだが詳細な情報は得られなかった。
(映画のバスガイドたち)
 ところが飛行機から降りてくる時に、有村日奈子牧紀子)が先に下りてきて、迎えのガイドたちが怒っている。後の歓迎会の場面で事情が判るが、本当は有村が代表で幸子が補欠だった。しかし、本番前にのどを痛めた有村が欠場し、代わりに出た幸子が優勝したのだった。彼女たちを指導したのが、ホテルから出向していた小宮信吉吉田輝雄)だった。東京の大学を出た小宮のことを幸子と有村はともに慕っている。有村は歓迎会の夜に小宮に東京土産を渡そうとして拒まれる。牧紀子は五所監督「白い牙」で主演しているし、小津監督の遺作「秋刀魚の味」にも出ている。しかし、当時の松竹映画では二番手、三番手みたいな役が多い。
(左=岩下志麻、右=牧紀子)
 小宮が勤務しているのは、明らかに宮崎観光ホテルがモデルだろう。1965年の連独テレビ小説「たまゆら」の原作を川端康成が書いたホテルである。もう全国的には忘れられているだろうが、宮崎観光ホテルなどが掘り当てた温泉は「たまゆら温泉」と称している。ホテルから出向してバスガイドを指導するというのは、実際にあるのかどうか判らないけれど、小宮はガイドたちの憧れの的である。ホテルに勤める津川雅彦が「不良」ホテルマンを演じている。岩下志麻は翌日午前に、青島の「鬼の洗濯板」で写真を撮っていた小宮を捜し当てて、姉と有村のどちらが好きなのかと問い詰める。
(青島の岩下志麻と吉田輝雄)
 小宮は結局幸子と結ばれ、有村は会社を辞めてしまう。ところが妹の悠子も小宮に好意を持っていて、姉の結婚後は何か荒れてしまう。ダンスホール(ディスコ)に行って、津川雅彦に酒を飲まされ、ちょっと付き合うような関係になる。それを心配した小宮が出て来て、争いになる。そんな時に幸子が病に倒れ…。義兄をめぐる姉妹の心理戦のようになってしまう後半は、どうもドロドロした感じで、内容も宮崎をはなれてしまう。そんな時、悠子は会社から選ばれて国際観光ゼミナールに派遣される。東京各地を見学して、思わぬところで工場で働く有村にも再会する。宮崎では感じなかったが、東京では多くの働く女性の仲間がいると実感する。このゼミナールは東京五輪を直前にして、国際的に日本を紹介する観光ガイドを育成するというものらしい。

 「フェニックス・ハネムーン」という曲がある。永六輔作詞、いずみたく作曲でデューク・エイセスが歌った「にほんのうた」シリーズの一曲である。今でも歌われるのは、京都を舞台にした「女ひとり」や草津温泉の「いい湯だな」ぐらいだと思うが、当時それらに並んでヒットしたのが宮崎を舞台にした「フェニックス・ハネムーン」だった。「君は 今日から 妻という名の 僕の恋人 夢を語ろう ハネムーン フェニックスの 木陰 宮崎の二人」という甘い歌詞で始まる。フェニックスが自然に生えているわけがない。これは宮崎交通の創業者、岩切章太郎(1893~1985)が営々として進めてきた観光促進策の一つである。宮崎から南へ、青島や堀切峠を望む道にズラッと植えて南国ムードを醸し出したのである。
(60年代の新婚旅行ブームの写真)
 そのような宮崎側の準備あってのことではあるが、当時宮崎が新婚旅行のメッカと言われたのにはきっかけがあった。1960年に結婚した昭和天皇の5女、島津貴子夫妻が新婚旅行で訪れたのである。夫の島津久永は島津一族ではあるが、宮崎の砂土原藩主系統の次男だった。だから里帰り的な意味合いもあった。また1962年には当時の皇太子夫妻(現上皇、上皇后)が宮崎を訪れたことも大きかった。これら皇族の宮崎旅行が大きく報道され、宮崎ブームのきっかけを作ったのである。当時はまだ海外旅行が自由に出来ない時代で、また沖縄県の本土復帰(1972年)も実現していなかった。だからこそ宮崎が「南国リゾート」感を出せたのである。

