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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

都教委の震災碑文改ざん引用

2013年02月12日 23時29分36秒 |  〃 (歴史・地理)
 1月25日付で、「都教委、関東大震災の朝鮮人虐殺事件を否定」という記事を書いた。この問題について、在日本大韓民国民団(民団)東京地方本部が、2月7日に都教委に抗議文を提出した。その事と別に、最近この問題で非常に驚くべきことを知った。都教委が「引用」したとする「碑文」が間違っているというのである。そのことは、2月2日付で発行された「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の「会報144号」に掲載された矢野恭子さんの文章で知った。僕はビックリしたのだが、書くのは現物の碑文を確認してからにしたいと思っていた。今日ようやく、墨田区の横網町公園に行って確認できたので、報告しておきたい。

 簡単に経過を振り返っておけば、都教委は日本史を独自に必修化し、「江戸から東京へ」という独自教科書(副読本)を作成した。その必修化、あるいは「江戸から東京へ」という本そのものの問題もあるが、それは一応置いておく。今回都教委はその本の文章をいくつか変更することにして、ホームページで公表した。その中に、史跡紹介のコラムの中で、「(前略)大震災の混乱の中で、数多くの朝鮮人が虐殺されたことを悼み(後略)」と書かれていた部分を、「(前略)碑には、大震災の混乱の中で『朝鮮人の尊い生命が奪われました』と記されている。」と変更するとされたのである。

 これは「地の文」から「虐殺」という言葉を削除し、紛れもない虐殺事件を否定するという意味を持つと考え、ブログの前記記事で批判したわけである。ところで、その時点では碑文の引用という形にした以上、またカギカッコ(「 」)を使用している以上、そこで書かれている文章は碑にあるものをそのまま書いたのだろうと思い込み、確認まではしなかった。いくら都教委とはいえ、まさかカギカッコの中の文章が碑とは異なるとまでは考えなかったのである。

 では、実際の碑文を見てみたい。
 「一九二三年九月発生した関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言蜚語のために六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。私たちは、震災五十周年をむかえ、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。
 この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさず、民族差別を無くし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎となると信じます。
 思想・信条の相違を超えて、この碑の建設に寄せられた日本人の総意と献身が、日本と朝鮮両民族の永遠の親善の力となることを期待します。」
 
 比べてみれば、碑文=「朝鮮人尊い生命奪われました」
            引用=「朝鮮人尊い生命奪われました」
 
 確かに碑文と都教委の引用は「微妙に違っている」のである。「文意は変更していない」と言い逃れするかもしれないが、カギカッコを使っている以上、それは通らない。カギカッコは、中身の文章の評価とは別に、元の文章を引用する時に使うものである。論文でなくても使用法は変わらない。

 これは意図的な「改ざん」ではないだろうか。引用された部分は文章全体から見ればごく一部である。この碑文全体を見れば、朝鮮人が生命を奪われたと言いたいのではなく、それは碑を作る以上自明の前提であって、「あやまった策動と流言蜚語のため」に朝鮮人が生命を奪われたと伝えることが主たる目的であることが明らかだ。つまり、虐殺の起きたきっかけを明示している。この「あやまった策動と流言蜚語」という書き方は、その後の研究の進展からすれば、今では不明瞭すぎるかもしれない。

 でも公的な施設内に建造する時は、配慮を要する場合もある。都教委による引用は、その前段部分を全く削除している。そうすると、「きっかけがあって」「朝鮮人が生命を奪われました」という文章の一番最後の部分だけを取り出すと、文章として「こなれていない」「途中だけ引用した」感じが強くなる。そういう感じをなくすために、わざわざ助詞を改ざんしたのではないかと考えられる。

 これは「間違った引用」である。今回の変更を変えないとしても、カッコ内が正確な引用になるように、訂正する、または訂正文を配布する必要がある。それにとどまらず、誰がこのような引用をしたのか碑文にきちんと当たったのかわざと変更したのかどうしてチェックできなかったのかなどを追及していくべき問題だと思う。

 なお、東京都立横網町公園には「復興慰霊堂」「復興記念館」などがある。ここは関東大震災時に3万8千人が焼死したといわれる陸軍被服廠の跡地で、震災の慰霊施設であると同時に、関連の記念物を公開している。そこに空襲による戦災被害者の慰霊も加わって、両者のための施設になっている。東京大空襲については、別個の平和博物館の建設を求める声がずっとあるが、実現していない。ということで、近代東京の2大惨事である関東大震災と東京大空襲の記憶が同居しているのである。

 ここは「東京の人なら誰でも一度は行っている」「東京の子どもたちは社会科見学で必ず訪れる」場所ではない。全くそういうことはない。多分多くの人は一度も行ったことがないだけでなく、存在も知らないのではないか。自分も授業で紹介したことはあるが、行事等で引率したことはない。ここには被害児童を慰霊する「悲しみの群像」もある。これは東京市の小学校長会が1931年に建造したもので、戦時に金属として回収され戦後に復元された。この「悲しみの群像」建造に当たっては、様々な意見があり紆余曲折したこ。(椎名則明「関東大震災を記憶する」『歴史地理教育』2012年9月号)を参照。)
 
