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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「心罰」という大問題

2013年02月21日 00時35分35秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 体罰問題を先に書いてしまいたい。何回か断続的に書いているけど、「『体罰』と『私的制裁』の間」の中で、「体罰」の「体」の方の問題を書くと言ってる。その問題を。「いじめ」でも警察に訴えるということが最近は多いが、警察としても「暴行罪」に認定できる材料がないと、なかなか今のところ難しいようだ。「体罰」は、実は「私的制裁」だと書いてるように、行き過ぎた暴力は刑事責任も問われる場合があるのは当然だ。そういう風に、「暴力」が刑事罰を科されることもあるのは当然なんだけど、そうすると「暴力がなければいいのか」「暴力なきいじめはまだましなのか」などと言われてる気がしてきて、それは違うだろうと思うわけである。

 僕は「体罰」問題を書く中で、「量刑の平等性」という問題提起をしてきた。それが「体罰」であれ、「罰則」である以上は「罪刑法定主義」がいる。体罰であれ、そうでない指導であれ、あの子は軽い、あの子は重いとなれば、誰も学校を信用しなくなる。実際、ほとんどすべての高校でそうだと思うが、「喫煙が見つかれば、原則○日の自宅謹慎」などとあらかじめ決まっているはずである。大体一回目だと3日くらいが多いのではないかと思うが、要するに事前に平等性が確保されている。だから、高校を辞めてもいいと思っているのでなければ、生徒はさっさと反省の態度を示した方がいい。(未成年の喫煙禁止は、国法で決まっている以上、学校で認められるはずがない。)

 ところが、大津市のいじめ問題でも、大阪の「体罰」問題でも、新聞等で見ている程度しか知らないが、「なんで自分が」という問題もあるけれど、もう一つ「この苦しみがいつまで続くのか」というその精神的苦悩が非常に大きいように思うのである。どんなにひどいいじめや暴力であれ、あるいは家庭内のDVやストーカー被害などにせよ、もし今日が確実に最後で以後は絶対ないと確信できるなら、その日に自殺する人はいないのではないかと思う。「許す」とまでは行かないかもしれないが、あえて訴えたりもせず、そのままそっとしておいて欲しいということになるのではないか。もし絶対その日が最後になるのなら。でもDVなんかの場合、一度は反省しもう二度としない、許して欲しいと言いながら、また際限のない暴力が繰り返されるということが多いらしい。こうなると、その暴力そのもの以上に、「いつまで繰り返されるのか」という精神的苦悩がその人を追いつめるだろう。ストーカーの場合なんかもそう。行為そのものは携帯電話に電子メールを送ってくるだけだったりするかもしれないが、それが一日1000通にもなり何カ月も続いたりすれば、精神的に追い詰められてしまう。

 つまり「量刑」の問題で、事前に量刑が示されないので、事実上「終身刑」のように思えてしまう。このような苦しい日々を毎日送るくらいなら、死んでしまいたいという位の苦しみ。もちろん学校なんだから、実際には「終身刑」と言うことはありえない。卒業までで終わりである。だから多くの生徒は、学校でいろいろ嫌なことがあっても、卒業までだからガマンしようという風に思って暮らしている。でも、そこまでがあまりに遠くに思えるほどの苦悩があったということなんだろう。そう言う風に考えて行くと、「体罰」や「いじめ」と言っても、実際は「心の苦しみ」の方が重いのではないかと思う。だから、「体罰」というより「心罰」を問題にする視点が大事なんだと思う。

 どうしてこういう風に言うのかと言うと、「いじめ」「体罰」などと細分化していくのではなく、卒業後の企業での労働条件の問題も含め、行き過ぎた「パワー・ハラスメント」の問題と捉えた方がいいと思っているのである。会社の中で暴力はなくても、お前は仕事ができない、お前は会社にいらない、お前は早く辞めてしまえなどと精神的に追い詰められてしまうことは多い。よく「いじめ」「体罰」で「学校と言う閉鎖的な社会で起きる」などと言う人がいるんだけど、僕はそれはおかしいと思う。「保護者」と言う存在があるだけ、まだ学校は開かれている度合いが広く、実際は「ブラック企業」などと言われる会社の内情の方がずっと不可思議で閉鎖的なのではないか。そういう「リクツが通らない」社会に生徒は出ていかざるを得ない。だから親は「学校では厳しくしつけて欲しい。社会はもっと厳しいんだから」という。これが「体罰」などが容認されてしまう背景にある。だから、学校だけでなく、社会の方も変えていくという視点がないと、学校だけ良くなるということなどありえない

 学校では「いじめ」や「体罰」も確かにあるので、それを問題にしていく必要があるのは言うまでもない。しかし、「暴力はいけない」と言う風にだけ進んでしまうと、「言葉ならいいのか」という勘違いが出てくると問題だなと思う。現実は、子ども同士の間であれ、教師と生徒の間であれ、言葉で傷ついたという経験の方が圧倒的に多いはずだ。教師の場合でも、冗談半分に言い過ぎてしまうことは防ぎようがない部分もあるけど、何もあそこまで言葉で追いつめて行かなくてもいいのではないかという場面に出会うことがある。これは「体罰」より多いし、その後の「被害」は体罰より大きいことが多い。学校の校則は正しいし、校則を破った生徒は間違った行動をしたことになるが、その正邪がはっきりしていて、生徒の側で言い返せないだけ、その気になれば教師は生徒をどこまでも追いつめられる。特に高校は義務教育ではないので、なんで好き好んでこの高校に来たのか、そんなに嫌なら退学すればいいだろうと、どこまでも追及できるのである。リクツでは間違っていないとも言えるのだが、こうして追いつめられてしまう生徒もいるだろうと思う。特に、スポーツ推薦で部活目的で入学した生徒が、やる気を失ったり、怪我したり、レギュラーになれなかったりする時に起こりやすい。部活は課外活動だから、部活を辞めても退学する必要はないわけだが、事実上学校内の居場所を失ってしまうこともあるだろう。

 さて、このように「体罰」あるいは「暴力」と言うようにだけ捉えるのではなく、「教員による生徒に対する精神的な圧迫」として問題化していかないと、また別の問題が起こるのではないか。そして、僕は確信しているのだが、もうすぐ暴力だけでなく、「暴言」も「傷害罪」に問われる時代が来るだろう。例えば、教師の言葉で追いつめられ、「うつ病」となり不登校になってしまったというケース。あるいは会社でのパワハラで、「うつ病」になり自殺してしまったというケース。今までなら、教師が行政上の処分を受けたり、会社が労働法上の責任を問われたりすることはあっただろうが、そこまでである。しかし、「精神的な病を発病させた」ということをもって、「業務上過失傷害罪で刑事告発する」と言うケースが必ず起こってくると思う。今までも重大事案では、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を傷害罪と認定するケースがあった。(女性監禁事件では精神的な後遺症を傷害罪と認定することが最高裁判決で確定している。)そういうことまでも見通して、生徒にも指導し、教員も気をつけて行かないといけない。
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