 日本人が海外へ観光で自由に行けるようになったのは1964年からである。それ以前は許可が必要で、事実上自由な観光は難しかった。さらに1966年からは「年に一回まで」という制限も撤廃された。それでも一回の旅行に持ち出し金額500ドル以内という制限は残っていた。だから、海外旅行は普通の人が自由に行けるというものではなかった。しかし、50年代前半は東京からなら新婚旅行に熱海や箱根、遠出しても京都や奈良という時代だったのだから、飛行機を使って宮崎まで行くというのは、日本人が豊かになったということを意味しているのである。

 60年代の観光ブームは多くの映画に出ている。獅子文六原作「箱根山」の映画化(川島雄三監督、1962年)では、箱根開発をめぐる東急と西武の争いが描かれている。また瀬川昌治の列車シリーズや旅行シリーズでは60年代後半から70年代の日本各地の様子が映像に記録されている。「100万人の娘たち」も映画としての完成度以上に、観光社会学的な面白さを伝えている。僕も日本のあちこちに行ってるので、宮崎観光ホテルや青島など日南海岸は思い出の土地である。60年代の様子が出て来るかと期待したのだが、思ったよりも出て来なかったのは残念。瀬川監督のような観光エンタメ映画を作る意思が五所監督になかったのだろう。
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映画「蟻の街のマリア」と北原怜子

2021年11月04日 23時12分09秒 |  〃  (旧作日本映画)
 古い映画のことは書かないつもりだったが、ちょっと題材を紹介したくなって「蟻の街のマリア」について書いておこうと思う。五所平之助監督の1958年松竹映画で、国立映画アーカイブの五所監督特集で見た。この映画のことは長いこと見たいと思っていたが、ほとんど上映機会がなかった。当時有名だった実話の映画化で、東京のスラム街「蟻の街」に住み着いて子どもたちとともに暮らしたクリスチャン女性北原怜子(さとこ)の物語である。

 若くして亡くなった北原怜子は、昔の子ども雑誌の定番エピソードだった。「小学○年生」といった雑誌を多くの家庭で購読していた時代、「蟻の街のマリア」の美談はよく取り上げられていた。そしてそういう記事には決まって「映画にもなった」と書いてあったけれど、名画座などでこの映画の上映はまずなかった。近年になって地元で語り継ぐ機運が出て来て、新聞記事で紹介されたりした。そういう時に映画の上映会が企画されたようだが、映画としてはほとんど忘れられてきたと思う。

 明治の東京で「三大貧民窟」と言われたのは、下谷万年町、芝新網町、四谷鮫ケ橋だった。横山源之助日本の下層社会」(岩波文庫)に詳しいが、今では地名も変わって面影はどこにもない。戦後には「蟻の街」というスラムがあったわけだが、それがどこだか今では判らない。高度成長時代を過ぎた日本では町ごと貧民が集住することはなくなった。どこの町にも古びたアパートが残っているけれど、駅前に行けばそれなりに栄えているのが今の日本である。だからかつて東京にもあったスラム街の記憶は全く残されていない。

 この映画の舞台となった「蟻の街」は隅田川に掛かる言問橋の台東区側にあった。冒頭は隅田川のロケだが、遠くに浅草松屋ビルが見える。その間に大きな建物がないので、間近に見えるのが新鮮。そこから「蟻の街」の住民紹介になる。ここは「バタヤ」と呼ばれていた。廃品回収業者、まあ俗に言う「屑屋」である。自分たちは貧しいが、働いて自活しているという意識を持っている。ある雨の日、そこへ見知らぬ若い女性が訪ねてきて、子どもたちのお世話をしたいと言う。もちろん「蟻の街」はセットで作られたものである。