 この公園の場所は総武線、都営地下鉄大江戸線の両国駅北口から5分程度江戸東京博物館国技館安田庭園なども近い。南口には回向院や吉良邸跡もあり、歴史散歩に恰好の場所だ。
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「体罰フィフティー・フィフティー論」の間違い

2013年02月12日 00時57分08秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 この間「体罰」に関する議論を見ていて、僕が一番おかしいと思ったのは「体罰フィフティー・フィフティー論」である。これは朝日新聞のスポーツ欄1月30日付の「スポーツと体罰 番外編」という企画の中に書いてあった。「ある高校の球技の監督は練習中に生徒を殴る。一度に数十回殴ったこともある。『生徒たちも一生懸命でないから指導された、と分かってくれている部分が大きい。体罰は一方的だと言われるが、私はフィフティー・フィフティーと思っている。生徒が公にすれば私は職を失うわけです。生徒はそれを分かった上でついてきてくれている。1発で暴行になるのか、10発でも愛のムチだと思ってくれるか、結局は信頼関係」

 これはないだろうと思う。いや、指導力のある教員が暴力を振うが、生徒は信頼してついてくるということはあるだろう。指導される方にも力の差があり、この顧問の指導について行き、自分も評価されるような成績をあげ選手として認められたいと思う生徒はいる。でも、そうでない生徒もいる。強い部活で、それを承知で頑張るつもりで入学してきた生徒でも、ケガしたり人間関係に悩んだりして、なかなか部活に集中できないこともある。実力差もやる気も様々な生徒を「一生懸命でないから」と言って暴力でやる気を出させようという発想は、「教育」とは言えない。

 そういう問題もあるけど、「それを公にすればその先生が職を失うという情報」と「暴力」が、フィフティー・フィフティーで「対等の関係」だと思っているということが間違っている。そんな情報を持たされたら、生徒の心は真っ暗でものすごい負担である。「おれはこれから体罰をするが、おれの指導を信頼できないと思ったら、教育委員会なりマスコミなりにばらして、おれをクビにしてもいいぞ」と思いながらやる「体罰」が、対等の関係のはずがない。これは典型的な「パワハラ」的な発想である。こんなことをされたら、暴力そのものも嫌だろうが、その際の「信頼関係があるからおれのことを密告しないよな」という上からの思い込みの方が生徒に嫌な感じを与えるだろう。

 生徒からすれば「密告」は非常に大きな負担である。校内に信頼できる教員がいればいいが、これほど指導力に思い込みのある教員を注意できる人は、管理職でもそうはいないだろう。うっかり相談して、お前がもっと頑張れと突き放されたら、その学校で居場所がなくなる。では、教育委員会やマスコミに訴えればいいかと言えば、その場合は自分の身をさらして「清水の舞台から飛び降りる」決心が必要だ。精神的負担をおいても、それに取られる時間を考えるだけで、心がなえてくるというのが普通の生徒だろう。顧問の教員にも家族がいるだろうから、自分が「体罰」を公にした結果本当に失職でもしたら、生徒の側も一生心の負担である。強い者(上司など)が「セクハラ」をしてきて、「訴えたければ訴えればいいよ」というのは、パワハラそのものでしょ。セクハラを公にすれば上司も飛ばされる、だから「セクハラはフィフティー・フィフティーだ」と主張するとすれば、どれだけ非常識か判ると思う

 こういうのは、典型的な「冷戦思考」だと思う。双方に「マイナス」があれば、それで「恐怖の均衡」が保たれるだろうという考え方である。貿易や文化交流などでは、今は「wín-wín」(ウィン・ウィン)関係でないといけないだろう。片方が一方的に利益を得るのではなく、両方が勝つという関係である。「教師には暴力があるが、生徒は公にすれば教師を失職させられる」というのでは、「zero-sum」(ゼロ・サム)関係である。これはこれで「対等」かもしれないが、現代の教育では間違っている。

 このような主張は、その指導で傷ついた生徒を思いやることがないからできるものだと思う。学校と言う場で教師が誰をも何ら傷つけずに仕事をすることは不可能だと僕は思っているが、それでも「弱い側」の存在を思うことは大事だ。教師の暴力、パワハラで心に傷を負う生徒はいっぱいいる。特に部活で高校に進学して、途中で挫折した生徒は誰にもケアされず、自分が弱かった、自分が下手だったと思って悩んでいる。高校によっては、退部したら事実上退学せざるを得ないような高校もある。強い部活で教師についてこられた生徒はいいけど、そうでない生徒は必ずいて悩んでいる。教師と言う存在は、「できる生徒」と「できない生徒」では、別のものに見えている。そのことを忘れてはいけない。同窓会なんかで話していると、そういう見え方の違いに気付かされたりする。教員はできる生徒だったことが多いわけで、勉強ができない生徒、運動神経がない生徒、絵や音楽が不得意な生徒の気持ちがなかなか判らない。肝に銘じて置かないと、思わず強者の主張をしてしまい、自分が強者だということにも気づかないでしまう。この「体罰フィフティー・フィフティー論」は典型的な例ではないか。
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