 ここには「会長」がいて、会長じゃないと判らないと言われる。初めはお嬢さんが来るところではない、偽善だ、宗教の押し売りではないかなどという受け取り方が多い。しかし、一生懸命に子どもたちの相手をしているうちに、学校でもいじめられて勉強も出来ない子どもたちが懐いていく。実際に北原怜子が蟻の街を訪れたのは1950年だったという。それにはゼノ修道士の存在が大きかった。ゼノは有名なコルベ神父(アウシュヴィッツで身代わりになったことで知られるポーランドの神父。聖人となっている)などとともに日本に布教に来たポーランド人で、長崎で被爆していた。この頃は蟻の街にカトリック教会を建てようとしていたのである。
(実際の北原怜子と子どもたち)
 一緒に勉強し、一緒に歌を歌いながら、やがて北原怜子は気付いた。作文や歌に出て来る海や山を言葉では知っているが、子どもたちは実際には見たことがないのである。じゃあバス旅行に行こうと言いだして、そのお金を自分たちで稼ごうとする。自ら町に出て廃品回収に汗を流し、父の紹介でお金になる空き缶を大量に貰えた。そして念願の箱根旅行で、子どもたちは芦ノ湖や大涌谷、小田原の海を見て感激する。見る前から判る展開ではあるけれど、やはり心が洗われるような感動的なシーンだ。

 その後、奉仕活動の無理が積み重なった北原怜子は、肺結核に倒れ療養せざるを得なくなる。その頃東京都は蟻の街の住民に移住を強く迫っていた。もともと都有地の不法占拠だというのである。他のスラムも撤去しているという。警察が来て測量したりもする。街に住み着いて「先生」と呼ばれている医者が、住民代表で都と交渉するがなかなか打開策がない。療養から戻って蟻の街に住み込んでいた北原は、子どもたちの作文集を託し、これを都の人にも読んで欲しいという。そして都が譲歩したことを聞いて、北原怜子は亡くなる。

 映画では23歳で亡くなったと言うが、実際には1929年に生まれ、1958年に亡くなった北原怜子は29歳だった。映画で演じたのは千之赫子(ちの・かくこ、1934~1985)で宝塚退団後の映画デビュー作である。今では知らない人が多いと思うが、60年前後の松竹映画に出ている。僕も知らなかったのが、東映の時代劇俳優として人気があった東千代之介と見合い結婚したとウィキペディアに出ていた。金八先生などにも出ていたが、ぜんそくが悪化して51歳で亡くなった。僕がすぐ思い出すのは、大島渚監督のデビュー作「愛と希望の街」である。鳩を売る少年の担任教師を演じ、強い印象を残している。
(「愛と希望の町」の千之赫子)
 五所平之助監督は戦前から松竹を代表する監督の一人で、最初のトーキー(発声映画)「マダムと女房」や「伊豆の踊子」の一番最初の映画化(田中絹代主演)などで知られた。戦後に作られた「煙突の見える場所」が代表作。その他「大阪の宿」など佳作がたくさんある。「蟻の街のマリア」は映画としては特に傑出した映画とは言えない。どうしても「美談」の映像化という枠を越えられないのはやむを得ない。しかし戦後東京史の忘れられたエピソードとして、「戦後」という時代を知る大切な映画だと思う。

 タイで活躍し「スラムの天使」と呼ばれたプラティーム・ウンソンタムさんが来日した時に講演を聞きに行ったことがある。マザー・テレサと一緒だったが、僕はプラティームさんの方をより聞きたかったのである。クリスチャンではないけれど、こういう自己奉仕と子どもたちの映画は何だか心の琴線に触れるところがあるなあと思った。11月13日(土)18時からもう一回上映がある。(国立映画アーカイブ。当日券はなく、すべてチケットぴあでの前売指定席のみ。)
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木下恵介監督の「この天の虹」、50年代の八幡製鉄所

2021年07月03日 23時27分16秒 |  〃  (旧作日本映画)
 神保町シアターで木下恵介監督の「この天の虹」(1958)という映画を見た。もう上映は終わっているのだが、記録しておきたい。木下作品の中でも上映機会が少なく、今回初めて見た。傑作を発見したわけではなく、むしろ時の経過に伴って「トンデモ映画」化していると思う。日本が本格的に高度成長する直前をタイムカプセルに詰めたような映画だった。1901年に作られた官営八幡製鉄所を受け継ぐ1958年の八幡製鉄所のすべてを描くような映画で、「映像考現学」的な価値がある。
(この天の虹)
 「この天の虹」という題名はなんだろうと思うと、製鉄所から出る七色の煙を虹とみなすということだった。カラー映画で本当に色の付いた煙が出ている。しかし、これはまずいでしょ、公害でしょ、色が付いてる煙なんておかしいと思ったが、当時の労働者はその虹を誇りに思っているというトーンで映画が進行する。冒頭から5分程度はドラマに入らず、工場見学である。溶鉱炉の作業がきちんと紹介されていく。これは記録的価値が高いと思うが、劇映画としてはどうなんだろうか。ところどころで、登場人物が山に登って八幡全景を見下ろすが、その煤煙の様子を今では肯定的に見ることが難しい。
(映画の中に出て来る八幡全景)
 映画の本筋に入る前に解説しておくと、八幡(やはた)は映画製作当時は一つの市だった。1963年2月10日に小倉門司戸畑若松と対等合併して北九州市となった。県庁所在地以外で初の政令指定都市だった。今は八幡東区、八幡西区に分かれている。官営八幡製鉄所は1934年に民営化されて「日本製鐵」となった。戦後の1950年に八幡製鉄富士製鉄分割されたが、1970年に合併が認められ「新日本製鐵」となった。2012年に住友金属と合併し「新日鐵住金」、2019年4月1日に名称変更して再び「日本製鉄」と改名した。120年の歴史の中で20年しかなかった「八幡製鉄」時代の工場や労働者の生活が映画に残されている。

 笠智衆田中絹代が演じる影山という夫婦のアパート(社宅)に、相良修高橋貞二)とその母(浦辺粂子)が仲人を頼みに来る。今では仲人を頼むとしても、結婚が決まった後のことだろう。しかし、この映画ではまず結婚の申し込みを仲人に頼むのである。相手は帯田千恵久我美子)である。影山、相良、帯田の父(織田政雄)と兄(大木実)は皆現場の工員だけど、千恵は秘書課に務める事務員である。千恵の母親は(夫と息子も同じなのに)工員風情に嫁にやれるかといって断る。断られるのは相良も覚悟の上なのだが、思いが募って申し込みだけはしたいと思ったのである。彼は職員旅行で京都・奈良を訪ねた時に千恵を見初めたのである。

 千恵は大学出の有望な若手職員町村田村高廣)と一緒にダンスホールへ行って踊ったりしている。千恵は結婚したいらしいが、町村にはまだそんな気がしないらしい。興味深いのは独身寮があるのに、町村は下宿していること。下宿先の奥さん(小林トシ子)は町村を好きになってアタックしている。一方、影山家にも下宿人がいて、須田川津裕介)は相良を先輩として慕っていて、千恵が結婚を断った話を聞いてしまい怒ってしまう。そんな時に影山家の一人息子(小坂一也)が仕事を辞めて帰ってきてしまう。彼は身体的条件で八幡製鉄を受けられず、須田たち工員になれた人はうらやましいと言う。しかし、須田は毎日同じような仕事が続く仕事に飽きている。そんな中で相良先輩の恋が実ることだけが希望だったのである。
(職員食堂の千恵)
 ここで判ることは、製鉄所には「職員」「工員」「工員以下」という紛れもない「身分差別」があったのである。それは当たり前すぎて誰も相対化出来ないぐらい身に染みついている。工員たちは「恵まれた社宅アパート」に住んでいる。それは今見ると驚くほど狭くて、とても恵まれていると思えないが、当時としては「社員の特権」だったのだ。しかし、当然「定年退職」の後には出なくてはならない。だから下宿人を置いたりしているんだろう。職員と工員の「文化格差」を象徴するのは、カレーライスの食べ方だ。相良は須田と出掛けた時にカレーライスにソース(つまり食堂に置いてあるウスターソースを)ジャブジャブ掛ける。須田はそういう食べ方は田舎者の食べ方だと千恵が言っていたと注意する。いやあ、昔はソースを掛けて食べる人がいたのか。

 有望社員である町村には部長が姪と会ってみないかと勧めてくる。実質上の見合いは毎年会社が夏に開く「水上カーニバル」。会社の福利厚生事業で行われるフェスティバルらしい。そこで姪(高千穂ひづる)と会ってみるが、ピンと来ないで抜け出してしまう。翌日姪と一緒に河内ダムにドライブする。これは八幡製鉄所の工業用水を確保するためのダム湖なんだという。そこにレクリエーションセンターという建物がある。ここはアントニン・レーモンド(帝国ホテル建設時にライトに付いてきて、日本で日光のイタリア大使館別荘や東京女子大本館など多くの建物を設計した人)が設計したと解説される。この建物は今は西南女子大というところが所有するが「廃墟」化しているらしい。そこで姪も見合いと思わず来たと告げる。
(レーモンド設計のレクリエーションセンター)
 町村はブラジル行きがほぼ決まっているが、それを千恵には告げていない。しかし、町村は今になって千恵が結婚相手にふさわしいと思う。一方、相良の申し込みを何故断ったのかと須田が乗り込んできて、千恵を責め立てる。まあ、その後も多少のすったもんだが続くのだが、もういいだろう。「結婚相手をどう決めるのか」という小津安二郎的テーマが語られるんだけど、小津の映画では初めから同じ階層どうしの結びつきが前提になっている。しかし「この天の虹」では八幡製鉄所をめぐる重層的な階級関係が語られている。しかし、いくら何でも「仲人を立てて打診をする」なんて当時としてもおかしくはないか。上司のお膳立てじゃなくて、自分が好きになったんだから。そこが「50年代」であって、すでに「太陽族映画」はあったけれど実情はそんなものだったのか。

 この映画では溶鉱炉や社宅以外に社員用病院、社員用スーパーマーケット、社員食堂などが紹介される。時々公園に行って町の全景を見せる。劇映画としてはマイナスだろうが、記録的価値を高めている。当時の結婚や仕事に関する考え方も今では興味深い。ブラジルに行くというのは、ベロオリゾンテに合弁で作られたウジミナス製鉄のことで、今もブラジル2位の製鉄会社となっている。木下恵介はものすごい多作で作風も多彩だから、まだ見てない映画が何本かある。「二十四の瞳」「喜びも悲しみも幾年月」などで知られるが、感涙映画ではないシビアな映画にも傑作が多い。なお、主演の一人相良を演じた高橋貞二は戦後の松竹で佐田啓二、鶴田浩二と並ぶ「松竹三羽烏」と言われ、50年代の松竹映画では活躍していた。1959年11月に飲酒運転でベンツを横浜市電に衝突させて亡くなった。今では古い映画を見る人しか知らないだろうが、惜しい人だった。
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「魔女の宅急便」、素晴らしき「飛ぶ教室」ー宮崎駿を見る④

2021年04月29日 23時09分22秒 |  〃  (旧作日本映画)
 国立映画アーカイブで「1980年代日本映画ー試行と新生」という特集をやっていた。今度の緊急事態宣言で突然終わってしまったが、ちょうど最後の24日に「魔女の宅急便」(1989)の上映があって、31年ぶりに見直した。映画アーカイブはコロナ禍により当日券販売がなくなった。チケットぴあで前売券を買うのが面倒だけど、見直したかったから買っておいたのである。
(「魔女の宅急便」)
 宮崎駿監督のアニメは、2020年の緊急事態宣言明けにスタジオジブリ4本がリバイバルされたときに宮崎駿作品を3本見て感想を書いた。それは以下の記事である。
「風の谷のナウシカ」の予言性(2020.7.4)
「もののけ姫」の反人間主義(2020.7.5)
「千と千尋の神隠し」のアニミズム(2020.7.6)

 僕はテレビやDVDで見直す気はないので、他に見直した宮崎アニメは「天空の城ラピュタ」だけ。数年前に映画アーカイブ(当時は近代美術館フィルムセンター)の追悼特集で上映された時がある。だから「となりのトトロ」も「紅の豚」も公開当時に見たまま。ジブリ作品は名画座に下りてこないし、「午前10時の映画祭」などでもやらない。日本テレビが製作に参加しているからテレビでは時々ジブリ作品をやっている。でも若い世代にも大画面でジブリを見る体験を与えて欲しいと思う。なんで高畑勲監督追悼上映をやってくれないのだろうか。

 「魔女の宅急便」は今見ても本当に素晴らしい作品だった。何より躍動する画面に気持ちが乗り移る。映画全体に爽やかな風が吹きすぎてゆくような気がして、心が晴れ晴れする。こういう映画をすべての若い世代に見て欲しいと思った。プロットやテーマも素晴らしいが、何よりも画面がきめ細かくて主人公のキキの髪の毛が常に揺れている。この丁寧な作りに感動してしまう。

 ウィキペディアで宮崎駿作品を調べると、「風の谷のナウシカ」から「もののけ姫」まで「上映データ」という欄があって、作画枚数が記載されている。そこで各作品の1分間あたりの作画数を比較してみたい。
・「風の谷のナウシカ」(1984) 116分 5万6078枚 1分あたり483.4枚
・「天空の城ラピュタ」(1986) 124分 6万9262枚 1分あたり558.6枚
・「となりのトトロ」(1988) 86分 4万8743枚 1分あたり566.8枚
・「魔女の宅急便」(1989) 103分 6万7317枚 1分あたり653.6枚
・「紅の豚」(1992) 93分 5万8443枚 1分あたり628.4枚
・「もののけ姫」(1997) 133分 14万4043枚 1分あたり1083.0枚

 「もののけ姫」がいかに突出したていたか判るが、それ以前では「魔女の宅急便」が1分あたりの画数が一番多い。自らの身体で空を飛べてしまうという設定の「魔女」だから、作画数も多くしなければ不自然な動きになる。そこで「ナウシカ「ラピュタ」「トトロ」を越える画数になったんだろうし、作品の信用が増してきて予算的にも可能になったのだろう。(以上の6作品は、いずれもキネマ旬報ベストテンに入選していて、アニメ作品として稀有の高評価だった。)この作画数の多さは画面を見ていれば一目瞭然で、映画の躍動感に惚れ惚れする。
(トンボを助けに行くキキ)
 細かいプロットはほとんど忘れていて、やはり30年は長いと思った。簡単に調べられるのでここでは細かく書かないが、「13歳で自立しなければならない」という「魔女」の家に生まれたキキの思春期の揺らぎを描いている。「飛べる」のは「血筋」(遺伝)の問題で、キキは幼い頃から練習して飛べるようになった。この幼い時代の「全能感」が自立の過程で一度失われる。「飛べなくなる」し、いつも一緒で言葉が通じた黒猫ジジの言葉も判らなくなる。

 しかし、飛行船の遭難事故で友だちのトンボが危機にあることを知って、自分が助けに行くのだと街角の清掃人が持つデッキブラシを借りて飛ぼうとする。そこで「飛ぶ能力」を取り戻すのである。これは幼い日々の「魔法」が解けて自信喪失した経験を持つすべての人に届く設定だ。あるとき「あなたが必要だ」という時が来て、「今でしょ」と後押ししてくれる。そこで揺れ動きながらも、何とか自分の力を取り戻していくわけである。これはなんて素晴らしい「飛ぶ教室」だろう。

 「飛ぶ」という言葉は、「勇気を持って生きていく」とでもいった感じで使っている。昔から「清水の舞台から飛び降りる」とか「見る前に飛べ」という言葉があった。昔エリカ・ジョング「飛ぶのが怖い」という小説がベストセラーになったことがある。それは青春期の多く人に起こることだろう。「飛ぶ教室」はドイツの作家ケストナーの児童文学で、その劇中劇の題名だが、ここではもっと広い意味で使いたい。多くの青春ドラマは思春期の危機を乗り越えて「飛ぶ」までの波瀾万丈を描く。ただし多くの場合、「飛ぶ」は比喩だけどキキは魔女だから本当に飛べる。
(キキが住むコリコの町並み)
 もう一つ魅せられてしまうのは、キキが住むコリコの町の魅力。先頃なくなった安野光雅の「旅の絵本」シリーズでもヨーロッパの町並みは美しく描かれて僕らを魅了した。そんなヨーロッパの美しさはどこから来るのか。広告や電柱がなく、屋根の色が美しい。モデルはあるのかというと、そういうサイトがたくさんあってモデルの街へ行ってきたという写真は多い。特にスウェーデンのストックホルムゴットランド島が挙げられることが多い。またエストニアなども挙げられる。ここではバルト海最大の島ゴットランド島の写真を載せておく。最大都市ヴィスビューは世界遺産に指定されている。タルコフスキーの「サクリファイス」の舞台でもある。
(ゴットランド島)
 原作者の角野栄子国際アンデルセン賞を受賞し、出身の江戸川区に記念館が作られることになっている。原作は読んでないのだが、今度読んでみたいと思った。この映画は今後も生命を失わないと思う。是非再び一般上映されることを期待したい。
コメント
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